溺愛社長とおいしい夜食屋

みつきみつか

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三年目の春の話

七 天秤に掛けるもの

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 午後十時半。
 仕事を終えて自宅に戻る途中に、ルイスからメッセージが入った。空港に到着したので、十一時過ぎに一旦会社に戻り、それからすぐに会社を出て自宅に戻るという。いまは移動中らしい。
 レンは返信した。

『迎えにいきます』
『どこに?』
『橋の下あたりで待ってます』
『わかりました』

 ルイスの会社に向かう途中には大きな川があり、橋をわたるとビジネス街だ。レンは自宅に戻る足を、そのままルイスの会社の方角へ向ける。
 日中はあたたかかったのに、夕方になって天気が崩れ、いまは夜霧がでている。桜は満開なので、弱って一気に花が落ちるだろうと思われた。
 川沿いは整備された広い遊歩道になっている。わかりやすいベンチに掛けて、レンはルイスを待つ。夜が遅く、景色は見えない。
 ここで朝日を見たことがある。ちょうど一年ほど前のことだ。あのとき、この先のレンの人生を僕にくださいというルイスに、レンはただ、はいと答えて頷いた。今から思うと、自分は何も考えていなかったのだが。
 霧が雨に変わり始めた。レンは念のため持ってきていた傘を差して待つ。
 傘を差している人がまばらに橋を行き交う。遊歩道のほうには人気がない。しばらくして、橋のほうから、傘を差したスーツ姿の男性がひとり、階段を降りてくる。
 ベンチにいるレンのほうへ真っ直ぐやってきて、前に立った。
 レンは顔をあげる。

「レン。ただいま」

 と、ルイスは微笑んだ。レンも微笑む。

「おかえりなさい、ルイスさん」

 ルイスに差し出された左手を、レンも左手でとって立ち上がった。二人とも指輪をつけているとレンは気づく。

「仕事終わりに、迎えに来てくれてありがとう。寒くないですか」
「平気です。お疲れ様でした」
「レンも、お疲れ様」

 なんとなく二人で肩を並べて遊歩道を歩く。こちら側に咲いている夜の桜を仰ぐ。霧雨が濃くなってくる。橋から離れると、次の橋まで人はいない。
 等間隔に立つ街灯だけが遊歩道を照らしている。その明かりも、霧を丸く照らして全体的には暗い。
 なんとなく立ち止まって、ルイスは傘を肩で支え、レンと向かい合った。レンの左手をとって手の甲にキスをする。

「先に言っておきますが」
「はい」
「絶対に絶対に絶対に別れません。不吉なので、これ以降、どうかこの言葉を出さないでください。将来的に、レンがどうしてもというときは、僕を倒してからにしてください」

 レンは笑った。

「倒すって」

 だがルイスは少々躊躇って川のほうへ視線をそらしつつ、真剣に言う。

「僕を殺してください」

 レンは絶句してしまう。本当に重たい男である。

「先日のことは本気でショックでした。まさかレンのほうから、例の不吉な言葉が出るなんて、想定外でした。今までレンに最大限伝えてきたことが、実は何一つ伝わっていなかったような気がしてます」
「ごめんなさい。軽率でした。あんなこと、本心じゃないです」

 いま声を出したら、嗚咽が漏れる。そう思ってルイスは口を閉ざした。
 別れることが視野に入るほど、自分たちは別れなくてはならない状況にあるのだろうかと考えつづけていた。そうでもないとルイスは思う。だがレンの心の中でどうなっているのかは、想像しかできない。寂しくさせている自覚はある。
 ルイスは傘を畳んで、レンの傘に入る。レンの肩に顔をのせた。レンは慌てて、ルイスが濡れないようにと自分の傘を向こう側に傾ける。
 肩の上で身を震わせて静かに泣いているルイスに、レンは立ちすくんだ。
 そして自分はこの人を傷つけたのだと深く理解する。ルイスの背を恐る恐る撫でる。

「遠くなっても大丈夫です」

 レンは穏やかに言った。
 ルイスはアメリカに戻らなければならない。だが、レンは親の店を継いでいる。お互いに仕事が好きで、忙しく、その場から離れられない。
 ルイスの返事はない。レンは続ける。

「自分が信じられないんですが――大切なものがふたつあって、どちらも、俺にとって大きくて、本当は、どちらかなんて選べません。だけど、すぐには無理でも、選ぶときには、俺、ルイスさんを選びます」

 自分はおかしいんでしょうか、とレンは笑いながら訊ねてみる。
 海外になど行ったことがない。日本から一歩たりとも出たことがない。ゆえにパスポートも持っていない。英語どころか日本語も怪しいし、筆記体も読めない。
 それでも、傍にいたいなら、レンはルイスのいる場所に行くしかない。アメリカでも南極でも。それがどんな場所であったとしても。
 そしてそのときは、店を諦めることになる。

