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『姫』視点
4 「月夜」前編
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つい先程まで若者が白濁を散らしていた寝台。
その寝台から汚れた敷き具を取り去って綺麗にし、自らも再び湯を浴びてさっぱりとした気分になった彼はそこで初めて違和感に気付いた。
ようやく(何かがおかしいのでは…?)と思い始めたのだ。
いくら霙が何を考えているのか分からないとはいえ、果たして本当に人を差し向けてまでこんなことをするだろうか?
果たして、自分の知る霙はそんなことをする人物だっただろうか?と。
(いや…霙は真面目で礼儀正しい性格でしょ?他人にあんなことさせるかな…しかも単純に荷物運びとかを頼むのとはわけが違うのに。そもそもなんて言ってここにあの子を寄越したんだろう?『男を抱いてこい』?そんなわけ…ないね?)
彼はとんでもないことをしてしまったと頭を抱える。
(ぼ、僕、本当にどうしようもないやつだな…!?こんなの…ちょっと冷静になって考えれば分かることなのに!あの子がどうしてここに来たのか知らないけど、とにかく全部僕の勘違いだったんだ!ま、待てよ…ってことは、あの子はあんな形で『初めて』を済ましちゃったのか!?純粋な子だったみたいなのに、うわ……!!ど、どうしよう、とんでもなく悪いことをしちゃったな……!?)
彼はにわかに罪悪感を感じ、あの若者に心の中で詫びる。
しかし、同時に(あれだけのことをしたのだから、もう2度とあの若者がここへ来ることもないだろう)(2度と顔を合わせることはないだろう)と安堵していた。
ところがそれから数日後、なんとあの若者が再びやってきた。
彼はなんとも言えない気まずさに包まれながら「あー…その、この間はごめんね、大丈夫だった?」と申し訳なさを滲ませて話す。
「本当に悪いんだけど、僕、勘違いをしてたみたいでさ…」
「…え?」
「本当…突然悪かったね、あんなことをするなんて。僕のこと、イカれてると思ったでしょ?はは、あはは…」
若者はまったく訳がわからないというようにその場に立ち尽くしている。
「君には悪いことをしたと思ってる…よ、うん…もし、もしもだけど、君が僕に何か責任を感じてるとしたら、そんなことはないからさ、全部僕が悪い…んだし。本当に…君の初めてをあんな感じで奪っちゃって、悪いね……」
若者にいくつも詫びの言葉を述べたところで、彼はふと浮かんできたある考えに言葉を切った。
ぼうっと遠くを見つめて考え込む。
この若者は、なぜまたここを訪ねてきたのだろうか。
あんなことがあった以上、もうここへは近寄りたくないと思うのが普通ではないだろうか?
なぜこの若者は再び、それも今度は山菜ではなく干し肉を持ってやってきたのだろうか。
(もしかして……)
彼は踵を返して帰ろうとしているらしい若者を「ねぇ!」と呼び止めた。
「んー…考えてみたけど、君がここへ来たのって、僕のことが忘れられないから、だったりして?」
「そ、それは…」
「わぁ、図星かな?ふふ、あんなことされたら、そりゃ気になっちゃうよね…そのお肉も僕にって持ってきてくれたみたいだし、こんなところまで来てくれたのに何もせず追い返しちゃうのは悪いし……」
彼はある企みをもって、若者を誘惑しにかかる。
「……どう?君さえ良ければ、『中に入っていかない?』」
(誘ってみて…その気がなければ手を出さなければいい)
「ほら…どうする?」
少しの間の後、若者がゆっくりと頷いたのを見て、彼は家の中へ招き入れた。
ーーーーーーーー
彼は自分のしていることが、どれだけ常識から外れているのかをはっきりと理解している。
理解してはいるが、彼にとってなによりも大切なのは霙のことだけなのだ。
