小悪魔令息は、色気だだ漏れ将軍閣下と仲良くなりたい。

古堂すいう

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1巻

1-2

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 母様は目を見開いて、感心したように頷いた。

「別に、彼に頼まれたから、貰うだけだ」
「……ふうん」
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか」
「ま、そういうことにしておいてあげましょう。今日のところは、いつもの話はしないでおいてあげる。その件とは別に聞きたいことがあったのよ」
「なに?」
「そろそろ夏の休暇が終わるでしょう? また学園の寮に戻ることになるけど、指南の先生が必要になる頃じゃない? あなたいつも一人で稽古しているけれど、それには限界があるでしょう?」
「……ああ」

 僕が曖昧に答えると、母様はがっかりしたように肩を落とした。

「あなたねえ、もしかして三か月後にある剣技大会のこと忘れていたの? ……冗談はやめて頂戴ね。剣技大会の成績は、あなたの将来にも多少は関わりがあるはずよ。特に今回は最後の大会なのだから……しっかりやり遂げないと駄目ではないの」

 それは、母様の言う通りだった。
 今度開催される剣技大会で良い結果を残せば、行事に真面目に参加したと見なされ評価が上がり、将来王宮や軍に務める際に提出する功績書にも記録してもらえる。
 ただ、僕はまだ王都で働くか、領地に残って働くかを決めていない。
 もし、王宮で文官や神官として勤めると決めたとしても、その場合は功績書よりも、勉学の成績が重んじられる。
 だから僕がどのような選択をしたとしても、剣技大会の成績は人生を左右するほど重要なものにはならないのだ。
 だが一方で、剣技大会の一試合目に参加せず棄権した場合は、行事に真面目に取り組まなかったとして悪い評価をされてしまう。面倒なことに、全く無関係というわけでもないのである。
 だから僕は、毎年一試合目は戦って、二試合目は棄権するようにしていた。
 僕の精神力は、情けないことに、一試合に耐えるだけで精一杯なのだ。ずっと、そうしてきた。
 今回も、きっとそうするのだろうな、と他人事ひとごとのように考えていたが、夏の休暇を経て少し考えが変わった。
 このままではいけない、と焦っている。
 だから指南役を雇うべきなのでは、という母様の提案は今の僕にとっては、とてもありがたいものだった。

「……エリス、聞いているの?」
「聞いているよ。大丈夫。今年は……ちゃんとやる。心配しないでほしい」
「ええ、そうして頂戴。毎年毎年、あなたは二試合目で棄権ばかりだと聞くわ。今年こそはしっかりやり遂げなさい。さもないと次の休暇の時には、あなたの大好きなお肉料理は料理長にお願いして少なくしてもらいます。お菓子は禁止よ」

 母様は厳しい人だ。とはいえ、母様以外にこの家で僕に厳しい人はいないから、仕方のないことなのだが。

「……言われなくても、今年で最後だから真面目にやるつもりだ」

 僕が学生でいられる時間はもう少ない。冬には学園を卒業し、来年の春頃には学園の寮を辞して、どこかで仕事をしている予定だ。未だに将来の選択をしていないから、どこで働いているのかは想像できないけれど。

「それで、指南していただく先生の当てはあるの? ないなら、あの人の知り合いを紹介してもらえばいいと思うけど」

 母様の言う『あの人』とは、父様のことである。

「そうだね……父様は知り合いが多いし。晩餐の時にでもお願いしようかな」
「ええ、そうしなさいな。私も良い人がいないか探してみますからね」

 母様は厳しい時はとことん厳しいが、基本的には優しい。勝手に婚約者を決めたり、縁談を進めたりという強引なことはしない。
 それに、僕に縁談をすすめるのは、僕の将来を心配してくれているからだと分かっている。分かってはいても、僕のシモンへの気持ちがしぶとすぎて、未だに母様の気持ちをむことができずにいるのだが。

