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第36話 我が良き友よ

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 久世が警察署の玄関ロビーの隅での電話を終えたので、俺達は警察署を後にした。外の景色は、既に夕闇に包まれていた。

 現在時刻が知りたかったのだが、左腕にはギプスを巻いているし、いつも身に着けていた腕時計は、昨日の喧嘩でぶっ壊してしまった。仕方なくズボンの左ポケットから右手でスマホを取り出し、画面の時計表示を見る。もう少しすれば、午後五時になろうかというぐらいの時間帯だった。

「随分と時間がかかっちゃったねぇ。ところで、晩御飯は何が食べたい?」

 少し疲れた表情を見せた久世が、軽く背伸びなどをしながら俺に聞いてきた。

「何か適当に弁当でも買って帰るさ。それよりもお前、昨日から色々と疲れているだろ? 今日はもう帰って、一度ゆっくり休めよ」

「またそんな、適当なこと言うんだから……普段だったら別にそれでいいのかも知れないけれど、キミ、今は怪我人なんだからね? それに、気にしてくれるのは嬉しいけれども、私、そんなに疲れてはいないよ?」

「……」

「でも、そうだねぇ……口の中、やっぱりまだ痛む?」

 こちらの目を覗き込むようにして言った久世へ、俺は曖昧に答えた。

「んー、随分とマシにはなったが、まだ少しだけ」

「そっか。じゃあ、今夜の晩御飯はうどんにしましょう」

 それから俺達はスーパーマーケットによって多少の食材を調達し、俺のアパートへと戻った。

 狭いワンルームマンションの狭い台所で、久世が限られた調理器具を使いながら、今夜の晩御飯を作ってくれている。俺はその光景をベッドに腰掛けながらぼんやりと眺めていたが、その時俺のスマホの着信音が鳴った。伊東からだ。

「もしもし?」

『よう。今日の必須科目の講義、お前も久世も欠席してたけれど、二人で一体何してたんだよ?』

 スピーカーから聞こえてくる声の調子からも、好奇とひやかしの色が感じられる。

「あのなぁ……別にお前が思っているような、ネタになるようなことじゃねーよ。ただちょっと、今日は病院と警察に行ってた」

『病院と警察、って……昨日大学の中で暴行事件があったとかって噂が広まっていたみたいだけれども、ひょっとして?』

「ああ。久世がおかしな奴らに絡まれていたから、適当にぶちのめしてやった」

 俺がそう言うと、一瞬の沈黙の後、伊東の大きな馬鹿笑いが聞こえてきた。

『ぶわははははっ! まあお前だったら、いつかそれぐらいのことはやっても不思議じゃないかなって気がしていたけれども。でも、お前が病院送りになるなんて、怪我の方とかは大丈夫なのか?』

「左腕の骨にちっちゃなひびが入った以外は、打ち身と擦り傷、あとちょっと口の中を切ったぐらいで済んだよ」

『そっかー。でも、講義を休むぐらいに酷い状態だったりするの?』

「いや。左手が使いづらいこと以外は、特に問題はない。むしろ喧嘩の後始末の方が、よっぽど面倒臭い」

『ふーん。でもまあ、学内で警察沙汰になるような事件を起こしたってなると、ひょっとしたら大学の方からも何らかの処分があるかもなぁ』

 うん、そうなんだよなぁ。まだ大学への報告とかは何もしちゃいないが、その部分が目下の悩みの種の一つでもある。まあ、自分が蒔いた種なので、自分で刈り取るしかないんだが。