霙のためになるのであれば、常識や自身の気持ち、体、そして相手となっているこの若者について省みることは一切ないと言える。
彼は若者が『行為』をすることに抵抗がないらしいと感じ取るやいなや、自身の『研究』に協力させようと考えついていた。
実際、この若者は非常に反応が分かりやすいのだ。
これは経験が少ないためなのか、もしくは元から感情を顕にする性格であるからなのかははっきりとは分からない。
しかし、彼の言葉や手管1つに反応で応えてくる若者は、彼にとって非常に協力的な人物として捉えられていた。
一連の行為を終えると、彼はすぐに若者を家へ帰すべく衣や寝台を整え始める。
彼はこの若者にすべてを許しているわけではない。
自身の中に放出していいのは霙だけ。
この寝台で眠っていいのは霙だけ。
それだけは譲れない一線としてずっと心に残しているのだ。
「じゃあね」
彼は戸のそばで若者を見送りながら、自らの後ろの疼きに身を震わせる。
若者に心を許しているわけではない彼は、どれだけ中を突かれてもそれで快感を得ることは一切なく、むしろ『早く自分でイイところを突き回したい』とうずうずしてしまうのだ。
(はぁ…早く僕も気持ちよくなって寝……)
戸を閉めようとした彼は、そこに人影が現れたことに気付いて手を止めた。
「あ、き、君…!!」
彼は自身の目を疑う。
立派な背格好をしたその人影。
霙だ。
間違いなく、霙本人だ。
なんと、ついに、霙がやってきた。
「…こんばんは」
そう低く挨拶する霙に、彼は胸を高鳴らせる。
『あの日』以降、彼が霙と会うのはこれが初めてだ。
ついにその日が来た、と彼はにわかに緊張する。
(ちょうどいい…僕はもうほぐれてるし!大丈夫、僕は上手くできる…!霙を満足させてみせる…!!)
「話を…しようと、思って」と言葉少なに話す霙に、彼は「と、とりあえず、中に…」と戸を開け放った。
彼は霙から目を離すことができない。
あまり見つめすぎるのも良くないとは思うものの、『あの日』以降久しぶりに見た霙は以前よりもいくらか引き締まったような様子で凛々しさが増している…ようなのだ。
はっきり言って、大した変化は見受けられないが、少なくとも彼にはそう見えているらしい。
後ろ手に戸を閉めた霙に、彼は「久しぶり…だね」となんとか声を出す。
「話…話を、するって…えっと……」
「あの人は、誰ですか」
「え?」
あまりにもはっきりと響く霙の声に、彼は俯かせていた顔をあげる。
しかし、霙は視線を床に落としたままだった。
「あの人?」
「今出ていった、あの人です」
「あ…あの子?あぁあの子、僕に干し肉を届けに来てくれたんだ、うん。それでちょっと話をして…」
彼は嘘をついているわけではない。
たしかに『何をしたか』については話していないが、干し肉を持ってきたことと話をしたことは事実だ。
さらに突き詰めて話をすればそうもいかないはずだが、彼にはそんな余裕はなかった。
すでに頭の中は霙とのこれからのことでいっぱいになっていたのだ。
(さっきまでのおかげで…もうすぐにでも挿れられるくらいほぐれてる。このまま霙を押し倒して……)
そこはかとなく漂う緊張感に心臓が激しく脈を打つ。
彼は霙に向けて1歩踏み出した。
霙はふらりと1歩後ずさる。
さらに、彼がもう1歩を踏み出す。
…霙は2歩後ずさり、戸に背をくっつけた。
(霙…もしかして、逃げてるの?)
彼はさらに近づこうとしたが、霙ははっきりとした声で「…帰ります」と言い、戸に手をかけた。
「すみません、私は…また日を改めさせてください、失礼します」
「え…ちょ、ちょっと」
「…失礼します」
引き止めるのも聞かず、さっさと家を出て行ってしまった霙。
彼は霙が今ここにいたという事実さえも信じられなくなり、呆然とその場に立ち尽くしてそれを見送った。
ーーーーーーー
(霙は…本当にどういうつもりなんだ…?)
