恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈3〉

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「水樹さんの事件については、ニュースを見て知りました。大変驚いています」


名倉なくら医師はカルテを手に、我々を待っていた。口調は落ち着いているが、緊張した様子である。


「今回のことは、2年前の出来事と繋がっているのですね」

「はい。先日お電話を差し上げた際、お話ししたとおり、彼は恋人を守るために事件を起こしたと推測できます。その動機となった根本について、先生に教えていただきたいのです」


望月さんが要望を述べると、名倉医師は「できるだけ協力させてもらいます。水樹さんのためにも」と、カルテを開く。知性的で穏やかな印象のベテラン医師は、水樹の状態を初診から順に聞かせてくれた。


「水樹さんは不眠の症状で来院されました。理由を訊ねると、『ショックなことがあって』とだけ答え、詳しく話そうとしません。なので、初めは彼の事情を知りませんでした」

「初診は4月24日でしたね」

「はい。月曜日の午前中です。顔色が悪く、かなり疲れた様子でした」


斎藤が殺害されてから10日ほど後。事件の調べがほぼ終わり、日常に戻る頃だ。


「職場の人には内緒で、受診されたそうです。彼は当時、栄転が決まりかけていて、メンタルの不調を知られたくなかったんですね。治療費についても、自費診療を希望されました」

「ああ、なるほど」


うなずく望月さんの横で、俺は思い出した。

斎藤の事件から一ヶ月後、望月さんはドゥマン高崎店で水樹と会っている。その時、『転勤が決まった』と、吹っ切れた顔で望月さんに報告したと言う。


『大丈夫、イチからやり直します』


不眠で精神科を訪れた水樹が、なぜ前向きな発言をするに至ったのか。

名倉医師が経過を語った。


「彼がハイツ松本で起きた事件の被害者と恋人関係であったことは、2回目の診察でわかりました。眠剤が効いて、少し回復してからのことです。しかし事件についてはそれきりで、以降はなぜか世間話をしたがりましたね。私や臨床心理士を相手に、職場であったことや、映画やドラマの話なんかを。恋人を忘れてしまったかのように振る舞う彼が逆に心配になり、さまざまな治療法を提示しましたが、彼は眠剤だけで十分と言って、受け入れません。それからじきに、転勤が決まったので引っ越しますと告げられました。私は引っ越し先でも治療が受けられるようにと紹介状を用意したのですが、彼は拒み……」


名倉医師がカルテをめくる。そこには、水樹との最後のやり取りが記載されていた。


「雨上がりの明るい陽射しが、カウンセリングルームの窓を照らしていました。水樹さんはまぶしそうに目を細めて、言ったのです」


『先生。雨上がりの空はきれいですね。空気が澄んで、太陽の光がきらきらして』


「彼は、とても穏やかな表情をしていました」


『僕は今回、大事なことを思い出しました。おかげでかなり苦しんだけど、もう大丈夫です。しっかり眠って、食べて、働いて、人と話すことで生活リズムを整えた。転勤先でも、生まれ変わったつもりで一からやり直したいです。やり直せますよね?』


「もちろんですと、私は答えました。希望を持ってほしかったのです。治療を必要としない彼に医者ができることは、もうありませんから。しかし、それでも私は手助けがしたくて、質問していました。あなたが思い出した大事なこととは何ですか、と」


望月さんも俺も、固唾を飲んでその答えを待つが……


「結局、教えてくれませんでした。彼と話したのは、それが最後です」

「そうですか」


水樹の言動は謎だ。

一からやり直すと言って高崎を離れ、新天地へと向かった。でも、根本的な治療を行わなかったため立ち直れなかった、ということか。


「私は後悔しています。及び腰にならず、もっと追及すべきだった。今思えば、あれはフラッシュバックです」


名倉医師は鎮痛な面持ちで、水樹の言動を診断した。

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