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 それから二人は軽い会話をしながら同じ時間を過ごし、あっという間に夜はふけていった。そろそろ帰らなければというラウルに、見送りに部屋を出たアメリは扉の前でぽつりと呟く。

「泊まっていってもいいのに」

「いや、それは…また次の機会にする…」

 ラウルは懐をさすりながら曖昧に笑い、眉尻を下げた。彼にはせっかくの恋人からの誘いを断腸の思いで断らざるを得ない事情がある。その事情がなければ大いに喜び、尾を振ってその誘いを受けていたことだろう。

「アメリ…じゃあ…」

 ラウルは暗い表情で別れの挨拶をする。まるでこの世の終わりかのようなその表情と声に、アメリは苦笑いした。

「また、明日もきてくれるんでしょう?」

「うん…」

「だから、また明日」

「…また、明日」

 ラウルは離れたくないと思いながらも、事情が事情故に諦めて足を動かす。だが、彼は二、三歩離れたところで何を思ったのか、突然足を止めて振り返ると、アメリをじっと見つめた。その視線を受けた彼女は、不思議そうに首を傾げる。

「どうしたの、ラウル?」

「…アメリ…」

「うん?」

「今日はもう終わり、だから…キスしていいか…?」

「…え?」

「いやっ、…嫌ならいいんだ!」

 アメリがその言葉に目を瞬かせると、ラウルは顔を真っ赤にして誤魔化すように両手を振った。アメリは突然のことに驚いただけだが、ラウルは彼女の反応を、拒絶とまではいかなくとも快く思っていないものだと思い込んだようだ。

(キスくらい…)

 口づけ以上のことをしておきながら、最中にも口づけておきながら、わざわざここで許可を求めた上になぜ照れるのか。アメリはそんなラウルの反応が可笑しくて、小さく笑う。

「ふふ。…ラウル」

「えっ、あ…」

 アメリは彼の名を呼ぶと、それ以上何も言わずに目を閉じ、唇を差し出した。受け入れられたと胸を高鳴らせながら、ラウルは彼女の両肩を掴み、その唇に自分の唇を重ねる。

(柔らかい…)

 ラウルは触れた唇の柔らかさにうっとりと息を吐いた。ただ唇を重ねるだけで幸せな気持ちで満ち溢れた彼は、唇を離すと満面の笑みを浮かべる。

(…可愛い人)

 アメリは些細なことでも、こうして素直に喜びを表すラウルが愛しく思えた。燃えるような恋ではなくても、アメリの心には小さな恋心は芽吹いている。

「…おやすみなさい、ラウル」

「ああ、アメリ、おやすみ!」

 大きな声で別れの挨拶をしたラウルは、背を向けてゆっくりと歩き出す。何度も振り返り、大きく手を振る彼を見送りながら、アメリは微笑んだ。


 穏やかな幸せを感じているアメリに、魔の手が伸びようとしていた。去っていくラウルの後ろ姿を、路地裏からじっと観察する人影が一つ。

(くそっ、あの犬め…!)

 この辺りでは珍しい黒髪の男、アメリの元恋人であるエドガールだ。髪は纏めておらず、髭は伸びっぱなしで放置され、服はよれて汚れている。反国家組織に属していることを知られて国から追われることになり、数々の失態により組織からも追われる身となった彼は、まともな生活が送れていないようだ。

(どうして俺がこんなめに…あの犬が…いや、元はと言えばあの女のせいだ…!)

 エドガールはこの五年、順風満帆だった。彼が表で働いていた商会で偶然にも国家魔法使いであるレイラと知り合い、恋人という座を得て彼女の行動を監視することが出来た。情報を引き出すことは出来なかったものの、脅威となりうる魔法使いの行動の監視だけでも十分に評価された。

 さらにエドガールは幸運なことに、魔導具師の卵であったアメリと出会った。若く、王都に出てきたばかりのアメリを騙すことは容易で、言葉巧みに魔導具を作らせ、彼女が勤めるジュスティーヌの店からも安く魔導具を購入させた。それらをすべて組織に貢いだエドガールはさらに高く評価されて、組織での立場は優遇されていた。

(アメリが余計なことをしなければ…こんなことにはならなかったのに!)