「親の遺したものをなんだと思っているんでしょうね、俺は。あの店に助けられて生きてきました。俺があの店を守ったんじゃないです。店が俺を守ってくれたんです」

 ルイスは顔を上げ、レンに噛みつくように口づける。
 涙の味がする。
 傘で隠れているから、きっと人には見つからない。
 しばらく唇を重ねたあと、ルイスは泣くのをやめて、顔を手のひらで拭った。
 まさか三十四歳にもなって、大の男が、恋人と別れる別れないで泣くことになるなんて、思いもよらなかった。かなり恥ずかしい。
 レンのせいだ、とルイスは思う。レンの顔を見たら、たまらなくなった。失いたくないと思うとまた泣けてくるので、いまは頭を冷やしたい。

「すみません」
「いえ」

 ルイスは咳払いをして喉の調子を整える。ゆっくりと深呼吸する。やがて落ち着いてくる。あまり考えすぎないようにしなければならない。

「父に話をしてきました。別の者を後継者として育てるようにと」
「え?」
「僕は後を継ぎません。実家の事業も、向こうの生活もいりません。長男はいないものとするように」
「何言ってんですか?」

 ルイス自身も、売り言葉に買い言葉となって父に啖呵を切ったときには、自分で驚いた。父も驚いていた。
 合理的なルイスの父は、しばらく思考を巡らせたあと、やはり後継者として相応しい能力を持つ者は今のところルイス以外に見当たらないとルイスに言った。脳内で、一族の若者を総ざらいしたのだろう。

「アメリカには戻りません。こちらでの役職も失ったら、僕はただの無職です」
「何言って」
「最初から言ってるじゃないですか。僕はお金持ちだって。今でも十分生きていけます。慎ましく生活する必要もありません。解任されても、今ある僕名義の財産までは父は奪えません。いえ、もらったものを返したって別にいいですけど。僕が増やしたものと、母方の財産がありますから。母方はフランス貴族の血筋なんです。革命で貴族制度自体はなくなりましたが」

 何度計算しても、やはりとくに心配なく死ぬまで生きていける。世が世ならばルイスは貴族である。

「レンがご両親の遺したお店を手放すっていうなら、それって、僕が後継者の立場を諦めるのと、変わりません。いえ、僕の方はまだ完全には継いでないから、諦めるなら今がベストタイミングです」
「何言ってんですか。規模がまったく違うでしょう、規模が。天秤にかけちゃだめですよ」

 レンはルイスの正気を疑う。そういえば、解任の話をされたときから、お金持ちだから生きていけるといった話は出ていた。あのときから、ルイスは実家の事業を継がないことを考えていたのか。
 ルイス自身も自分の正気が疑わしい。父はルイスと協議したあと、ルイスの決意を知り、持病もないのに具合が悪くなった。
 事業の存続にはルイスの存在が欠かせず、自分なくして発展はないと父にいわれて育ってきた。長男として生まれた宿命である。
 後継者としての生き方しかしていない。一族を率いる存在であるべく、幼い頃から英才教育を受け、学業を優秀な成績でおさめて、有数の大学を卒業し、会社を継ぎ、邁進してきた。そのレールに疑いを持ったことすら、人生でただの一度もない。今この瞬間も、これまでの自分の人生に間違いなど何もなかったと確信している。
 ただ、出会ってしまっただけだ。自分の運命を大きく変える人に。
 ルイスはレンを見つめて微笑む。
 自分の胸に手を当てて、ゆっくりと告げる。

「規模では決められません。君の傍で生きていきたいんです。僕は、お店で一人てきぱきと働いて、明るく笑っていた君を……、酔っぱらったろくでもない客を親切に介抱してくれた――クリスに嫌われて落ち込む僕の背を、大丈夫だと撫でてくれた君を、好きになりました。これがたとえどんなに些細なことだとしても、天秤に掛けたときの重さは僕にしかはかれません」

 ルイスが胸を締め付けられるほどの恋に落ちた相手は、大切なものを大切にして生きてきたレンだ。今ここに立っているレンと彼を支えてきた店は、切っても切り離せない。
 レンは、すべてを捧げてきたであろう、もはや人生そのものを捨てる覚悟のあるルイスに慄いている。声が震える。

「ルイスさんが捨てようとするものと同等のものを、返してあげられる自信がありません」
「ふふ。よぞらで雇ってくれますか。きっとお店ですべき仕事を、僕は満足にできませんけど」

 簡単な掃除と発注と伝票処理と確定申告、経営とシステム化、事業の拡大ならきっとできます、とルイスは胸を張る。オーバースペックだとレンは思う。ルイスは大富豪の御曹司で、自分の事業はスモールビジネスである。
 これから国家資格を取るのもいいなとルイスは思いついた。
 仕事がなくなったら、これまで片手間だった勉強をする時間がじっくり取れる。資格職もいいし、自分で一から立ち上げるのもいい。働くことは好きだ。
 どんなことをしようか。何にでも挑戦できると思うとわくわくする。
 ルイスは恐ろしく前向きなのである。

「無職の男は、愛せませんか?」

 ルイスはいたずらっぽく訊ね、レンは怒った。

「そんなわけないでしょう。身一つでいいって言ったのは俺のほうですよ」
「ふふ。そうでした。頼もしいです」

 帰りましょうかと言って、ルイスはレンの手を取って歩き出した。
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