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アメリ・レフェーブルはおそらく、今までの人生の中で最低で最悪な誕生日を迎えていた。
アメリには恋人がいる。恋人の名はエドガール、この辺りでは珍しい黒髪と深緑色の切れ長な目を持つ美丈夫だ。アメリが五つ歳上のエドガールと知り合ったのは、彼女が落とし物を届けたことがきっかけだった。アメリはお礼にと食事に誘われ、そのあとも頻繁に会う約束を繰り返し、ちょうど三年前の十八歳の誕生日に告白されたことで、エドガールと付き合うことになった。
それから今この時までの三年間、アメリはとても幸せだった。エドガールはとても優しく紳士的で、会う度に必ず彼女に花を贈り、誕生日は盛大に祝った。
今日の誕生日も一緒に過ごす約束をしてたアメリは、精一杯のおめかしをしていた。背の中ほどまで伸びた少し赤みを帯びた金髪を結い上げて薄く化粧を施し、藍色の目はその時を楽しみに輝いていた。
アメリはエドガールを愛していたし、彼からの愛を感じ、それを信じて疑わなかった。たとえ仕事で会えなくなったと言われても、その言葉を全く疑うことなく信じていた。
そう、信じていた。今、エドガールがアメリではないほかの女と抱き合い、深く口付けあっている光景を目にするまでは。
(…何、何なのこれ…)
アメリは驚きのあまり言葉を失い、頭の中が真っ白になって何も考えられずに立ち尽くした。彼女の指から力が抜け、手に持っていた包みがその中からこぼれ落ちる。包みの中にはエドガールに贈ろうとしていた貴重なワインの瓶が入っており、それは盛大に割れる音を立てて包みを濡らした。
音に反応した二人は顔を上げ、アメリのほうへと目を向ける。エドガールはアメリをひと目見て顔色を悪くし、彼に抱かれていた女性は怪訝そうにアメリを見た。
「えっ、何?あなた…」
顔を真っ青にし、唇を震わせて二人を見るアメリの姿に、女性は少し怯む。彼女がエドガールの腕を不安そうに握る様子に、アメリは言葉が出なかった。
「ア、アメリ…」
エドガールは動揺のあまりアメリの名を呼んでしまい、失言だと気づいて口を片手で覆った。それはエドガールがアメリを既知である証左となる。
「…エド、この人と知り合いなの?」
女性はエドガールの腕の中から彼を見上げ、その表情から尋常でない事態にであることに気づいたようだ。二人から目をそらすこともできず、アメリはどくどくと高鳴る胸を抑えながらゆっくりと口を開く。
「…エド、その女の人は誰なの」
「えっ、いや、その…」
アメリの言葉に大袈裟に体を震わせたエドガールはしどろもどろになる。この状況、エドガールの態度、アメリも女性も互いがどういう存在なのかは予想ができているだろう。
「エド、ちゃんと答えて!」
アメリは湧き上がった怒りのままに、エドガールに詰め寄った。顔を青くし、視線を彷徨わせて言葉もでない彼に、アメリの怒りは沸き立つ。
「ちょっと!」
そのまま掴みかかろうとしたアメリの前に、エドガールの腕に抱かれていた女性が割って入った。女性はアメリを押し返すと、堂々と胸をはって大きな声を上げる。
「私はエドの婚約者よ!あなたこそ誰なの!?」
「えっ?!」
攻撃的な女性の言葉に、アメリは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。婚約者、つまりは結婚を約束した相手、想像していた以上の関係に打ちひしがされる。
(…婚約…?そんな、結婚を…)
アメリはエドガールと結婚の話をしたことがなく、いつかするのだろうと考えていた程度だ。婚約していたと言えるほどには至らず、エドガールが自分以外の女性と婚約していた事実がアメリの胸をえぐる。
(でも、私は…っ)
アメリは婚約せずともこの三年、たしかに愛されていたのだと信じたかった。彼女は震えながらも、対抗するかのように声を上げる。
「わ、私はエドの恋人よ!もう三年も付き合っているんだから…っ」
「三年!?エド、三年も浮気していたの!?」
しかし、さらなる事実がアメリを叩きのめす。三年も、その言葉は女性がエドガールと三年以上の関係を持っている事実を示唆していた。アメリは全身から力が抜けていくのを感じ、エドガールと怒声を上げながら彼に掴みかかる女性の様子をただ見ているしかなかった。
(…浮気…、私が…?)