 調子にのり、浮かれていたエドガールは油断していたと言うべきか。あの日、アメリにレイラとの関係を知られてから、彼の人生は転落の一方だ。

 レイラからエドガールが勤めていた商会との大口の取引を止められ、彼は解雇された。レイラとは婚約を解消されてしまい、当然、彼女の行動を監視することなど出来なかった。アメリからも別れを告げられて魔導具の供給がなくなり、エドガールの組織内での立場は一気に転落した。

 せめてアメリだけでもなんとかと奮闘していたが、英雄、ラウル・ルノーの出現でさらに悲惨なことになった。エドガールは二人の間に何があったのかは知らないが、ラウルの邪魔が入り、さらには彼が手配した調査部員によって組織に属していることが暴かれ、逃げ回ることになった。

 組織に属した反逆者は例外なく極刑だ、捕まれば死が確定する。組織も追われる身となった彼を切り捨てようとしていた。ただ捨てられるだけならまだましだが、エドガールが捕まり情報が漏洩することを恐れ、口をふさごうとする始末だ。国からも組織からも追われ、どちらに捕まっても死が待っているエドガールは、起死回生のための一つの可能性に縋っていた。

(アメリ…あの女を連れていけば…!)

 エドガールは自分を破滅に導いたアメリを組織に引き渡し、助命を乞おうとしていた。魔法使いのレイラや魔導具師のアメリを知っているからこそ、彼はこの数日に捕まらずに済んだのは運が良かっただけで、凡人である自分が一生逃げ続けることなどできないとわかっていた。故に、組織の中でも評価が高かったアメリを、正確には彼女の魔導具を差し出すことで、なんとか生きながらえようと考えた。彼が助かるには、それしか方法はなかった。

(あの女が全部悪いんだ…大人しくしていればよかったのに!)

 すべてが崩れ始めたのは、アメリがあの場にやってきたせいだ。大人しく復縁していればここまで酷いことにならなかったのに。

(俺をこんな目にあわせたんだ…罰をあたえてやるさ…!)

 エドガールに良心の呵責などない。逆恨んで自分を破滅に追いやったアメリへの復讐心すらある。どこまでも自分勝手な男は、ただ自分のためだけにここまでやってきた。

(…よし、あの犬はいないな…)

 エドガールはラウルの姿が見えないことを確認すると、路地裏からそっと身を乗り出す。夜も更けて人気がない中、彼はアメリが住む建物に近づき、裏手に回った。彼女の部屋がある位置まで移動すると、エドガールはカーテンが掛かって中の見えない窓を目に映し、舌打ちする。

「…あんな犬を連れ込みやがって…くそっ、尻軽女が…」

 二人の女性を弄んだ自分のことを棚に上げ、エドガールは悪態をついた。反国家勢力に属しているエドガールは、反国家勢力の企みを邪魔した英雄であるラウルが特に気に入らなかった。とはいえ、彼の力ではラウルに手も足も出ないと理解している。噛みつきたくても噛みつけない、だからこそその牙をアメリに向けていた。

(あんな犬より、俺が遥かに上だってことをわからせてやる…!)

 エドガールは口の端を上げると、ゆっくりと窓へと近づいていく。この数日間の気が休まらない逃亡生活で、彼の精神はまともな判断が出来ないくらいに極限状態に近づいていた。手が窓に届くかというところで、エドガールは後ろからその手をつかまれ、両腕を後ろ手に捕らえられて壁に押し付けられる。何が起きているのか理解出来ず、ただ痛みに呻き、両目をきつく瞑った彼の耳に、怒りが含まれた低い声が届いた。

「…私は、二度と近づくなと警告したはずだ」

「…っ、な…んで…、ぐ…っ」

 目を見開き、先程去ったことを確認したはずのラウルを肩越しに目に映し、エドガールは低く唸った。
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