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三章 過去の行い

14.橘宏樹2

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「亜矢さんと初めて関係を持ったのは、いつ頃ですか」
 運ばれて来ていたアイスコーヒーに口をつけてから、橘宏樹が質問に答えた。

「その日です」
「初めて飲みに行ったその日、ですか」

「はい。でも俺にはその日の記憶はないので、彼女が言ったのですが」
「記憶がないというのは飲み過ぎてですか」

「久しぶりに開放された気分で、つい飲み過ぎてしまって。支払いをしたことも店を出た記憶もないんです。目が覚めたらホテルにいました。裸で」

 言いにくそうにもじもじしている。芙季子たちから視線を外し、テーブルの辺りをうろうろと彷徨わせている。

「亜矢さんと行為に至った記憶は?」
「ありません。でも彼女が言うなら本当だろうと思って。それに写真も見せられて」

「どういう写真ですか」
「裸の俺と亜矢がくっついている写真です」

「捏造されたとは思わなかったんですか」
「記憶にないですからね。何を言われても仕方ないですよ」

 橘宏樹は疲れたような笑いを見せた。

「その後も関係は続くんですね」
「はい。1週間に一度くらいの頻度で会いました」

「あなたから誘うんですか。亜矢さんからですか」

「その時々です。休日の昼間に会ったり、夜お店に行ったり。あの頃の亜矢は優しくて甘え上手で、物を欲しがるわけではないんです。寂しいからたまに会ってくれると嬉しいと言われて、俺は調子に乗っていたんです」

「関係はどれくらい続いたんですか」

「季節一つ分ぐらいです。年が明けて妊娠したから関係はこれで終わりだと突然言われました。あんたのことなんて好きでも何でもない。目的があったから近づいたのよって。あの時の彼女を思い出すと、ぞっとします」

 当時感じた事を思い出したのか、小さく身を震わせた。

「どういうことですか」
「それまで可愛く振る舞っていたのは演技だったんでしょうね。まるで鬼でしたよ」

「鬼、ですか」
「表情とか、出す雰囲気が、復讐をやり遂げて満足する鬼みたいでした」

 かつて関係のあった相手を鬼だと例える橘宏樹に、呆れた感情を抱きつつ、芙季子は続きを促した。




 亜矢が宏樹に近づいたのは、好みだったからではなかった。

 初めて飲みに来た宏樹がトイレに行った時、テーブルに置いていた宏樹の携帯電話が着信を告げた。
 画面に出ている名前に見覚えがあった亜矢はまさかと思いながら、戻ってきた宏樹の話を聞き、妻の情報を仕入れていった。

 出身高校や中学校、住んでいた地域や実家のことなど。酔っ払いは気が大きくなり、警戒心が緩む。
 難なく話を聞き出し、恨んでいる女が宏樹の妻だと確信した。

 復讐をするならこの機会しかない。二人の関係を壊してやろう。すでにヒビの入った夫婦なら、ちょっと揺さぶるだけで簡単に破綻するだろう。

 宏樹に酒を勧めて酔わせ、タクシーで送ると言って連れ出した。
 そのままホテルに連れて行き、服を脱がせた。
 亜矢も上半身裸になり、掛け布団を胸まで下げて肩を出し、宏樹にくっついた。
 携帯電話で写真を撮り、下着姿で朝まで眠った。

 起きた宏樹に写真を見せ、また会って欲しいと懇願した。
 昨夜は何もなかったが、一度だけでは弱いかと思い直した。
 それに壊すだけではなく、妻よりも先に妊娠すれば、もっと悔しがるはずだ。

 亜矢は宏樹と逢瀬を重ね、3ヶ月後妊娠した。

 いざ妊娠すると、流産した我が子が帰ってきてくれたんじゃないかと思うようになり、愛おしくなった。
 安定期に入るまで宏樹と関係を続けるのがいいのか迷ったものの、今度はきっと大丈夫。
 不思議と確信し、宏樹にすべて話して今後の関係を断った。

 認知も養育費もいらない。夫婦関係を壊したかったけど、この子を授かれたことで満足した。
 店は辞める。写真は消した。連絡もしない。メールアドレスも削除して。

「俺、理解できなくて、ぼうっとしている状態で携帯電話の操作をさせられて。あれ以来彼女には会ってないです。いつ出産したのかも知らないし、その後どうしているのかも知らなかった」

「亜矢さんとの関係は、元奥様には発覚しなかったんですか」

「浮気をしているところまでは把握していたけど、相手を見つけられなかったと、離婚する時にぶっちゃけられました」

「どうして離婚に至ったんですか。結局子供が授かれなかったからですか」

「いえ、亜矢との関係が終わってしばらくしてから、やっと妊娠したと報告されました」

「では、元奥様との関係は修復できていたんですね」

「そう思っていました。でも子供が生まれると家内は子供にだけ目を向けるようになって、育児をしようとする俺に手を出すなと言いだして」

 橘宏樹は眉毛を下げ、困ったような顔を浮かべた。

「ワンオペに悩む母親もいるのに、元奥様は手を出すなと言ったんですか」

「ほかの女を触った手で、私の赤ちゃんに触れないでと」

 妻は不倫を許せなかった。もしかすると一度は許したのかもしれない。
 が、子供に触れようとする夫に嫌悪感を覚えて、許せていなかった事に気がついた。
 芙季子は妻の行動理由をそう推測した。

「離婚はどちらから切り出されたんですか」

「俺からです。自分の子供なのに世話もできない、遊んでやることもできない。そんなの父親だと言えますか。家内への愛情はとっくになくなっていた上、娘を可愛いと思えなくて。それなら同じ空間にいる必要はないなと思って。責任として養育費だけは振り込んでいますよ」

「寂しくはなかったですか」
「いえ。すっきりしましたよ。一人の生活は楽でいいです」

 憑き物が取れたような顔をして見せたが、すっと表情を消した。何かを追うように視線を動かす。

 芙季子が顔を向けると、家族連れが入店し、席に案内された。
 おしゃれをした女の子の手を繋ぐ父親と、赤ちゃんを抱っこしている母親。幸せそうで、微笑ましい家族の姿。

「たまに子供たちのことを考えなくもないです。疲れた時にああいう幸せそうな家族を見るのが、つらい時もあります。俺には子供がいるのに、成長した顔を知らないですから」

 あるはずだった幸せを、たった一度の過ちで壊してしまった。
 自業自得とはいえ、大きな代償を払うことになった。
 橘宏樹は後悔しているのだろうか。

「亜澄さんには一度も会ったことがないのですか」

「ないです。気にはなっていましたけど、連絡先もわからないし。昨日あなたから電話で聞いて、ネットで調べたんです。二人の娘たちが起こした事件だと知らなくて」

「二人の娘、ですか。宮前亜澄さんだけではなくて?」

「はい。少女Bは山岸由依、ですよね」

「そうです」

「山岸由依は俺の娘です。離婚した沙都子との間の子供です」
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