ドクターダーリン【完結】

桃華れい

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第2部

フェーズ7.9-15

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 出かける前に掃除機をかけようと寝室に入った。バイトを始めてから、朝は今までほど家事に時間をかけられなくなった。そんなに急がなくてもいいが、ゆっくりもしていられない。できることだけをやって、あとは夕方か別の日にやる。
 ふとベッド脇のサイドテーブルに目を向けると、涼の携帯電話が置いてあることに気がついた。持っていくのを忘れたんだ。病院の中では専用のPHSを使ってるから、仕事に支障はないと思う。院内専用と思いきや外線も使えるらしい。なくても大丈夫そうだけど、どうしようかな。バイトまで時間があるから届けようか。横の置き時計に目をやる。出勤したのは三十分ほど前だ。この時間なら病棟で回診をしているだろう。朝一で手術の予定が入ってると困るけど、それでも回診はするはずだ。すぐに行けば間に合うかもしれない。
 マンションと病院が近いと、こういうときも便利だ。病院に着いてホールからエレベーターに乗り、四階の外科病棟へ急ぐ。ここのカフェでバイトを始めたおかげで涼の白衣姿はまた見られるようになったけれど、さすがに病棟にくることはもうないと思った。それなのに忘れ物だなんて。それも大事な携帯電話だ。
 エレベーターが四階に着いた。廊下には朝食の配膳車が止まっていて、学校の給食室のような匂いが漂っている。涼はこのフロアにいるだろうか。いなかったら医局に行ってみよう。でも医局でなんて声をかけたらいいのか。「神河の妻です。夫の忘れ物を届けにきました」? 「妻」も「夫」もまだ誰かに言ったことがないから違和感が凄まじい。噛みそう。
 あたりを見まわしていたら、廊下の中ほどにある病室から涼が出てきた。医局に行かずに済んだ。ほっとしながら近づいていくと、涼も私に気がついて寄ってきてくれた。
「もしかして携帯?」
「そう」
 廊下の端に寄り、バッグから涼の携帯電話を取り出して渡した。
「サンキュ」
「よかった、まだ回診中で」
「愛人からの着信なかった?」
 愛、人……? 固まっていると涼は笑った。
「冗談。今日も愛してるよ」
「こんなところで何言って……」
 さらに固まってしまった。すると、後ろのほうから声がかかった。
「神河せんせぇ~、四二〇の個室の患者さんなんですけどぉ……」
 媚びを含んだような女性の声だ。振り返ると、二十代前半と思われる看護師さんが涼を呼んでいた。明るい茶髪を高い位置でお団子にまとめている。小柄で華奢だが胸は大きい。近頃男性に人気のあざとかわいい女性アナウンサーに似ている。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
「うん。お仕事がんばってね」
 看護師さんに連れられていく涼の後ろ姿を眺めていたら、看護師さんが振り返って私を鋭い目つきで見た。ひょっとして、睨まれた?
 若手医師につきまとう部外者と思われたのかもしれない。だって私はきっと奥さんには見えない。相変わらず不つり合いだろうから。どうであれ、やはり涼はモテている。あの看護師さんは、涼にへんな虫がつかないように警戒しているのかもしれない。そしてきっと、そういう女性スタッフはたくさんいる。
 少し落ち込んでしまい、しゅんとしながら廊下を歩く私の前に、ナースステーションから医師が飛び出してきた。危うくぶつかりそうになって立ち止まり、その人と目が合った。澄先生だった。
「あれ、彩ちゃん? どうしたの?」
「忘れ物を届けに」
 落ち込んでいる原因は一旦わきに置いて、笑顔を作った。
「会えた?」
「はい」
 一緒に歩き出してエレベーターホールへ向かう。
「今日はバイト休み?」
「いえ、でもまだ時間があるので」
「そっか。でも、バイトなんてする必要ないのに。神河先生、稼いでるでしょ?」
「社会勉強したくて。卒業してすぐ結婚したので」
「えらいね。どう? 新婚生活は順調?」
「はい、おかげさまで」
「だろうな。神河先生、いつも仕事が終わるとすっ飛んで帰るからな。飯に誘ってもきやしない」
 澄先生が大げさに眉を寄せながら言った。怒っているわけではないみたいだ。むしろうれしそうに見える。とはいえ、私のせいであるような気がして恐縮してしまった。
「結婚祝いのフレグランス、ありがとうございました」
 エレベーター前についたものの澄先生がボタンを押さないので、その場で立ち話を続けた。
「いえいえ。こちらこそ、お菓子ありがとう」
 四月に結婚祝いを贈ってくれた澄先生と麗子さんには、後日お返しとして菓子折りを用意して涼から渡してもらった。
「いただいたお菓子もおいしかったけどさ、前に神河先生が食べてた、彩ちゃんの手作りのクッキーもうまかったよ。ひとつくれって言って、もらったんだ」
「そんな、私が作ったのなんて……」
 クッキーを作って涼に持たせたときのことだ。澄先生ほどのお医者様ならいつもおいしいものを食べてるだろうし、人から有名店や老舗のお菓子をもらう機会も多いだろう。私のつたない手作りお菓子なんて恐れ多い。
「神河先生がすっ飛んで帰るわけだよなあ」
 意味ありげな笑みを浮かべながら、独り言のように先生が言った。私は「え?」と聞き返した。
「だいぶ前、たぶん彩ちゃんともまだ出会ってない頃に、神河先生に訊いたことがあるんだ。『先生、結婚しないの? するならどんな相手?』って」
 興味深いけど、答えを知るのがちょっと怖い。涼はなんて答えたんだろう。澄先生の今の物言いだと、私とかけ離れているわけではないのかな。
「そしたら、『自分のことを考えてちゃんと料理を作ってくれる人。さらにときどきお菓子を手作りするような子なら最高』って。『先生、甘いもの苦手なくせに何言ってんの』って笑ってやったんだ。そんなわけだから、未成年だろうが自分の患者だろうが、もうまったく関係ないんだろうね」
 つまり私は、涼にとって理想の結婚相手ということ? そんなまさか。私は料理が得意なほうではないから、作れるものを作っただけだ。もっと手の込んだ料理を作ってくれる人なら、いくらでもいたでしょうに。お菓子作りにしてもそうだ。あまりにもできすぎた内容で、澄先生が私をからかうためにした作り話なのではと思うくらいだった。
 先生は腕時計を覗き、「長話をしすぎた」と慌ててエレベーター横の階段を下りていった。ところで私は、さっきはなんで落ち込んでたんだっけ。

