【完結】雨上がり、後悔を抱く

私雨

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第五章 雨上がり、君を想う

第29話 雨祭り ③

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 ゴホン、と咳払いをしてから小泉さんは演説を始めた。
「今日来てくれてありがとうございました。今年小泉家が雨祭りを執り行うと聞いたとき、私はすごく緊張していたんです。上手く行くか心配だったし、私は学級委員とはいえ演説はあまりしません。だから、短くしたいと思います」
 小泉さんの声は静まり返った境内によく響く。
 俺は透き通った声にも、夜風にそよぐ黒髪にも目を奪われた。
「この祭りは、雨病で亡くなってしまった人の冥福を祈るために行うんです。特に、今日は私の友達、山口さんと橋下さんの冥福を祈りたいと思います」
 気のせいだったかもしれないけど、俺は誰かの鳴き声が聞こえた。もしかして、杏子あんずの声だったのか?
 俺は周りを見渡してみたけど、人が多すぎて杏子の姿がいてもわからない。
「ちょっと、友達を捜しにいくよ」
 と、俺は声を潜めて母に言った。
 大きな音を立てないようにしながら、俺は杏子の姿を捜す。
 杏子なら、ここにいないわけがない。なぜなら、彼女は誰よりも夏海の冥福を祈りたいはずだから。
 俺は「すみません」と言いながら合間を縫って、小さな鳴き声の主を捜し続けた。
 ややあって、俺は人気ひとけの少ないところにたどり着いた。案の定、涙を手で拭っているのは杏子だったのだ。
 その情けない姿を見て、俺は何を言えばいいのかわからなかった。
「あの、杏子だよね」
「は、はい。あ、雄己だね」
「あのさ、何を言えばいいのかわからないけど……。大丈夫?」
「だ、大丈夫なのよ」
 杏子は首を左右に振りながら言った。
 流れる涙は、まるで水飛沫みずしぶきのように四方八方に飛び散る。
「そう、私は大丈夫だから。夏海の冥福を祈りたいから……。もう、雄己がここにいる意味は――」
「ごめん。杏子の鳴き声を聞いてここに来たんだ。だから、このまま杏子を置き去りにしたくないよ。よかったら、俺と一緒に行かないか」
 俺が杏子の言葉を遮ってそう言うと、彼女は少し顔を上げて鼻をすすった。
「ありがとう。相変わらず優しいね、雄己。夏海にはそういう友達があってよかった」
 そう言って、杏子は母のもとに戻るまで俺についてきた。

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「もちろん、雨病を信じるか、信じないかは皆次第。でも、信じなかったら後悔するかもしれないので、じっくりと考えてください。友達を亡くすのは……本当に……苦しいですから」
 もうダメです。
 私はこれ以上、涙を抑えることができません。あと少しで演説が終わるのに……。
「そ、それでは、もう終わりの時間になっていますね。私の演説を聞いてくれて、誠にありがとうございました」
 私はなんとなくしっかりして、かろうじて最後の一言を口に出しました。
 静かだった周りの観客から、大きな拍手の音が響き渡ります。
 こうして、私はやっと自分を許せた気がします。もう、自分を責めなくてもいいと実感しています。
 あの日、堤防で田仲さんと待ち合わせた日。彼は同じようなことを言ってくれました。
 それなのに、私は今まで自責し続けました。
 でも、皆にこの演説をして、肩の荷が下りたような気がします。
 抑え切れない涙が頬を伝って、雨粒のようにポツンと落ちていきます。
 私は、嬉しいのです。
「おーい、小泉さん!」
 急に話しかけられ、私はびっくりしたままで周りをキョロキョロと見渡しました。すると、田仲さんと田仲さんのお母さんに、夏海のお母さんの姿が目に入りました。
 田仲さんはこちらに手を振っています。
 私は笑みを浮かべて、そこに向かいました。

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「小泉さんの演説に感動したなぁ」
 言いながら、俺は徐々に近づいてくる小泉さんを目で追う。
「いいえ」
 小泉さんの言葉に、俺は首を傾げた。
 小泉さんはなぜか唐突に紅潮して、顔を背けた。
「私のことを、三那子と呼んでほしいんですよ。……今更ながら」
 小泉さん――いや、三那子の返事に、俺は面食らった。
「ミ・ナ・コ……?」
 言い慣れない名前だった。言いながらも、俺は違和感を覚えずにはいられなかった。
「ありがとうね、雄己」

 ――ゆ、雄己って言ったのか!?

 俺は当惑した表情を浮かべながら、返答に窮した。
「雄己って呼んでもいいなんて、言った覚えはないんだけど……」
 その言葉に、三那子は口をぽかんと開けて、一歩後ずさった。
「ほ、本当にすみません! 私、うっかりしてしまって」
「だからって、そう呼んではいけないわけじゃないけどね」
 三那子は胸に片手を当てて、息を吐いた。再び口を開けて話すと、彼女の声がなぜか震えていた。
「そうですよね。雄己」
 三那子がそう言った途端、雨祭りの終わりを告げるかのように、一つの打ち上げ花火が夜空に光り輝いた。
 暗闇の中、三那子の輪郭が浮かび上がる。
 俺はその顔をじっと見つめながら、打ち上げ花火の爆発を待つ。
 数秒後、花火は夜空に七つの色を放ち、呆気あっけなく消えていった。
 母と杏子の話し声は爆発音にかき消された。
「これからも、よろしくお願いします」
 三那子の声がかすかに聞こえた。
 しかし、俺は何も言わずにいた。なぜなら、俺たちには『これから』はないことも、それに明日は母と東京行きの飛行機に乗ることも知っているから。
「雄己、帰るよー」
 と、母はきびすを返しながら俺に声をかけた。
 彼女たちの会話が終わって、杏子も帰りたがっている。
 俺は振り向いて母を一瞥してから、視線を三那子に戻した。
「ごめん。俺は明日、東京に引っ越すことになった」
 言いながら、俺は夏海に『さようなら』を言われた日のことをふと思い出した。
 三那子はあの日の俺のもどかしさを感じているだろう。
 再び目を開けると、三那子が名残惜しげに手を伸ばして、しかし俺の腕を掴まずに振り下ろした。
「ちょ、ちょっと! 待ってくださいよ、雄己!!」
 ひとりぼっちになるのが怖いのか、三那子の声が震えている。
「本当に、行くんですか?」
「ああ。……もっと早く言えばよかっただろうけど、いいタイミングがわからなくて」
 俺が苦笑交じりにそう答えると、三那子は目を伏せた。返事はしなかった。
 そして、また彼女の目から涙が溢れ出した。
 その悲しくて情けない顔を見ていると、俺は身動きが取れなくなったかのように立ち尽くした。
「そうなんです……。正直、私は何を言えばいいのかわかりません。でも、怒っていないんですよ。なぜなら、雄己が東京に引っ越したい理由がわかる気がするから。私も雄己に雨病に罹ってほしくないし。むしろ、東京に引っ越してほしいですよ」
 三那子は深呼吸をしてから、言葉を続けた。
「それでは……。これでさようならですね、雄己。でも、私はいつも君を待っているんですよ。いつか、きっとまた合うと思います」
 その寂しい響きの言葉に、俺は何も言わず、三那子の身体をぎゅっと抱きしめた。
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