先生

藤谷 郁

文字の大きさ
98 / 104
先生

1

しおりを挟む
11月11日 水曜日――

私は今、秀一さんが運転する車で紀伊半島の南に向かっている。彼の両親が眠る故郷ふるさとへの旅だ。

海沿いに続く道から、秋の陽射しにきらめく太平洋が一望できた。

秀一さんの横顔には、海育ちの男性らしい大らかさが表れている。いつもと違う魅力に、つい見惚れてしまった。


「どうしたんだ、じろじろ見て」

「べ、別に秀一さんを見てるわけじゃ……その、いい景色だなあと思って」


彼に見惚れたのをごまかし、遠くを指さした。


「ああ、今日はよく晴れてるし、遠くまできれいに見渡せるよ」


私は景色を眺めるうちに思い出した。この道は、夏に松山さんたちと海に出かけたのと同じルートだ。そしてもうすぐ、雨宮さんのリゾートホテルが見えてくる。


「あの白い建物だろ。雨宮さんのリゾートホテル」

「えっ?」


心を見透かされたのかと思い、どきっとした。


「う、うん。マスターと真琴と、松山さんと遊びにきたホテルです」


近づいてくるホテルをフロントガラス越しに見つめた。周辺の道路も、ビーチも、夏の賑わいが嘘のように人影が少ない。

秀一さんは何も言わずウィンカーを出し、ホテルへと続く坂道に入った。


「え……どうして?」

「今夜の宿はこのホテルだよ。あと、雨宮さんと会う約束もしている」

「そうなんですか?」


まったく知らなかった。驚く私に、秀一さんはことのしだいを説明した。


「雨宮さんに、11月に薫と一緒に和歌山に行くので、そのときに挨拶がしたいと手紙を出したんだ。何しろ忙しい人だから、スケジュールが空けばということになった。そしたら、今朝になって急に都合が付いたと連絡がきて、会うことになったわけ」

「雨宮さんに、挨拶を?」


もっと詳しく聞きたかったが、車がロータリーに着いてしまった。とりあえず車を降りて、ホテル内へと進んだ。



「立派なホテルだなあ」


秀一さんはロビーをぐるりと見回し、感心の声を上げた。


「まだ早い時間だけど、チェックインしてくる。ここで待っててくれ」

「あ、はい」


私はロビーの椅子に座り、フロントで手続きする彼を待った。ずいぶん長いこと説明を受けている。


(手違いでもあったのかな?)


ようやく手続きが終わったようで、秀一さんが私を手招きした。


「どうかしたの?」

「一般の客室で予約したはずが、特別室になってたんだ。雨宮さんが用意してくれたらしい」

「雨宮さんが?」

「婚約のお祝いとしてサービスさせてくれって、メッセージを受け取ったよ」


そう言って、手にしたカードを開いて見せた。


「えっ、これって……」


雨宮さんの直筆メッセージだ。宿泊代だけでなく、ホテル内のすべてのサービスをプレゼントするとのこと。


「つまり、何もかも無料って意味だよ」


秀一さんは困ったような、嬉しいような、複雑な表情になる。


「雨宮さんに、僕がお礼をするつもりだったのにな」


海景画の件で、雨宮さんが骨を折ってくれた。彼が道彦さんに協力してくれたおかげで、ベアトリスとの和解が実現したと言ってもいい。


秀一さんはカードを胸ポケットに仕舞うと、上からぽんぽんと叩いた。


「せっかくだからプレゼントを受け取ろう。もし遠慮すれば、雨宮さんのことだからがっかりする」

「そうですね」


私も同意し、明るく笑い合った。


「それで、夕食についてだけど。コンシェルジュによると、最上階のフランス料理店が一番人気らしくて、フルコースをすすめられた。シェフはパリの三ツ星レストランで修行した人だとか」

