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もう一度、多田羅に太陽を
34、蒼然の告白
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母、舞衣子に抱きしめられていたはずだった。しかし自分を見下ろす瞳は冷たい。それが蒼然であると気づいた朱実は、驚きと同時に眩暈を覚えた。
「うっ......」
彼女は本当に記憶をなくした母だったのだろうか。どうして突然今になって朱実の前に現れたのか。蒼然はそれを初めから知っていたのか。泰然はこのことに気づかなかったのだろうか。考えているうちにひどい頭痛がしていつのまにか気を失っていた。
目が覚めたのは自分の部屋の布団の中だった。清潔な浴衣を着せられている。
「もしかして、蒼然さまが?」
ゆっくりと起き上がり、障子を開けた。雨は上がり、雲の隙間から夜空が顔を出している。ずいぶんと降ったのだろうか、雨樋から雨水が流れる音がしていた。
朱実はすぐに着替えて台所に向かった。夕飯の支度をしなければいけないと思い出したからだ。
◇
台所では、お米の炊きあがる匂いがしていた。そこにはいつものように蒼然が一人立ち、忙しそうに手を動かしている。朱実は急いで隣に並び、手を洗った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。手伝います」
「では、お味噌をといてくださいませんか。味を調えたらそれで出来上がりです」
「はい。分かりました」
蒼然は朱実が気を失ったことについて、とくに何も触れては来なかった。ただ、淡々と包丁を動かし、鍋に材料を入れていく。朱実はそれを見ながら、必要な皿やお椀を食器棚から出して並べた。今夜は鍋のようだ。里芋、にんじん、大根、白菜、ごぼう、そしてお肉。
「このお肉は鶏肉でしょうか。いつも見るお肉とは違って見えます」
「これは、猪肉。そしてそれは、鹿肉です。繁殖しすぎて田畑が荒らされるようになったので、駆除したそうです」
「猪肉と、鹿肉ですか。初めてです」
「最近は、ジビエ料理のお店が増えたそうですね。それだけ自然繁殖で頭数が増えているということです。放っておくと田畑が荒らされるだけでなく、町に降りてきて民家に入ったり、人間が襲われたりしますしね」
「ええ! そんなことがあるんですか」
「山の餌が足りないのです」
蒼然はそういいながら味を整え終わった鍋を、リビングのテーブルの上に置いた。神でありながら人の生活を営む姿は朱実には奇妙に映った。泰然ですら身の回りのことは神使に任せていた。それなのに蒼然は神使もつけず、ただ一人でこの家に住み、神社を守っている。
「さあ、いただきましょうか」
「はい。いただきます」
炊き立てのご飯、丁寧に出汁をとったお味噌汁、ご近所からいただいた猪肉と鹿肉のお鍋をいただく。ここに来てからは、食事をすることのありがたさを感じられるようになった。
命をいただいて、命をつなぐ。これがどれほどに尊いことなのかを考える。
そういえば朝のお勤めの時、参拝者は蒼然の姿が見えていなかったはずだ。それなのにどうやって彼は人々と交流をしているのだろうか。
「何か、聞きたいことがあるのでしょう。遠慮せずにおっしゃってください」
「えっ」
「先ほど、雨の中でのこと。わたしがどうしてこの土地に住んでいるのか......など、疑問でいっぱいなのでしょう」
いつも伏し目がちに話をする蒼然が、ゆっくりと瞼を上げて朱実を見つめる。長くて美しい銀色の睫毛が、さわっと揺れた。目尻にのせた紅色のシャドウが舞衣子を思い出させる。今聞かなければ、ずっと知ることなく時間だけが過ぎていく気がした。それは駄目だと思った。
「雨が降り出して、びしょびしょに濡れ始めたときに、知らない女性が傘をさしてくれました。蒼然さまと同じ色の着物を着た綺麗な人でした。とても信じられないのですが、その人は病気で死んだわたしの母親と同じ名前でした。わたしの記憶が間違っていなければ、彼女は母と同じ顔をしています。でもその人は、何も覚えていないそうです。人として生きていた頃の記憶は一切ないと言いました。彼女はわたしの母だと、思ってよいですか?」
「ずいぶんと、いろいろな話をされたんですね」
蒼然は驚く様子もなく、いつもの口調でそう言った。それはまるで、いずれそういう日が来ることを、知っていたかのような反応だった。
