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出立
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現在の時刻は19時27分――
今、秀一さんは私を助手席に乗せてN空港へと向かっている。今夜、パリ行きの最終便で帰国するベアトリス・エーメに会うために。
「道が空いてるから、あと十分もすれば着く。間に合うぞ」
夜空は雲一つなく晴れている。星月夜のもと、二人は十五年ぶりの再会を果たすのだ。
私はマルセル・ロベールに電話で報告した。
閉ざされていた扉が開いた。あなたがくれた鍵で、開くことが出来たのだと。
電話の向こうで、彼は暫く口も利けずにいたが、やがて歓喜の声を上げた。
『素晴らしい。最高だ!』
何度も何度も喜びを叫び、そして興奮気味に教えてくれた。
『これから社長はパリに発つ。今は空港のホテルで体を休めているよ』
ベアトリスは仮眠をとっている。秀一さんに伝えると、彼は「会いにいく」と言い、いきなりソファを立ち上がったのだ。
突然の行動に驚きながらも、マルセルに出発の時間を確かめると、最終便とのこと。
「N空港なら高速を使えば間に合う」
秀一さんは、彼女にきちんと別れを告げると、マルセルと私に約束した。
「ベアを、そして僕自身も解放する」
長い旅が、ようやく終わろうとしている。
車を運転しながら、秀一さんが私に語った。
「君が指摘した通り、僕はベアに拘っていた。やはり、心の奥底では後悔していたと思う。だけどあの時、絵描きとしてのプライドをズタズタにされた悔しさで意地になったんだ。素直になれず、どうして彼女があんなことを言ったのかよく考えもせず、ただ自分のやり方を貫くと決めた。僕のこの融通の利かない性格は、僕自身のみならず、周りの人たちに迷惑をかけている。雨宮さんにも、道彦さんにも、そして君にも……」
私は彼の横顔を見つめ、首を横に振った。そんなところが好きだから。
「つくづくと思い知ったよ。この頑固さのために、大切なものを見失っていると」
(大切なもの……)
斜め前方に、空港の灯りが見えてきた。もうすぐ到着する。
あの人の待つ、新たな旅立ちの場所に。
「愛情を、見失っていた」
彼はそれから何も言わず、肩に力が入った姿勢でインターのゲートを潜った。
「カオル!」
空港直結のホテルへと歩く私たちに、マルセルの声が聞こえた。ホテルの玄関まであと20メートルほどの通路上だった。
電話で到着を連絡したので、表に出て待っていてくれたのだ。
「彼がマルセル?」
走ってくる若者のシルエットに秀一さんは目を凝らした。
「そうです。社長秘書のマルセル・ロベールです」
「彼が、ベアの……」
マルセルは息をはずませ、私たちの前に立った。
私に笑いかけて、それから秀一さんに見向いた。
「間に合ってよかったです」
二人の男は向き合い、互いの姿を見回す。
年齢の違いこそあれ、自分に顔立ちの似た人間を前にして複雑な心境だろう。二人の間には、ベアトリスという特別な女性が存在している。
マルセルは戸惑いながら挨拶を済ませると、私に耳打ちした。
「社長は上の展望階にいます」
「ホテルのですか」
「ええ。彼を案内するが、君はどうします。私と一緒に下で待つ?」
私は即座に返事する。
「もちろんです。下で待っています」
マルセルは微笑むと、秀一さんにホテルへ行きましょうと声をかけた。
二人はエレベーターに乗り込み、マルセルがドアを閉める前に言った。
「カオル、直ぐに下りてくるから」
秀一さんが私をじっと見つめている。
待っていてくれ――
眼差しが伝えてくる。私の心深くにその声は届いた。
待っています――
扉が閉じたエレベーターの前で、私はしばらくの間佇んでいた。
マルセルはすぐに下りてきた。
玄関ホールのロビーで、彼と向かい合って椅子に座り、感無量の気持ちを分かち合った。疲れてはいるが、私たちは充足している。
「君のことは、一生忘れない」
ため息交じりに彼が囁く。私は面映くなり、何も返せなかった。
「君はいいね」
「えっ?」
「実にいいよ」
マルセルの言い方が秀一さんにそっくりなのでどきっとする。彼は組んでいた足を解くと真顔になった。
「はじめはね、どうしてこんなベベちゃんにノエルが恋するのか、理解できなかった」