彼は家の外で風に当たりながら、遠くの方に見える作業場を見つめて考える。
沢山の人が行き来する中でも彼の目は霙の姿をしっかりと捉えることができるのだが、こうして見ていると、霙は普段と少しも変わらずに作業をしているらしい。
(どうして…どうして?話をしに来たんじゃなかったの?どうして帰ったんだろう……まさか、また何週間も僕を放っておくなんてことは ないよね?僕はこんなにドキドキしながら待っているのに……ずっと待っているのに)
またもや何週間も待たされることになるのではないかと思った彼は居ても立ってもいられなくなり、翌日、霙に近づく機会を求めて朝から仕事場へ向かった。
ーーー
「えーっ!久しぶりだな、『姫』!」
「あははっ、久しぶり!相変わらず元気そうだなぁ」
「まぁな!まったく、お前はフラフラっと仕事しに来て…もう少し来るようにしろよ」
彼は1番親しい仕事仲間と賑やかに話をしながら霙の姿を目で追う。
賑やかにしていれば当然霙も自分の存在に気付くだろうと考えてのことだったのだが、霙は彼に近づくどころか視線さえも寄越さない。
(絶対に…今日は話をするんだ)と息巻く彼に、仕事仲間は「おい、聞いてるか?」と目の前で手をひらひら振った。
「あ…悪い、なんだ?」
「もう、話を聞いとけよ!…なぁ、俺、今日で仕事を辞めるんだ」
「え?」
彼が目を丸くして仕事仲間を見ると、「驚いたか?」と軽く笑う。
「俺、実家に帰るよ。帰って家の仕事を手伝うんだ」
「そんな…突然だな、随分」
「うーん、まぁいずれはと思ってたんだけど、俺、結婚が決まってさ。親同士が知り合いでそういう話になって…良い子だし、向こうも俺を気に入ってくれたみたいだから、もう決めたんだ」
「へ、ぇ…結婚……そっか…」
「なんだ、寂しいか?」
あはは、と笑う仕事仲間に、彼は「うん…寂しくなるな」と小さく答える。
人の入れ替わりが激しいこの仕事場で、共に長く働いていたこの仕事仲間。
いつまでもこのままのはずはないと思ってはいたものの、やはり実際にそういった話を聞くと茶化せないほどの寂しさが湧き上がってくるものだ。
仕事仲間はそんな彼に多少驚いたようだが、「また、どっかで会うこともあるよ」と元気に声をかける。
「偶然でもなんでも、きっとその機会はあるって!もし どうしても寂しくなったら会いに来いよ、俺は工芸地域にいるからさ!」
頭を多少乱暴にと撫でられた彼は「分かった分かった、うるさいなぁ」と困り顔になって笑う。
「結婚、おめでとう」
「おぅ!ありがとな!」
仕事仲間の眩しい笑顔は、彼の祝福する気持ちにほんの少しだけ傷をつけた。
ーーーーーーーー
その夜、彼は淹れたての熱いお茶を冷ましながら昼に話した仕事仲間のことを思い出す。
気心の知れた仕事仲間が漁業地域を去るのだ。
それも、結婚を機に。
彼は1人、「結婚か…」と呟く。
(結婚なんて、僕には縁がない話だな。でも、僕には縁がなくても霙はそうじゃない。霙もいつか…この漁業地域を離れて実家に帰るんだろうか、やっぱり結婚とかで。霙はかっこよくて面白いから、女の子に人気だろうし…結婚なんかすぐに決まるだろうな)
彼はお茶を一口飲もうと杯を傾けたが、まだ熱すぎてとても飲めそうにない。
「熱っ…」
彼はジンジンとする唇を指で触れて冷ます。
(別に僕はそれでも構わない。元から恋仲とか、そういうのを期待してるわけじゃないんだから。ただ、霙がここにいる間に僕を…『欲』の処理のためにでも触れてくれれば、それでいいんだ。多くを求めたりしない、僕は絶対にそんなことはしない。求めちゃいけないんだから。霙がここにいる間だけ……それがいつまでかは分からないけど)
霙は妹の世話を良くしていたというから、きっと結婚をすれば妻のことも大切にするだろう。
慈しみ、愛して、妻となる女性も必ず霙を心から愛するはずだ。
そうして愛する妻との間に子ができて、霙は妻とその子を愛すようになる。
幸せな家族のあるべき姿だ。
その妻の立ち位置に自身が立つなど、彼にとっては想像でもありえないことだった。
どんな夫婦より愛し合ったところで、その2人の愛が実りをもたらすことはない。
自らの子を慈しむ霙の姿を奪うなど、彼にはできないことだった。