「エリス様。シモン・エリュクロイ様よりの贈り物が届きましてございます」

 今度こそ待ちに待った知らせを届けたのは、侯爵家に長年つとめる執事長だった。母様が「あらぁ……本当に届いたわ」と唖然としている様子を横目にして、僕は喜々とした声を抑えることができなかった。

「ほんと! じゃあ、さっそくで悪いけど僕の部屋に運んでくれるか?」
「あ、その……それが」

 珍しく口ごもる執事長に、何か問題があるのか聞くと、彼は「驚くような量なのです」と静かに答えた。

「……驚くような量って、どれくらいだ?」
「メイド数人では運ぶことができません。ですので少々お待ちいただけると……」

 動揺しながら答える執事長に、何と答えたものか悩んで、とにかくまず今運び込まれているという菓子を見るために、僕は母様を伴って階下に降りた。

「まあ、まあ。すごいわねえ……!」

 母様の感嘆する声を聞きながら、僕は感嘆するより先に絶句してしまった。
 彩り豊かな箱が山のように積まれている。玄関ホールは見渡す限り、箱、箱、箱。箱だらけだ。
 可愛らしいリボンで装飾されたもの。シンプルに箱だけのもの。紙袋に入ったもの。様々だ。これ全部、シモンが貰った菓子ということか。
 ……嘘だろう。
 誰かがこんなにいっぱいシモンに菓子を贈ったということだろうか。それはそれでものすごく嫌だな。食べるけど。

「まあ、閣下は本当に親切だこと」

 母様は上機嫌に笑いながら、箱の中身を一つひとつ興味深そうに眺めている。僕も同様に、一つひとつの菓子を確認していった。

「……?」

 不思議なことに、運び込まれた菓子の多くは、僕が好んで食べる菓子ばかりだった。
 偶然だろうか。いや、偶然だろう。まさかシモンが僕の菓子の好みを熟知していて、わざわざ贈ってくれたわけではあるまい。
 僕はそうそうに無意味な思考を切り上げると、目の前の大量の菓子をどうするべきかを考える。

「……カトレアに手伝ってもらわないと無理だな」
「エリス様。御者の方がお手紙を預かってらっしゃいました」
「……ん?」

 執事長から受け取った手紙から、ほのかに甘い……シモンから時折香る匂いがした。
 移り香にしては濃い匂いだ。紙に香水でも吹きかけたのだろうか。
 だが、手紙に香水を吹きかけて届けさせるのは、相手が恋人や妻、あるいは慕う相手に送る場合がほとんどだ。
 吹きかける香水によってその意味は異なり、受け取った側はこの香りにどんな思いが込められているのかを想像するのが鉄板である。
 この手紙から香るのは、上品で落ち着いた香り。奥深い森の清々しさの中に、花の蜜のような甘さが混じっている。包容力を感じるのにどことなく蠱惑的こわくてきな……

「エリス様? どうかなさいましたか」
「え、い……いやなんでもない」

 いや、手紙を書いている途中に自分の身にまとわせた香りが少し移ってしまうのはよくあることだ。あるいは手紙をポケットの中にしばらく入れていただけかもしれない。

「どうぞ、こちらでお切りになってください」

 手渡されたペーパーナイフで手紙の封を切って開ける。甘い香りが一層濃く空間を彩る。
 ――食べきれないようだったら、あなたの友人に配るといい。迷惑をかけてすまないね。

「閣下は何て仰っているの?」
「食べきれないなら他の人に贈ってもいいって」
「……よく気遣いのできる方だこと。そう仰ってくださっているのだったら、どなたかに差し上げたらよいのではなくて?」
「そうだな」

 一人で食べきるには半年くらいはかかる量だ。ここはお言葉に甘えて友人に配ろう。ちょうどあと少ししたら学園が始まるから馬車に積んで、寮へ持っていくのもいいかもしれない。

