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上司に奢ってもらった話
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父の借金が分かったあと、私は悩んでいた。
当時私は奈良にいたのだが、私が働いている会社は全国に転勤する可能性があり、父が入院している兵庫から離れるかも知れなかった。
借金の件は自己破産という形でなんとかなりそうだが、その先はどうするのか。もはや父は家も財産も失ってひとりぼっちになる。今の状況の父を1人残してしまって、果たして良いのだろうか。いっそのこと、今働いている会社を辞めて兵庫に父と一緒に暮らした方が良いのではないだろうか。などと日々考え事をしながらはたらいていた。
そんな悩みを抱えながらだと、自然と仕事にも身が入らなくなり、ボーッと考えこむことも多くなってしまった。
そんな私の心境が周りに伝わってしまったらしく、見かねた上司が、
「少し飲みに行くか。」
と食事に誘ってくれた。
当時の上司はその店の店長兼その奈良の地区のマネジャーを務めていた。
つまり、めちゃくちゃ金持ちだった。
そんな訳で誘われた店も、私が普段行かないような、駅前の高そうな料亭であった。
上司が先に待っているということで、私は後から入ることになったのだが、こんなところに本当に入って良いのか、と来た始めはつい足踏みをしてしまった。
夜でもわかるくらい、ピッカピカに清潔にされた玄関を恐る恐る開け、上司の名前を伝えると、
「こちらへどうぞ。」
と2階の席へ案内された。
階段を上がってみると、六畳間といったところだろうか、畳の敷かれた部屋に木製のテーブルが4席ほど置かれていた。
「おーい。こっちだ。」
と、私を見つけた上司がこちらに向けて手を振る。
「今日はどうも…すみません。」
と、私は上司に向けて頭を下げる。最近の仕事の不振振りは自分でも感じていた。それに気を遣われてしまって、何と情けないことか、と我ながら申し訳なかったのだ。
「いやなに、最近どうも悩んでるっぽいからね。美味しいものを食べてスッキリしてもらおうと思ってね。」
と、上司は笑って答えてくれた。
「さあ、遠慮しないで。」
と手渡されたのは一枚の紙のメニュー表だった。料理名は筆か何かで全て手書きで書かれている。
ファミレスのプラスチックでできたメニュー表しか見たことがない私は、まずその時点で戸惑ってしまった。
「とりあえず、酒でも飲もうか。」
と、上司はここでもう一枚、酒のメニューも出してきた。そこには見慣れない日本酒の銘柄がずらりと並んでいた。普段はビールや酎ハイばかり飲んでいる私にはどれが良いのかさっぱりわからないし、第一私は日本酒というものが苦手だった。
私が頼みあぐねていると、
「日本酒が苦手?でも是非頼んでみなよ。この店は日本酒が自慢なんだ。」
と勧めてくるので、では物は試しと、上司が勧めてくれた日本酒を頼む事にした。
程なくして、注文した日本酒がやってきた。
日本酒といえば徳利とお猪口のイメージだったが、その店はなんとワイングラスに入れて持ってきた。透明のグラスの三分の一ほどに、さらにまた透明な液体が満たされて佇んでいる。
いつまでも覗き込んでいても仕方ないので、恐る恐るその液体を一口飲んでみる。
そうして私は驚いた。
このグラスに入れられてるのは日本酒だ。日本酒というのは米から作られている酒のはずだ。
だというのに、この日本酒は米どころか果実のような甘さすら感じさせる、白ワインのようなフレッシュな味わいだった。
日本酒のラインナップを見てみると、なるほど、どれも純米吟醸や大吟醸といったものばかりだ。
ここで日本酒をあまり知らない方のために、日本酒のランク付けについて説明しておこう。
国税庁によると、現在の清酒の製法品質表示基準については、使用原料、精米歩合、こうじ米使用割合、香味等の要件により、吟醸酒、大吟醸酒、純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒、特別純米酒、本醸造酒、特別本醸造酒の8種に分かれていると定義づけられている。
