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第二話 遠野眞子 ~初期衝動~
ピアノ
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二曲目を弾き終わり、拍手を受けて、聴衆に頭を下げた眞子さんは、スマホを耳にあてた。
「もしもし、お母さん。あのさ、ピアノやっぱり売らないで。……え? 調律してくれてるの? お金かかるのに。ありがとう。……うん。次の休み帰るね」
よかった。私の仲間は、また彼女に弾いてもらえるようだ。
初期衝動を取り戻した眞子さんは、楽しいことも辛いことも、ピアノと乗り越えるだろう。
熱情のこもった革命も素晴らしかったが、花の歌は癒し効果の高い演奏だった。
私自身の音であるにもかかわらず、うっとりしてしまった。
思い入れの強い曲というのは、気持ちを乗せやすいのだろう。
ピアノは弾く人によって音が変わる楽器だ。
同じ人でも状況や感情で音色が変わるのだと、再認識した。
その後、眞子さんは週に一回ほどのペースで駅を利用し、私の前を通り過ぎた。
演奏はしてもらえなかったが、私に優しい目を向けてくれていた。
一カ月ほどが経った頃、いつものスーツとは違うラフな洋服で夕方の駅に現れ、用事を終えて戻ってきた眞子さんは、ようやく私に触れてくれた。なにやら大きな荷物を持っている。
「この間はありがとう。お陰で、またピアノ始めたよ。趣味としてね。さて今日は何を弾かせてもらいましょう」
私に話しかけてくれる表情は、明るくて生き生きしている。
一カ月前は辛そうな顔をしていたが、吹っ切れるものがあったらしい。
どれどれ、何が彼女を変えたのか、覗かせてもらおう。
休日、実家に帰った眞子さんは自室のピアノのカバーをめくった。
数年触れられていないはずなのに、ピアノは埃ひとつなくきれいな艶を放っていた。
鍵盤の蓋を開けて、赤色のキーカバーを取り、音を鳴らす。狂いはない。
それから眞子さんは覚えている限りの、たくさんの曲を奏でた。
楽譜通りではなくても、ミスタッチをしても、気に留めることなく。
自身の中に湧き上がる音楽への情熱を、惜しみなく溢れさせている。
夢中で弾き続けていた眞子さんが手を止めたのは、二時間後だった。
指や腕を振ったり揉んだりしている。
現役のころに比べて、筋力が落ちているのだろう。よくつらなかったものだ。
父君が濡れタオルを用意して、指に当ててやっている。
ずっとそうしてやっていたのだろう、互いに慣れている感じがした。
それぞれに忙しい家族の大切なコミュニケーションだったと思われる。
ご両親は眞子さんの苦しみやつらさや苦悩に気づいていただろう。
学生時代も家を離れた今も。
一生懸命でまじめでひたむきな彼女を、陰でサポートしてきたご両親の思いや愛情は、使用されないピアノのメンテナンスをし続けてきたことからよくわかる。
そして、この時に、すべてが報われたのだということも。
ご両親はいつか、眞子さんがまたピアノに戻ってくると信じていたこことだろう。
つらいときはピアノが眞子さんを救うと信じていたのだろう。
プロにならなくていい。
大勢の人からの称賛なんてなくてもいい。
彼女の人生で、彼女を救うものがあればそれでいいと、見守り続けたのではないだろうか。
彼女は一人暮らしの自宅で練習をするため、電子ピアノを購入した。
近々催される同僚の結婚式でピアノを弾くらしい。
今、結婚式ソングとして有名なJポップを演奏し、道行く人々の足を再び立ち止まらせている。
眞子さんが持っていた大きな荷物は、結婚式で着るドレスが入っている。
わざわざ休日に店舗に足を運び、水瀬店長に選んでもらったようだ。
あなたが主役じゃないのよ、と呆れられたりしながら。
自分では選ばない少し派手なドレスにチャレンジしたようだ。
ぎくしゃくしていた店長との距離を一カ月で縮められた眞子さんは、仕事に楽しさを見出せるようになっていた。
以前に変更した店頭ディスプレイが、フォーマルを求めていたお客の目を惹き、来店客が増えた。
売上にも繋がり、アドバイスの正しさが水瀬店長にわかってもらえたようだ。
派手な衣装とフォーマルの両方を押していく方針にし、ディスプレイの変更を手伝いに行っている。
ディスプレイを変更してからのお客の動きを見るのも楽しみのひとつになっている。
結果が評価に繋がるのは時間がかかるし、成果が結果に繋がらないことも多々あるだろう。
大きな失敗をして、くたびれてしまうときもあるかもしれない。
でも彼女ならば、乗り越えるはずだ。
願いが叶わないことを他人のせいにして僻んでいた眞子さんが、大澤香のSNSを見るのを止め、頑張った自分を素直に褒めてみることを始めていた。
一日働いたら頑張った自分を褒め、だらだらした日でも身体を休められたのだから、明日の仕事頑張ろうと。
他人は他人、自分は自分。
今の自分にできることから、一歩一歩始めてみよう。そう切り替えられたようだ。
ときどきまじめな部分が顔を出すときもあるみたいだが。
十六年もの長い年月をピアノに傾けることができたのは、立派な才能だ。
プロを目指し、報われずに挫折したことも、よい経験になっているはずだ。
つらい思いをして傷を負っても、無駄にはならない。