「ああ、そうか。どうせ食べてもらうんだったら……」

 そこまで考えて、良い事を思いついた。

「何か良い案を思いついたの……?」

 母様の問いに頷きながら、僕は箱の数を確認している執事長に声をかける。

「ねえ、屋敷の中に運んでもらってすぐで悪いんだけど。今すぐこの贈り物の三分の二を孤児院に運んでくれないか」
「かしこまりました。いつものように裏手のほうに馬車を止めればよろしいでしょうか」
「うん。あ、運ばせる御者に言伝ことづてをお願いできるかい」
「はい」
「冬になったら、また会いに行くから、と。子供たちに伝えてほしい」

 その時には、新しい毛布と冬用の服を、持っていかなければ。
 言伝ことづてを伝え終えて、菓子を速やかに馬車へ積むよう指示を出していると、横合いから母様が心配そうに声をかけてきた。

「……ねえ、エリス。そう頻繁に孤児院へ贈り物をするのは……」
「分かっているよ。あまり高価なものを贈り続けていたら、孤児院が危険に晒されるって言いたいんでしょ」

 父伝いに聞いた随分昔の話だ。その頃にはまだ地方の孤児院には、小さな子供とか弱い女性しかいなかった。それ故、貴族が孤児院に高価なものを寄付し続けていると、それらを狙った盗賊に襲われる事件が時折起こっていた。
 南の領地に慈善活動をよく行う信心深い子爵夫人がいた。彼女は「罪なき子供たちが、神の救いを得られるように」と願いを込めて、環境の劣悪な孤児院を神殿として立て直し、その一画に新たな孤児院を併設させた。それ自体は特に珍しいことではない。
 ただその神殿は、外装、内装共に美しく仕上げられ、調度品にもこだわった……正直に言えば、無駄に豪華で有名な建物となり、その建物を含む周囲は常に人の賑わう観光地と化してしまった。
 人が集まるということは、つまり悪人も大勢の人間の中に紛れやすくなるということである。誰もが気づかぬ間に神殿の周囲の治安は少しずつ悪化していき、案の定、神殿は盗賊たちの襲撃に遭ってしまった。
 外装に使われた金の装飾や、高価な調度品は全て盗み出され、併設された孤児院で暮らしていた孤児と世話する女性たちも怪我を負い……子爵夫人は病に伏していたため建て直す資金を出せず、結局その神殿と孤児院は破綻してしまった。
 行き過ぎた慈悲の心は災いを招き、神の救いをも遠ざける。一時期、貴族たちの間ではそのようなことがささやかれていた。
 それは僕も理解している。理解した上で、何の対策もしていないと思われているのは心外だった。それに、慈悲の心は災いを招くからと言って何もしないのは全くもって無意味なことで、怠惰極まりないことではなかろうか。

「運ばせる馬車は、普段から孤児院に出入りしている行商のものを借りているから、問題はない」

 それに、その事件があって以来。孤児院には必ず数人、軍部の人間を駐在させることが義務となった。それはたぶん、その事件のすぐ後に将軍となったシモンが国王に進言したからだが、それは想像の範疇はんちゅうを出ない。
 どちらにしろ、今の孤児院は警備が万全だ。少なくともシモンが将軍として軍を統括している間は、孤児院を守る者たちが怠慢になることはないだろう。

「昔は直情的なところも多かったのに……随分と思慮深くなったものね」
「直情的……そうだったかな」
「エリス。どうか勘違いしないで頂戴。あなたの優しい心を否定したかったわけじゃないの」
「……分かっているよ、母様。……じゃあ、執事長、ほら早くお願いね」

 指示を聞き終えた執事長は深く頭を下げて、その場を去った。積み上げられた菓子の山。子供たちが喜んでくれることを願っておこう。
 それにしても……

「……優しい心か」

 母様の言った言葉。僕は唐突に、その言葉に苦しめられた時期があったことを思い出した。
 優しいことは素晴らしいことだ。なんて言葉が戯言ざれごとに聞こえるほど劣等感を抱いていたのだ。
 幼い頃の僕は「優しさなんて、そんなものはくそくらえ」と考えていた。随分とひねくれた子供だと思うだろう。だけど、それにはちゃんとした理由があった。

