The Anotherworld In The Game.

北丘 淳士

文字の大きさ
上 下
19 / 36

京香の闇

しおりを挟む
「真原さんは部活じゃないのですか?」
「あんたと涼を二人に出来るわけないでしょ!」
 うるさい二人と大上さんを含む三人のボディーガードに囲まれて、俺は帰宅していた。だが頭は五人を無視して、全く別の事を考えていた。あのゲーム機の事だ。
 なぜあのゲーム機を介して俺たちは繋がったのだろうか。
 なぜ『桜の木の下で』に栞しか名前がなかったのか、
 なぜ栞と香澄は現れて、一緒にゲーム機を買った京香は現れないのだろうか。
 なぜ……。
 沈思していると、二人の諍いはいつの間にか静まっていた。隣には栞とボディーガードの二人しかいない。ふと振り返ると、香澄は木の棒を杖にして、こちらを恨むように見ていた。もちろん背後には、おろおろしている大上さんがいる。
「涼君、帰りぐらいは、……ゆっくり!」
「いいから帰りましょ」
 そう吐き捨てて栞は俺の袖を引っ張って歩き出す。
 そのまま歩き出し、俺は香澄に「じゃあ、また」と手を振った。
「涼くーん!!」
 背後から香澄の声が響くが、俺は前を向いて歩き出した。栞は袖を摘まんだままだ。
「なぁ、栞」
「なぁに?」
 二人きり(ボディーガードが二人いるが)になった途端、今までの栞から聞いたことも無いような、甘ったるい声を返してきた。思わず鳥肌が立つ。
「あー、あの、明日休みだし、午後にでもゲーム機を売っていたところに行かないか?」
「あの商店街の?」
 栞が言下に聴いてきた。
「ああ」
 と返事した時、その栞の言葉に俺はピンときた。
「栞ー?」
「んー?」
「ソフト四つと、本体で一万円って安かったよなー」
「ホント、思ったよりも安かったけど、一カ月分のお小遣い半分が飛んじゃった」
「ほーん……」
 俺は半眼で栞を見る。
「な、なに?」
「昨日お前、勇二君が買ったって言ってなかった?」
 勇二君は栞の弟だ。
「えっ……? はっ!!」
 一瞬固まった表情が驚きのそれに変わる。
「ひょっとして一昨日、俺と京香の後をついてきたの?」
「いや……、ちがっ……!」
「……ストーカーですか?」
「ストーカーって言うな~~!!」
 栞は脱兎のごとく逃げ出した。

 橙が通り過ぎた空に少しずつ星の煌きが見え始めた頃、京香は涼の部屋の電気を確認して家路を歩いていた。
 長く、恨めしげに眺めてしまったことに気付き、さらに悄然と肩を落として帰る。しばらく歩いて家の自動ドアをくぐった。
 なぜ……、なぜ私はこんなにも前に進めなくなってしまったんだろう……あの女、真原や高倉でさえしっかりと前を見て進んでいるというのに。情けない……。
 鎬剣術館の道場兼住居の五階建てのビルに京香は入っていく。一、二階は道場で、上は住居になっている。エレベーターを閉じ、階数パネルの下方にある鍵穴に鍵を差込むと、居住区である三階へと上がれる。下の道場には、かれこれ四、五年も京香は足を踏み入れていなかった。今、彼女の鍛錬の場所は自宅の屋上だけである。

 中学に入るまでは父、仁刃と祖父の期待を一身に受けて、仁刃や有段者の門下生を相手に剣の道を愚直に歩んできたが、中学に入ってすぐ、自宅の道場で事件は起きた。
 その日は土曜日で、昼の道場教室が始まる前の道場清掃を京香は一人でこなしていた。あと三十分で開場の頃、道場の扉が開く。「まだ……」と京香が告げる間も無く、入ってきた門下生に襲われたのだった。
 不意打ちで襲われ、体格差もあり、竹刀も持っていないこともあったため、数発殴られ、口を布で塞がれた時点で京香は抵抗を止めた。その男は大人しくなった京香に馬乗りになり、生来の体臭に煙草と酒の臭いを含む不快な臭いを撒き散らしながら、未成熟な京香の肢体を弄った。
 だが、当日たまたま早く道場に顔を出した父、仁刃がその現場に出くわし、激昂した仁刃は壁に掛けてある木刀で、それこそ半殺しになるまでその男を打ち据え、警察に突き出したのである。その男は、不法侵入、暴行致傷、強姦未遂などで実刑を受け、現在服役している。無論、仁刃に対して過剰防衛などで咎められることはなかった。

