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蟻地獄 中

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 家庭に問題のある未成年は、児童相談所に行く。
 問題がある、との話だ。
 
 奏斗かなとは、十五歳。何度か傷だらけで道端に倒れているのを巡回の警察官が発見し、保護されたことはあるらしい。が、施設に入ることは親に拒否され、今に至る。
 
 中学校には在籍しているものの、ほとんど行っていないし高校へ進むつもりもない。今は、新聞配達をしている。
 母親は十五の時に奏斗を産み、キャバ嬢から最近ホステスになった。狭いアパートに母親の彼氏だという男も一緒に住んでいるが、入籍はしていない。ゴミが散乱する不潔な部屋に、奏斗の居場所はない。男は無職で、常に酒に酔っている。奏斗は、競馬とパチンコをしているところしか知らない。

 毎日財布から金をむしっていく男に、さすがに母親はイラつく……口喧嘩はあっという間に男が手を出し始め、母親が殴られるのを庇った奏斗が、サンドバッグ状態になる。

 やがて興奮した男は、殴る蹴るを止める代わりに母親を組み敷く。
 そうなると奏斗は、傷だらけの身体を引きずって部屋を出て行き……道端や公園で朝を迎える。その繰り返しだ。

 そこまでは、天がで読んでいた。

「お? 起きたか」

 便利屋ブルーヘブンの奥の小部屋で寝させていた奏斗が、長のれんを片手でぺろりとめくったまま、固まっている。
 天は、パイプ椅子に腰かけて新聞を読んでいた。時刻は夕方四時すぎ。あれから軽く六時間は寝た計算になる。
 
「天さんは、何者なんすか」

 寝ぐせの目立つ大木のような奏斗が、もそもそ言った後でハッとした。

「すません。俺……」
「はは。いい、いい。やっぱ分かるか~」
「え?」

 天が奏斗を助けたのには、ただのお人好しだけでない理由があった。
 
「俺は、天狗てんぐだ」
「てん……ぐ?」
「そ。天狗の天」
「あの……聞いた俺が言うのもなんすけど」
「ははは! 嘘だと思うか?」
「いえ。俺が言いふらしたら……」
「んなの信じる奴なんか居ねえさ。お前か俺が、ってことでしまいだろ?」
 
 納得したようなしないような顔で頷き、もそりと奥から降りてきた奏斗は、汚くて穴の開いたスニーカーの上に足を乗せ
「あ、の。色々ありがとうございました」
 大きな背を丸めて頭を下げた。
「いんや。ただのおせっかいだし、それに……あー……」
「なんですか?」
「うん。信じるか信じねえかは任せるが。お前のそのデカさと勘の良さ、それから頑丈さは、鬼の血だ。だから薄気味悪いってんで、おっかさんはお前を持て余してんだろうよ」
「え」
「まあ、すげえ薄いけどな。カナトは人間だ。安心しろや」
「俺が、鬼……」
「人間だっつってんだろ?」
「あ、いえ。ありがとうございます。なんとなく、答えが出たっていうか」
「ほう?」

 奏斗いわく、スポーツは何をやってものだとか。
 喧嘩もものすごく強く、不良たちにはチームに入れと勧誘されるし、そのせいで上級生や同級生たちに煙たがられることもしばしばあり、中学はほぼ不登校らしい。

「なるほどねえ」
「天さん。あの」
「おう、いつでも来いや」

 にか、と笑う店主に奏斗は、ようやく眉間のしわを緩めた。



 ◇ ◇ ◇

 

「おお、まーたド派手にやられたなあ」
「す……ません」

 それから一週間もしないうちに、奏斗はブルーヘブンへやってきた。やってきた、というよりは、シャッター前で力尽きていた。
 店を開けるべく出てきた天に発見され、奥の和室に運び込まれた。
 ざっと見、前回よりもだいぶ酷い怪我を負っている。

「さすがに、アバラいってんぞ。病院行くか?」
「いえ。どうせくっつくまで耐えるだけなんで」
「んなのに慣れて耐えるたぁ悲しいねえ。……三人……いや、四人か」

 ぐ、と悲しそうな顔をした後で
「見ないでください」
 すべてを見透かす天の目を、奏斗は拒絶した。
 
「見ねえよ」

 天はいつもの場所から救急箱を取り出し、畳の上に正座する奏斗に、足を崩すよう言う。

「お前が俺に頼むまでは、なんもしねえ。それが便利屋ってもんだ」
「便利屋……」
「頼まれたその時には、便利に動く」
「でも俺、金がないんです」
 
 促されて素直にTシャツを脱ぎ、上半身を晒した奏斗に、天はにやりと笑う。

「カナトには、その丈夫な体があるじゃねえか」
「!」
「働いて返しゃいい。それぐらいの甲斐性はあるつもりだぜ? この天さんはよ」
「ぐ……」
「ま、なんぼでも待ってやるさ。さ、湿布貼るぞ~」
「イッ!」