「は……はい?」
ベベちゃんというのは赤ん坊のことだ。彼には私が女性ではなく、赤ん坊に見えたのだろう。
「でもね、今は解るよ。君は不器用だけど、人に対してとても真面目なんだ。日本語ではリチギというのかな……うーん」
顎を撫でながら首をひねる。適当な言葉が見つからないようだ。
「そうだな。そう、とてもかわいい!」
「え……」
「かわいいんだ、君は」
思いも寄らぬことを言われた。私はいたたまれず、まっすぐな瞳から逃げるように横を向いた。
「ハハハ……」
マルセルは可笑しそうに笑う。やはりからかわれているのかと、へこみそうになった。
彼はだが、再び真顔になる。
「君のことを忘れない。本当だよ」
「マルセル……」
「ありがとう、カオル」
彼は私の手を取り、立ち上がる。
振り返ると、秀一さん、そしてベアトリス・エーメがエレベーターから降りるところだった。
ベアトリスはフロアに降り立つと、辺りを見回す。
半袖のカットソーにパンツという軽装に、眼鏡をかけている。地味な色合いを纏い、それでも彼女は輝いている。遠くからでもわかる、洗練された女性としての魅力に溢れている。
こんな時なのに、私は彼女の姿に見惚れた。
愛情豊かな素晴らしい女性。彼女に惹かれる理由は容姿ばかりではなかった。
ベアトリスは私を見つけると、「カ・オ・ル」と、大きな声で呼んだ。
ゆっくりと近づいてくる。私だけを見つめてまっすぐに。彼女の後ろから秀一さんが見守っている。優しく笑みを浮かべて。
「カオル!」
私の前に来ると彼女は眼鏡を外し、あらためて名前を呼んだ。声が少し震えている。私を映す青い瞳。目のふちに涙のあとがある。
「ベアトリス……」
彼女は私を抱きしめた。今の気持ちが全部伝わってくる。
「夢かと思ったの。ノエルが私に会いにくるなんて、どうしても信じられなくて。マルセルから話を聞いて、小娘みたいにうろたえたわ。お洒落なんてする暇もない。結局こんな格好になってしまった私に、ノエルったら何て言ったと思う?」
後ろに佇む秀一さんを、彼女は睨むようにした。
「身だしなみがなってないね……ですって」
私は自然に笑顔になった。昔から彼女を知っているような懐かしい気持ち。この人は確かに、秀一さんが愛したベアトリス・エーメだと感じている。
「マルセルがあなたに無理なお願いをしたそうね。彼に代わり、お詫びします」
「そんな、よして下さい!」
「いいえ。あなたには迷惑をかけてばかりだった」
ベアトリスは辛そうに眉を寄せた。
「ノエルに再会して、初めて分かったの。彼はいまやすっかり大人の男性。驚いたけれど、話してみるとやはり彼はノエルであり、私にとって愛しい存在であることに変わりない。だけど……」
彼女は息を吸い込む。
「ノエルにとって私は家族なのね。十五年かけてようやく納得できた。いいえ、本当は分かっていたけれど、ノエル……シューイチの口から聞くまで、分かりたくなかった」
傍に控えるマルセルの肩口が、微かに震えた気がした。
「ベアトリス……ベア」
彼女の手を握った。ほっそりとして頼りない指。こんなにも繊細な手をしていると、私は知らずにいた。
「カオル……ごめんなさい。私はあなたを苦しめた。ノエルを忘れられず、あなたに苦しみをぶつけてしまった」
ベアトリスが会いにきた日、私は確かに動揺し、苦しんだ。秀一さんと喧嘩もした。だけど、通るべき道だったと今は思う。そのおかげで、秀一さんの本当の姿を知ることができたのだから。
「ベア……違います。あなたは私にとって大切な人です」
「カオル」
彼女は済まなそうに、それでもしっかりと頷いてくれた。
「ありがとう、カオル」
「社長」
優しい声が聞こえた。彼女のことを今、誰よりも大切に想っている人の声だ。
「マルセル」
「そろそろ時間です。旅立ちの準備を」
「分かった……」
私の手のひらから、細い指がそっと離れた。
「そうね、もう行かなくては。明日も明後日も、忙しい毎日が続くのだから」
ベアトリスは眼鏡をかけて、背筋を伸ばした。そして、秀一さんに向かって声を張り上げる。
「シューイチ! 例の件、忘れないでよね」
「ああ、わかってる」
マルセルと私は顔を見合わせた。
「例の件?」
「何でしょうね」
ベアトリスはこちらを向いて、にやりとする。
