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先輩のバレンタイン

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 今日は、バレンタイン。先輩に呼び出されたら、いつでも駆けつける用意は出来ている。けれど先輩は、朝からずっと部屋に居るようだった。部屋の中が見られない事がもどかしい。いや、せめて声だけでも聞けたら、先輩の独り言で 理想のバレンタインくらいは知る事が出来たかもしれないのに。こっそり先輩の部屋に入って盗聴器やカメラを設置するにしても、先輩の家にはいつも先輩のお母さんが居るから恥ずかしいし、はじめて先輩の部屋に入る時は、先輩に「どうぞ入って」と招かれて入りたい という気持ちに負けて、なかなか実行出来ずにいる。
 ただ、先輩が「最近コンセントの数が足らなくて困ってるんだよね」と僕を頼ってくれた時 すぐに渡せるように、コンセントハブ型の盗聴器は、いつも鞄に入れていた。

 先輩から連絡が入った時 すぐ気付けるように、ずっと携帯を握りしめて先輩の部屋を見ていたら、不意に先輩の部屋の電気が消えた。他の部屋に用事ができたのか、もしかして 外に出かけるのだろうか? 僕の居る位置からは玄関の扉が見えなくて 耳をすましていると、がちゃり と扉が開く音と「いってきまーす」という先輩の声が聞こえた。
 慌てて先輩の後ろを追いかける。見つからないように気をつけてはいるが、先輩は普段 道を行く時に滅多に振り返る事がないから、今日もきっと振り返らないだろうと 自分が少し気を抜いている事も自覚している。前しか見ずに進む先輩の姿は、前向きでとても素敵だと思う。
 どこに行くんだろう。この道はバス停かな と思っていたら、先輩がちょうど止まっていたバスに駆け込んでいく。僕は、一緒に乗るか、でもつけていた事がバレるかもしれないし、とためらって 足が止まってしまい、そのうちにバスは走り出してしまった。
 残念な気持ちはありつつも、あの路線ならきっと目的地はデパートかな とあたりをつけて、時刻表を見る。幸い 今は本数の多い時間帯らしく、もう十分も待てば次のバスが到着する様だった。それなら、歩くよりもバスを待ったほうが早そうだ。
 ベンチに座って、携帯を両手で握りしめる。先輩は何も理由がないのにわざわざ誰かにチョコを買うような性格ではない、と思う。だからこそ、先輩が散歩か買い物に出かけた時に、タイミングを見計らい たまたま 先輩と出会って、先輩好みの味に作って綺麗にラッピングした チョコマドレーヌをプレゼントするつもりだったのだ。
 でも、デパート。ほぼ全く先輩が出向かないデパートに行って、先輩は何を買うつもりなんだろう。なんとなく欲しいものができて、それがたまたまデパートにあるから買いに行く、とかなら良い。でも、たまたまなんて 当てにも気休めにもならない事は、僕自身よく知っている。たまたまや偶然とは、巡り合うものじゃない。計画するものなのだ。
 もしもだ。もしも、部屋でごろごろと休日を満喫していた先輩に、誰かから「チョコが欲しい」と連絡が来て、先輩が買いに行ったのだとしたら? 先輩は、正直 行きそうではある。先輩はマイペースだが、自分が暇な時の誘いをわざわざ断れない優しさを持っているからだ。
 もし、そうなら。先輩がチョコを買う前に たまたま 出会って、また映画にでも誘おう。そうして、誰だか分からない相手との予定を 断ってもらおう。たぶん、先輩なら 僕を優先してくれるはず。たぶん、きっと……。確証は、ないけど。

 バスでデパートにたどり着き、地下にある菓子店が並んでいるエリアに向かう。
 どこの店のブースもバレンタイン限定商品を謳い、飾り付けは光を反射して、寝不足続きの頭の奥にチカチカと鋭く刺さるようだった。休日だからか、人が多くて邪魔だ。先輩は大丈夫だろうか。人混みに押されて、悲しい思いをしていないだろうか。僕が側にいれば、人の流れから先輩を守ってあげられるのに。頼ってくれたら、いいのに。
 重い思い好き勝手に歩き回る人が多くて、見回しても 先輩がどこにいるのかわからない。というか ここに居るかも定かじゃないけど、先輩がデパートに来たのだとしたら、他のどこよりバレンタインの色味が強いここに 一番来てほしくないから。僕以外の奴にチョコを先輩手ずから買うなんて、許せなくて。それをなんとか止めないとという思いだけで、視程一メートルの催事場を、洗濯機に混ぜ込まれたような気持ちで彷徨う。
 闇雲に探しても 見つからないかもしれない、 なんて不安は黙殺して。絶対、僕なら絶対 先輩を見落とさないから と信じて、先輩を探す。すると、一瞬 人の流れの隙間から、先輩の横顔が見えた気がした。ううん、先輩を見間違えるはずなんかない。あれは、間違いなく先輩だ。
 心が全部、吸い尽くされたみたいだ。催事場の放送も、人のざわめきもいっぺんに遠くなって、さっきまで胸の中でぐちゃぐちゃにへばり付いていた焦りも、不安も、全部 先輩の横顔に吸われて。今の僕は、まるで抜け殻だった。持っていかれた心に 惹かれるように歩き出す。こんなに大勢の人が居ても、もう僕には 先輩しか見えなくて。
 人をかき分けるように前へ進む。流れの間を横断するのは難しい。それでも、真っ直ぐ、先輩の方へ進んで。
「あ、美味しそう」
 耳に真っ直ぐ届いた先輩の声を呼び水にして、音が、ざわめきが、戻ってくる。まるで、止まっていた時間が動き出したようだった。
 先輩がショーケースを覗き込んでいる姿が見えて、いつのまにか詰まっていた息を、深く深く吐き出した。
 先輩が 美味しそうと言ったのは何なのか気になって、先輩に気付かれないように注意しつつ、少しだけ近づく。手に赤いラッピングの、ハート型の箱を持っている姿が見えた。その 先輩の顔が、プレゼントを選ぶときの 悩ましい顔ではなく、自分好みの 可愛いぬいぐるみを見るのと同じ 欲しいな という顔だったから、ちょっと安心してしまった。箱を棚に戻した先輩が 催事場を出て行くのを見て、慌てて売り場に寄り、先輩が見ていたハート型の箱を購入する。
 紙の手提げ袋を受け取って、先輩を追いかけて 僕も催事場を抜け出す。ここは地下だから、おそらく地上に向かっただろうと 一番最初に目についたエスカレーターに乗った。ただ、そこからどこに向かったのかが わからない。先輩は何をしに わざわざデパートまで来たんだろう。バレンタインフェアの催事場を見たかっただけなのか、それはついでの寄り道で、目的はデパートの八階にある オシャレな文房具屋という可能性もあるし。
 色んな可能性を鑑みて、まずはバス停に向かうことにする。おそらく、帰りもバスを使うだろうから、そこで待っていれば間違いないし、もし先輩がすぐに帰るつもりなら デパートの中を回っていては手遅れになってしまいかねないから。
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