「ごめんなさい。あなた、そう言われるのが嫌いだったわね」
「……昔の話だよ。今は別に嫌いだとは思わない。少し昔を思い出すだけさ」

 それは、僕の手がまだ母様のカメオをやっと握れるようになったくらいの頃の話だ。


『エリス様は、本当にお母様とよく似てお美しくていらっしゃいますね。将来が楽しみですわ』
『なんて、なんてお綺麗なんでしょうか。まさにこの世の珠玉。あなた様の姿を描けるなんて、私は幸せ者でございます』

 溺れるような賛辞を聞いて育った僕は、当時褒められることが当たり前だった。
 劣等感とは縁遠いではないかと言われてしまえばそれまでだが、ある日僕ははたと気づいたのである。
 容姿以外で他人に褒められたことはあっただろうか、と。
 それに気づいたのは僕より三つ年上の姉様――ローリエがいたからだ。
 姉様は、僕と同じような容姿をしていた。亜麻色あまいろの髪から、青色の瞳まで全てが同じ。強いて言えば、姉様のほうが父様に似ている。似ていると言っても、鼻の形と、輪郭が少し似ている程度だが。
 姉様は幼い頃からなんでもよくできる人だった。
 勉学も、馬術も、弓術、剣技、音楽、礼儀作法、すべて。そしてなにより領地を正しく治め、導く資質があった。
 この国は、男と女関係なく、生まれた順番の早い者が領地を継承する。
 指導者としての才があるのは、天命と言っても過言ではない。誰もがそう褒めたたえるほど、彼女は全てが完璧だった。
 それでもおごることはなく努力することも忘れず性根はまっすぐで、なにより弟である僕を大切にしてくれる、自慢の姉だった。
 だけども、そんな完璧な姉が横にいると、嫌でも自らに向けられる賛辞と比較する。容姿ばかり褒められる僕と、容姿以外のことでも絶賛される姉。
 幼い子供が卑屈にならないわけがなかった。

『あーあ、僕って綺麗なだけでさー。他はなんにも取り柄がないんだなあ』

 なんて、他人が聞いたらぶん殴りたくなるであろうことを、大声で呟いては不満を垂れ流していた。
 それほど過去の僕にとっての『綺麗』と『美しい』は身近で、不愉快なものだった。
 そんな不満をたらたらと垂れ流し我儘わがままばかりだった僕に、父様は穏やかに言った。

『お前は、優しいじゃないか』

 だけど、幼いながら理解していた。その『優しさ』というのは、領地を治めるのには向かない。
 それに優しいなんて、誰だってそうじゃないか、と。
 そんなのは嫌だった。姉様と同じような唯一無二の才が欲しい。
 欲しいものは何でも手に入れてきた僕にとって、それだけは喉から手が出るほど欲しているのに手に入らないものだった。
 だが、不平満々に頬をふくらませる僕に父様はなおもさとし続けた。

『お前はとても優しい。その優しさは、侯爵家当主の立場にあっては保つことのできないものなのだよ。己の運命を幸運に思いなさい。後継ぎとなれば伸ばすことのできなかったその資質を育てなさい。しぶとく優しくあり続けなさい。……優しさとは、唯一無二ではない。けれども、人を救う優しさは、唯一無二の才以上に尊いものなのだ。誰もが伸ばすことを許される資質ではないのだ。そのことをよく覚えておきなさい』

