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番外編5 こぼれ話
6 南と恭介の諸事情
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午後四時。よぞら一階。
ルイスとレンの挙式後、昼食会の直後のことである。
ルイスと親族たちを宿泊先のホテルに送迎したあと、店に残って後片付けをしていたレンと入れ替わりに、南はよぞらに戻ってきた。
南が表の引き戸を開くと、恭介は後片付けを終えて、店内の掃除を済ませつつあった。ゴミをまとめて、水回りの片付けを終えれば仕事は終わりだ。
南は訊ねた。
「あ、終わりましたか」
「はい。だいたいは。もう大丈夫ですよ。俺一人で。戻ってきてもらって申し訳ないです」
「いえ、気になっていましたので」
昼食会はつつがなく執り行われた。だが、やはりレンと二人では回らず、南が給仕をこなしてくれて助かったと、恭介は感謝している。
南は、戦場のように忙しい中、率先して動いてくれた。お互いに、修羅場をくぐり抜けた同士のような仲間意識が芽生えている。
恭介は言った。
「今日はありがとうございました。助かりました」
「とんでもない。私は仕事ですから」
南はクリスティナのお世話係であるし、建前としてはエマ付きのため、本日は仕事である。
「南さん、食事はどうされました? 二階で摂られました?」
「実は、食べるよう言われたんですが、ご家族優先で」
「やっぱり。余り物でよければ、召し上がりますか?」
「いいんですか?」
「ええ。お時間があれば」
「今日はもう上がりなんです」
親族らは、これから宿泊先のホテルでお茶にし、それから夕食会となる。ホテルにはホテルのスタッフがいるため、南があれこれ世話をする必要はない。
恭介は南をカウンターの席に促した。温かい緑茶を淹れて、冷蔵庫に入れてあった皿を出す。寿司や惣菜の余り物を寄せただけのものだ。自分の晩ごはんにしようと恭介は思っていた。
だが、南が何も食べていないことに気づいていたし、その南がこうして戻ってきたので、慰労の意味で、何か食べさせてあげたいと思う。
「お疲れ様でした」
ワンプレートにのせた余り物に、味噌汁と温サラダと温かい煮物を用意する。南は手を合わせて食べ始めた。
南は空腹だったので、つい勢いよく食べる。
食べながら気づいて、南は恭介に訊ねた。
「高木さんは、何か召し上がりました?」
「あ、俺はレンさんに言われて、ちゃんと食べましたよ」
「それならよかったです」
「よろしければ、俺のことは恭介と呼んでください。お客さんもみんな、そう呼ぶんで」
「恭介さんですね。さん付けでいいですか?」
「あ、はい」
少量だったので、すぐに食べ終わってしまう。そこで、恭介は訊ねた。
「おかわりします?」
「あるんですか? あ、でも晩ごはんが入らなくなりそうですね」
店内のわかりやすい位置にかかっている壁掛け時計を仰ぐと、午後四時過ぎだ。昼食には遅く、夕食には早すぎる。中途半端な時間である。
「あ、そうですよね。おうちで用意されてますもんね」
「いえ、一人暮らしなので、外なんですが」
「そうなんですか」
普段であればここで話を止めるところ、満たされて安堵したせいか、南は少し口を滑らせる。
「独り身です。離婚したんです。五年ほど前に」
「そうだったんですね」
恭介はシンクの中で手拭きを消毒する作業の手を止めずに頷いた。
恭介の目に、南は三十代後半の、きちんとした企業に勤めるサラリーマンだ。一見、何も問題がないように思える。言葉を変えれば、ごく普通の幸せな人生を歩んでいる、自分とは異なる人種、に見える。
だがやはり、人には様々な事情がある。
「子どもが一人いて……会っていないんですが」
「へえ。男の子ですか? 女の子?」
「男の子です。今は……もうすぐ七歳になります」
恭介は、思うところがあって、訊ねることにした。
「……お子さんって、会いたいものですか?」
「ええ、はい。もちろん。ですが、元妻が許さないと思うので……。あ、別に、どちらかが不倫したとか、暴力があったなどではありません、私は仕事が好きで家にいませんでしたし、妻は子どもさえいればよく……」
すれ違いの末に別れた。大切にしたいものがお互いに違っていた。子どもが生まれてから妻の顔を見ていなかったせいで、いまや顔すらも思い出せない。薄情なものだと自己嫌悪に苛まれる。
