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蟻地獄 前
しおりを挟むアーケード商店街まで戻って来た天が、便利屋を顎で指す。
男はそこでようやく、奏斗と名乗った。
「カナト。俺は天だ。ここは俺の店だから、遠慮はいらねえ。入れや」
「……っす」
入り口に頭をぶつけないよう、両開きのガラスドアの大きな銀色の取っ手に、右手を掛けて開けつつ、上のサッシ部分を左手で持つ。
少し屈んでから入る身長百九十五センチのそんな天が、彼もなかなか高いな、と思いつつ振り返ると
「俺よりデカイ人、珍しいっす……」
ぼそりと言い、やはりひょこり、と少し屈みながら入って来た。
「はは。お前もデカイな。狭いし天井低いから、気をつけろよ。ほら、座れ」
ガタガタと出されたパイプ椅子に、奏斗は素直に腰かけ、キョロキョロしている。
ダイキチがそれを落ち着かせようと、足元近くの床にお尻をつけて座ったら――奏斗はそれに気づいて、その顎をクシクシ撫でた。
天はそれを微笑ましく見ながら、慣れた手つきで救急箱を事務机にドンと置いて、開ける。
「無抵抗な奴によくもまあ」
「え」
「傷見たら大体わかんだよ。少し沁みるぞ」
防御創といわれるものが、両腕の前面にあった。一方的に受けた攻撃に対して、腕で体を庇った証拠だ。脇腹もかなり痛んでいるようで、少しの動きでもビクッと痛そうに身体が跳ねている。
殴られて地面に伏した後、蹴られたに違いない。神通力を使うでもなく分かる、と天は密かに溜息をつく。
「イッ」
消毒液を含ませたガーゼで口角を拭くと、案の定奏斗は声を出した。
「うし。よく耐えたな。折れちゃあいないみたいだ。湿布で治んだろ」
「……」
奏斗は目を見開く。
「バカだなとか、警察とか病院行けとか言わないんですか」
「言わね。耐える理由があんだろ」
「……っぐ」
それから、静かに涙を流したので、
「な。腹減ってるか?」
と声を掛けたら――また頷かれた。
◇ ◇ ◇
「まーたあんたは……厄介なのに首突っ込んだね?」
「言うなよ、おたま」
ダイキチをおじいさんの家まで送った後、その報酬――お尻ポケットの千円――で、ブランチを食べると決めている。そんな天が必ず訪れるのは、『ねこしょカフェ』という猫と古書が楽しめるカフェだ。
ブルーヘブンと同じ商店街にあるから、徒歩二分。サンドイッチとカフェオレが絶品なランチセットが、税込九百五十円也。レジで千円を出し、五十円は『捨て猫の里親団体支援募金箱』にチャリン、がいつものお約束である。
おたまと呼ばれた店主は、金色の細いチェーンつき眼鏡を掛けている、マダムだ。三枝環だから、おたま、もしくはおたまさんと呼ばれている。カウンターの一番奥にしゃきんとした背筋で腰かけ、いつも華やかな柄とデザインのワンピース(肩にはカーディガン)を着ている、年齢不詳。少しラメが光るアイシャドウの乗った目で見つめられると、なぜか萎縮してしまうほどの眼力の持ち主だ。
「ものすごい陰の気だね、あんた。名前は?」
そんな環が無遠慮に問うので、奏斗は思わず一歩後ずさった。
「え。あ、奏斗、です」
「ふうん。カナトね」
「あー。いいから気にすんな。お前コーヒーは?」
「飲めないっす……」
棒立ちの奏斗に、ニコニコと近寄ってくる店員が、トレイの上に水の入ったグラスを二つ乗せている。
「ふふ。また放っておけなかったんですね~天さん。奏斗君、オレンジジュースならどうです?」
「うっせえぞ、みっちー」
「……あの、俺、金が……」
はあ、と大きな息を吐いてから、環は
「カナト。あたしゃここの店主のおたまってんだ。あたしがその怪我、見舞ってやる。光晴、オレンジジュース出してやんな」
と言い捨てて、カウンター上の本に目を戻す。
「はい! さ、こちらへどうぞ」
そうして恐縮する少年を、天の定位置であるテーブルへと促すのは、安城光晴だ。
制服代わりの白いポロシャツの上に、黒エプロン(ギャルソンではなく、きちんと胸まであるタイプだ)を着けていて、少し伸びた薄茶色の髪の毛は襟足がいつもはねている。インス〇で『癒し系猫男子』というハッシュタグを付けられるカフェ店員であり、常に肩や膝に猫が乗っている、猫たちの人気者でもある。
「さんきゅー、みっちー。おたま、ごちそうさん」
「ふん。天、あんたの分は違うよ!」
「けちー!」
「少しお待ちくださいね。すぐお持ちします」
コウセイだがミツハルによく間違えられる彼に、みっちーというあだ名を付けたのは、天だ。
その光晴の肩に、いつの間にか銀毛の猫が乗っていて、琥珀色の瞳で天をじいっと見つめている。
「そう睨むなってシオン。こっちに迷惑は掛けねえよ」
「んなあん」
シオンと呼ばれた銀色の猫は、明らかに「どうだか」と言ったように鳴く。彼が振るその尾は――二本あった。
「あーこわこわ。猫又怖い。さ、飯食おうぜカナト」
今日はハムレタスサンドか、と天はようやく食事にありついた。
「ねこ……また……?」
奏斗は首をひねりつつ、目の前に出されたトレイを見つめる。
白いパンに、瑞々しい緑色のレタスと、ピンク色のハム。キラキラと氷が光る、オレンジの液体。
食事は何日ぶりなのかすら、思い出せず――食べる前からごきゅり、と喉仏が大きく上下した。
「お代わりは、俺がおごってやるよ。うまいぜえ? 好きなだけ食え食え」
最初は遠慮していたものの――天が勝手に次々と皿を持ってこさせるので、奏斗はたくさん食べた。泣いた。食べた。泣いた。
ねこしょカフェを出て、所在無さげにしている奏斗に
「食ったら、眠くなんだろ。店の奥に布団敷いてやるから、遠慮せず寝ていけ。な」
異常にガタイの良い店主が、八重歯を見せながら言う。
昭和臭漂う店構えなのに、ブルーヘブンというこじゃれた名前の、便利屋の奥。
長のれんの向こうの小さな和室は、休憩場所として使っているようだ。折り畳み式テーブルに、座布団。壁際の棚の上に、小さなテレビもある。
畳の匂いと、薄い敷布団。柔軟剤の匂いがする、清潔なタオルケット。枕はなくて、座布団にバスタオルを巻く。
――それでも奏斗は、泥のように眠った。
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