「彼と契約したの。ようやくね」
「契約?」
「そう。画商と画家の間でとりあえず約束をしたの。正式な契約はミチヒコに連絡してから」
彼女は既に気持ちを切り替えていた。体じゅうに生気が漲っている。
「さすが、私の社長だ」
マルセルも私も理解した。秀一さんは完全に殻を破ったのだ。そしてベアトリスの要望に応えた。
秀一さんが、私の肩にぽんと手を置く。
「秀一さん」
「新境地への第一歩だ」
ベアトリスは彼の言葉を聞くと、満足そうに頷く。
「シューイチ。言っておくけど、私との仕事は厳しいわよ」
「知ってるよ」
姉と弟のような会話が交わされる。こんな秀一さんを見るのは初めてな気がする。
「昔とは比べ物にならないから」
「僕だって昔以上に頑固だし、絶対に妥協しない」
これには敏腕社長も呆れ顔だ。
だけど二人は互いに手を差し出すと、しっかりと握り合い、新たなる盟約を結んだ。
出発ロビーまで見送りたかったが、エトワール画廊の他の社員も合流するので、ホテルの出口でお別れすることにした。
「近々会うことになりそうですね」
マルセルが私に近づいてこっそりと囁く。
「うん、そうみたい」
秀一さんがエトワール画廊と契約を結ぶからだ。そして、私と秀一さんは――
「今、契約について少し聞いたのだけど」
「えっ?」
何ごとか話すベアトリスと秀一さんを横目で見やり、マルセルが教えた。
「ノエルに依頼する最初の仕事は、君に関係があるらしい」
「私に?」
「ああ、多分……」
「マルセル!」
社長に呼ばれて、彼は職務に戻ることになった。
「とにかく、また会えるのを楽しみにしてるよ」
「はい、私も」
「マルセル、スケジュールを確認して」
「Oui, j'ai compris! ああ、忙しい忙しい」
マルセルはウィンクをして、社長のもとへ戻った。
別れ際、私は彼らに手を振った。
ベアトリスもマルセルも、同じ笑顔でさよならの合図をくれる。
また会うためのさよならだ。
「良かったね、秀一さん」
「うん」
搭乗ゲートに向かう彼らの姿が見えなくなるまで見送った。
「本当に、良かった……」
秀一さんが私の肩を抱き寄せる。
彼の身体と心に私は寄り添い、思いを馳せた。
ベアトリス・エーメ。あなたはエトワール。
輝ける星――
今、秀一さんは私を助手席に乗せてN空港へと向かっている。今夜、パリ行きの最終便で帰国するベアトリス・エーメに会うために。
「道が空いてるから、あと十分もすれば着く。間に合うぞ」
夜空は雲一つなく晴れている。星月夜のもと、二人は十五年ぶりの再会を果たすのだ。
私はマルセル・ロベールに電話で報告した。
閉ざされていた扉が開いた。あなたがくれた鍵で、開くことが出来たのだと。
電話の向こうで、彼は暫く口も利けずにいたが、やがて歓喜の声を上げた。
『素晴らしい。最高だ!』
何度も何度も喜びを叫び、そして興奮気味に教えてくれた。
『これから社長はパリに発つ。今は空港のホテルで体を休めているよ』
ベアトリスは仮眠をとっている。秀一さんに伝えると、彼は「会いにいく」と言い、いきなりソファを立ち上がったのだ。
突然の行動に驚きながらも、マルセルに出発の時間を確かめると、最終便とのこと。
「N空港なら高速を使えば間に合う」
秀一さんは、彼女にきちんと別れを告げると、マルセルと私に約束した。
「ベアを、そして僕自身も解放する」
長い旅が、ようやく終わろうとしている。
車を運転しながら、秀一さんが私に語った。
「君が指摘した通り、僕はベアに拘っていた。やはり、心の奥底では後悔していたと思う。だけどあの時、絵描きとしてのプライドをズタズタにされた悔しさで意地になったんだ。素直になれず、どうして彼女があんなことを言ったのかよく考えもせず、ただ自分のやり方を貫くと決めた。僕のこの融通の利かない性格は、僕自身のみならず、周りの人たちに迷惑をかけている。雨宮さんにも、道彦さんにも、そして君にも……」
私は彼の横顔を見つめ、首を横に振った。そんなところが好きだから。
「つくづくと思い知ったよ。この頑固さのために、大切なものを見失っていると」
(大切なもの……)
斜め前方に、空港の灯りが見えてきた。もうすぐ到着する。
あの人の待つ、新たな旅立ちの場所に。
「愛情を、見失っていた」
彼はそれから何も言わず、肩に力が入った姿勢でインターのゲートを潜った。
