いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第七章 プロイセンの陰

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「わたしの格好に問題はあるか?」
 プラハでは流行遅れの服なのだろうか、それとも男装に気付かれたのだろうか、と不安を感じつつ、ジェルメーヌはコランタンに尋ねた。
「格好ではなく、顔でしょう」
「目立たないようにちゃんと帽子をかぶっているじゃないか」
 つばの広い帽子を指差し、ジェルメーヌは反論した。
「帽子ごときで隠せるような美貌ではないではありませんか」
 コランタンが歯の浮くような世辞を吐く。
「刺客がこちらを狙って見張っている視線なのでは?」
「刺客はあんなにあからさまに見たりしませんよ」
「じゃあ、トロッケン男爵の部下かな」
「彼らは、わざわざ怪しまれるような真似をせずとも、あなたに手紙を書いて呼び出せば済む話じゃないですか。こんなおうらいで接触する必要なんてないはずです」
 ピュッチュナー男爵のもっともな指摘に、ジェルメーヌは黙り込んだ。
「お願いですから、ここでは攫われないように気をつけてくださいよ。あと、はぐれたり、迷子になったりしないように。ニュルンベルクとは違い、こんなに人が多くては、探すだけでも一苦労です」
「はいはい」
 軽く肩をすくめたジェルメーヌは、先頭を切ってカレル橋へと向かった。
 十五世紀初頭に完成した石造りの橋は、ヴルタヴァ川で分断されている町を繋いでいる重要なものだ。
 橋の下では、プラハの象徴であるヴルタヴァ川がどうどうと音を立てて激しく流れている。河面は夏の陽射しで輝いており、白い水飛沫が涼しげに目に映る。
 川の上を小舟がいくつも流れに逆らって停泊している。漁をしているのか、男たちが網を引いている姿が見えた。
「夕方になりましたら、またあの宿に遣いを出して、ブラモント伯爵が到着していないか聞くことにしましょう。あの方も、今日か明日には到着されることでしょう」
 ピュッチュナー男爵はジェルメーヌをなだめるように告げたが、どちらかといえば彼の方が焦っていた。
 すでにカール六世はロレーヌ公国公子がプラハに入ったという知らせを受け取っているはずだ。
 そのカール六世自身は現在、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯の領地へ狩猟に出掛けている。ウィーンからプラハに到着した後、さらに辺境伯領へと移動してしまったのだ。
 皇帝がプラハを不在にしていることは、ジェルメーヌにとって有り難かった。
 すぐに皇帝に挨拶をしに出向く必要がないからだ。
 もちろん、戴冠式までプラハで待ち続けるわけにはいかないが、数日は自由に行動することができる。
 ピュッチュナー男爵らは、できることならジェルメーヌとフランソワが入れ替わってから、ロレーヌ公国公子をカール六世とえっけんさせたいと考えている。場合によっては、ステファーヌを公子として公式の場に出すこともやむなしと考えているようだ。
 彼らにとって必要なのは、紛れもない男子だ。
 その点では、ジェルメーヌを公子として旅に参加させたことで、トロッケン男爵に隙を与えてしまったと後悔しているらしい。
「ステファーヌが先に到着したら、どうする?」
「その時はその時で考えます」
 旅の指揮官であるクラオン侯爵としては、できるだけ早くフランソワ公子をカール六世に会わせて、好印象を与えておきたいようだ。大勢の王侯貴族が集まる戴冠式の場では、公子の存在が目立つ場所に席が割り振られていない。
 なんとしても皇帝と公子を引き合わせ、大公女との婚約を成立させたいというのが、クラオン侯爵の希望であり使命だ。
 侯爵曰く、他の王侯貴族に子弟に比べれば、ロレーヌ公国公子はかなり優位な立場らしい。大公女との年齢差はあるものの、九歳違いであれば問題ではない。加えてフランソワの容姿は美しく、皇帝だけではなく皇妃や大公女にも気に入られることは間違いないというのだ。
 フランソワの髪の色は、ジェルメーヌとステファーヌに比べれば多少くすんではいるが、フランソワの魅力を損なうほどではない。
「三日後には、辺境伯領へ出発したいとクラオン侯爵は申していましたが」
「いいんじゃないか? フランソワが到着したら、すぐさま馬車に放り込んで出発すれば。わたしはしばらくゆっくりと、ここで観光でもするよ」
 あと数日で窮屈な公子生活から解放されるのだ。
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