「えっ、すごいですね」

「ああ。でも、今夜薫に食べてほしいのは別の料理なんだ。だからフランス料理は次の機会にして、最初に予約したレストランで食事することにしたけど、いいかな」

「もちろん私は構わないけど……あの、私に食べてほしい料理って」

「それは食べてのお楽しみ。あと、僕の大好物もリクエストしておいた」


よく分からないが、秀一さんの要望を受け入れる。それに、嬉しそうな彼を見て夕食が楽しみになった。



部屋には客室係が案内してくれた。

二人きりになると、私たちはほっと息をついた。


「ここが特別室か、さすがに広いな」


オーシャンビューの晴れやかな景色は、開放感を与えてくれる。秀一さんはジャケットを脱いで、身軽な格好になった。


「少し休憩しよう。君も疲れただろ」


私は頷くが、その前に荷物を少し整理しようと思い、寝室らしき部屋へと移動する。


「わっ……」


部屋を覗いた私は、驚いてバッグを落としそうになった。

寝室の中央に、見たこともないような大きなベッドが鎮座している。


(ベッドが一つしかない……って)


頭をブンブンと振り、煩悩を追い払う。こんな昼間から、あらぬ妄想に支配されそうになった。

最近は忙しかったので、そういった行為に無縁の私たち。

あまり間が空くと、何だか照れてしまう。

というより、今、こんなことを考えるのは良くない気がした。何と言っても今日は、これから……


「薫?」

「はっ、はい!」


ひっくり返った声で返事をして、慌ててメインルームに戻った。


「どうかしたのか」

「いいえ、別に……あ、お茶を淹れますね」


私がばたばたするのを見て、秀一さんがちょっと呆れ顔になる。


「僕がやるから、君は休めばいいよ」

「そんなわけにいきません。秀一さんはここまで運転してくれたんだから」


急須と湯呑みをキャビネットから取り出し、盆の上にのせる。そわそわする気持ちがおさまらず、かちゃかちゃと器が音を立てた。


「薫、こっちに来なさい」


秀一さんが真面目な声で呼んだ。いや……真面目というより、この低い声は怒っている?

私が戻ると、彼はソファを指差した。


「ここで休んで、薫」

「……はい」


叱られた子どもみたいに小さな返事をして、彼の隣にそっと腰かけた。もじもじしたまま何も言わない私をじっと見つめて、秀一さんがふうっと息をつく。


「薫」

「えっ?」


私の肩に腕を回し、ぐっと抱き寄せた。


「君は可愛い。小言も引っ込んでしまうくらい、可愛いよ」

「しゅ……秀一さん?」


至近距離で見つめられて、頬が熱くなった。久しぶりの密着である。


「だから、何だかんだで許してしまうな。しゅんとされると、こっちが悪者に思えてくるよ」
 

甘すぎて優しすぎて、蕩けそうになってしまう声音。


「かおる」


吐息のように呼ぶと、唇を押し付けてきた。力強い腕に拘束されて、私は殆ど身動きがとれず、彼の支配下に置かれる。焦れた手がワンピースの胸をまさぐり始めた。


「あ、だめ……」


堪らずに熱い声を漏らした。それを合図に、彼の手は胸から離れ、スカートの裾をせっかちな手つきでまくり上げ、腿の内側に滑り込む。

この先を許せば、最後まで彼の思い通りになってしまう。


「いけない。待って、秀一さん……っ!」


身を捩って逃れる私を、彼は驚いた目で見下ろす。


「どうしたんだ」

「何となく……」

「?」


秀一さんが眉根を寄せた。


「どういう意味だ」

「あのね……」


彼が私を起こして、きちんと座らせる。私は言葉を選びつつ、さっきから思っていることを伝えた。


「これから、ご両親のお墓参りに行くでしょう。その、その前にするのは、良くないって」

「……」

「何となく」


秀一さんはしばし黙っていたが、やがてがっくりとうな垂れる。

肩を震わせ始めた。怒ったのだろうか。


「ごめんなさい」


私は自分の感覚を押し付けたことを詫びた。この人にとって、それとこれとは別次元の話なのだ。不純な考えなど何もなく、ただ私を抱きたかっただけ。

だけど、顔を上げた秀一さんは怒るどころか、明るく笑っていた。


「参りました!」


いきなり降参宣言した。しかも、明るくはっきりと?

