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藤谷 郁

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11月11日 水曜日――

私は今、秀一さんが運転する車で紀伊半島の南に向かっている。彼の両親が眠る故郷ふるさとへの旅だ。

海沿いに続く道から、秋の陽射しにきらめく太平洋が一望できた。

秀一さんの横顔には、海育ちの男性らしい大らかさが表れている。いつもと違う魅力に、つい見惚れてしまった。


「どうしたんだ、じろじろ見て」

「べ、別に秀一さんを見てるわけじゃ……その、いい景色だなあと思って」


彼に見惚れたのをごまかし、遠くを指さした。


「ああ、今日はよく晴れてるし、遠くまできれいに見渡せるよ」


私は景色を眺めるうちに思い出した。この道は、夏に松山さんたちと海に出かけたのと同じルートだ。そしてもうすぐ、雨宮さんのリゾートホテルが見えてくる。


「あの白い建物だろ。雨宮さんのリゾートホテル」

「えっ?」


心を見透かされたのかと思い、どきっとした。


「う、うん。マスターと真琴と、松山さんと遊びにきたホテルです」


近づいてくるホテルをフロントガラス越しに見つめた。周辺の道路も、ビーチも、夏の賑わいが嘘のように人影が少ない。

秀一さんは何も言わずウィンカーを出し、ホテルへと続く坂道に入った。


「え……どうして?」

「今夜の宿はこのホテルだよ。あと、雨宮さんと会う約束もしている」

「そうなんですか?」


まったく知らなかった。驚く私に、秀一さんはことのしだいを説明した。


「雨宮さんに、11月に薫と一緒に和歌山に行くので、そのときに挨拶がしたいと手紙を出したんだ。何しろ忙しい人だから、スケジュールが空けばということになった。そしたら、今朝になって急に都合が付いたと連絡がきて、会うことになったわけ」

「雨宮さんに、挨拶を?」


もっと詳しく聞きたかったが、車がロータリーに着いてしまった。とりあえず車を降りて、ホテル内へと進んだ。



「立派なホテルだなあ」


秀一さんはロビーをぐるりと見回し、感心の声を上げた。


「まだ早い時間だけど、チェックインしてくる。ここで待っててくれ」

「あ、はい」


私はロビーの椅子に座り、フロントで手続きする彼を待った。ずいぶん長いこと説明を受けている。


(手違いでもあったのかな?)


ようやく手続きが終わったようで、秀一さんが私を手招きした。


「どうかしたの?」

「一般の客室で予約したはずが、特別室になってたんだ。雨宮さんが用意してくれたらしい」

「雨宮さんが?」

「婚約のお祝いとしてサービスさせてくれって、メッセージを受け取ったよ」


そう言って、手にしたカードを開いて見せた。


「えっ、これって……」


雨宮さんの直筆メッセージだ。宿泊代だけでなく、ホテル内のすべてのサービスをプレゼントするとのこと。


「つまり、何もかも無料って意味だよ」


秀一さんは困ったような、嬉しいような、複雑な表情になる。


「雨宮さんに、僕がお礼をするつもりだったのにな」


海景画の件で、雨宮さんが骨を折ってくれた。彼が道彦さんに協力してくれたおかげで、ベアトリスとの和解が実現したと言ってもいい。


秀一さんはカードを胸ポケットに仕舞うと、上からぽんぽんと叩いた。


「せっかくだからプレゼントを受け取ろう。もし遠慮すれば、雨宮さんのことだからがっかりする」

「そうですね」


私も同意し、明るく笑い合った。


「それで、夕食についてだけど。コンシェルジュによると、最上階のフランス料理店が一番人気らしくて、フルコースをすすめられた。シェフはパリの三ツ星レストランで修行した人だとか」

「えっ、すごいですね」

「ああ。でも、今夜薫に食べてほしいのは別の料理なんだ。だからフランス料理は次の機会にして、最初に予約したレストランで食事することにしたけど、いいかな」

「もちろん私は構わないけど……あの、私に食べてほしい料理って」

「それは食べてのお楽しみ。あと、僕の大好物もリクエストしておいた」


よく分からないが、秀一さんの要望を受け入れる。それに、嬉しそうな彼を見て夕食が楽しみになった。



部屋には客室係が案内してくれた。

二人きりになると、私たちはほっと息をついた。


「ここが特別室か、さすがに広いな」


オーシャンビューの晴れやかな景色は、開放感を与えてくれる。秀一さんはジャケットを脱いで、身軽な格好になった。


「少し休憩しよう。君も疲れただろ」


私は頷くが、その前に荷物を少し整理しようと思い、寝室らしき部屋へと移動する。


「わっ……」


部屋を覗いた私は、驚いてバッグを落としそうになった。

寝室の中央に、見たこともないような大きなベッドが鎮座している。


(ベッドが一つしかない……って)