 誰かに優しいと言われるたびに、父様の言葉が頭をよぎる。
 だが、僕がこの言葉の本当の意味に気がついたのは、シモンと出会ってからだった。
 彼は優しい。だが、優しいだけではない。シモンは時に厳しく、時に冷酷な表情を浮かべる時がある。将軍という地位にあっては、優しさだけで大勢の人間を導くことは難しい。当然のことだろう。優しいだけの将軍など戦場に出れば一瞬で淘汰とうたされる。

『誰もが伸ばすことを許される資質ではない』

 戦場から帰還したばかりのシモンの険しい表情を見た時、僕の脳裏に響いたのが、その言葉だった。優しいことを許される立場は、とても尊いものなのだと実感した瞬間だった。


「今、僕は優しいと言われても『くそくらえ』とは思わないよ」
「まあ、くそくらえだなんて、口が悪いわ」
「でも昔そう思っていたのは本当だよ……ほら、母様。早く部屋を出て。僕は荷馬車の見送りに行くから」

 信頼できる執事長に荷物の積み込みをお願いしているとはいえ、外から見て貴族からの贈り物だと分からないようにされているかの最終的な確認は、僕が毎度責任を持って行うと決めている。

「ええ、ええ、分かったわ。邪魔をして悪かったわね」

 優雅に去っていく母様に、僕はホッと胸を撫でおろす。
 これ以上、ここに留まっていたら、母様はきっとまた僕に縁談を勧め始めていただろう。今は隣国に遊学に行ってしまった姉様も、きっと同じことを言われ続ける毎日にうんざりしていたに違いない。
 ここ最近、母様は本当にそればかりなのだ。
 毎度、のらりくらりとかわしているけれど。切れ者である母様が、ずっとこのまま誤魔化されてくれるのか。
 わずかな不安が僕の胸の片隅にわだかまっていた。



   第二章 決意と準備


 夏の休暇が終わりに近づいてきた。
 学園の寮へ移動する数日前。僕は馬車で王宮へ向かっていた。寮にいる間に個人的に剣の稽古をしてくれる父様の知り合いを訪ねるためだ。
 すでに相手からは引き受ける旨の手紙をもらっているのだが、一度は顔を合わせておいたほうがいい、というのが父様の言だった。確かに、相性というものは大切である。

「……今日は随分と暑いな」

 夏も終わりとはいえ、日中は未だに高い位置から太陽が地上を照らしている。清々しく広い青空を見る限り、今日は遮る雲がないから、より暑く感じるのだろう。

「左様でございますね。体調のほうは、どこかお悪いところはございませんか?」

 王宮までの移動中。暑さしのぎのために扇をふって涼んでいると、馬車の対面の席に座るメイド――リディアが問いかけてきた。

「いや、大丈夫だよ。……それより、リディア。今日の君の出で立ちはとても素敵だね。目が覚めるようだよ」

 若草色のエレガントなドレスだ。派手すぎず、だからといって地味すぎず。侯爵家のメイドに相応ふさわしい外出の装いである。

「ありがとうございます。田舎の母が送ってくれたものでして、お褒めいただき光栄です」

 微笑むリディアは、時に深窓の令嬢と間違われる美貌の持ち主で、言葉や行動も品がよく、性格に難はない。母様は屋敷につかえるメイド達の中で特にこのリディアを気に入っていた。彼女の淡い金髪と緑の瞳が、馬車の小窓から差し込む光を含んで輝く様を眺めながら、ふと思い立ったことが口からこぼれる。

「今度、僕の服も作ってくれないだろうか」
「そんな恐れ多い……」
「恐れ多い、か。そうか、気を遣わせて心労をかけるかもしれないね。すまない、余計なことを言った」
「いいえ、そのようなことは……。母もエリス様が褒めていらしたと報告したら喜ぶことでしょう」
「すごく褒めていたと、伝えておいてほしい」
「はい!」