でも、何に降参したのだろう。


「その通りだ、薫。大事なことに考えが及ばなかったよ」


秀一さんは私の手をぎゅっと握り、ソファから立ち上がらせる。


「ありがとう。父も母も、きっと君を気に入ってくれる」

「秀一さん」


分かってくれたことが何よりも嬉しくて、思わず彼の胸につかまった。


「ゆっくり休んで、それから僕の両親に会いに行こう。大切な君を紹介する日を、ずっと待っていたんだ」

「うん。私も、ずっと待ってた」


しっかりと抱きしめてくれる。嬉しくて幸せ。いつまでもこうしていたい……


「でもな、薫……」

「え?」

「いや、何でもない」


秀一さんは照れたように背中を向けると、なぜか私から離れてしまう。


(今の囁きは……)


「さあ、君は座って。僕がお茶を淹れよう」

「う、うん。ありがとう」


彼がお茶を淹れるのを待つ間、胸がどきどきした。

本当は聞こえていたから。


今夜は、ゆっくり愛し合おう――


熱くなる頬を両手で押さえ、私は再び、煩悩を持て余すのだった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夜の声

神崎
恋愛
r15にしてありますが、濡れ場のシーンはわずかにあります。 読まなくても物語はわかるので、あるところはタイトルの数字を#で囲んでます。 小さな喫茶店でアルバイトをしている高校生の「桜」は、ある日、喫茶店の店主「葵」より、彼の友人である「柊」を紹介される。 柊の声は彼女が聴いている夜の声によく似ていた。 そこから彼女は柊に急速に惹かれていく。しかし彼は彼女に決して語らない事があった。

ひとつ屋根の下

瑞原唯子
恋愛
橘財閥の御曹司である遥は、両親のせいで孤児となった少女を引き取った。 純粋に責任を感じてのことだったが、いつしか彼女に惹かれていき――。

氷雨と猫と君〖完結〗

カシューナッツ
恋愛
彼とは長年付き合っていた。もうすぐ薬指に指輪をはめると思っていたけれど、久しぶりに呼び出された寒い日、思いもしないことを言われ、季節外れの寒波の中、帰途につく。

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

愛してやまないこの想いを

さとう涼
恋愛
ある日、恋人でない男性から結婚を申し込まれてしまった。 「覚悟して。断られても何度でもプロポーズするよ」 その日から、わたしの毎日は甘くとろけていく。 ライティングデザイン会社勤務の平凡なOLと建設会社勤務のやり手の設計課長のあまあまなストーリーです。

わたしの愉快な旦那さん

川上桃園
恋愛
 あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。  あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。 「何かお探しですか」  その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。  店員のお兄さんを前にてんぱった私は。 「旦那さんが欲しいです……」  と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。 「どんな旦那さんをお望みですか」 「え、えっと……愉快な、旦那さん?」  そしてお兄さんは自分を指差した。 「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」  そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

ホウセンカ

えむら若奈
恋愛
☆面倒な女×クセ強男の不器用で真っ直ぐな純愛ラブストーリー! 誰もが振り返る美しい容姿を持つ姫野 愛茉(ひめの えま)は、常に“本当の自分”を隠して生きていた。 そして“理想の自分”を“本当の自分”にするため地元を離れた大学に進学し、初めて参加した合コンで浅尾 桔平(あさお きっぺい)と出会う。 目つきが鋭くぶっきらぼうではあるものの、不思議な魅力を持つ桔平に惹かれていく愛茉。桔平も愛茉を気に入り2人は急接近するが、愛茉は常に「嫌われるのでは」と不安を抱えていた。 「明確な理由がないと、不安?」 桔平の言葉のひとつひとつに揺さぶられる愛茉が、不安を払拭するために取った行動とは―― ※本作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。 ※イラストは自作です。転載禁止。

処理中です...