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土地神さまと狐の舞
2、逢う魔時
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神事を終えた朱実は宮司に挨拶をした。
「今年も滞りなく終えることができました。ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方だ。朱実ちゃん、ありがとうね。狐の舞を踊れる者がなかなかいなくてね。しかし、去年に増して良い舞だった」
「ありがとうございます」
朱実は15歳からこの椎ノ宮で五穀豊穣の舞を奉納している。別名、狐の舞は複雑な動きが多いため、舞える者が少ないという。
「あの、和寿おじさん。ずっと疑問に思っていたことがあるんです」
「なんだい、言ってごらん」
椎ノ宮で宮司を務めるのは釘宮和寿、朱実の父の兄である。
「どうして多田羅神社では舞うことができないんでしょうか。父から小さい時に隠り世の鬼が攫いにくると聞きましたが、そんなことがあるとは思えません。だって、神様に捧げる舞なのに」
「それは……」
多田羅神社に昔からある狐の面は、隣町の神事で使うことができても当の多田羅神社では使うことを許されていない。それは氏子たちも承知のことだ。
多田羅神社での五穀豊穣を祝う大祭は、宮司である父柊二が翁の面をつけて舞っている。
それは朱実の母舞衣子が死去してからずっとだ。多田羅神社では巫女が舞うことはない。
釘宮は言葉に詰まり、手元の湯呑みに手を伸ばした。少し冷めたお茶を喉に送り込むと、困った様子で口を開いた。
「柊二はね、舞衣子さんのように君を失いたくないんだよ」
「私の母が何か関係しているんですか? 聞いたことありませんでした」
「そうだろうね。なかなか説明が難しいと思うよ。わたしもそれが本当にあったことなのか、信じ難いことだったしね。柊二は日暮れどきを嫌うだろ。朱実ちゃんの門限は季節で違ったよね」
賢木家には厳しい門限があった。その門限のせいで、朱実は学校の部活動がままならなかったのだから。
「はい。春分の日が過ぎたら午後6時まで、秋分の日以降は午後5時までに帰り着くようにって」
「昼と夜の境目を夕方とか黄昏時というけれど、それを逢う魔時とも言うんだ。魔物に遭遇しやすい時間帯なんだそうだよ。多田羅にある鎮守の杜は隠り世と繋がっているらしくてね。とくに若い女性はその時間帯を避けなければならない。でなければ病気になったり災禍が降りかかると言われている」
「まさか、母がその逢う魔時に?」
「詳しくは、お父さんに聞きなさい。もう君は成人だから、隠しておく必要はないだろう。私からも話してあげるように伝えておくから」
「はい。よろしくお願いします」
「そうだ、この土産を持ってお帰り。氏子さんたちが新米で作ったいなり寿司だ」
「わぁ、美味しそう。ありがとうございます!」
朱実が土産にもらったいなり寿司を持ってバスに乗ると、秋晴れの空から霧雨が降り始めた。太陽の日差しに反射して、金色にキラキラと輝きながらまるでそれは稲穂のシャワーの様にも見えた。
◇
珍しく渋滞に巻き込まれて、朱実が地元のバス停に着いたのは30分遅れの午後4時半。秋分の日はまだ先なので門限時間は6時だ。
徒歩で帰っても5時前には家に着くと、朱実は安心して歩き始めた。
「こんなこともあろうかと、予定より早いバスに乗ってよかった。早め早めの行動が功を成すわよね。余裕、余裕っ」
町の入り口が鎮守の杜で、その奥に神社の鳥居が見える。その先に多田羅の町が広がっているのだ。鎮守の杜を通らねば多田羅町には踏み込めない。
昔の人は、多田羅に歓迎されない人間は鎮守の杜で迷い、元きた道に出てしまう。選ばれた人間しか住むことができない町だと言っていたそうだ。
今は車で通れるように舗装されているし、街灯もある。そんなに鬱蒼とした場所ではないし、とくに御神木の周辺は神の拠り所としてふさわしいほどの、神秘的な空気を纏っている。
最近はその風景を写真に収めたいと、観光客がやってくるほどだ。