元妻とは、そろそろ結婚したいと思い始めた二十六歳の時に、知人の紹介で付き合いはじめた。お互いに結婚願望があったので、一年ほどの交際期間を経て、入籍した。穏やかにスムーズに進んだ。ごく一般的だと思う。三年後に子が生まれ、二年後に離婚。いまに至る。どこにでもある話だ。
ルイスの、レンさえいればいいという激しさに、反発心を覚えたことを南は後ろめたく思う。
南の価値観では、ルイスとレンは、ごく一般的といえる人の営みから外れている。自分が育むことのできなかった、レンに対するルイスの愛情を羨ましく思う。
愛することも、愛されることも。
自分は、この人でなければならないと、他の女性と挿げ替えることなど到底できないという思いで、結婚したのだろうか。そして、元妻は、この人でなければならないと考えて、夫を選んだのだろうか。
とはいえ、ルイスとレンだって、今後色々あると南は思う。結婚に失敗した自分がいうのもなんだが、本当に色々ある。マリアンヌを育てる中で、養親同士が衝突することもあるだろう。
物思いにふける南に対し、恭介は言った。
「俺は、小さい頃に両親が離婚して、どっちもから置き去りにされて、祖父母の家で暮らしてたんですが、もし親が会いにきてくれたら、嬉しかったと思いますよ。自分に会いにきてくれる人が、気にかけてくれる人が、ひとりでもいてくれることがわかれば、嬉しいと、思うんですけどね。本人でないとわからないですけど、少なくとも、一度も会いに来てもらえなかった身としては」
「そうなんですね……」
恭介の厳しい生い立ちに、南は驚きつつ、顔に出さないようにする。人には色々な事情があるものだ。
南は、恭介を少し観察する。まだ若い。二十代前半ほどか。ごく普通の細身の青年だが、瞳に影があるような印象を受けるのは、その不憫な境遇のせいか。
自分は彼の親のように、子を捨てたのではない。
会いたいといったら、元妻は拒否反応を示すだろうか。それとも、嫌味を言いつつ、子どもを気にかけていると知って、会わせてくれるだろうか。
南は息子の寝顔を思い出す。休日もなく、仕事は夜遅くなりがちで、寝ている顔ばかり眺めていた。
離婚してから一度も会っていない。父親の存在など、記憶すらしていないだろう。再婚したとは聞いてはいないが、どのように暮らしているのだろうか。養育費は支払っている。元妻は看護師で、生活に不自由はしていないだろうと南は思う。
「すみません、お祝いの日にこのような話を」
「いえいえ、レンさんも旦那さんもいないし、大丈夫ですよ」
恭介がルイスとレンのことを穏やかに受け入れている様子を、南は不思議に思う。
「恭介さんは……二人の関係をいつから?」
「あ、俺がここに来てすぐに。二年近く前ですね。前の職場の上司の紹介で雇ってもらったんですが。ここで色々と、目撃しちゃって。本当にいろんなことがありました。あはは。それでも、結婚式かぁ。すごいですよね。実現するんだ。まあ、アーヴィンさんならなんでも実現しそうですね」
「そのとおりですね。ルイス社長ならば」
ルイスにかかれば、どんな困難な状況も打破できると、ルイスの下について長い南は深く理解している。
南としては、クリスティナの側仕えに文句などない。クリスティナは大人顔負けの、主体的な調整力を持っている。ルイスの有無を言わせぬ突破力と、エマの持つ柔軟な社交性を足して割ったような能力の持ち主だ。
だが所詮小学生の身の回りのことで、エマの秘書はもともといるので、新しいことや難しいことが何もない。
経営者であるルイスの下にいるときが、やはりもっともやりがいがあったのである。そんな南を気遣ってくれたクリスティナには感謝しかない。
ルイスは王様なので、彼に意見できるクリスティナは唯一無二の存在だ。エマはルイスに対して、やや遠慮がある。
南は、ルイスの部下に戻れるのならば戻りたい。最初はぎくしゃくするだろうし、トラブルを知っている者の視線は厳しいだろうが、ルイス自身はあまり根に持つタイプではないので、わだかまりはいずれ解けるだろうと楽観的に考えている。
「またお越しくださいね、お店」
恭介がいうと、南は苦笑しつつ、首を横に振る。
「すみません。清水さんがいらっしゃるので、来るとルイス社長に怒られそうです」
「あー、嫉妬深いんですよね、旦那さん」
恭介も苦笑する。
南が断ったのは、レンの情報を集めているのではないかとルイスに疑われるからなのだが、恭介は別の意味で受け取った。
だが南は納得する。ルイスはいかにも嫉妬深そうな男だ。特にレンのことになると、新たなトラブルになりかねない。
「じゃあ、レンさんがいないときに。ぜひお越しください。ここの食事、美味しいんですよ」
