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風変わりな男

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 窶れ切った細腕が力なくフェリクスを抱き締める。
 春の日差しのように温かだった母の腕は、今ではもうほとんど温もりが失せていた。
 命が尽きようとしているのだ。力ない腕に必死に縋り付けば、母が力を振り絞るようにフェリクスを呼んだ。

『フェル、泣かないで。大丈夫、お母さんはお空に行くだけよ。お星様になって、フェルをずっと見守るの』
『イヤだっ、母様、どこにも行かないで……っ』
『フェル、一つだけお母さんと約束して。どうか、──になって』

 大好きだった母の手がフェリクスの髪を優しく撫でる。その直後、ぷつりと夢が途切れた。

「っ……!」

 バッと勢いよく体を起こす。辺りはまだ薄暗く、時計の針は深夜二時を回った頃だった。
 シンとした静けさに、波立っていた心が落ち着きを取り戻す。

「……間抜けヅラめ」

 隣に視線を向ければ、心地良さそうに寝息を立てる青年の姿があった。
 フェリクスよりも十も歳上とは到底思えない、幼い寝顔だ。
 つい一月ほど前、聖女としてこの世界に召喚された風変わりな青年─マコト・カガリは、その凡庸な見た目とは裏腹に、やることなすこと全てがフェリクスの予想を覆す男だった。



「──廁掃除をしている?」

 ぴたりと執務の手を止めたフェリクスに、側近のカミールが報告書から顔を上げた。
 端正な面立ちながら、どことなく神経質な印象を与える男だ。その彼が、今は不可解だと言わんばかりに眉根を寄せている。

「ええ、侍女の話では、厩舎で馬糞に塗れていることもあるそうです。いえ、塗れるは流石に語弊がありますね。ともかく、汚れも厭わず率先して皆の嫌がる仕事を引き受けているそうです」
「……正気か?」
「さあ。本人は至って真面目に取り組んでいるそうですよ」
「……金目当てか?」
「まさか。正当に雇われているわけではありませんから、賃金は一切支払われません。どちらにせよ、大した金にはならないでしょう」
「……点数稼ぎか」
「いえ、それもないかと。こうして私が報告書にまとめなければ、殿下のお耳に入ることはなかったでしょうから。国王陛下にしても同じです。点数稼ぎならばもっと大袈裟に騒ぎ立ててもおかしくはありませんが、聖女様はむしろ誰の目にも触れないような地道な仕事を率先して引き受けています」
「なら、何が目的だ」

 フェリクスの疑問に、カミールも顎に手を当てて考え込んだ。
 王族と並びこの国で最も高貴な身分であるはずの聖女が、誰もが厭うような厩舎や厠の掃除に精を出す理由。

「ストレスで頭のネジが何本か外れてしまったのかもしれませんね。エヴァン殿下が聖女様を拒絶したことで、偽物の聖女としてあの方を邪険にする者も少なくないようですから」

 哀れみ一割、無関心九割といった様子ながら、カミールはわざとらしく肩を竦めてみせた。

「仮にも婚約者なのですから、手を差し伸べて差し上げてはいかがです。このままでは、聖女様の殿下への心証は悪くなる一方ですよ。愛しの婚約者に嫌われるなど、殿下も本望ではないでしょう」
「お前は本当にいい性格をしているな」
「恐れ入ります」

 飄々としたカミールに呆れた眼差しを送ったフェリクスだったが、椅子から立ち上がった時にはその表情から感情が削ぎ落とされていた。
 フェリクスとて、このままでいいとは思っていない。特別にマコトに思い入れがあるわけではないが、理不尽に巻き込まれた彼に多少なりとも同情していた。

「すぐに戻る」
「ごゆっくりどうぞ」

 いい性格をした部下に見送られ、フェリクスは風変わりな婚約者の元へ足を向けた。


 案外とすぐに目当ての人物は見つかった。

「……何をしているんだ」

 フェリクスの視線の先では、掃除道具を手にしたマコトが何もない地面をじっと見つめていた。
 いよいよ頭がおかしくなったのだろうか。流石に心配になった次の瞬間、「ありました!」と元気な声がした。
 地面から顔を上げたマコトの手には、小さな石が一つ握られている。

「ああ、本当だ! 良かった、これで息子を悲しませずに済みます。聖女様、本当にありがとうございます」
「いえ、そんな。お役に立てて良かったです」

 深々と頭を下げる男にマコトが照れたように頰を搔いた。どうやら落とし物を拾ったらしい。
 男の口ぶりからして、子供からプレゼントされた物なのだろう。フェリクスからして見ればただの石ころにしか見えないそれも、男にとっては何物にも変え難い宝物なのだ。

「本当に、なんとお礼を申し上げたら良いのか……せめて何かお礼をさせていただきたいのですが、あいにく聖女様にお喜びいただけるような代物を持ち合わせていないのです」
「いえいえ! 大したことじゃありませんから!」

 何度も頭を下げる男をやんわり宥めたマコトが、困ったように眉を八の字に下げて笑った。

「本当に大したことはしていませんので、お気になさらないでください」
「ですが……」

 尚も言い募ろうとする男に、ハッとしたようにマコトが提案した。

「あの、でしたら一つお願いがあります」
「お願い?」

 パッと表情を明るくさせた男が続きを促すように首を傾げる。すると、マコトは困ったように頰を搔いた。

「実は、どうしても欲しいものがあって」
「聖女様がお求めになられるようなものを私にご用意できるでしょうか……」
「無理だったら全然大丈夫なんですけど、実は、草刈り鎌が欲しくて」
「……はい?」

 マコトの言葉に男がぽかんと口を開けた。その様子に焦ったようにマコトは言葉を続けた。

「あっ! もちろん草を刈る以外に変なことには使いませんし、使った後はきちんとお返しします!」
「……なぜ、聖女様が草刈りを?」
「厩舎の近くに草むらがあるんですが、結構伸び放題でして……手入れのついでにお馬さんたちのおやつも調達できたら一石二鳥かなと」
「……それなら、俺でもお役に立てそうですね」

 マコトが草刈り鎌を欲しがっている理由を察した男が苦笑した。そうして、「少し待っていてください」と言い残し、小走りにどこかへ向かって行った。
 それから数分後、「お待たせしました」と言って戻って来た男が手にしていたのは、言葉通り草刈り鎌だった。ただし、所々塗装が剥げており随分年季が入っているように見える。どうやら愛用のものらしい。
 上等とは言えない代物を受け取ったマコトは、心底嬉しそうに頰を綻ばせた。

「ありがとうございます!」
「いえ、こんなことでよろしければいつでも仰ってください。俺も、聖女様のお役に立てて嬉しいです」

 言葉の通り、男の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 男の格好からして、本来であれば高貴な身分の聖女とは口も聞けぬような立場なのだろう。けれど、マコトは身分の違いなど端からないもののように男に接している。その心根の清さに、男は胸を打たれたようだった。

「……頭は正常らしいな」

 カミールからの報告を受けた時には最悪の事態も覚悟したが、どうやらその心配はなさそうだった。

「もう少し、様子を見てみるか」

 幼い頃より様々な人間の悪意を目の当たりにしてきたフェリクスからしてみれば、根っからの善人など存在するはずがなかった。けれど、マコトからは他とは違う何かを感じるのも確かだ。
 その正体を探るため、フェリクスは人知れず彼の行動を観察することにした。
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