そこで腐らずできることをコツコツ積み重ねていけば、実り豊かな人生となるだろう。
奏でる音もまた変わってくるはずだ。
私はあなたを応援している。
「もしもし、お母さん。あのさ、ピアノやっぱり売らないで。……え? 調律してくれてるの? お金かかるのに。ありがとう。……うん。次の休み帰るね」
よかった。私の仲間は、また彼女に弾いてもらえるようだ。
初期衝動を取り戻した眞子さんは、楽しいことも辛いことも、ピアノと乗り越えるだろう。
熱情のこもった革命も素晴らしかったが、花の歌は癒し効果の高い演奏だった。
私自身の音であるにもかかわらず、うっとりしてしまった。
思い入れの強い曲というのは、気持ちを乗せやすいのだろう。
ピアノは弾く人によって音が変わる楽器だ。
同じ人でも状況や感情で音色が変わるのだと、再認識した。
その後、眞子さんは週に一回ほどのペースで駅を利用し、私の前を通り過ぎた。
演奏はしてもらえなかったが、私に優しい目を向けてくれていた。
一カ月ほどが経った頃、いつものスーツとは違うラフな洋服で夕方の駅に現れ、用事を終えて戻ってきた眞子さんは、ようやく私に触れてくれた。なにやら大きな荷物を持っている。
「この間はありがとう。お陰で、またピアノ始めたよ。趣味としてね。さて今日は何を弾かせてもらいましょう」
私に話しかけてくれる表情は、明るくて生き生きしている。
一カ月前は辛そうな顔をしていたが、吹っ切れるものがあったらしい。
どれどれ、何が彼女を変えたのか、覗かせてもらおう。
休日、実家に帰った眞子さんは自室のピアノのカバーをめくった。
数年触れられていないはずなのに、ピアノは埃ひとつなくきれいな艶を放っていた。
鍵盤の蓋を開けて、赤色のキーカバーを取り、音を鳴らす。狂いはない。
それから眞子さんは覚えている限りの、たくさんの曲を奏でた。
楽譜通りではなくても、ミスタッチをしても、気に留めることなく。
自身の中に湧き上がる音楽への情熱を、惜しみなく溢れさせている。
夢中で弾き続けていた眞子さんが手を止めたのは、二時間後だった。
指や腕を振ったり揉んだりしている。
現役のころに比べて、筋力が落ちているのだろう。よくつらなかったものだ。
父君が濡れタオルを用意して、指に当ててやっている。
ずっとそうしてやっていたのだろう、互いに慣れている感じがした。
それぞれに忙しい家族の大切なコミュニケーションだったと思われる。
ご両親は眞子さんの苦しみやつらさや苦悩に気づいていただろう。
学生時代も家を離れた今も。
一生懸命でまじめでひたむきな彼女を、陰でサポートしてきたご両親の思いや愛情は、使用されないピアノのメンテナンスをし続けてきたことからよくわかる。
そして、この時に、すべてが報われたのだということも。
ご両親はいつか、眞子さんがまたピアノに戻ってくると信じていたこことだろう。
つらいときはピアノが眞子さんを救うと信じていたのだろう。
プロにならなくていい。
大勢の人からの称賛なんてなくてもいい。
彼女の人生で、彼女を救うものがあればそれでいいと、見守り続けたのではないだろうか。
彼女は一人暮らしの自宅で練習をするため、電子ピアノを購入した。
近々催される同僚の結婚式でピアノを弾くらしい。
今、結婚式ソングとして有名なJポップを演奏し、道行く人々の足を再び立ち止まらせている。
眞子さんが持っていた大きな荷物は、結婚式で着るドレスが入っている。
わざわざ休日に店舗に足を運び、水瀬店長に選んでもらったようだ。
あなたが主役じゃないのよ、と呆れられたりしながら。
自分では選ばない少し派手なドレスにチャレンジしたようだ。
ぎくしゃくしていた店長との距離を一カ月で縮められた眞子さんは、仕事に楽しさを見出せるようになっていた。
以前に変更した店頭ディスプレイが、フォーマルを求めていたお客の目を惹き、来店客が増えた。
売上にも繋がり、アドバイスの正しさが水瀬店長にわかってもらえたようだ。
派手な衣装とフォーマルの両方を押していく方針にし、ディスプレイの変更を手伝いに行っている。
ディスプレイを変更してからのお客の動きを見るのも楽しみのひとつになっている。
結果が評価に繋がるのは時間がかかるし、成果が結果に繋がらないことも多々あるだろう。
大きな失敗をして、くたびれてしまうときもあるかもしれない。
でも彼女ならば、乗り越えるはずだ。
願いが叶わないことを他人のせいにして僻んでいた眞子さんが、大澤香のSNSを見るのを止め、頑張った自分を素直に褒めてみることを始めていた。
一日働いたら頑張った自分を褒め、だらだらした日でも身体を休められたのだから、明日の仕事頑張ろうと。
他人は他人、自分は自分。
今の自分にできることから、一歩一歩始めてみよう。そう切り替えられたようだ。
ときどきまじめな部分が顔を出すときもあるみたいだが。
十六年もの長い年月をピアノに傾けることができたのは、立派な才能だ。
プロを目指し、報われずに挫折したことも、よい経験になっているはずだ。
つらい思いをして傷を負っても、無駄にはならない。
そこで腐らずできることをコツコツ積み重ねていけば、実り豊かな人生となるだろう。
奏でる音もまた変わってくるはずだ。
私はあなたを応援している。
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