「ええ。存じ上げております。ではまた、近々」
恭介は笑い、南も笑った。
<南と恭介の諸事情 終わり>
ルイスとレンの挙式後、昼食会の直後のことである。
ルイスと親族たちを宿泊先のホテルに送迎したあと、店に残って後片付けをしていたレンと入れ替わりに、南はよぞらに戻ってきた。
南が表の引き戸を開くと、恭介は後片付けを終えて、店内の掃除を済ませつつあった。ゴミをまとめて、水回りの片付けを終えれば仕事は終わりだ。
南は訊ねた。
「あ、終わりましたか」
「はい。だいたいは。もう大丈夫ですよ。俺一人で。戻ってきてもらって申し訳ないです」
「いえ、気になっていましたので」
昼食会はつつがなく執り行われた。だが、やはりレンと二人では回らず、南が給仕をこなしてくれて助かったと、恭介は感謝している。
南は、戦場のように忙しい中、率先して動いてくれた。お互いに、修羅場をくぐり抜けた同士のような仲間意識が芽生えている。
恭介は言った。
「今日はありがとうございました。助かりました」
「とんでもない。私は仕事ですから」
南はクリスティナのお世話係であるし、建前としてはエマ付きのため、本日は仕事である。
「南さん、食事はどうされました? 二階で摂られました?」
「実は、食べるよう言われたんですが、ご家族優先で」
「やっぱり。余り物でよければ、召し上がりますか?」
「いいんですか?」
「ええ。お時間があれば」
「今日はもう上がりなんです」
親族らは、これから宿泊先のホテルでお茶にし、それから夕食会となる。ホテルにはホテルのスタッフがいるため、南があれこれ世話をする必要はない。
恭介は南をカウンターの席に促した。温かい緑茶を淹れて、冷蔵庫に入れてあった皿を出す。寿司や惣菜の余り物を寄せただけのものだ。自分の晩ごはんにしようと恭介は思っていた。
だが、南が何も食べていないことに気づいていたし、その南がこうして戻ってきたので、慰労の意味で、何か食べさせてあげたいと思う。
「お疲れ様でした」
ワンプレートにのせた余り物に、味噌汁と温サラダと温かい煮物を用意する。南は手を合わせて食べ始めた。
南は空腹だったので、つい勢いよく食べる。
食べながら気づいて、南は恭介に訊ねた。
「高木さんは、何か召し上がりました?」
「あ、俺はレンさんに言われて、ちゃんと食べましたよ」
「それならよかったです」
「よろしければ、俺のことは恭介と呼んでください。お客さんもみんな、そう呼ぶんで」
「恭介さんですね。さん付けでいいですか?」
「あ、はい」
少量だったので、すぐに食べ終わってしまう。そこで、恭介は訊ねた。
「おかわりします?」
「あるんですか? あ、でも晩ごはんが入らなくなりそうですね」
店内のわかりやすい位置にかかっている壁掛け時計を仰ぐと、午後四時過ぎだ。昼食には遅く、夕食には早すぎる。中途半端な時間である。
「あ、そうですよね。おうちで用意されてますもんね」
「いえ、一人暮らしなので、外なんですが」
「そうなんですか」
普段であればここで話を止めるところ、満たされて安堵したせいか、南は少し口を滑らせる。
「独り身です。離婚したんです。五年ほど前に」
「そうだったんですね」
恭介はシンクの中で手拭きを消毒する作業の手を止めずに頷いた。
恭介の目に、南は三十代後半の、きちんとした企業に勤めるサラリーマンだ。一見、何も問題がないように思える。言葉を変えれば、ごく普通の幸せな人生を歩んでいる、自分とは異なる人種、に見える。
だがやはり、人には様々な事情がある。
「子どもが一人いて……会っていないんですが」
「へえ。男の子ですか? 女の子?」
「男の子です。今は……もうすぐ七歳になります」
恭介は、思うところがあって、訊ねることにした。
「……お子さんって、会いたいものですか?」
「ええ、はい。もちろん。ですが、元妻が許さないと思うので……。あ、別に、どちらかが不倫したとか、暴力があったなどではありません、私は仕事が好きで家にいませんでしたし、妻は子どもさえいればよく……」
すれ違いの末に別れた。大切にしたいものがお互いに違っていた。子どもが生まれてから妻の顔を見ていなかったせいで、いまや顔すらも思い出せない。薄情なものだと自己嫌悪に苛まれる。
元妻とは、そろそろ結婚したいと思い始めた二十六歳の時に、知人の紹介で付き合いはじめた。お互いに結婚願望があったので、一年ほどの交際期間を経て、入籍した。穏やかにスムーズに進んだ。ごく一般的だと思う。三年後に子が生まれ、二年後に離婚。いまに至る。どこにでもある話だ。