 リディアが元気よく返事をして笑顔になるのを見届け、小窓の外を眺める。
 王都に建つ建物はどれも背が高い。そして王宮が近づくごとに、煉瓦れんがを積み上げた高い塀が増えてくる。
 王都郊外の侯爵邸から王宮までの距離は少し遠く、見える風景は随分と違った。
 父は侯爵という立場にあるのだから、王宮近くに邸宅を構えても顰蹙ひんしゅくを買わないはずなのだが、自然を愛する彼は、王都郊外の森を背にした小高い丘のある場所に邸宅を建てた。
 だから王都郊外の侯爵邸の周囲は基本的には緑地が多い。
 一方、王宮周囲はというと緑地は少ないが、数々の露店が日夜問わず営業している。
 乳白色の外壁に、翡翠ひすい色の三角屋根が眩しい王宮と、その周囲の彩り豊かな建物が広がる街並みは、何度も王宮へ通う僕でさえも、毎回息を呑むほど目映まばゆいものだ。

「エリス様。王宮が見えて参りました」

 リディアの言う通り、王宮全体がやっと見えてくる。
 王宮の門の前で馬車を下りた僕たちは、顔見知りである門番に、侯爵家の紋章が入った通行証を見せる。確認が終わると、僕たちは王宮内へ入った。
 今日訪ねる父様の知り合いは、王宮に併設されている軍の鍛練場の、さらに奥にある武器庫の管理室にいるらしい。
 ただでさえ王宮から軍の鍛練場は離れた場所にあるのに、さらにその奥へ行かなければならない。普段であれば『シモンを見たい』という理由があるから大変だとは思わないが、今日は違う。
 陽光の強い中、石畳の上を代わり映えのしない景色を見ながらひたすら歩き、辿たどり着いた先にいるのはシモンではなく、指南役。
 大変失礼だとは思うがやはり士気は下がるというものである。

「……こんな遠かったかな」
「エリス様、少しお休みになられますか?」
「いい。こんなところで休んでいたら、通りがかりの軍の人間に冷やかされるかもしれない。……それにリディアは美人だからな。言い寄って来る奴らを僕一人でどうにかできる自信がない。今は剣もないしな」

 王宮へ入る際、軍に所属する人間以外は、武器の一切を持ち込むことはできない。

「エリス様……」
「頼りなくて、すまないな」
「いいえ、そんな」

 恐縮するリディアに、さっきの発言は余計だったと思い知る。いつもはシモン以外にこんな失敗はしないのだが。この日差しの暑さに想像以上に参っているのかもしれない。
 と、そこへ追い打ちをかけるように、前方から複数の軍人らしき人物が歩いてくるのが目に入った。
 あの恰好……あまり位は高くない。
 彼らはゲラゲラと笑いながら歩いていたが、リディアと僕に目を止めると、目の色を変えた。

「ちっ……」

 思わず舌打ちをこぼす。
 位の低い軍人は、市井しせいから王宮へ入った者が多く、その中には礼儀をわきまえない者もいると聞く。彼らは腕に覚えがあるゆえに、物怖じせずに絡んでくる。その可能性があることを失念していた。
 今こちらへ歩いてくる者たちは間違いなくその部類に入る。視線を動かして、近くに見張りの者はいないかと探すが、見当たらない。
 なんでこんな時に限っていないんだよ!
 そうこうしている間にも、彼らは早足で僕らのもとへ歩いてきて、開口一番に「そこの、美人なお姉さんたち」と軟派な台詞せりふを吐いた。
 ……いや、待て。今何て言った? 美人なお姉さんだと?
 お前らの顔についているその二つの目は、インクで書いただけのまがいものか何かか?