 それ以来、重度の男性恐怖症に陥った京香に対して、両親も祖父も剣道を無理強いすることがなくなった。そして一年前に出会った涼に少しずつ心を開いていく京香を見て、家族は影ながら彼との交誼を応援しているのである。

 京香が家の廊下を歩いて自室に向かう途中、居間から仁刃の声が彼女を呼び止めた。
「京、話があるんだが、今、大丈夫か?」
 そう言って障子を開けた仁刃は京香の顔を見た途端、紡ごうとした言葉が肺へと逆流した。
「何でしょう……、お父様」
 かつての京香に戻ったかのような、暗澹が蔓延る顔貌を前に、一瞬言葉が出なくなった。だが京香に対して戸惑いを見せないように、灰髯を扱きながら仁刃は言う。
「体調が優れないようだな、土日にしっかり休んで鋭気を養うといい」
「ごめんなさい、気を使わせてしまい……」
 京香は小さく礼をして自室へと向った。

 凪野君と何かあったのだろうか。何とかしてやりたいのは山々だが、年頃の娘の気持ちは……。仕方ないが、沙耶子に相談してみるか。
 仁刃は絶えず自分の無力さを感じながらも、『京香を守ろう』と一致団結した今の家庭環境は嫌いではなかった。京香を取り巻く問題で家庭が纏まっているということを、家族は皆感じていた。だが最優先は京香の事で、やはり愛娘の行く末が気になる。仁刃はいつもより強く鬚を扱きながら、部屋へと向かう寂しげな京香の背中を見つめていた。
 
 涼様が彼女を召されたら、私の存在意義が……。
 宵闇の垂れ込める自室、ベッドに突っ伏した京香は、午後からずっと同じ呪文が脳裏を廻っていた。
 それどころか邪魔だと思われたら……。
 枕に顔を伏すなり、京香の眸から我慢していた涙がとめどなく溢れてきた。やがて枕を抱きしめ、赤ん坊のように丸くなり、堰を切ったように嗚咽を洩らし始める。ぶつけようの無い憤怒と焦燥、悲哀が涙と声になって八畳の暗い部屋に響いた。
 仁刃に促されて様子を見に京香の部屋の扉まで来た母、沙耶子も、部屋から漏れる京香の嗚咽に気付き、扉に縋りながら啼泣を堪える。声は堪えているものの、涙は止められなかった。
「京……」
 子の恋愛に親がしゃしゃり出ていくわけにはいかない。解ってはいる。解ってはいるが、自分の非力さに嘆くのは京香も、沙耶子も、そして仁刃も一緒だった。

「大丈夫。軽い……だから」
 気付くと涼に背負われ、竹林を裂く傾斜の緩い石段を下っていた。言葉は不明瞭で顔は京香から見えないが、確かに涼の声だった。背負われるのは気恥ずかしいが、日頃から見ている年齢にそぐわない涼の広い背中に、自分の不安や悲しみ、苛立ちなどをすべて受け止めてくれる、大洋のような包容力を感じている。
「……で……てばすぐに……るよ……」
 京香はその背中にそっと頬を寄せる。思ってたよりも柔かい。今まで涙を押し出していた懊悩の残滓が燻っているが、それらすべてを溶かして吸い込んでくれるような柔かさだった。だが、京香を宥めるように訥々と語りかけていた涼の声が、酷く陰惨が籠もる声に溶変していく。再生速度を遅くしたような、人間味の無い、全身が粟立つような響きに。
「……君の弱さが原因だね。だから……俺のことは諦めるんだ」
 驚愕した京香は、慌てて自身の身体をその背中から剥がした。途端に暗闇の海に落ち、重力に反して半身を起こす。彼の背中だと思って抱きしめていた枕はベッドの下まで飛ばされる。電気も点けていない八畳一間の自室だった。二つある出窓の遮光カーテンの隙間から、街の明かりが僅かに漏れている。
 夢……。
 しばらく呆然としていた京香は、涙の跡を厭うように擦り、部屋を見回した。涼の好みに合わせた料理雑誌や女性ファッション誌が、整然と本棚に並んでいる。その棚に置いている携帯ゲーム機には、先日少し触った対戦格闘のゲーム『ヴァンパイアキラー』を嵌めたままである。
 京香は半分無意識でベッドから立ち上がり、引き寄せられるように本棚へと向かった。何気なくスイッチを入れた画面からの緑色の光を正面から見た瞬間、彼女の意識は異世界へと溶け込んでいった。
しおりを挟む

処理中です...