「蒼然さま。母は神に生まれ変わったと言っていました。わたしの家では、亡くなった人は、その土地や家に残ると教わりましたが、ここは賢木家には縁のない場所です。母があなたの傍がいいと望んだからなのですか? 母は自分の気持に嘘をついて、父と結婚をしわたしを産んだのでしょうか。本当はっ」
「違います」
心から愛していたのは父ではなく、神である蒼然だったのではないか。そう言おうとした。
しかし、蒼然は違うと少し怒ったように言い切った。
「だったら、どうして母は多田羅で神にならなかったのですか。記憶を無くしてしまったのはなぜですか」
「舞衣子が自ら姿を現したのですから、あなたには全てをお話ししなければいけませんね」
いつも、何を考えているのか掴みどころのない蒼然が、この時ばかりは悲痛な面持ちで朱実を見ていた。なにか、大事な話が始まるのだと、覚悟をした。
「わたしが土地神として、多田羅に住み始めてすぐの頃、多田羅神社に可愛らしい女の子が生まれました。のちにあなたの母となる、舞衣子です。舞衣子はよく熱を出す子で、宮司をしていた父は、その度にわたしに助けを求めていました。風師であるわたしは疫病などを祓う力からがありますので……」
その頃はまだ、蒼然は誰にも姿を見せていなかった。しかし、風師が土地神であると知っていた舞衣子の父は、いつも蒼然に手を合わせていた。舞衣子の母は、娘を産んでまもなく亡くなっていたので、男手ひとつの不安が大きかったのだろう。
見かねた蒼然はとうとうその姿を現したのだった。
「人間の前に姿を現すと、驚くどころか手をとって喜んでくださいました。こんなにも人から求められ、有り難がられるなんて神冥利に尽きるというものです。それから、多田羅の町のために神社のために、そして舞衣子のためにわたしの力を使いました。大事なことに蓋をしたまま、わたしはまだ小さな舞衣子に恋をしたのです」
秋になると、舞衣子は愛くるしい瞳で、見よう見まねで覚えた狐の舞を人々に披露した。舞を教えたのは蒼然だった。日に日に成長し、町の人からも愛される舞衣子に蒼然は満たされた気持ちでいた。
まるで自分が育てたかのような気持ちになっていたのだ。
「しかし、わたしは神なのです……」
蒼然はとても悲しげな表情でそう言った。
「美しい大人の女性に成長した舞衣子に、父でもある宮司が結婚相手を連れてきました」
「それって、わたしの父である賢木柊二ですね」
「はい」
蒼然は神であることを忘れ、人間に嫉妬した。いつからそう思うようになったのか。舞衣子は自分のものだと、自分以外の誰のものにもならないと思い込んでいた。
「わたしは神であることを忘れるくらい、嫉妬に狂いました。舞衣子にはそれを見せぬように、そうすればするほどに苦しくなり、多田羅の空は不安定になりました。舞衣子が悲しげに空を見上げる日々が増え、居た堪れなくなったわたしは秋の大祭を最後に多田羅を去りました」
「父は責任を感じています。自分が神を祓ったから多田羅の作物はよくならないって」
朱実がそう言うと、蒼然は首を横に振った。やはり、神は神、人が祓うことなどあり得ないのだ。
「わたしは、祓われたふりをしました。今はそうすべきではなかったと思っています」
「蒼然さまは母のことを愛していたのですね。じゃあ、母は? 蒼然さまのこと」
「どうでしょうか。わたしは舞衣子に想いは告げていませんので」
蒼然が悲痛な面持ちで目を伏せた。
「えっ! では、なぜ母はここに神としているのですか」
思ってもいなかった蒼然の言葉に驚く。二人は想いが通じていたからこその苦しい決断だったのだと、信じていたからだ。人の世を去り、愛する人のそばで神として生きることを母が選んだのだと。
「舞衣子が命を終える原因となった病をご存知ですか? 朱実さんは小さかったからご存知ないかもしれませんね。その病は彼女が死んだあと、土地神となっても残っていました。それをわたしは利用したのです」
「どういうことですか?」
「本来ならば多田羅やあなたの家の氏神になるところを、わたしが攫ったのです。なにも知らない子どものような心を持った舞衣子を、わたしが!」
金木犀の強い香りが充満した。蒼然の感情が昂っているのかもしれない。その強い香りに胸の奥が苦しくなった。袖で口元を抑えながら、呼吸を整える。
「待ってください。そこに母の意思はなく、ということですか。理解が、追いつきません。ちょっと、混乱して、あ、あの……頭が、痛くて――」