 そんな話を聞いてしまったら、手の込んだ料理を作りたくなった。というより使命感だ。カレイの煮つけと春野菜の天ぷら、味噌汁などを作って和定食にした。
「なんか今日、気合い入ってないか?」
 案の定指摘された。うん、ちょっとがんばった。
「カレイとふきのとうが安かったから。両方食べたくなっちゃって」
 安かったのは本当だ。涼は「うまそう」と微笑んで食卓についた。
「涼の好きなタイプって、料理上手な人?」
 食べながら、澄先生から聞いた話を本人に確認してみる。
「別に?」
 予想に反する答えが返ってきた。おかしいな。澄先生の記憶違いだろうか。でも、本当に料理上手な人がタイプなら、私を選ぶはずはないのだ。今でこそいろいろ作れるようになってきたものの、一年前は煮物も揚げ物も作れなかった。料理上手とはほど遠かった。
「なんで?」
「今日、病院であのあと澄先生に会って、涼と前に結婚するならどんな相手がいいかって話したときのことを教えてくれたの。涼のことを考えてちゃんと料理作ってくれる人がいいの?」
 涼が箸の動きを止めて記憶をたどっている。
「それ、たぶん少し違うな。『料理を作ってくれる人』じゃなくて、『用意してくれる人』」
「違うの?」
「料理がうまいに越したことはないけど、別に簡単なものでも出来合いでもかまわないよ。俺が弱ってるときに、料理の腕をアピールするためだけに手の込んだ料理を作ってくれるのは、ちょっと違うなってこと」
「食欲がないときにビーフカツレツでも作ってくれた人がいた?」
「まあ、そんなとこ……いや、俺に料理作ってくれる人なんていなかったけどさ」
 どっちなのよ。また謎で無意味な「私が初めてだった」アピールか。
「栄養つけてもらいたかったんじゃないかな。揚げ物はちょっと重いかもしれないけど。でもビーフカツレツなんて、そこそこ料理できる人じゃないと作れないよ? 贅沢だよ。ちなみに私はまだ作れません」
 なんで私が昔の人のフォローをしてるんだろう。
「彩さん、例え話だから」
 私が初めて涼に作った、というより用意したのは冷凍うどんだった。それが逆によかったのか。寝不足で疲れが抜けてないときは胃腸も疲れてると思って、軽いものにしたのだ。
「とにかく、それで今日はこんなに豪華なのか」
 涼が笑う。的外れだったようで赤面した。
「別に彩は気合い入れなくてもいつもうまいよ」
 私はまた赤くなった。あからさまではない、会話の流れの中でのさりげない褒め方に弱い。
「お菓子もたまに作るね。甘さ控えめで」
 また涼の箸が止まった。少し考えたあと、引きつった顔で言った。
「そんなことも言ったっけ?」
 憶えていないようだった。
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