アメリはエドガールが婚約していたことなど一切知らない。恋人もいないと言われていたのだから、騙されていたことになる。だが、傍から見れば婚約している男に手を出した浮気女だ。嫌悪するその不名誉を貼りつけられ、アメリは吐き気を覚えて口元に手をあてる。
「婚約は破棄よ、このクズ野郎!」
女性の罵声とともに、エドガールは小気味いい音とともに盛大に叩かれる。同時に歓声と口笛が響き、アメリは意識を現実に引き戻した。
(何、これ…)
大きな声で騒いでいたからか、いつのまにか三人の周りには野次馬が集まっている。彼らは裏切られた婚約者と何も知らずに弄ばれた浮気相手、若い女性を二人も弄んだ浮気者、その修羅場を見世物のように眺めていた。
「レイラ!」
「やめてよっ、気持ち悪い!」
エドガールが引き留めようとして手を伸ばすと、女性は彼を突き飛ばし、無様に地に転がった彼を野次馬が嗤う。惨めに両手を付き、立ち上がろうとしたエドガールはアメリと目があい、すがるような声音で名を呼んだ。
「ア、アメリ…ちがうんだ…誤解だっ」
立ち上がり、左頬を真っ赤にしたエドガールにアメリはどうしようもないほどの怒りを覚える。エドガールは先に女性に縋りつき、アメリは次だった。その事実がアメリをさらに惨めにさせていた。
「…あなたとは、ここで終わりよ!」
アメリが利き手で思い切りエドガールの右頬をひっぱたくと、再び歓声が上がる。アメリの怒りも惨めさも、野次馬には見世物でしかなかった。
「本当に最低!もう二度と、私の視界に映らないで!」
「ア、アメリ…」
鼻の奥がつんとし、目の奥が熱くて声は震える。アメリは左手が真っ赤になって痛かったが、それ以上に胸が痛かった。裏切られ、笑いものにされ、惨めさと怒りを感じていたが、全て悪い夢だと思い込みたいほど真実が受け入れがたく、悲しかった。
(ああ…悪い夢なら、早く覚めて…)
これは全て夢で、夢から覚めればエドガールは誰とも婚約していないし、仕事で会えないこともなく誕生日を一緒に祝ってくれる。アメリにそんな願望が生まれていたが、左手の痛みがこれこそ現実なのだと主張していた。
(…私って、本当に馬鹿ね…)
アメリは現実を受け入れなければならない。彼女にとって最も許せない浮気をした男、それがエドガールだ。
「…最低…」
アメリは力なく呟き、肩を落として俯く。綺麗さっぱりとエドガールへの気持ちがなくなったわけではない。けれど、浮気をした男と関係を続けていくことなど、アメリには受け入れ難かった。
「アメリ、待ってくれ!これは、その…違う…違うんだ!」
エドガールはアメリを引き留めようと声を上げる。アメリは、先程の言葉通りに終わりだと言わんばかりに踵を返し、決して振り返ることなくエドガールに背を向けた。
「アメリ…っ」
諦め悪く、エドガールはアメリに手を伸ばす。その手は彼女に届く前にはたき落とされたが、それを阻止したのは意外な人物だった。
「このクズ、触るんじゃないわよ!」
「レ、レイラ…」
つい先程まで熱い抱擁と口付けを交わしていたはずの婚約者、レイラだ。彼女が目尻をぎりりと吊り上げながら睨みつけると、エドガールはその剣幕に圧されて口を噤み、身を縮こまらせる。
「いい、覚悟しておきなさいよ。私たちの時間を無駄にしてくれた礼は、たっぷりさせてもらうわ」
「ちょっ、待ってくれ!」
「待つわけないでしょう、この阿呆が!」
「ぎゃっ」
レイラは追いかけようとしたエドガールの股間を蹴り上げる。短い悲鳴を上げ、エドガールは両手で股間を抑えながらその場に倒れ込んだ。
(何、これ…)
野次馬は大喜び、アメリは眼の前で繰り広げられた珍劇に口を半開きにして立ち尽くした。あまりのことに声も出せず、動けもせずに呆然としていたアメリの腕を、レイラが引く。
「ほら、行くわよ」
「あ…」
アメリは情けない声でうめいているエドガールを見下ろし、直ぐにレイラを見上げた。なぜレイラが婚約者の浮気相手である女を助けるのか、エドガールは大丈夫なのか。アメリはわからないことだらけだったが、少なくとも、今日が最低最悪な誕生日だということだけは、よくわかった。