細かい定義については長くなるため割愛するが、要は日本酒の中でも厳しい審査を経てようやくなれるかなれないか、という上等な日本酒。それが大吟醸酒なのである。
私は今までカップ酒のような安いものしか飲んだことがなかったので、日本酒はどれも雑な変な甘さのある酒と思っていたが、その価値観が一変してしまった。
次に運ばれてきたのは「アスパラガスの素焼き」。春先ということで旬のものをと思い頼んだものだ。
名前の通り、アスパラガスを一本丸々焼いて軽く塩を振ったシンプルな料理だ。
アスパラガス一本で数百円と、ちょっと勿体無い気もするが、せっかくご馳走になるのだ。ちょっと洒落たものを食べてみよう。
というわけで、皿に載せられたアスパラガスを適当な大きさに箸で割いて食べてみる。
「……!?オホッ!」
と、変な声が出るくらいに美味い。
まず香りだ。その辺の安物とは比べ物にならない、しかしだからと言って嫌味な派手な感じではない。上品な新緑を思わせる香りが鼻を通り抜ける。
そして味だ。今まで食べてきたアスパラガスは一体なんだったんだと思わせるくらい、段違いの味。そしてひと噛み毎に口に広がる淡い香り。まさに絶品だった。
味付けが塩味だけというのがまたいい。余計なものをつけず、素材ならではの味がしっかりしてるからこそできること。余計な味付けはむしろ蛇足だ。
なんとも、最初の一品ですでに感動しまくってしまった。だがこれはまだ前菜。メインはこれからである。
次に運ばれてきたのは、何やら天ぷらのようであった。何の天ぷらか聞いてみると、
「白子の天ぷらでございます。」
……白子?
私は戸惑いながら目の前の天ぷらを見つめる。
白子って天ぷらにするものだっけ?
などと狼狽えている私を、上司はテーブルの向こう側でニヤニヤ笑っていた。
「まあ、いいから食べてみ?」
言われるがままに、恐る恐る一口かじってみる。
サクッ
「……。……!?…おお!」
何と。
めちゃくちゃ美味い。
天ぷらのサクサクの生地のあと、白子のフンワリとした食感が舌の中でとろける。その味の濃さといったら。
濃厚でクリーミーな味が一気に口全体に広がる。白子ってこんなに美味かったのか。
さらにそこへ先ほど頼んだ日本酒を合わせて飲む。濃厚な旨味と香りがより昇華して鼻を通り、ゴクリと喉奥を鳴らす。
至高。まさに至高のひと時だ。
私は今まで、白子というものは回転寿司に乗っかっている安物しか食べたことがなかった。ブリっとした食感に、味があるのかも分からないような物体。それが今までの白子の印象だった。
だのに、この場で食べた白子の濃厚さはどうだ。
まるで別格だ。いや比べることすら浅はかと思ってしまうほどだ。白子に対する考えを改めなければ。
などと食事を楽しんでいたら、一人、また一人と先輩の社員がやってきた。
どうやら上司が、私の悩みを聞くために呼んできたらしい。
二人の先輩は席につくなり、
「ほれ、お前の苦労話、聞かせてやれ。」
とやってきた先輩たちは上司に急かされた。
すると先輩たちは色々と苦労話をしてくれた。
奨学金を払うために苦労している話、マンションを購入したが失敗して借金した話などを笑いながら話してくれた。
「まあ、みんなそれぞれだけど何かしら苦労抱えてるもんだよ。でもね、そんな時は美味しいもの食べて吹っ飛ばすんだよ。さ、じゃあ自分が今どんなことで悩んでいるか、言ってごらん。」
上司は満面の笑みで尋ねてくれた。
そうか。
私はまるで不幸を私一人で背負っているような気がしていた。
そうして周りの人間を呪っていた。
どうして私だけ。どうして私だけがと。
だが違うのだ。
皆、大なり小なり苦労や悩みを抱えていて、それでも毎日を生きている。当たり前のことだけど、それがその時私にはとてもありがたく感じられた。
私は一人じゃないんだ。
それが私にとってとても嬉しいことだった。
そうして思い切って、今自分の身の回りで起こったこと、今自分の悩んでいることを打ち明けてみた。
そうしたら、上司は全て聞いた後に一言。
「……思ったより重い話だった。どうしよう。」
おいおい。そりゃないだろ。