「ちょっと、僕にはあんたたちと同じものがついてるんだけど?」

 男たちはぽかんと口を開けたあと、またゲラゲラと笑った。何が可笑おかしいというのだ。懇切丁寧に同じ性別だと教えてやったというのに。

「それはすみませんでした。いやあ、美人な方ですねえ」
「それはどうもありがとう。そんなことより、そこをどいて。用があるから」
「いや、ちょっと待ってほしい。俺は女しか興味はないが、後ろの二人はあんたが好みだと言っている」

 口調はそこそこに丁寧だが、その態度には嫌な自信が見え隠れする。
 直感的に、こいつは嫌な奴だと悟ってしまった。一人では何もできないが、背後に仲間がいるせいで態度がでかく、自分より力の弱い人間に対してしか横暴に振る舞うことのできない、肝の小さい男だろう。
 この時期であれば、すでに軍人になりたいと志願してきた市井しせいの者の教育は済んでいるはずだ。それなのに一体どうしてこの者らは、身分の分からない者にこんなに横暴な態度を取れるのか。もし相手が僕ではなく身分に異様なこだわりを見せる一部の貴族であれば、間違いなくただでは済まない。
 本能ではなく理性で動くことを学習したほうがいい。
 そう忠告しようとした時、一歩前に出ていた男が我慢できなくなったように、リディアに手を伸ばした。
 僕の力では、この男の握力には絶対に勝てない。
 とっさに判断して取り出したのは扇。暑さをしのぐためのそれでは武器にはならないが、男の手を強く払うだけならば事足りると考えた。

「……痛っ~~」
「お前達はこの国の民だろう? 言葉は通じているはずだ。そこを通せと言っている」
「て、てめえ……! ちょっと顔が良いからって調子に乗るんじゃねえぞ。小間使いの分際で、俺たちに盾突くんじゃねえ」

 顔を真っ赤にした男の言葉にハッとする。
 僕は、今日はいつもより質素な格好をしていた。ゆえに身分を低く見られても仕方がないのかもしれない。でもよく見れば上等な生地で作られているとわかるだろう。
 それに小間使いのくせにとは何事か。こいつらは小間使いに対してなら何をしてもいいと思っているのか。

「……っ! エリス様」

 リディアの声でハッとすると、いつの間にか大きな手が僕の目の前に迫っていた。
 嘘だろお前たち、そんなことしたら、せっかく手に入れた軍人という身分を剥奪はくだつされるぞ!
 目の前に伸びる手があるのに、そんな呑気なことを考えていた――刹那せつなのことである。

「エリス!」

 聞き間違いようのない恋しい声に、針に触れて弾かれたように、扇を掴んだ僕の手が動いた。
 伸びてきた手を扇で打ち据えて、払う動作と共にそれを男の腹へ打ち込む。体術に自信はないものの、それなりの護身術は身につけているのだ。
 それが功を奏した。
 しかし相手は曲がりなりにも軍人だ。僕の力など大したことなかったのだろう。あまり効いているようには見えない。
 だが、彼が来たのだから、僕がこいつらの相手をする必要はもうなくなった。

「エリス、怪我はないか」

 思った通り、駆け寄ってきたのは――シモンだった。
「うわああああん、怖かったよお!」と嘘泣きでもして、そのたくましい胸板の上に倒れてしまいたい。なんて心の声とは裏腹に、またしても僕の表情筋は緊張と共に死に絶えた。

「大丈夫。そんなことより軍の教育はどうなっているんだ。――シモン」

 僕の言葉を聞いた途端に、先までニヤニヤしていた男たちが真っ青になる。シモンの名を出せば、この国で「知らぬ」と答える者はまずいない。まして軍に所属している者ならなおさら。彼らのそんな表情を見て、僕の溜飲りゅういんが少し下がった。

「……すぐに処罰しよう。お前たち、立て」

 彼の声音で、怒りで熱くなっていた身体から一気に熱が抜ける。
 シモンは、怒っていた。いつもは甘く笑んで、色気がこぼれているのに、今は眉間に厳しくしわを寄せている。低い声がより一層低くなり、覇気がにじんでいた。鍛練時のような険しい表情に、心臓が変な音をたてる。高鳴りなんて可愛らしいものではない。
 僕は今、シモンの怒る姿に緊張を覚えていた。