頭をブンブンと振り、煩悩を追い払う。こんな昼間から、あらぬ妄想に支配されそうになった。

最近は忙しかったので、そういった行為に無縁の私たち。

あまり間が空くと、何だか照れてしまう。

というより、今、こんなことを考えるのは良くない気がした。何と言っても今日は、これから……


「薫?」

「はっ、はい!」


ひっくり返った声で返事をして、慌ててメインルームに戻った。


「どうかしたのか」

「いいえ、別に……あ、お茶を淹れますね」


私がばたばたするのを見て、秀一さんがちょっと呆れ顔になる。


「僕がやるから、君は休めばいいよ」

「そんなわけにいきません。秀一さんはここまで運転してくれたんだから」


急須と湯呑みをキャビネットから取り出し、盆の上にのせる。そわそわする気持ちがおさまらず、かちゃかちゃと器が音を立てた。


「薫、こっちに来なさい」


秀一さんが真面目な声で呼んだ。いや……真面目というより、この低い声は怒っている?

私が戻ると、彼はソファを指差した。


「ここで休んで、薫」

「……はい」


叱られた子どもみたいに小さな返事をして、彼の隣にそっと腰かけた。もじもじしたまま何も言わない私をじっと見つめて、秀一さんがふうっと息をつく。


「薫」

「えっ?」


私の肩に腕を回し、ぐっと抱き寄せた。


「君は可愛い。小言も引っ込んでしまうくらい、可愛いよ」

「しゅ……秀一さん?」


至近距離で見つめられて、頬が熱くなった。久しぶりの密着である。


「だから、何だかんだで許してしまうな。しゅんとされると、こっちが悪者に思えてくるよ」
 

甘すぎて優しすぎて、蕩けそうになってしまう声音。


「かおる」


吐息のように呼ぶと、唇を押し付けてきた。力強い腕に拘束されて、私は殆ど身動きがとれず、彼の支配下に置かれる。焦れた手がワンピースの胸をまさぐり始めた。


「あ、だめ……」


堪らずに熱い声を漏らした。それを合図に、彼の手は胸から離れ、スカートの裾をせっかちな手つきでまくり上げ、腿の内側に滑り込む。

この先を許せば、最後まで彼の思い通りになってしまう。


「いけない。待って、秀一さん……っ!」


身を捩って逃れる私を、彼は驚いた目で見下ろす。


「どうしたんだ」

「何となく……」

「?」


秀一さんが眉根を寄せた。


「どういう意味だ」

「あのね……」


彼が私を起こして、きちんと座らせる。私は言葉を選びつつ、さっきから思っていることを伝えた。


「これから、ご両親のお墓参りに行くでしょう。その、その前にするのは、良くないって」

「……」

「何となく」


秀一さんはしばし黙っていたが、やがてがっくりとうな垂れる。

肩を震わせ始めた。怒ったのだろうか。


「ごめんなさい」


私は自分の感覚を押し付けたことを詫びた。この人にとって、それとこれとは別次元の話なのだ。不純な考えなど何もなく、ただ私を抱きたかっただけ。

だけど、顔を上げた秀一さんは怒るどころか、明るく笑っていた。


「参りました!」


いきなり降参宣言した。しかも、明るくはっきりと?

でも、何に降参したのだろう。


「その通りだ、薫。大事なことに考えが及ばなかったよ」


秀一さんは私の手をぎゅっと握り、ソファから立ち上がらせる。


「ありがとう。父も母も、きっと君を気に入ってくれる」

「秀一さん」


分かってくれたことが何よりも嬉しくて、思わず彼の胸につかまった。


「ゆっくり休んで、それから僕の両親に会いに行こう。大切な君を紹介する日を、ずっと待っていたんだ」

「うん。私も、ずっと待ってた」


しっかりと抱きしめてくれる。嬉しくて幸せ。いつまでもこうしていたい……


「でもな、薫……」

「え?」

「いや、何でもない」


秀一さんは照れたように背中を向けると、なぜか私から離れてしまう。


(今の囁きは……)


「さあ、君は座って。僕がお茶を淹れよう」

「う、うん。ありがとう」


彼がお茶を淹れるのを待つ間、胸がどきどきした。

本当は聞こえていたから。


今夜は、ゆっくり愛し合おう――


熱くなる頬を両手で押さえ、私は再び、煩悩を持て余すのだった。



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