「カオル!」
空港直結のホテルへと歩く私たちに、マルセルの声が聞こえた。ホテルの玄関まであと20メートルほどの通路上だった。
電話で到着を連絡したので、表に出て待っていてくれたのだ。
「彼がマルセル?」
走ってくる若者のシルエットに秀一さんは目を凝らした。
「そうです。社長秘書のマルセル・ロベールです」
「彼が、ベアの……」
マルセルは息をはずませ、私たちの前に立った。
私に笑いかけて、それから秀一さんに見向いた。
「間に合ってよかったです」
二人の男は向き合い、互いの姿を見回す。
年齢の違いこそあれ、自分に顔立ちの似た人間を前にして複雑な心境だろう。二人の間には、ベアトリスという特別な女性が存在している。
マルセルは戸惑いながら挨拶を済ませると、私に耳打ちした。
「社長は上の展望階にいます」
「ホテルのですか」
「ええ。彼を案内するが、君はどうします。私と一緒に下で待つ?」
私は即座に返事する。
「もちろんです。下で待っています」
マルセルは微笑むと、秀一さんにホテルへ行きましょうと声をかけた。
二人はエレベーターに乗り込み、マルセルがドアを閉める前に言った。
「カオル、直ぐに下りてくるから」
秀一さんが私をじっと見つめている。
待っていてくれ――
眼差しが伝えてくる。私の心深くにその声は届いた。
待っています――
扉が閉じたエレベーターの前で、私はしばらくの間佇んでいた。
マルセルはすぐに下りてきた。
玄関ホールのロビーで、彼と向かい合って椅子に座り、感無量の気持ちを分かち合った。疲れてはいるが、私たちは充足している。
「君のことは、一生忘れない」
ため息交じりに彼が囁く。私は面映くなり、何も返せなかった。
「君はいいね」
「えっ?」
「実にいいよ」
マルセルの言い方が秀一さんにそっくりなのでどきっとする。彼は組んでいた足を解くと真顔になった。
「はじめはね、どうしてこんなベベちゃんにノエルが恋するのか、理解できなかった」
「は……はい?」
ベベちゃんというのは赤ん坊のことだ。彼には私が女性ではなく、赤ん坊に見えたのだろう。
「でもね、今は解るよ。君は不器用だけど、人に対してとても真面目なんだ。日本語ではリチギというのかな……うーん」
顎を撫でながら首をひねる。適当な言葉が見つからないようだ。
「そうだな。そう、とてもかわいい!」
「え……」
「かわいいんだ、君は」
思いも寄らぬことを言われた。私はいたたまれず、まっすぐな瞳から逃げるように横を向いた。
「ハハハ……」
マルセルは可笑しそうに笑う。やはりからかわれているのかと、へこみそうになった。
彼はだが、再び真顔になる。
「君のことを忘れない。本当だよ」
「マルセル……」
「ありがとう、カオル」
彼は私の手を取り、立ち上がる。
振り返ると、秀一さん、そしてベアトリス・エーメがエレベーターから降りるところだった。
ベアトリスはフロアに降り立つと、辺りを見回す。
半袖のカットソーにパンツという軽装に、眼鏡をかけている。地味な色合いを纏い、それでも彼女は輝いている。遠くからでもわかる、洗練された女性としての魅力に溢れている。
こんな時なのに、私は彼女の姿に見惚れた。
愛情豊かな素晴らしい女性。彼女に惹かれる理由は容姿ばかりではなかった。
ベアトリスは私を見つけると、「カ・オ・ル」と、大きな声で呼んだ。
ゆっくりと近づいてくる。私だけを見つめてまっすぐに。彼女の後ろから秀一さんが見守っている。優しく笑みを浮かべて。
「カオル!」
私の前に来ると彼女は眼鏡を外し、あらためて名前を呼んだ。声が少し震えている。私を映す青い瞳。目のふちに涙のあとがある。
「ベアトリス……」
彼女は私を抱きしめた。今の気持ちが全部伝わってくる。
「夢かと思ったの。ノエルが私に会いにくるなんて、どうしても信じられなくて。マルセルから話を聞いて、小娘みたいにうろたえたわ。お洒落なんてする暇もない。結局こんな格好になってしまった私に、ノエルったら何て言ったと思う?」
後ろに佇む秀一さんを、彼女は睨むようにした。
「身だしなみがなってないね……ですって」
私は自然に笑顔になった。昔から彼女を知っているような懐かしい気持ち。この人は確かに、秀一さんが愛したベアトリス・エーメだと感じている。
