【完結】雨上がり、後悔を抱く

私雨

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第五章 雨上がり、君を想う

第28話 雨祭り ②

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「雄己、時間よー」
 俺は母の声で我に返った。気がつくと、もう出かける時間になっている。
「ああ、準備できてる」
 言って、俺は玄関で待つ。
 母は戸締りをしてから、自分の鞄を担ぎ、ドアを開けた。
 そして、俺たちは夕暮れ空の下、雨祭りの会場に向かい始めた。
 
⯁  ⯁  ⯁

「こんばんは、田仲さん」
 そう言ったのは小泉さんだった。
 彼女は珍しく浴衣を着ており、スーパーロングの髪の毛をポニーテールにまとめている。
 浴衣姿の小泉さんを見るのは初めてなのだけど、思ったよりも似合っている。
 ポニーテールに結んだ漆黒の髪は涼しい夜風に吹かれて、振り子かのように左右に揺れている。
 小泉さんは俺を見るとこちらに近づいてきて、俺に、そして母に挨拶を交わした。
 見知らぬ人に挨拶されると、母は当惑した表情で俺を見た。
 俺は母に小泉さんのことを話したことが一度もないので、多少の戸惑いは当然だろう。
「あ、失礼しました」
 言って、小泉さんは一礼して、「田仲さんのお母さんですか?」と母に訊いた。
 そんな小泉さんに、母はわけがわからないと言わんばかりに首を傾げている。
「そうですが、誰ですか?」
 母の問いに、小泉さんは「小泉こいずみ三那子みなこです。田仲さんの知り合いなんです」と答えた。
 そういえば、小泉さんの下の名前を聞くのはすごく久しぶりだ。
 彼女はいつも丁寧に話すので、俺は彼女のことを小泉さんとしか呼ばない。しかも、いきなり彼女のことを三那子と呼び始めたら、怒らせてしまいかねない。
 その名前を聞くと、俺の頭にいろんな記憶が蘇った。

 秋期の初日、俺は昇降口で小泉さんを見かけた。しかし、俺が初めて小泉さんに会ったのは、もっと前のことだったのだ。おそらく、高一の時だっただろう。
 小泉さんはその時も俺と同じクラスにいたから、俺は新しい友達を作ろうと彼女に話しかけてみた。小泉さんの第一印象といえば、シャイという言葉が一番合っているかもしれない。
 同級生にしては、小泉さんの話し方が意外と丁寧なのだ。だから、俺は未だに多少の違和感を覚えている。とはいえ、もっと砕けた口調で話してほしいわけではない。むしろ、今更タメ語で話したほうがおかしい。
 小泉さんはいつも友達が少なかった。個人的に、それは彼女の余所余所よそよそしい態度のせいだと思う。
 友達になってからもタメ語で話し続けたら、他人を勘違いさせかねない。つまり、本当に友達なのか、と疑わせてしまうのだ。
 だから、小泉さんは友達を作っても、長くは続かなかった。
 例外は俺と夏海だけ。俺は夏海以外の友達がいなかったので、もっと小泉さんと話したかった。 
 しかし、小泉さんは俺よりも勉強を真面目にやっていたから、俺たちはあんまり接しなかった。
 そして、俺はホームルーム以外で小泉さんを見なくなった。
 ――今年の秋期までは。

