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1:猿と神帝の恋

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 ぺらり、とめくるページの音。
 ぱらり、と音を偶然にも重ねて、俺も一枚めくってしまった。

 静謐な図書室の一角の、古い説話を集めた棚の前。
 試読しようと開いた本を手に持ったまま、ゆっくりと右へと視線をスライドさせていく。

 飴色の長い髪に青藍の瞳、口元の黒子が妙に婀娜っぽい男がいた。

 ページをめくる音が重なったのは偶然だ。
 その男を視界に入れたのも偶然だった。
 たまたま重なったのだ。本を読もうとしただけで、何も意図などなかった。

 視線が交わる。その男も、こちらを見ていた。手に開いた本を持ったまま、お互いが相手を見ていた。

「その本は……東方は神国フソクベツのお伽噺ですね。面白い話ばかりで、僕も子供の頃に何度も読みました」
「そうか。面白いなら借りていこう」
「はい是非。今日は司書さん不在なので、カードに記入して箱へ入れておけばいいみたいですよ」
「そうか。では、そうしよう」

 我ながら、「そうか」としか言い返せなくて、この時にどれほど緊張していたのか……。
 相手の男も、後から聞いた話、この時は緊張でおしゃべりになっていたのだそうだ。
 おしゃべりどころか、親切で好印象しか抱かなかった俺は、なぜか高鳴る鼓動を持て余しながら、薦めてもらった本からカードを抜き取り、記入台へと向かった。

 初めての出会いは、たったこれだけ。
 次に会ったのもまた、無人の図書室だった。

 ここの司書は仕事をいったい何だと心得ているのか。
 おそらく、この宮殿内に数多く点在する図書室の、たった一つの図書室にずっとかかりっきりになることはない、ということなのだろうが。何人かいるはずの司書は、他の図書室とも兼任している。この図書室は司書が居ることすら稀な、寂れた図書室だっだ。

 だからなのか。置いてある本は眉唾物なものが多かった。伝奇・怪奇・都市伝説など。説話と表示されたコーナーにひとまとめに置いてあるが、中身は信ぴょう性のない子供だましな代物ばかりだった。

 そんな中での『東方異聞御伽草子』という変わった装丁の本。背表紙が紐で閉じてあるのが一等に奇妙だっだ。普通の本は糊で閉じてあるというのに。
 この変わった本を、子供の頃に何度も読んだと、あの男は言っていた。

 もしや東方出身なのだろうか。
 男の出で立ちを思い浮かべる。

 全体的に白く、袖や裾の長い、ゆったりとした服装。あれは法衣だと思われる。
 この国の宗教者は黒い詰襟が多いのだが、白いローブを纏っているとなると、それなりに階位が上になってくる。
 袖の刺繍、襟元の模様などで、その人物の所属など分かるらしいのだが、如何せん俺―――マニエス・ボワレ・ブレトワンダは武官であり畑違いだ。神の御心に触れるような崇高な人物とは話をしたことすらなかった。

 そうなってくると、あの男は何故こんな寂れた図書室にいたのだろうか?
 この図書室には宗教関係の本など置いてないはずだが……。

 俺は首を傾げながら窓の外を見やる。
 三階にある図書室からは、隣の訓練場が隅々まで、よく見渡せる。

 訓練場はだだっ広い砂地で、本日は『オフェーリア・ガーズ連隊』が戦場を想定した訓練を行っている。
 オフェーリア・ガーズ連隊は過去の名将オフェーリアが鍛え上げた軍組織であり、この国で最も栄誉ある連隊序列第一位の『近衛騎兵連隊』である。

 山と積まれた土嚢に粗削りな塹壕。何のつもりなのか、でかい書割かきわりが大将の居場所に鎮座している。
 誰が作ったのだろうか。絵、うまいじゃないか。ベースは毛深そうなモンスターだけれど、オフェーリア・ガーズ連隊のに顔が似せてあるのは、わざとだろう。

 訓練が進むにつれて砂埃が舞い、ついには爆炎が上がった。大きな破裂音と真っ赤な炎が見える。毛深いモンスターの書割が粉々に吹っ飛んでいた。木っ端微塵になった木屑などは煤となり、爆風に煽られ空を舞う。煤などよりも更に軽い砂雑じりの煙が濛々と広がり、こちらに迫って来た。

 開けっ放しの窓から砂煙が入り込んだ。

「けほけほ……っ」

 誰かが咳き込む音を耳に入れた瞬間、俺は魔術を放っていた。

『――――連動』

 魔術呪文の最後に付け加えた古代魔神語に魔力が乗る。図書室中の窓という窓が閉まる。

「こほっ……あ、ありがとう存じます」

 咳をしていたのは、あの男だった。二度目の邂逅。

「あ、いや、なに…………そうか」

 彼の顔を目に収めたら、どうしても「そうか」とだけしか言えなくなるこの口下手が憎い。

「すごい煙でしたね……けほっ……僕、気管支弱くて……こほん、ん……あぁ、涙まで……けほっっ、っ、弱りました……」

 咳が止まらない上に涙目で、顔を手で覆う彼の傍へゆく。
 背中を丸めて小刻みに震える男が、憐れに想えた。

 背中を、ゆっくりと撫でる。武官の自分に比べれば、大して広くない背中だ。

「ふぁ……ぁ、ありがとござい、ます…………っ、」

 また咳き込んで顔を両手で覆ってしまったが、御礼を言うだけの為にこちらを見つめた相貌が、これまでに見たことがないくらい美しくて何ものにも喩えられない。
 婀娜っぽいと思った第一印象の黒子は、やはり艶っぽく、色白の肌に嫌でも目立つ特徴。
 それだけじゃない。シャープな顎のラインから耳にかけて、髭の一本も生えていない幼さや首の細さも儚げである。本当に男なのだろうか。中性的な美貌が彼の魅力だった。

「貴方の名前は…………?」

「僕は…………イェイリ・ソアラ」

 二回目にして訊けた名前を、俺は大事に心の宝箱へ仕舞った。
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