と、まあそれから上司から具体的なアドバイスは無かったが、私にとってはあの日の食事と経験だけで充分励みになった。
辛い目に遭っているのは決して一人じゃない。
その事実が、私を奮い立たせてくれたのだ。
当時私は奈良にいたのだが、私が働いている会社は全国に転勤する可能性があり、父が入院している兵庫から離れるかも知れなかった。
借金の件は自己破産という形でなんとかなりそうだが、その先はどうするのか。もはや父は家も財産も失ってひとりぼっちになる。今の状況の父を1人残してしまって、果たして良いのだろうか。いっそのこと、今働いている会社を辞めて兵庫に父と一緒に暮らした方が良いのではないだろうか。などと日々考え事をしながらはたらいていた。
そんな悩みを抱えながらだと、自然と仕事にも身が入らなくなり、ボーッと考えこむことも多くなってしまった。
そんな私の心境が周りに伝わってしまったらしく、見かねた上司が、
「少し飲みに行くか。」
と食事に誘ってくれた。
当時の上司はその店の店長兼その奈良の地区のマネジャーを務めていた。
つまり、めちゃくちゃ金持ちだった。
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上司が先に待っているということで、私は後から入ることになったのだが、こんなところに本当に入って良いのか、と来た始めはつい足踏みをしてしまった。
夜でもわかるくらい、ピッカピカに清潔にされた玄関を恐る恐る開け、上司の名前を伝えると、
「こちらへどうぞ。」
と2階の席へ案内された。
階段を上がってみると、六畳間といったところだろうか、畳の敷かれた部屋に木製のテーブルが4席ほど置かれていた。
「おーい。こっちだ。」
と、私を見つけた上司がこちらに向けて手を振る。
「今日はどうも…すみません。」
と、私は上司に向けて頭を下げる。最近の仕事の不振振りは自分でも感じていた。それに気を遣われてしまって、何と情けないことか、と我ながら申し訳なかったのだ。
「いやなに、最近どうも悩んでるっぽいからね。美味しいものを食べてスッキリしてもらおうと思ってね。」
と、上司は笑って答えてくれた。
「さあ、遠慮しないで。」
と手渡されたのは一枚の紙のメニュー表だった。料理名は筆か何かで全て手書きで書かれている。
ファミレスのプラスチックでできたメニュー表しか見たことがない私は、まずその時点で戸惑ってしまった。
「とりあえず、酒でも飲もうか。」
と、上司はここでもう一枚、酒のメニューも出してきた。そこには見慣れない日本酒の銘柄がずらりと並んでいた。普段はビールや酎ハイばかり飲んでいる私にはどれが良いのかさっぱりわからないし、第一私は日本酒というものが苦手だった。
私が頼みあぐねていると、
「日本酒が苦手?でも是非頼んでみなよ。この店は日本酒が自慢なんだ。」
と勧めてくるので、では物は試しと、上司が勧めてくれた日本酒を頼む事にした。
程なくして、注文した日本酒がやってきた。
日本酒といえば徳利とお猪口のイメージだったが、その店はなんとワイングラスに入れて持ってきた。透明のグラスの三分の一ほどに、さらにまた透明な液体が満たされて佇んでいる。
いつまでも覗き込んでいても仕方ないので、恐る恐るその液体を一口飲んでみる。
そうして私は驚いた。
このグラスに入れられてるのは日本酒だ。日本酒というのは米から作られている酒のはずだ。
だというのに、この日本酒は米どころか果実のような甘さすら感じさせる、白ワインのようなフレッシュな味わいだった。
日本酒のラインナップを見てみると、なるほど、どれも純米吟醸や大吟醸といったものばかりだ。
ここで日本酒をあまり知らない方のために、日本酒のランク付けについて説明しておこう。
国税庁によると、現在の清酒の製法品質表示基準については、使用原料、精米歩合、こうじ米使用割合、香味等の要件により、吟醸酒、大吟醸酒、純米酒、純米吟醸酒、純米大吟醸酒、特別純米酒、本醸造酒、特別本醸造酒の8種に分かれていると定義づけられている。
