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不穏

傷つけられた自尊心

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「……っはあ!……はあっ!」

ミレーユはこれ以上ないほど走った。履いていた靴はすでにどちらか片方落としてしまった。仕方がない。ミレーユが履いていた靴は、走るのに耐えられるほど頑丈なものではないのだから。

(……痛い)

足の裏が今までにないくらい痛かった。路地は迷路のようになっていて、走っても、走っても人の多い場所に出ることが出来ない。だからと言って、背後や上、下を見て自分の立ち位置を理解しようと思う余裕もない。だから、後ろからすでに追いかけてくる人間がいないことに、ミレーユは気づかなかった。

「早く……お願い、誰か!」

切なる思いを抱えながら、ミレーユはこれ以上ないほど走り、ようやく人の多い通りへ出た。

幸運にもそこはタァナと別れてしまった大通りだった。肩や胸を上下させながら、ミレーユは色彩の洪水が起こるその場に立ち尽くす。

人の多いところに出て、ミレーユにはようやく先ほどのことを考える余裕が戻った。けれど余裕が戻ったとして、それはただ考える時間が増えてしまったということでもあって……。

ミレーユの海色の瞳から透き通る涙が白い頬を伝った。

(……なによ、なによ、なによ!皆して私をものみたいに!)

地団駄を踏みながら、ミレーユはボロボロと涙を流し続けた。

幼い頃から「国一番の美人」「美しき公爵令嬢」「精霊姫」「社交界の薔薇」それはもう様々な呼び名で呼ばれてきた。周囲のミレーユに対する反応や行動は、殊更彼女の美しさを褒めたたえ、その美しさに見合う贈り物を贈り、傅くことだけだった。そこには贔屓や下心、賞賛、献身……様々な心情、感情があっただろうが、彼女を利用されるだけの愚か者だと嘲るかのような態度の者は、誰もいなかった。少なくとも表向きは。

ミレーユはいつだって「選ぶ者」で、「利用する」側の人間だった。何故なら賢臣と名高いモデューセ公爵の1人娘だったから。

だから今回のことは、屈辱だった。アランに裏切られた時、ミレーユは生まれて初めて自尊心を傷つけられた。その傷だってまだ癒えていないのに、復讐に協力してくれると言ったエドモンドでさえも、ミレーユの傷を抉るような真似をする。

「……っ……う……‥」

嗚咽も零しながら、ミレーユはその場に頽れた。

「お嬢様!!」

駆け寄って来る人──タァナの声。顔をあげる元気も出なくて、傍により抱きしめてくるタァナにしがみつくことしか出来なかった。

結局その日、ミレーユは商会の建物へは戻らなかった。……いや、戻れなかったのである。
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