バスから降りて、鎮守の杜方面に向かって歩き出したのは、朱実の他に若い男性がもう一人。この辺りでは見かけない人だが、観光客も多いので朱実は気にすることなく歩いていた。
すると、
「あの、すみません」
ちょうど町の入り口、鎮守の杜に差し掛かったとき、男が朱実を呼び止めた。朱実は怪しむ様子もなく立ち止まる。
「はい、なにか」
「ちょっと道を教えて欲しいのですが、地図を見てもらえますか」
「ええいいですよ。どこに行かれるんですか?」
しかし、男が広げた地図はどこかの電気屋のしわくちゃになった広告だった。朱実は首を傾げながら男の顔を見た。
「あの、ここのお店に行きたいのですか?」
「へへっ。君、いい匂いがするね。俺、ずっと後を追いかけてたんだ。椎ノ宮の、狐の巫女さんでしょ」
「えっ、なに! 離して!」
男はいつのまにか朱実の手首を掴んでいた。朱実はその手を振り解こうと足掻いてみたが、足掻くほどに男の指は手首に食い込んでいく。
「痛いから、やめてください! なんなんですか! 警察呼びますよ!」
朱実は掴まれていない反対の手でスマートフォンを探る。それを見た男は乱暴な口調になった。
「うるさいな! こっちに来いよ!」
「キャァッ」
男は朱実を引き倒すと、森の中に引きずり始めた。その弾みでバッグにしまっていた狐の面が転げ落ちる。
男はそれに構うふうもなく朱実を引っ張り続けた。そして、大きな木の根本までくると、ようやく朱実の手首を解放した。
驚きと恐怖で朱実の体は動かない。それでも逃げようと地面を蹴ったが土が滑って少しも移動できない。
背中には大木、目の前には見知らぬ男が立ちはだかる。心臓が壊れそうなほどに大きな音で鳴り、息は浅く速くなり朱実はパニックに陥った。
「だっ……れ、か」
声も出せない。
「さっきの勢いはどこに行ったんだよ。あはは、女ってこんなもんなんだな。かわいいーよな。俺みたいなひょろいモテない男でもさ、簡単に転がせるんだもんな」
「はっ、はっ……や、やめっ」
「震えてるじゃん。はぁ……たまんね。ねえ、痛いことしないからじっとしててくれないかな。少しの時間でいいからさ、俺のこと見てくれよ」
「ひ、いやっ……」
朱実は助けを求めようと口を開いたが、喉の奥が異様に渇いて音にならない。男は嬉しそうに朱実を見下ろして自分の唇を何度も舐める。
男が言うように、朱実は自分の非力さに情けなさが込み上げてきた。何一つ抵抗できやしない。このよく知った我が町でこんな事になるなんて思いもしなかった。
「その目、そそるから。やべぇ、優しくできっかなー。ほんと久しぶりだからさ、こういうこと」
よだれを垂らしそうな勢いで男はそう言い、袖で口元を拭った。そしておもむろにベルトに手をかけ緩め始める。朱実はただそれを見ているだけだった。
「いい子だなオマエ。すげぇいい子じゃん」
男は朱実の頬に触れ、ため息まじりにそう囁いた。だんだんと男の息が荒くなる。大人しくしている朱実に興奮しているのだろう。
「俺さ、罰当たりになるのかな。巫女さんをさ、ヤっちゃったら……、神様に叱られるのかな。ぐははは! 想像しただけで勃つ!」
先ほどまで晴れていた空を厚い雲が覆い始めた。森の木々が風に吹かれ葉を揺らす。風が吹き葉が擦れ、枝がしなる不気味な音が大きくなった。
男は尚もまだ喋っているが、それら音のせいで何を言っているのか聞き取れない。ただ、厭らしい目つきで朱実の身体を見ている。
その眼に、優しさや心遣いは微塵もない。
「巫女の衣装じゃないのが残念だけど、まあ、いいか。贅沢すぎるよな、はぁー、俺も震えてきた」
「ごめ、ごめんなさい」
父を悲しませてしまう。朱実はそんなことを考えていた。妻を亡くし、一人娘にまでなにかあったら、どれほど父は傷つくだろうか。
朱実の声はいまだ出ず、ただ心の中で叫んだ。
(助けてください。お願い、神さまっ……いるのなら、助けて!)
「ごめんな、狐の巫女さん」
男の顔が朱実の首元に近づいた。男の興奮した息遣いが肌を掠める。あまりにもの憎悪に身体が硬直した。
(いやだぁ! 鎮守の杜の神さまのバカー!)
ザザザザーッ……ザザザザーッ!