「……大したことはされてない。僕の溜飲りゅういんは、お前が今怒っているから、もう下がった」

 シモンのあまりの怒りように、青ざめるを通り過ぎて緑色になりそうな彼らを憐れに思いそう伝えたが、シモンの表情から怒りが抜けることはなかった。

「あなたが許しても、処罰はする」
「教育期間を過ぎてまだ間もない。処罰の軽減があってもいいはずだ」

 口にした途端、しまった、と思う。軍の掟については、僕が口を出していいことではなかった。出しゃばり過ぎるのはよろしくない。

「教育期間を終えたばかりだからこそ、理性の働かない者に慈悲をかけることはできない。そのようなことをすれば、軍全体の士気が下がる」

 それが軍の掟。と言われてしまえばそれまでだった……だが。

「じゃあ、これだけは言っておく。……僕が最初に侯爵の息子だと名乗ればこんなことにはならなかった」

 別に、貴族はまず爵位と名を言わなければならないなんて掟はないが。僕がそう言えば、彼らの態度も少しは違ったかもしれない。

「……善処しよう」

 そう言い残して、シモンは男たちを連れてどこかへ去ってしまった。冷たい表情は変えないままで。

「エリス様」
「リディア! 怪我してないか。大丈夫か?」
「ええ、はい。エリス様が守ってくださいましたから」
「そうか、よかった。すまない、僕が啖呵たんかを切って全員蹴散らすくらいできたらよかったんだが」

 残念ながら、僕は筋骨隆々の、見た目だけで他を圧倒できる容姿をしていない。

「そんなこと仰らないでくださいませ。それよりエリス様は、どこかお怪我は?」
「いや、特には――」

 ない。と言おうとして、手首の裏にピリピリとした痛みを感じた。おそらく扇で払う動作をした時、手を伸ばした男の爪で切れたのだろう。だが、これくらいなら、大した怪我ではない。それこそ唾をつけときゃ治る程度のものである。


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旧題:恋愛感情抹消魔法で元夫への恋を消去する ☆11/28完結しました。 ☆第11回BL小説大賞奨励賞受賞しました。ありがとうございます! 冷酷大元帥×元娼夫の忘れられた夫 ——「また俺を好きになるって言ったのに、嘘つき」 元娼夫で現魔術師であるエディことサラは五年ぶりに祖国・ファルンに帰国した。しかし暫しの帰郷を味わう間も無く、直後、ファルン王国軍の大元帥であるロイ・オークランスの使者が元帥命令を掲げてサラの元へやってくる。 ロイ・オークランスの名を知らぬ者は世界でもそうそういない。魔族の血を引くロイは人間から畏怖を大いに集めながらも、大将として国防戦争に打ち勝ち、たった二十九歳で大元帥として全軍のトップに立っている。 その元帥命令の内容というのは、五年前に最愛の妻を亡くしたロイを、魔族への本能的な恐怖を感じないサラが慰めろというものだった。 ロイは妻であるリネ・オークランスを亡くし、悲しみに苛まれている。あまりの辛さで『奥様』に関する記憶すら忘却してしまったらしい。半ば強引にロイの元へ連れていかれるサラは、彼に己を『サラ』と名乗る。だが、 ——「失せろ。お前のような娼夫など必要としていない」 噂通り冷酷なロイの口からは罵詈雑言が放たれた。ロイは穢らわしい娼夫を睨みつけ去ってしまう。使者らは最愛の妻を亡くしたロイを憐れむばかりで、まるでサラの様子を気にしていない。 誰も、サラこそが五年前に亡くなった『奥様』であり、最愛のその人であるとは気付いていないようだった。 しかし、最大の問題は元夫に存在を忘れられていることではない。 サラが未だにロイを愛しているという事実だ。 仕方なく、『恋愛感情抹消魔法』を己にかけることにするサラだが——…… ☆お読みくださりありがとうございます。良ければ感想などいただけるとパワーになります!

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