いまは亡き公国の謳

紫藤市

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第七章 プロイセンの陰

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 男装そのものは嫌ではないが、公子として一挙手一投足を周囲に監視されながらの暮らしは、疲れるものがある。
 旅には慣れたものの、公女としての平穏な日々が懐かしかった。
「ステファーヌさえ取り戻せれば、後はどうでも良い」
 ジェルメーヌの計画としては、フランソワが到着する前にステファーヌと入れ替わり、公子役をステファーヌにさせるというものだった。その後、フランソワが到着し次第、ステファーヌとフランソワがさらに入れ替わり、ジェルメーヌはステファーヌとともにロレーヌに帰国するのだ。
 もちろん、ステファーヌとフランソワの入れ替わりはトロッケン男爵に気付かれないように行う必要がある。
 男爵が公子の入れ替えをどのように計画しているにせよ、公子一行に男爵の配下を加えることは難しい。
 もしくは、すでに男爵の配下が一行に混ざっているのかもしれないが。
 小声で会話をしながら三人は橋を歩いていたが、橋の中央辺りでひとだかりにぶつかり、立ち止まる羽目になった。
「あれば、聖ヤン・ネポムツキーの銅像ですね。あの台座の下の浮き彫りレリーフに触れると幸運が訪れるそうですよ」
 銅像の周囲に集まった人々の会話を拾い集め、コランタンが教えてくれた。
 橋の上には幾つもの聖人の彫刻があり、あれは聖タダイのユダ像、あれはパドゥアの聖アントニウス像、と説明してくれる。
 ジェルメーヌにはチェコ語はわからないが、コランタンは唯一の特技として多言語を操ることができた。どこで覚えてきたのかは謎だ。
「よし、触ろう」
 ジェルメーヌが意気揚々と人の輪の中に飛び込もうとすると、慌ててピュッチュナー男爵が止める。
「危ないですよ。人が多すぎます」
 ジェルメーヌの腕を掴むと、男爵は低い声でたしなめた。
「こんなところで狙われたらどうするんですか」
「聖人の前で人を殺そうとする者がいる?」
「刺客は聖人も神も恐れないから厄介なのです」
「あの浮き彫りに触れれば、聖人の加護が与えられるのではないのか?」
「加護を得る前に、怪我をします」
 駄目です、と強い口調で男爵はジェルメーヌを像から離れさせようとする。
「では、僕だけでも触ってきますね」
 男爵の制止の手を逃れたコランタンが、素早い身のこなしで人の輪の中に潜り込む。
「あ、ずるいぞ」
 不満げにジェルメーヌが呟いたときだった。
 どんっと背後からなにかにぶつかられた。
「あぁ、だからいわんこっちゃない」
 ぼそっと男爵がぼやく。
「おい、気をつけろ」
 男爵が厳しい声をジェルメーヌの後方でうずくまっている人影に投げかける。
 ジェルメーヌが振り向くと、薄汚れた服を着た町娘が、花籠はなかごを抱えて座り込んでいた。どうやら他の通行人に押されたらしく、地面にはすみれの花が散らばっている。
「大丈夫かい?」
 膝を折って屈んだジェルメーヌが声を掛けると、町娘はびくっと身体を震わせたが、次の瞬間には大きく目をみはった。
「も、申し訳ありません! 申し訳ありません!」
 頭を地面に擦りつけんばかりに、町娘は謝る。
 あまり発音は良くないが、ドイツ語だった。
 プラハの上流階級は、チェコ語ではなくドイツ語を使う。
 ジェルメーヌの服装から相手が貴族の子弟だと推察した娘は、とっにドイツ語で謝罪を口にしたようだ。
「別に、わたしは大丈夫だ」
 慣れないドイツ語でジェルメーヌは優しく声を掛ける。
「君の方こそ、花を落としてしまったが、大丈夫か? 売り物ではないのか?」
 どのていどまでドイツ語が通じるのかわからなかった、チェコ語が喋れない以上、ドイツ語で話すしかない。
「申し訳ありません!」
 ジェルメーヌの言っていることがわからないのか、娘はひたすら頭を下げるばかりだ。
「困ったな。どう言えば伝わるんだろう。まったく、コランタンときたら肝心なときに戻ってこないんだから」
 ジェルメーヌがぼやくと、男爵も聖ヤン・ネポムツキーの銅像に視線を向けた。
「もの凄い勢いで銅像の方へ向かっている頭が見えます。あれがコランタンでしょう。まだ浮き彫りに触れられる位置までは辿り着けていないようです。まだしばらくは、あの群衆の中から抜け出すのは無理でしょうね」
 呆れたように男爵が呟く。
 そうか、とジェルメーヌが答えようとしたときだった。
 町娘はリボンを掛けた小さなすみれの花束と一緒に、小さく折った紙をジェルメーヌの手に握らせた。
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