もうその場に座っていられなくなった。朱実は薄れゆく視界の中、泰然を呼ぶ。
(泰然さま……、泰然さま)
「うっ......」
彼女は本当に記憶をなくした母だったのだろうか。どうして突然今になって朱実の前に現れたのか。蒼然はそれを初めから知っていたのか。泰然はこのことに気づかなかったのだろうか。考えているうちにひどい頭痛がしていつのまにか気を失っていた。
目が覚めたのは自分の部屋の布団の中だった。清潔な浴衣を着せられている。
「もしかして、蒼然さまが?」
ゆっくりと起き上がり、障子を開けた。雨は上がり、雲の隙間から夜空が顔を出している。ずいぶんと降ったのだろうか、雨樋から雨水が流れる音がしていた。
朱実はすぐに着替えて台所に向かった。夕飯の支度をしなければいけないと思い出したからだ。
◇
台所では、お米の炊きあがる匂いがしていた。そこにはいつものように蒼然が一人立ち、忙しそうに手を動かしている。朱実は急いで隣に並び、手を洗った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。手伝います」
「では、お味噌をといてくださいませんか。味を調えたらそれで出来上がりです」
「はい。分かりました」
蒼然は朱実が気を失ったことについて、とくに何も触れては来なかった。ただ、淡々と包丁を動かし、鍋に材料を入れていく。朱実はそれを見ながら、必要な皿やお椀を食器棚から出して並べた。今夜は鍋のようだ。里芋、にんじん、大根、白菜、ごぼう、そしてお肉。
「このお肉は鶏肉でしょうか。いつも見るお肉とは違って見えます」
「これは、猪肉。そしてそれは、鹿肉です。繁殖しすぎて田畑が荒らされるようになったので、駆除したそうです」
「猪肉と、鹿肉ですか。初めてです」
「最近は、ジビエ料理のお店が増えたそうですね。それだけ自然繁殖で頭数が増えているということです。放っておくと田畑が荒らされるだけでなく、町に降りてきて民家に入ったり、人間が襲われたりしますしね」
「ええ! そんなことがあるんですか」
「山の餌が足りないのです」
蒼然はそういいながら味を整え終わった鍋を、リビングのテーブルの上に置いた。神でありながら人の生活を営む姿は朱実には奇妙に映った。泰然ですら身の回りのことは神使に任せていた。それなのに蒼然は神使もつけず、ただ一人でこの家に住み、神社を守っている。
「さあ、いただきましょうか」
「はい。いただきます」
炊き立てのご飯、丁寧に出汁をとったお味噌汁、ご近所からいただいた猪肉と鹿肉のお鍋をいただく。ここに来てからは、食事をすることのありがたさを感じられるようになった。
命をいただいて、命をつなぐ。これがどれほどに尊いことなのかを考える。
そういえば朝のお勤めの時、参拝者は蒼然の姿が見えていなかったはずだ。それなのにどうやって彼は人々と交流をしているのだろうか。
「何か、聞きたいことがあるのでしょう。遠慮せずにおっしゃってください」
「えっ」
「先ほど、雨の中でのこと。わたしがどうしてこの土地に住んでいるのか......など、疑問でいっぱいなのでしょう」
いつも伏し目がちに話をする蒼然が、ゆっくりと瞼を上げて朱実を見つめる。長くて美しい銀色の睫毛が、さわっと揺れた。目尻にのせた紅色のシャドウが舞衣子を思い出させる。今聞かなければ、ずっと知ることなく時間だけが過ぎていく気がした。それは駄目だと思った。
「雨が降り出して、びしょびしょに濡れ始めたときに、知らない女性が傘をさしてくれました。蒼然さまと同じ色の着物を着た綺麗な人でした。とても信じられないのですが、その人は病気で死んだわたしの母親と同じ名前でした。わたしの記憶が間違っていなければ、彼女は母と同じ顔をしています。でもその人は、何も覚えていないそうです。人として生きていた頃の記憶は一切ないと言いました。彼女はわたしの母だと、思ってよいですか?」
「ずいぶんと、いろいろな話をされたんですね」
蒼然は驚く様子もなく、いつもの口調でそう言った。それはまるで、いずれそういう日が来ることを、知っていたかのような反応だった。
「蒼然さま。母は神に生まれ変わったと言っていました。わたしの家では、亡くなった人は、その土地や家に残ると教わりましたが、ここは賢木家には縁のない場所です。母があなたの傍がいいと望んだからなのですか? 母は自分の気持に嘘をついて、父と結婚をしわたしを産んだのでしょうか。本当はっ」