アメリには恋人がいる。恋人の名はエドガール、この辺りでは珍しい黒髪と深緑色の切れ長な目を持つ美丈夫だ。アメリが五つ歳上のエドガールと知り合ったのは、彼女が落とし物を届けたことがきっかけだった。アメリはお礼にと食事に誘われ、そのあとも頻繁に会う約束を繰り返し、ちょうど三年前の十八歳の誕生日に告白されたことで、エドガールと付き合うことになった。
それから今この時までの三年間、アメリはとても幸せだった。エドガールはとても優しく紳士的で、会う度に必ず彼女に花を贈り、誕生日は盛大に祝った。
今日の誕生日も一緒に過ごす約束をしてたアメリは、精一杯のおめかしをしていた。背の中ほどまで伸びた少し赤みを帯びた金髪を結い上げて薄く化粧を施し、藍色の目はその時を楽しみに輝いていた。
アメリはエドガールを愛していたし、彼からの愛を感じ、それを信じて疑わなかった。たとえ仕事で会えなくなったと言われても、その言葉を全く疑うことなく信じていた。
そう、信じていた。今、エドガールがアメリではないほかの女と抱き合い、深く口付けあっている光景を目にするまでは。
(…何、何なのこれ…)
アメリは驚きのあまり言葉を失い、頭の中が真っ白になって何も考えられずに立ち尽くした。彼女の指から力が抜け、手に持っていた包みがその中からこぼれ落ちる。包みの中にはエドガールに贈ろうとしていた貴重なワインの瓶が入っており、それは盛大に割れる音を立てて包みを濡らした。
音に反応した二人は顔を上げ、アメリのほうへと目を向ける。エドガールはアメリをひと目見て顔色を悪くし、彼に抱かれていた女性は怪訝そうにアメリを見た。
「えっ、何?あなた…」
顔を真っ青にし、唇を震わせて二人を見るアメリの姿に、女性は少し怯む。彼女がエドガールの腕を不安そうに握る様子に、アメリは言葉が出なかった。
「ア、アメリ…」
エドガールは動揺のあまりアメリの名を呼んでしまい、失言だと気づいて口を片手で覆った。それはエドガールがアメリを既知である証左となる。
「…エド、この人と知り合いなの?」
女性はエドガールの腕の中から彼を見上げ、その表情から尋常でない事態にであることに気づいたようだ。二人から目をそらすこともできず、アメリはどくどくと高鳴る胸を抑えながらゆっくりと口を開く。
「…エド、その女の人は誰なの」
「えっ、いや、その…」
アメリの言葉に大袈裟に体を震わせたエドガールはしどろもどろになる。この状況、エドガールの態度、アメリも女性も互いがどういう存在なのかは予想ができているだろう。
「エド、ちゃんと答えて!」
アメリは湧き上がった怒りのままに、エドガールに詰め寄った。顔を青くし、視線を彷徨わせて言葉もでない彼に、アメリの怒りは沸き立つ。
「ちょっと!」
そのまま掴みかかろうとしたアメリの前に、エドガールの腕に抱かれていた女性が割って入った。女性はアメリを押し返すと、堂々と胸をはって大きな声を上げる。
「私はエドの婚約者よ!あなたこそ誰なの!?」
「えっ?!」
攻撃的な女性の言葉に、アメリは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。婚約者、つまりは結婚を約束した相手、想像していた以上の関係に打ちひしがされる。
(…婚約…?そんな、結婚を…)
アメリはエドガールと結婚の話をしたことがなく、いつかするのだろうと考えていた程度だ。婚約していたと言えるほどには至らず、エドガールが自分以外の女性と婚約していた事実がアメリの胸をえぐる。
(でも、私は…っ)
アメリは婚約せずともこの三年、たしかに愛されていたのだと信じたかった。彼女は震えながらも、対抗するかのように声を上げる。
「わ、私はエドの恋人よ!もう三年も付き合っているんだから…っ」
「三年!?エド、三年も浮気していたの!?」
しかし、さらなる事実がアメリを叩きのめす。三年も、その言葉は女性がエドガールと三年以上の関係を持っている事実を示唆していた。アメリは全身から力が抜けていくのを感じ、エドガールと怒声を上げながら彼に掴みかかる女性の様子をただ見ているしかなかった。
(…浮気…、私が…?)
