いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第十二章 逃亡

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 いまできることといえば、リーゼロッテの証言を信じてギーレン少尉の顔を確認することだけだ。
 五年がかりでベルリンまでやってきたが、数日間の滞在で早々にシュリュッセルを見つけ出せるようであれば、とっくに正体は掴めているはずだ。ロレーヌ公国の諜報員とて、無能ではない。
「何時頃、現れるだろうか」
「夕方までには来るだろう。王太子の気持ちはウィーンへ向いていないようだったし、彼が私に断りの手紙を書くのにそう時間はかからないはずだ」
 フリードリヒが目的地をイングランドから変更しないだろうことは、ジェルメーヌも予想していた。彼をウィーンへ連れていくことができれば、プロイセン王妃に対して人質を取ったも同然だが、さすがに王太子である彼を攫ってまでウィーンに連れて行くことはできない。
 いまのジェルメーヌにできることは、ギーレン少尉の顔をひとめ見ることくらいだ。
「イングランドへ逃げるなど、無謀過ぎる」
 腕組みをして青い空に浮かぶ白い雲が風に流れていく様を見遣りながら、ジェルメーヌはぼやいた。
 駐在イングランド大使がどんな回答をしたか知らないが、積極的に受け入れてはいないはずだ。
「あの……ご主人様。お客様です」
 開けっ放しになっている応接室の扉を叩き、ミネットがふたりに声を掛けた。
「ギーレン少尉とおっしゃる方が、お手紙を持っていらっしゃいました。直接ご主人様にお渡ししたいとおっしゃっていますが、いかがいたしましょうか」
「こちらにお通ししろ」
 落ち着いた声でジェルメーヌが命じると、「承知いたしました」とミネットは玄関へ戻っていった。
 クロイゼルが開け放っていたフランス窓を静かに閉じる。
「ブラモント伯爵。ギーレンと申します」
 朗々とした声が響いたかと思うと、焦げ茶色の帽子をかぶり濃緑色の服を纏った男が応接室に入ってきた。
「我が主から、伯爵へ手紙を届けるよう申し使ったため、まかり越しました」
「ご苦労、ギーレン少尉」
 振り返ったジェルメーヌは、頭を下げたギーレンが帽子を脱ぐ様を凝視した。
 その背後では、クロイゼルも口を閉ざしたままギーレンを注視している。
 帽子の下から現れたのは、栗色の髪に榛色の瞳、そして端正な容貌の男だった。
「……ロレーヌ公?」
 ジェルメーヌの顔を見つめたギーレンは、独り言のようにぽつりと呟く。
 有り得ない、とばかりに彼は目を大きく見開いていた。
「私はブラモント伯爵だ。以前は、ロレーヌ公と瓜二つだと言われたものだが、最近ではあまり似ていない。公の方は残念ながら十代の頃の美貌が失われ、すっかりむさ苦しくなったともっぱらウィーンでは酷評されているらしい」
 薄ら笑いを浮かべてジェルメーヌが告げると、ギーレンはびくりと肩を震わせた。
「しかし、貴公と会うのはこれが初めてではないな。五年間、ニュルンベルクで話をしたことを、私は忘れてはいない」
「あれは……ロレーヌ公のはず……」
「コランタン・ドミから聞いたのではなかったのか? あれは、当時公子だったロレーヌ公の身代わりだと。貴公がロレーヌ公として攫わせたのは、私だ。そして、貴公がコランタン・ドミにプラハで殺害させたのは、私の双子の弟だ。貴公はもう忘れてしまったのかもしれないが――シュリュッセル」
「なぜ、その名を……」
 蒼白になったギーレンが後退りをしたが、応接室の扉は案内してきたミネットによって閉じられていた。
「コランタン・ドミが最後に言い遺した。プロイセン王妃の指示によりフランソワ公子暗殺を計画しているのはシュリュッセルと名乗る男だと」
 クロイゼルが腰に帯びた剣を抜き、ギーレンに突き付けた。
「お前を探し出すのに五年もかかった。まったく面倒をかけさせてくれたものだ」
「私をどうするつもりだ」
「もちろん、五年前の借りを返させてもらう。さっさとあの世に行って、私の弟やコランタンに詫びてこい」
 さげすむような目でギーレンを睨みつけながら、ジェルメーヌは告げる。
「その前に、王太子からの手紙を渡してもらおうか。彼は愚かにも、私にこの国からの逃亡計画を話してくれたが、ウィーン行きは決心してくれなかったのだろう? イングランドへ行くというのなら、王太子は王妃を失脚させる材料として使わせてもらおう」
 フリードリヒがイングランドへ逃亡するというのであれば、プロイセン王妃がプロイセン王国を帝国から独立させようとしているという陰謀をねつぞうすることも可能だ。王太子がイングランド王女との結婚を望み、イングランドへ単身向かったとなれば、充分な証拠になる。
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