『まあ、とりあえず元気にしているんだったらいいや。で、久世は無事だったの?』

「ああ、そっちの方は大丈夫だった」

『あっそう。それは良かったけれども……まだしばらくの間は、講義には来られなさそうなのか?』

「そうだなぁ、たぶん」

『そっか。まあ、俺達と履修が被っている講義については、またノートのコピーをやるから気にすんな』

「……北川やさかきのノートはともかく、お前のノートのコピーってのは、なぁ」

 俺が冗談めかしてそう言うと、電話の向こうの伊東の口調が色を成したようなものになった。

『あっ、てめっ、それがお前を助けてやろうっていう人間への言いぐさなのか?』

「わりーわりー、冗談だよ」

 俺の言葉に、電話の向こうの伊東は小さく舌打ちした。

『ったく……でもよ、ちょっとだけ気になっているのはさ』

「ん、何だ?」

『ちらっとSNSのタイムラインで流れてきたネタなんだけれども……たぶんお前が喧嘩をした相手なんだろうけれども、何かお前の悪口っぽいことを言いふらして回っている連中がいるみたいだぞ』

 伊東のその言葉で、俺は午前中の先生とのやり取りを思い出し、気が重くなった。

「……ああ、知ってる」

『まあ、俺らの仲間内では、そんなのガセネタだって分かるんだけれどもさ。今はむしろ、下手に大学には来ない方が良いのかもな』

「まあ、そういう訳にもいかんだろ」

『そうか。それだったら、とりあえず喧嘩の後始末ってのをさっさと片づけて、また顔を出せよ。久世にもよろしくな、それじゃあ』

 そこで伊東との通話は途切れた。

 さっき伊東も言っていた、インターネット上での俺に関する噂話のことを考えると気が滅入るが、少なくとも俺の身の回りの人間が味方のままでいてくれるっていうのは、正直有り難い。

 そこへ、湯気を立てた器を手にした久世が声を掛けてきた。

「さっきの電話、誰からだったの?」

「ん、ああ。伊東からだ」

「……大体の話のやり取りは聞いていたけれども、伊東君、何か言ってた?」

「いや、特に何も。さっさと厄介ごとを片付けて、大学に顔を出せって。あと、お前にもよろしくってさ」

 久世は一瞬目を丸くしたが、やがて小さく笑って言った。

「こういう時、友達ってのは有り難いよねぇ……はい、うどんが出来たよ」

 そう言って久世が座卓の上に置いてくれた器を見て、今度は俺が目を丸くした。

「あの、さ……つゆの色、何か薄すぎない?」

 俺の目の前にあるうどんのつゆは、器の底が見えるぐらいにまで透けていた。いや普通、うどんのつゆってのはもっと濃い色をしているだろ?

 すると久世は、何やら呆れた顔をしてため息をついた。

「まあ、関東と関西の食文化の違いってものなんだろうけれどもさ……私達関西の人間に言わせれば、関東のうどんもそばも、つゆが醤油の味しかしないんだよね」

「いや、それを言い出したら、このつゆはそもそも味がするのか?」

「嫌なら別に食べなくてもいいけれど、せめて文句を言うのは食べてからにしてよね」

 久世が軽く柳眉りゅうびを逆立てて腰に両手を当てたので、俺はひとまず目の前に出された料理にてをつけることにした。

 うどんを箸で掴み、口の中に入れる。熱さがほんの少し傷口に染みたが、これは――。

「……味がある」

 俺がそう呟くと、久世はさも得意げに胸を反らせてみせた。

「でしょう? 要は出汁ダシをどう利かせるかが大事なの。料理も人も、見た目だけで判断しちゃダメだよ」

 いやまあ、関東のつゆに比べると、まだ味気ないっちゃあ味気ないんだが、その見た目程に味が無いって訳じゃない。あと、俺の口の中の傷に配慮してくれたのか、うどん自体もかなり柔らかくなるまで煮込まれている。具材は蒲鉾かまぼことねぎ、そして生卵。いわゆる月見うどんって奴だ。

 それから久世は、自分の分のうどんを持ってきて、俺の隣で一緒に食べ始めた。俺の家には食器が一人分しかなかったから、久世の分の器は鍋そのままだ。

「お洒落なレストランで食事っていうのも良いけれど、こういう食事もなかなか悪くないね」

 髪の毛が鍋の中に入らないようにして箸を進めながら、久世が俺の方をちらりと見て笑った。余りにも距離が近すぎたので、やや気まずくなった俺はついと視線を反らした。
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