アメリはエドガールが婚約していたことなど一切知らない。恋人もいないと言われていたのだから、騙されていたことになる。だが、傍から見れば婚約している男に手を出した浮気女だ。嫌悪するその不名誉を貼りつけられ、アメリは吐き気を覚えて口元に手をあてる。
「婚約は破棄よ、このクズ野郎!」
女性の罵声とともに、エドガールは小気味いい音とともに盛大に叩かれる。同時に歓声と口笛が響き、アメリは意識を現実に引き戻した。
(何、これ…)
大きな声で騒いでいたからか、いつのまにか三人の周りには野次馬が集まっている。彼らは裏切られた婚約者と何も知らずに弄ばれた浮気相手、若い女性を二人も弄んだ浮気者、その修羅場を見世物のように眺めていた。
「レイラ!」
「やめてよっ、気持ち悪い!」
エドガールが引き留めようとして手を伸ばすと、女性は彼を突き飛ばし、無様に地に転がった彼を野次馬が嗤う。惨めに両手を付き、立ち上がろうとしたエドガールはアメリと目があい、すがるような声音で名を呼んだ。
「ア、アメリ…ちがうんだ…誤解だっ」
立ち上がり、左頬を真っ赤にしたエドガールにアメリはどうしようもないほどの怒りを覚える。エドガールは先に女性に縋りつき、アメリは次だった。その事実がアメリをさらに惨めにさせていた。
「…あなたとは、ここで終わりよ!」
アメリが利き手で思い切りエドガールの右頬をひっぱたくと、再び歓声が上がる。アメリの怒りも惨めさも、野次馬には見世物でしかなかった。
「本当に最低!もう二度と、私の視界に映らないで!」
「ア、アメリ…」
鼻の奥がつんとし、目の奥が熱くて声は震える。アメリは左手が真っ赤になって痛かったが、それ以上に胸が痛かった。裏切られ、笑いものにされ、惨めさと怒りを感じていたが、全て悪い夢だと思い込みたいほど真実が受け入れがたく、悲しかった。
(ああ…悪い夢なら、早く覚めて…)
これは全て夢で、夢から覚めればエドガールは誰とも婚約していないし、仕事で会えないこともなく誕生日を一緒に祝ってくれる。アメリにそんな願望が生まれていたが、左手の痛みがこれこそ現実なのだと主張していた。
(…私って、本当に馬鹿ね…)
アメリは現実を受け入れなければならない。彼女にとって最も許せない浮気をした男、それがエドガールだ。
「…最低…」
アメリは力なく呟き、肩を落として俯く。綺麗さっぱりとエドガールへの気持ちがなくなったわけではない。けれど、浮気をした男と関係を続けていくことなど、アメリには受け入れ難かった。
「アメリ、待ってくれ!これは、その…違う…違うんだ!」
エドガールはアメリを引き留めようと声を上げる。アメリは、先程の言葉通りに終わりだと言わんばかりに踵を返し、決して振り返ることなくエドガールに背を向けた。
「アメリ…っ」
諦め悪く、エドガールはアメリに手を伸ばす。その手は彼女に届く前にはたき落とされたが、それを阻止したのは意外な人物だった。
「このクズ、触るんじゃないわよ!」
「レ、レイラ…」
つい先程まで熱い抱擁と口付けを交わしていたはずの婚約者、レイラだ。彼女が目尻をぎりりと吊り上げながら睨みつけると、エドガールはその剣幕に圧されて口を噤み、身を縮こまらせる。
「いい、覚悟しておきなさいよ。私たちの時間を無駄にしてくれた礼は、たっぷりさせてもらうわ」
「ちょっ、待ってくれ!」
「待つわけないでしょう、この阿呆が!」
「ぎゃっ」
レイラは追いかけようとしたエドガールの股間を蹴り上げる。短い悲鳴を上げ、エドガールは両手で股間を抑えながらその場に倒れ込んだ。
(何、これ…)
野次馬は大喜び、アメリは眼の前で繰り広げられた珍劇に口を半開きにして立ち尽くした。あまりのことに声も出せず、動けもせずに呆然としていたアメリの腕を、レイラが引く。
「ほら、行くわよ」
「あ…」
アメリは情けない声でうめいているエドガールを見下ろし、直ぐにレイラを見上げた。なぜレイラが婚約者の浮気相手である女を助けるのか、エドガールは大丈夫なのか。アメリはわからないことだらけだったが、少なくとも、今日が最低最悪な誕生日だということだけは、よくわかった。
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