急に周囲が暗転した。朱実に覆い被さる男の動きがぴたりと止まる。すると、今度は別の男の声がした。
「馬鹿とはひどい言われようだな」
大きな黒い影が朱実たちの上に立ち、見下ろしている。風が吹き厚い雲がほんの少し動いたとき、朱実は大きな黒い影に顔がある事に気づいた。その顔には狐の面がつけられている。
「ああっ……」
恐ろしいという感情を遥かに超える圧力が朱実を襲った。
もうこの命は無いと、覚悟した。
「今年も滞りなく終えることができました。ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方だ。朱実ちゃん、ありがとうね。狐の舞を踊れる者がなかなかいなくてね。しかし、去年に増して良い舞だった」
「ありがとうございます」
朱実は15歳からこの椎ノ宮で五穀豊穣の舞を奉納している。別名、狐の舞は複雑な動きが多いため、舞える者が少ないという。
「あの、和寿おじさん。ずっと疑問に思っていたことがあるんです」
「なんだい、言ってごらん」
椎ノ宮で宮司を務めるのは釘宮和寿、朱実の父の兄である。
「どうして多田羅神社では舞うことができないんでしょうか。父から小さい時に隠り世の鬼が攫いにくると聞きましたが、そんなことがあるとは思えません。だって、神様に捧げる舞なのに」
「それは……」
多田羅神社に昔からある狐の面は、隣町の神事で使うことができても当の多田羅神社では使うことを許されていない。それは氏子たちも承知のことだ。
多田羅神社での五穀豊穣を祝う大祭は、宮司である父柊二が翁の面をつけて舞っている。
それは朱実の母舞衣子が死去してからずっとだ。多田羅神社では巫女が舞うことはない。
釘宮は言葉に詰まり、手元の湯呑みに手を伸ばした。少し冷めたお茶を喉に送り込むと、困った様子で口を開いた。
「柊二はね、舞衣子さんのように君を失いたくないんだよ」
「私の母が何か関係しているんですか? 聞いたことありませんでした」
「そうだろうね。なかなか説明が難しいと思うよ。わたしもそれが本当にあったことなのか、信じ難いことだったしね。柊二は日暮れどきを嫌うだろ。朱実ちゃんの門限は季節で違ったよね」
賢木家には厳しい門限があった。その門限のせいで、朱実は学校の部活動がままならなかったのだから。
「はい。春分の日が過ぎたら午後6時まで、秋分の日以降は午後5時までに帰り着くようにって」
「昼と夜の境目を夕方とか黄昏時というけれど、それを逢う魔時とも言うんだ。魔物に遭遇しやすい時間帯なんだそうだよ。多田羅にある鎮守の杜は隠り世と繋がっているらしくてね。とくに若い女性はその時間帯を避けなければならない。でなければ病気になったり災禍が降りかかると言われている」
「まさか、母がその逢う魔時に?」
「詳しくは、お父さんに聞きなさい。もう君は成人だから、隠しておく必要はないだろう。私からも話してあげるように伝えておくから」
「はい。よろしくお願いします」
「そうだ、この土産を持ってお帰り。氏子さんたちが新米で作ったいなり寿司だ」
「わぁ、美味しそう。ありがとうございます!」
朱実が土産にもらったいなり寿司を持ってバスに乗ると、秋晴れの空から霧雨が降り始めた。太陽の日差しに反射して、金色にキラキラと輝きながらまるでそれは稲穂のシャワーの様にも見えた。
◇
珍しく渋滞に巻き込まれて、朱実が地元のバス停に着いたのは30分遅れの午後4時半。秋分の日はまだ先なので門限時間は6時だ。
徒歩で帰っても5時前には家に着くと、朱実は安心して歩き始めた。
「こんなこともあろうかと、予定より早いバスに乗ってよかった。早め早めの行動が功を成すわよね。余裕、余裕っ」
町の入り口が鎮守の杜で、その奥に神社の鳥居が見える。その先に多田羅の町が広がっているのだ。鎮守の杜を通らねば多田羅町には踏み込めない。
昔の人は、多田羅に歓迎されない人間は鎮守の杜で迷い、元きた道に出てしまう。選ばれた人間しか住むことができない町だと言っていたそうだ。
今は車で通れるように舗装されているし、街灯もある。そんなに鬱蒼とした場所ではないし、とくに御神木の周辺は神の拠り所としてふさわしいほどの、神秘的な空気を纏っている。
最近はその風景を写真に収めたいと、観光客がやってくるほどだ。
バスから降りて、鎮守の杜方面に向かって歩き出したのは、朱実の他に若い男性がもう一人。この辺りでは見かけない人だが、観光客も多いので朱実は気にすることなく歩いていた。