「私は高一からの友達なんです。よく田仲さんと話してます」
「そうか。初耳ですね。よろしくお願いします」
 言いながら、母は俺に鋭い眼差しを送ってきた。
 やっぱり、俺はもっと早く小泉さんを紹介すればよかった。
「よろしくお願いします」
 小泉さんはまた一礼をして、きびすを返した。
「今年、私の家族は雨祭りの担当を引き継ぐことになったので、私はこれで」
「あ、じゃ後で話そうか?」
「はい、またね」
 そう言ってから、小泉さんは立ち去った。
 俺は会場の入口で突っ立ったまま、徐々に遠ざかっていく彼女の姿を見送った。
 ややあって、母はいきなり俺に話しかけた。
「面白い友達を作ってるみたいのねぇ、雄己」
 それは褒め言葉なのか、それとも悪口なのか。俺にはさっぱりわからなかった。
「ああ。面白い、と言えるかもしれないな」
「あはは。ところで、小泉さんの浴衣姿が気に入っていたかなぁ?」
 ――どうか、今日だけは俺をからかわないでくれ。
 そう思いながら、俺は長い吐息を漏らした。
「ったく、五月蠅うるさいよ」
 俺がそう言った途端、一つの打ち上げ花火が空に爆発した。
 どうやら、雨祭りが本格的に始まったらしい。
「さあ、行こっか」
 言って、俺は母と目の前の鳥居をくぐり、参道を上った。
 石段の上にたくさんの人が集まっている。
 道の脇にはいろんな屋台が立ち並び、美味しそうな匂いが空気に漂っている。その匂いに釣られて、俺は何かを食べたくなった。
 とにかく、昼ご飯からずいぶん時間が経っているし、腹も減っている。
 俺は何回か母と人混みを交互に見て、最寄りの屋台に向かった。
 屋台の前に立っていたのは同じクラスの中島なかしまさんだった。そして、彼の前に控えているのは見知らぬ女性。
「ほう、田仲さんも来たんだな!」
「ここら辺、美味しそうな匂いがして、何か食べたくなったんだ」
 中島さんは頭を掻いてから、料理を担当している女性に声をかけた。
「またお客様が来たぞ。もう一つのたこ焼きを作ってくれ」
「はい」
 エープロンをつけている女性は頷いて、たこ焼きの料理に取り掛かった。
 たこ焼きが出来上がるのを待ちながら、俺は時間潰しに中島さんに話しかけてみた。
「あのさ、その女性は誰?」
「僕の彼女なんだよ。名前は智月ちづきで、料理の腕がすごくいい」
「そうか……」
 俺は少し顔を背けて、苦笑いを浮かべた。
「夏海も、料理腕がよかったなぁ」
 俺が独り言のようにそう言うと入れ替わるように、智月が戻ってきた。
 たこ焼きはもう出来上がっているらしい。
「はい、こちらは三百円になります」
 俺はお金を手渡して、たこ焼きが六個入った段ボール箱を手に取った。
「ありがとうございました!」
 その声を背に、俺は人混みの中で母の姿を探し始めた。
 出来立てのたこ焼きから湯気が立ち昇っている。食べるにはまだ熱すぎるのだろう。
 俺は道の脇に突っ立ったまま、一つのたこ焼きを口に運んでみる。モチモチした焼かれた生地の食感と、ふわりとした蛸の触感が口の中に広がっていく。
 一個のたこ焼きを食べてから、俺は反射的に次の一個に手を伸ばす。しかし、母も食べてみたいだろうから、俺は食欲に駆られる手を引かせて、段ボール箱の蓋を閉めた。
 母を捜していると、俺はまた小泉さんを目にした。
 彼女は歩き回りながら屋台の主人たちと話している。
 かなり忙しそうだったから、俺は声をかけずにその場を立ち去った。
 右往左往する人混みを掻き分けながら道を進むと、母の姿がようやく視界に入った。俺は少し安心して、母に近づく。
「たこ焼き買ってきたんだよ」
 俺は母の前で立ち止まり、再び段ボール箱の蓋を開けた。すると、湯気が一気に夜空に流れていった。
「美味しそうね。私も食べてみてもいい?」
「もちろん」
 やっぱり、蓋を閉めて母を捜すのが正しかった。
 俺が段ボール箱を母に差し出すと、彼女は一個のたこ焼きを手に取った。母はふーふーとたこ焼きを冷まし、口に運んだ。 
「えー、美味しい!」
「だな」
 その後、俺たちは残りのたこ焼きを半分こにして、一個も残さずに食べ切った。
「皆様、ご注意ください」
 賑やかな道に、小泉さんの声が響き渡る。彼女は何らかの演説をするのだろう。
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