 
 ◇ ◇ ◇



 ジャカジャカ、ジャカジャカ。

 どう設定したのか忘れたが、耳障りのする着信音だ。
 母親に渡されて渋々持っているスマホが鳴ることは、奏斗にとって憂鬱でしかない。液晶ディスプレイには細かいひび割れが走っているし、背面カバーも傷だらけだ。それでも着信することに、悪態をつきたくなる。無駄に丈夫なのが、自分みたいだからだ。
 
『カナ~。今すぐ来いよ』

 電話の主は、無視をすると余計にたちが悪くなるので、出ざるを得ない。
 背後に街の喧騒が聞こえる。ねっとりとした厭味いやみな声質が、有無を言わさぬ圧を放つ。
 
『今から、バイトなんす』
『あ? お前来ないなら、かーちゃん殴るけど?』
『……どこっすか』
『いつもんとこ』

 タクシーでワンメーターの距離の繁華街にある、打ち捨てられた雑居ビルのうちのひとつ。
 奏斗はいつもその場所で、一方的にボコられる。
 
 廃墟同然の場所にたむろっている男女は、正確な名前すら知らないし、知りたくもない。
 むき出しのコンクリートに、放置された事務机や、応接ソファ。それらを我が物顔で占拠するのは、見知らぬ人間たち。母親の彼氏だという男が金を借りた、ややこしい連中だということだけは、教えられた。つまり、借金のカタに、奏斗は殴られる。

 そこに意味などない。ただの余興だ。

 床に転がる奏斗を見て嬌声をあげながら、絡み合ったり、じゃれ合ったりするのが常。
 奏斗の痛みは、単に彼らの興奮を煽るためのでしかない。頭では分かっていても、母を守りたい、その一心で今まで耐えてきた。

 バイトは、とっくにクビになっている。母親の収入は食いつぶされているので、奏斗のバイト代でなんとか払っていた家賃は、当然滞納していて退室期限が迫っている。
 顔面あざだらけの人間を雇ってくれるところなんて、どこにもない。母親を置いて児童相談所や養護施設へ行く選択肢は、奏斗には考えられなかった。どうすればよいのか、誰かに頼る発想すら、ない。
 
 もうすぐ、家もなくなる。虚しい。俺は何のために生まれたのか、などと思うだけの毎日だ。

「はあ……」

 
 ――この地獄は、いつ終わる? 死ぬまで終わらない? 死んだらいいのか?
 
 
 街を焼く夕暮れを見ながら、漫然と思う。
 俺の心臓も焼いてくれないだろうか――などと。
 寒々しいな、と自分で自分の二の腕をさすりながら、今日も律儀に歩いてやってきた。
 尻ポケットにスマホ。前ポケットに千円と小銭が少し、が全財産。

「やっぱり、地獄だ」

 雑居ビルに入ると、リーダー格の男の首にしなだれかかる母親がいた。どうやら、乗り換えたらしい。これは、そういうことだろう。
 
 大きく取られた窓から無遠慮に射し込む、繁華街のネオンに照らされる彼女は、年齢に似つかわしくない妖艶さを醸し出している。奏斗からしたら、反吐へどが出る醜さだ。
 目は虚ろ、キャミソールに、ミニスカート。肩ひもが落ちて乳房が半分以上見えているし、ソファに座る肢体の奥がちらちら見える。奏斗は、頭の芯が冷えるのを感じていた。ああ、こいつは母親なんかじゃない。俺のことなんて、これっぽっちも視界に入っていないのだ、と。
 
「おー、きたか~」

 にやにやと笑うそいつは、奏斗を認めるや母親の首の後ろから腕を回し、左胸を大きく揉みしだき始めた。彼女は、大げさにあえぐ。
 周りの男どもも、母親の座るソファの背もたれにニヤつきながら腕をかけて――奏斗は、それ以上見るのをやめた。

「そう睨むなよ~カナ。お前のかーちゃん、いい女だぜえ?」
「……」

 奏斗の全身を、脱力感が襲う。
 自分の今までは、なんだったのだ。
 ただ愛されたいと思うことも、守ることさえも、許されないのか。
 
「俺が殴られる必要は、もうないんじゃないですか」
「あ? あの野郎の借金、まだあんだぜ」

 ――あいつは他人だ。そう言うことすら、やめた。

 ニヤニヤ。
 ケラケラ。
 ヘラヘラ。

 どいつも、こいつも。
 地獄だ。俺は、地獄に居る。
 例えこの身が鬼だとしても――できるならば、ここから抜け出したい。光の下で、生きたいのに。

「天さん」
 天井の割れた蛍光灯を仰ぎ見て――奏斗はつぶやいた。
「……助けて」

 
 ぶおん、と一瞬、窓の外のネオンが消え――暗転から回復するや、目の前に現れたのは、

「やーっと、言ったな」

 燃えるような真っ赤な髪に、口角からのぞく八重歯。
 その顔も赤く塗られたように真っ赤で、異様に長い鼻と鋭いまなざしを持つ巨体。
 尋常ならざる存在感だ。
 

「?」
「え」
「な、なんだ」
「なに……」
 

 雑居ビルに突如として、その怪異は――現れた。


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 お読み頂き、ありがとうございます。
 この作品は
『エウレカ』by なとり
 を聴きながら書いております。
 
 
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