細かい定義については長くなるため割愛するが、要は日本酒の中でも厳しい審査を経てようやくなれるかなれないか、という上等な日本酒。それが大吟醸酒なのである。
私は今までカップ酒のような安いものしか飲んだことがなかったので、日本酒はどれも雑な変な甘さのある酒と思っていたが、その価値観が一変してしまった。
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名前の通り、アスパラガスを一本丸々焼いて軽く塩を振ったシンプルな料理だ。
アスパラガス一本で数百円と、ちょっと勿体無い気もするが、せっかくご馳走になるのだ。ちょっと洒落たものを食べてみよう。
というわけで、皿に載せられたアスパラガスを適当な大きさに箸で割いて食べてみる。
「……!?オホッ!」
と、変な声が出るくらいに美味い。
まず香りだ。その辺の安物とは比べ物にならない、しかしだからと言って嫌味な派手な感じではない。上品な新緑を思わせる香りが鼻を通り抜ける。
そして味だ。今まで食べてきたアスパラガスは一体なんだったんだと思わせるくらい、段違いの味。そしてひと噛み毎に口に広がる淡い香り。まさに絶品だった。
味付けが塩味だけというのがまたいい。余計なものをつけず、素材ならではの味がしっかりしてるからこそできること。余計な味付けはむしろ蛇足だ。
なんとも、最初の一品ですでに感動しまくってしまった。だがこれはまだ前菜。メインはこれからである。
次に運ばれてきたのは、何やら天ぷらのようであった。何の天ぷらか聞いてみると、
「白子の天ぷらでございます。」
……白子?
私は戸惑いながら目の前の天ぷらを見つめる。
白子って天ぷらにするものだっけ?
などと狼狽えている私を、上司はテーブルの向こう側でニヤニヤ笑っていた。
「まあ、いいから食べてみ?」
言われるがままに、恐る恐る一口かじってみる。
サクッ
「……。……!?…おお!」
何と。
めちゃくちゃ美味い。
天ぷらのサクサクの生地のあと、白子のフンワリとした食感が舌の中でとろける。その味の濃さといったら。
濃厚でクリーミーな味が一気に口全体に広がる。白子ってこんなに美味かったのか。
さらにそこへ先ほど頼んだ日本酒を合わせて飲む。濃厚な旨味と香りがより昇華して鼻を通り、ゴクリと喉奥を鳴らす。
至高。まさに至高のひと時だ。
私は今まで、白子というものは回転寿司に乗っかっている安物しか食べたことがなかった。ブリっとした食感に、味があるのかも分からないような物体。それが今までの白子の印象だった。
だのに、この場で食べた白子の濃厚さはどうだ。
まるで別格だ。いや比べることすら浅はかと思ってしまうほどだ。白子に対する考えを改めなければ。
などと食事を楽しんでいたら、一人、また一人と先輩の社員がやってきた。
どうやら上司が、私の悩みを聞くために呼んできたらしい。
二人の先輩は席につくなり、
「ほれ、お前の苦労話、聞かせてやれ。」
とやってきた先輩たちは上司に急かされた。
すると先輩たちは色々と苦労話をしてくれた。
奨学金を払うために苦労している話、マンションを購入したが失敗して借金した話などを笑いながら話してくれた。
「まあ、みんなそれぞれだけど何かしら苦労抱えてるもんだよ。でもね、そんな時は美味しいもの食べて吹っ飛ばすんだよ。さ、じゃあ自分が今どんなことで悩んでいるか、言ってごらん。」
上司は満面の笑みで尋ねてくれた。
そうか。
私はまるで不幸を私一人で背負っているような気がしていた。
そうして周りの人間を呪っていた。
どうして私だけ。どうして私だけがと。
だが違うのだ。
皆、大なり小なり苦労や悩みを抱えていて、それでも毎日を生きている。当たり前のことだけど、それがその時私にはとてもありがたく感じられた。
私は一人じゃないんだ。
それが私にとってとても嬉しいことだった。
そうして思い切って、今自分の身の回りで起こったこと、今自分の悩んでいることを打ち明けてみた。
そうしたら、上司は全て聞いた後に一言。
「……思ったより重い話だった。どうしよう。」
おいおい。そりゃないだろ。
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