「マルセルがあなたに無理なお願いをしたそうね。彼に代わり、お詫びします」
「そんな、よして下さい!」
「いいえ。あなたには迷惑をかけてばかりだった」
ベアトリスは辛そうに眉を寄せた。
「ノエルに再会して、初めて分かったの。彼はいまやすっかり大人の男性。驚いたけれど、話してみるとやはり彼はノエルであり、私にとって愛しい存在であることに変わりない。だけど……」
彼女は息を吸い込む。
「ノエルにとって私は家族なのね。十五年かけてようやく納得できた。いいえ、本当は分かっていたけれど、ノエル……シューイチの口から聞くまで、分かりたくなかった」
傍に控えるマルセルの肩口が、微かに震えた気がした。
「ベアトリス……ベア」
彼女の手を握った。ほっそりとして頼りない指。こんなにも繊細な手をしていると、私は知らずにいた。
「カオル……ごめんなさい。私はあなたを苦しめた。ノエルを忘れられず、あなたに苦しみをぶつけてしまった」
ベアトリスが会いにきた日、私は確かに動揺し、苦しんだ。秀一さんと喧嘩もした。だけど、通るべき道だったと今は思う。そのおかげで、秀一さんの本当の姿を知ることができたのだから。
「ベア……違います。あなたは私にとって大切な人です」
「カオル」
彼女は済まなそうに、それでもしっかりと頷いてくれた。
「ありがとう、カオル」
「社長」
優しい声が聞こえた。彼女のことを今、誰よりも大切に想っている人の声だ。
「マルセル」
「そろそろ時間です。旅立ちの準備を」
「分かった……」
私の手のひらから、細い指がそっと離れた。
「そうね、もう行かなくては。明日も明後日も、忙しい毎日が続くのだから」
ベアトリスは眼鏡をかけて、背筋を伸ばした。そして、秀一さんに向かって声を張り上げる。
「シューイチ! 例の件、忘れないでよね」
「ああ、わかってる」
マルセルと私は顔を見合わせた。
「例の件?」
「何でしょうね」
ベアトリスはこちらを向いて、にやりとする。
「彼と契約したの。ようやくね」
「契約?」
「そう。画商と画家の間でとりあえず約束をしたの。正式な契約はミチヒコに連絡してから」
彼女は既に気持ちを切り替えていた。体じゅうに生気が漲っている。
「さすが、私の社長だ」
マルセルも私も理解した。秀一さんは完全に殻を破ったのだ。そしてベアトリスの要望に応えた。
秀一さんが、私の肩にぽんと手を置く。
「秀一さん」
「新境地への第一歩だ」
ベアトリスは彼の言葉を聞くと、満足そうに頷く。
「シューイチ。言っておくけど、私との仕事は厳しいわよ」
「知ってるよ」
姉と弟のような会話が交わされる。こんな秀一さんを見るのは初めてな気がする。
「昔とは比べ物にならないから」
「僕だって昔以上に頑固だし、絶対に妥協しない」
これには敏腕社長も呆れ顔だ。
だけど二人は互いに手を差し出すと、しっかりと握り合い、新たなる盟約を結んだ。
出発ロビーまで見送りたかったが、エトワール画廊の他の社員も合流するので、ホテルの出口でお別れすることにした。
「近々会うことになりそうですね」
マルセルが私に近づいてこっそりと囁く。
「うん、そうみたい」
秀一さんがエトワール画廊と契約を結ぶからだ。そして、私と秀一さんは――
「今、契約について少し聞いたのだけど」
「えっ?」
何ごとか話すベアトリスと秀一さんを横目で見やり、マルセルが教えた。
「ノエルに依頼する最初の仕事は、君に関係があるらしい」
「私に?」
「ああ、多分……」
「マルセル!」
社長に呼ばれて、彼は職務に戻ることになった。
「とにかく、また会えるのを楽しみにしてるよ」
「はい、私も」
「マルセル、スケジュールを確認して」
「Oui, j'ai compris! ああ、忙しい忙しい」
マルセルはウィンクをして、社長のもとへ戻った。
別れ際、私は彼らに手を振った。
ベアトリスもマルセルも、同じ笑顔でさよならの合図をくれる。
また会うためのさよならだ。
「良かったね、秀一さん」
「うん」
搭乗ゲートに向かう彼らの姿が見えなくなるまで見送った。
「本当に、良かった……」
秀一さんが私の肩を抱き寄せる。
彼の身体と心に私は寄り添い、思いを馳せた。
ベアトリス・エーメ。あなたはエトワール。
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