すると、
「あの、すみません」
ちょうど町の入り口、鎮守の杜に差し掛かったとき、男が朱実を呼び止めた。朱実は怪しむ様子もなく立ち止まる。
「はい、なにか」
「ちょっと道を教えて欲しいのですが、地図を見てもらえますか」
「ええいいですよ。どこに行かれるんですか?」
しかし、男が広げた地図はどこかの電気屋のしわくちゃになった広告だった。朱実は首を傾げながら男の顔を見た。
「あの、ここのお店に行きたいのですか?」
「へへっ。君、いい匂いがするね。俺、ずっと後を追いかけてたんだ。椎ノ宮の、狐の巫女さんでしょ」
「えっ、なに! 離して!」
男はいつのまにか朱実の手首を掴んでいた。朱実はその手を振り解こうと足掻いてみたが、足掻くほどに男の指は手首に食い込んでいく。
「痛いから、やめてください! なんなんですか! 警察呼びますよ!」
朱実は掴まれていない反対の手でスマートフォンを探る。それを見た男は乱暴な口調になった。
「うるさいな! こっちに来いよ!」
「キャァッ」
男は朱実を引き倒すと、森の中に引きずり始めた。その弾みでバッグにしまっていた狐の面が転げ落ちる。
男はそれに構うふうもなく朱実を引っ張り続けた。そして、大きな木の根本までくると、ようやく朱実の手首を解放した。
驚きと恐怖で朱実の体は動かない。それでも逃げようと地面を蹴ったが土が滑って少しも移動できない。
背中には大木、目の前には見知らぬ男が立ちはだかる。心臓が壊れそうなほどに大きな音で鳴り、息は浅く速くなり朱実はパニックに陥った。
「だっ……れ、か」
声も出せない。
「さっきの勢いはどこに行ったんだよ。あはは、女ってこんなもんなんだな。かわいいーよな。俺みたいなひょろいモテない男でもさ、簡単に転がせるんだもんな」
「はっ、はっ……や、やめっ」
「震えてるじゃん。はぁ……たまんね。ねえ、痛いことしないからじっとしててくれないかな。少しの時間でいいからさ、俺のこと見てくれよ」
「ひ、いやっ……」
朱実は助けを求めようと口を開いたが、喉の奥が異様に渇いて音にならない。男は嬉しそうに朱実を見下ろして自分の唇を何度も舐める。
男が言うように、朱実は自分の非力さに情けなさが込み上げてきた。何一つ抵抗できやしない。このよく知った我が町でこんな事になるなんて思いもしなかった。
「その目、そそるから。やべぇ、優しくできっかなー。ほんと久しぶりだからさ、こういうこと」
よだれを垂らしそうな勢いで男はそう言い、袖で口元を拭った。そしておもむろにベルトに手をかけ緩め始める。朱実はただそれを見ているだけだった。
「いい子だなオマエ。すげぇいい子じゃん」
男は朱実の頬に触れ、ため息まじりにそう囁いた。だんだんと男の息が荒くなる。大人しくしている朱実に興奮しているのだろう。
「俺さ、罰当たりになるのかな。巫女さんをさ、ヤっちゃったら……、神様に叱られるのかな。ぐははは! 想像しただけで勃つ!」
先ほどまで晴れていた空を厚い雲が覆い始めた。森の木々が風に吹かれ葉を揺らす。風が吹き葉が擦れ、枝がしなる不気味な音が大きくなった。
男は尚もまだ喋っているが、それら音のせいで何を言っているのか聞き取れない。ただ、厭らしい目つきで朱実の身体を見ている。
その眼に、優しさや心遣いは微塵もない。
「巫女の衣装じゃないのが残念だけど、まあ、いいか。贅沢すぎるよな、はぁー、俺も震えてきた」
「ごめ、ごめんなさい」
父を悲しませてしまう。朱実はそんなことを考えていた。妻を亡くし、一人娘にまでなにかあったら、どれほど父は傷つくだろうか。
朱実の声はいまだ出ず、ただ心の中で叫んだ。
(助けてください。お願い、神さまっ……いるのなら、助けて!)
「ごめんな、狐の巫女さん」
男の顔が朱実の首元に近づいた。男の興奮した息遣いが肌を掠める。あまりにもの憎悪に身体が硬直した。
(いやだぁ! 鎮守の杜の神さまのバカー!)
ザザザザーッ……ザザザザーッ!
急に周囲が暗転した。朱実に覆い被さる男の動きがぴたりと止まる。すると、今度は別の男の声がした。
「馬鹿とはひどい言われようだな」
大きな黒い影が朱実たちの上に立ち、見下ろしている。風が吹き厚い雲がほんの少し動いたとき、朱実は大きな黒い影に顔がある事に気づいた。その顔には狐の面がつけられている。
「ああっ……」
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