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出立
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家に帰り着いたのは午後10時近くだった。
車で送ってくれた秀一さんと一緒に玄関に入ると、母がそわそわしながら迎え出た。
「お父さんが待ってるわよ」
母は秀一さんを気遣いながら、客間へと案内する。
彼と一緒に戻るのを父は予測したようだ。秀一さんと座卓を挟んで向き合うと、単刀直入に訊いてきた。
「島さん、返事を聞かせてください」
秀一さんがしっかりと顎を引く。もう迷いはなかった。
「私は薫さんと結婚します。許していただけますか」
父は母と顔を見合わせ、姿勢を正した。私は反射的に、膝の上で握りしめる彼の手に手のひらを重ねた。
「承知いたしました。薫を、よろしくお願い申し上げます」
両親は揃って、秀一さんに頭を下げた。そして、秀一さんも私も。
「ありがとうございます」
これまで生きてきた中で、最高に幸せな瞬間だった。
(幸せなのに、泣くなんて)
両親は私の涙に気づいて、呆れ顔になる。
「今からそんなことでどうするんだ」
「そうよ、薫。結婚式で号泣なんかしないでよね」
「わ、分かってます!」
横からハンカチが差し出された。秀一さんが優しく微笑み、私を見守っている。
「あ、ありがとう」
お日様の匂いがするきれいなハンカチ。微かに油絵具の香りもする。彼が近づくたびに、どきどきした香りだ。
(あなたを好きで、大好きすぎて、どうしようもありません。私、幸せです!)
秀一さんを見送った後、親子三人は居間で向かい合った。
彼のハンカチを握りしめたままでいる私に、母はほっとした顔を向ける。
「とにかく良かったわ。お父さんがあんなこと言うからびっくりしたけど」
「あんなこと? もう一度よく考えてなさいと言ったんだ」
「ねえ、お父さん」
私は父に訊きたいことがあった。
「何だ?」
「秀一さんが今日、結婚という言葉を使わなかったこと、気づいてた?」
「う……ん」
父は少し困った様子になる。
「気づいてたよ。島さんが、亡くなられたご両親の墓前に薫と一緒に報告をしたいと言ったが、何を報告するのか、その部分が抜けていた。しかも、どこか苦しそうに見えたんだ」
その場面を思い出そうとするが、私の記憶には残っていない。父はどれだけ集中して彼の話を聞いていたのかと驚き、感心する。
――父親というのは凄い。娘の幸せを、この世の誰より願ってる。
秀一さんの言葉が実感となって胸に迫った。
「お父さんって、変なところで細かいのよねえ」
母があっけらかんと言うので、父は苦笑する。
「どうせ俺は細かいよ。大雑把な母さんが羨ましくてしょうがない」
「まあ、失礼しちゃう。大らかって言ってよ」
私たちは笑った。今日初めて、朗らかに笑い合った気がする。
「何はともあれ良かった良かった。そうだ、これからは具体的に話を進めなきゃね。薫、早め早めにやんなさいよ」
「母さん、島さんは逃げないよ」
「そうだけど、何だか落ち着かないもの。ああ、そわそわする」
「お前が嫁に行くわけじゃあるまいし」
父と母が結婚について話すのを聞きながら、私はあらためて緊張を覚える。
島先生と結婚。夢が現実になるのだ。
喜びに震えながら、彼のハンカチをしっかりと握りしめた。
車で送ってくれた秀一さんと一緒に玄関に入ると、母がそわそわしながら迎え出た。
「お父さんが待ってるわよ」
母は秀一さんを気遣いながら、客間へと案内する。
彼と一緒に戻るのを父は予測したようだ。秀一さんと座卓を挟んで向き合うと、単刀直入に訊いてきた。
「島さん、返事を聞かせてください」
秀一さんがしっかりと顎を引く。もう迷いはなかった。
「私は薫さんと結婚します。許していただけますか」
父は母と顔を見合わせ、姿勢を正した。私は反射的に、膝の上で握りしめる彼の手に手のひらを重ねた。
「承知いたしました。薫を、よろしくお願い申し上げます」
両親は揃って、秀一さんに頭を下げた。そして、秀一さんも私も。
「ありがとうございます」
これまで生きてきた中で、最高に幸せな瞬間だった。
(幸せなのに、泣くなんて)
両親は私の涙に気づいて、呆れ顔になる。
「今からそんなことでどうするんだ」
「そうよ、薫。結婚式で号泣なんかしないでよね」
「わ、分かってます!」
横からハンカチが差し出された。秀一さんが優しく微笑み、私を見守っている。
「あ、ありがとう」
お日様の匂いがするきれいなハンカチ。微かに油絵具の香りもする。彼が近づくたびに、どきどきした香りだ。
(あなたを好きで、大好きすぎて、どうしようもありません。私、幸せです!)
秀一さんを見送った後、親子三人は居間で向かい合った。
彼のハンカチを握りしめたままでいる私に、母はほっとした顔を向ける。
「とにかく良かったわ。お父さんがあんなこと言うからびっくりしたけど」
「あんなこと? もう一度よく考えてなさいと言ったんだ」
「ねえ、お父さん」
私は父に訊きたいことがあった。
「何だ?」
「秀一さんが今日、結婚という言葉を使わなかったこと、気づいてた?」
「う……ん」
父は少し困った様子になる。
「気づいてたよ。島さんが、亡くなられたご両親の墓前に薫と一緒に報告をしたいと言ったが、何を報告するのか、その部分が抜けていた。しかも、どこか苦しそうに見えたんだ」
その場面を思い出そうとするが、私の記憶には残っていない。父はどれだけ集中して彼の話を聞いていたのかと驚き、感心する。
――父親というのは凄い。娘の幸せを、この世の誰より願ってる。
秀一さんの言葉が実感となって胸に迫った。
「お父さんって、変なところで細かいのよねえ」
母があっけらかんと言うので、父は苦笑する。
「どうせ俺は細かいよ。大雑把な母さんが羨ましくてしょうがない」
「まあ、失礼しちゃう。大らかって言ってよ」
私たちは笑った。今日初めて、朗らかに笑い合った気がする。
「何はともあれ良かった良かった。そうだ、これからは具体的に話を進めなきゃね。薫、早め早めにやんなさいよ」
「母さん、島さんは逃げないよ」
「そうだけど、何だか落ち着かないもの。ああ、そわそわする」
「お前が嫁に行くわけじゃあるまいし」
父と母が結婚について話すのを聞きながら、私はあらためて緊張を覚える。
島先生と結婚。夢が現実になるのだ。
喜びに震えながら、彼のハンカチをしっかりと握りしめた。
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