「違います」
心から愛していたのは父ではなく、神である蒼然だったのではないか。そう言おうとした。
しかし、蒼然は違うと少し怒ったように言い切った。
「だったら、どうして母は多田羅で神にならなかったのですか。記憶を無くしてしまったのはなぜですか」
「舞衣子が自ら姿を現したのですから、あなたには全てをお話ししなければいけませんね」
いつも、何を考えているのか掴みどころのない蒼然が、この時ばかりは悲痛な面持ちで朱実を見ていた。なにか、大事な話が始まるのだと、覚悟をした。
「わたしが土地神として、多田羅に住み始めてすぐの頃、多田羅神社に可愛らしい女の子が生まれました。のちにあなたの母となる、舞衣子です。舞衣子はよく熱を出す子で、宮司をしていた父は、その度にわたしに助けを求めていました。風師であるわたしは疫病などを祓う力からがありますので……」
その頃はまだ、蒼然は誰にも姿を見せていなかった。しかし、風師が土地神であると知っていた舞衣子の父は、いつも蒼然に手を合わせていた。舞衣子の母は、娘を産んでまもなく亡くなっていたので、男手ひとつの不安が大きかったのだろう。
見かねた蒼然はとうとうその姿を現したのだった。
「人間の前に姿を現すと、驚くどころか手をとって喜んでくださいました。こんなにも人から求められ、有り難がられるなんて神冥利に尽きるというものです。それから、多田羅の町のために神社のために、そして舞衣子のためにわたしの力を使いました。大事なことに蓋をしたまま、わたしはまだ小さな舞衣子に恋をしたのです」
秋になると、舞衣子は愛くるしい瞳で、見よう見まねで覚えた狐の舞を人々に披露した。舞を教えたのは蒼然だった。日に日に成長し、町の人からも愛される舞衣子に蒼然は満たされた気持ちでいた。
まるで自分が育てたかのような気持ちになっていたのだ。
「しかし、わたしは神なのです……」
蒼然はとても悲しげな表情でそう言った。
「美しい大人の女性に成長した舞衣子に、父でもある宮司が結婚相手を連れてきました」
「それって、わたしの父である賢木柊二ですね」
「はい」
蒼然は神であることを忘れ、人間に嫉妬した。いつからそう思うようになったのか。舞衣子は自分のものだと、自分以外の誰のものにもならないと思い込んでいた。
「わたしは神であることを忘れるくらい、嫉妬に狂いました。舞衣子にはそれを見せぬように、そうすればするほどに苦しくなり、多田羅の空は不安定になりました。舞衣子が悲しげに空を見上げる日々が増え、居た堪れなくなったわたしは秋の大祭を最後に多田羅を去りました」
「父は責任を感じています。自分が神を祓ったから多田羅の作物はよくならないって」
朱実がそう言うと、蒼然は首を横に振った。やはり、神は神、人が祓うことなどあり得ないのだ。
「わたしは、祓われたふりをしました。今はそうすべきではなかったと思っています」
「蒼然さまは母のことを愛していたのですね。じゃあ、母は? 蒼然さまのこと」
「どうでしょうか。わたしは舞衣子に想いは告げていませんので」
蒼然が悲痛な面持ちで目を伏せた。
「えっ! では、なぜ母はここに神としているのですか」
思ってもいなかった蒼然の言葉に驚く。二人は想いが通じていたからこその苦しい決断だったのだと、信じていたからだ。人の世を去り、愛する人のそばで神として生きることを母が選んだのだと。
「舞衣子が命を終える原因となった病をご存知ですか? 朱実さんは小さかったからご存知ないかもしれませんね。その病は彼女が死んだあと、土地神となっても残っていました。それをわたしは利用したのです」
「どういうことですか?」
「本来ならば多田羅やあなたの家の氏神になるところを、わたしが攫ったのです。なにも知らない子どものような心を持った舞衣子を、わたしが!」
金木犀の強い香りが充満した。蒼然の感情が昂っているのかもしれない。その強い香りに胸の奥が苦しくなった。袖で口元を抑えながら、呼吸を整える。
「待ってください。そこに母の意思はなく、ということですか。理解が、追いつきません。ちょっと、混乱して、あ、あの……頭が、痛くて――」
もうその場に座っていられなくなった。朱実は薄れゆく視界の中、泰然を呼ぶ。
(泰然さま……、泰然さま)
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