ルイスの、レンさえいればいいという激しさに、反発心を覚えたことを南は後ろめたく思う。
南の価値観では、ルイスとレンは、ごく一般的といえる人の営みから外れている。自分が育むことのできなかった、レンに対するルイスの愛情を羨ましく思う。
愛することも、愛されることも。
自分は、この人でなければならないと、他の女性と挿げ替えることなど到底できないという思いで、結婚したのだろうか。そして、元妻は、この人でなければならないと考えて、夫を選んだのだろうか。
とはいえ、ルイスとレンだって、今後色々あると南は思う。結婚に失敗した自分がいうのもなんだが、本当に色々ある。マリアンヌを育てる中で、養親同士が衝突することもあるだろう。
物思いにふける南に対し、恭介は言った。
「俺は、小さい頃に両親が離婚して、どっちもから置き去りにされて、祖父母の家で暮らしてたんですが、もし親が会いにきてくれたら、嬉しかったと思いますよ。自分に会いにきてくれる人が、気にかけてくれる人が、ひとりでもいてくれることがわかれば、嬉しいと、思うんですけどね。本人でないとわからないですけど、少なくとも、一度も会いに来てもらえなかった身としては」
「そうなんですね……」
恭介の厳しい生い立ちに、南は驚きつつ、顔に出さないようにする。人には色々な事情があるものだ。
南は、恭介を少し観察する。まだ若い。二十代前半ほどか。ごく普通の細身の青年だが、瞳に影があるような印象を受けるのは、その不憫な境遇のせいか。
自分は彼の親のように、子を捨てたのではない。
会いたいといったら、元妻は拒否反応を示すだろうか。それとも、嫌味を言いつつ、子どもを気にかけていると知って、会わせてくれるだろうか。
南は息子の寝顔を思い出す。休日もなく、仕事は夜遅くなりがちで、寝ている顔ばかり眺めていた。
離婚してから一度も会っていない。父親の存在など、記憶すらしていないだろう。再婚したとは聞いてはいないが、どのように暮らしているのだろうか。養育費は支払っている。元妻は看護師で、生活に不自由はしていないだろうと南は思う。
「すみません、お祝いの日にこのような話を」
「いえいえ、レンさんも旦那さんもいないし、大丈夫ですよ」
恭介がルイスとレンのことを穏やかに受け入れている様子を、南は不思議に思う。
「恭介さんは……二人の関係をいつから?」
「あ、俺がここに来てすぐに。二年近く前ですね。前の職場の上司の紹介で雇ってもらったんですが。ここで色々と、目撃しちゃって。本当にいろんなことがありました。あはは。それでも、結婚式かぁ。すごいですよね。実現するんだ。まあ、アーヴィンさんならなんでも実現しそうですね」
「そのとおりですね。ルイス社長ならば」
ルイスにかかれば、どんな困難な状況も打破できると、ルイスの下について長い南は深く理解している。
南としては、クリスティナの側仕えに文句などない。クリスティナは大人顔負けの、主体的な調整力を持っている。ルイスの有無を言わせぬ突破力と、エマの持つ柔軟な社交性を足して割ったような能力の持ち主だ。
だが所詮小学生の身の回りのことで、エマの秘書はもともといるので、新しいことや難しいことが何もない。
経営者であるルイスの下にいるときが、やはりもっともやりがいがあったのである。そんな南を気遣ってくれたクリスティナには感謝しかない。
ルイスは王様なので、彼に意見できるクリスティナは唯一無二の存在だ。エマはルイスに対して、やや遠慮がある。
南は、ルイスの部下に戻れるのならば戻りたい。最初はぎくしゃくするだろうし、トラブルを知っている者の視線は厳しいだろうが、ルイス自身はあまり根に持つタイプではないので、わだかまりはいずれ解けるだろうと楽観的に考えている。
「またお越しくださいね、お店」
恭介がいうと、南は苦笑しつつ、首を横に振る。
「すみません。清水さんがいらっしゃるので、来るとルイス社長に怒られそうです」
「あー、嫉妬深いんですよね、旦那さん」
恭介も苦笑する。
南が断ったのは、レンの情報を集めているのではないかとルイスに疑われるからなのだが、恭介は別の意味で受け取った。
だが南は納得する。ルイスはいかにも嫉妬深そうな男だ。特にレンのことになると、新たなトラブルになりかねない。
「じゃあ、レンさんがいないときに。ぜひお越しください。ここの食事、美味しいんですよ」
「ええ。存じ上げております。ではまた、近々」
恭介は笑い、南も笑った。
<南と恭介の諸事情 終わり>
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