家族を大切に思っている霙だからこそ彼は好意を寄せたのだというのに、自らがそこに入り込めばそんな霙の素晴らしい部分を壊してしまうと考えているのだ。
(霙が好きになる人は、どんな人なんだろう。奥さんになる人は、どんな人なのかな。霙の事を大切にしてくれる人だといいな。霙が大切にしてる家族のことも、同じように大切にしてくれるような……うん、きっとそういう人と一緒になるよね)
(そうして霙が幸せになってくれたら、僕はそれでいい。2度と会うことがなくたって、これまで話した思い出があるし、最高の思い出だって……大丈夫、それだけで生きていける。霙がいなくなったら僕も家に帰って、それから家を手伝って…ただそうやって歳をとっていけばいい……)
くるくると杯を回してお茶が冷めるのを待っていた彼は、戸の外に来客の気配がすることに気付いて手を止める。
もしや霙だろうか、とも思ったが、以前にも期待したことで結局落胆するハメになっていたため、(どうせ霙じゃないよな)と沈んだ気分のまま戸を開けた。
「あれ…また来たんだね?」
「…ちょっと、話があって」
そこにいたのはあの若者だった。
今夜の彼はすでに仕事仲間のことや霙のことで頭がいっぱいだというのに、その上この若者は何か彼に話があるらしい。
(はぁ…また『勉強』か。まぁ、しといて損はないけど)
彼は自身の中を洗うのがもはや習慣と化しているため、このまま無駄話をするよりもさっさとことを済ませてしまった方がいいと投げ遣りに考えて若者に迫る。
「話なんかするより…」
「あいつ、君に何をしたんだ」
「え?」
「あいつだよ。この間見たんだ、この家に押し入っていった あの…」
彼は若者の言葉を遮り、周囲に人がいないことを確認してから「とりあえず、中に入って」と若者を家の中に入れた。
この若者は、一体何の話をしに来たというのだろうか。
真面目な、深刻そうな表情をしているところを見ると、その話は彼にとって頭が痛くなるようなことらしいと想像がついたが、やはりその通りらしい。
若者は霙のことについて詰め寄るように話し出した。
「君はあいつに弱みでも握られてるんだろう?だからこんなことになってるんだ」
若者の言葉に、彼は「…弱み、か。まぁ…たしかに弱みといえば弱みだろうね。それも、どうしようもないくらいの」と自嘲気味になる。
たしかに彼は霙に弱みを握られているようなものだ。
同性である霙への叶わない恋心を。
遊びでも構わないから、触れてほしいと願ってやまない想いを。
だが、それらはこの若者にはまったく関係のないことだ。
いい加減、彼は若者の話し方に頭が痛くなってきて「放っておいて。別にどうしようという気もないし」と吐き捨てるように言った。
しかし、若者は「…関係ある」と食い下がる。
「俺は…君を助けたい」
大真面目にそう言う若者。
彼は「は…?何言ってるの」と乾いた笑いを響かせる。
「助けたいって?どうしたの、君。まさか僕に本気になっちゃったとか?ははっ、やめときなよ」
「どうして」
「どうしてもなにもないけど、ロクなことにならないって!2回?ヤッた相手のことに首を突っ込むなんて、君は本当にウブなんだなぁ。君って僕より歳下でしょ?しかも、君は僕の名前も知らないんじゃない?あぁ、これが若さってやつかぁ」
「…俺は真剣に話してるんだ」
「はいはい、分かったから分かったから」
彼は若者の告白じみた言葉に対して冷ややかな感情を抱いている。
なぜなら、彼は『本当に心の底から誰かを想う』という気持ちの強さがどれだけのものかを身を以て知っているからだ。
霙への彼の想いは、こんなものではない。
もっと深く、強く、強大だ。
たいしてきちんと会話をしたこともないこの若者の告白とはわけが違う、と彼は自身の名前のことも引き合いに出して言い放つ。
ばつが悪そうに名前をたずねてくる若者だったが、彼はピシャリとはねつけた。
「『姫』、だけど?皆、僕のことを『姫』って呼んでるし、君だってそうだったでしょ?別に今更知ろうとしなくったって、いいんじゃない?」
彼はこの若者と2度体を重ねはしたが、結局のところ心を許しているわけではないのだ。
若者に強引に寝台へ押し倒されても、彼は苛立つ心のままに話し続ける。
「いい加減にしてくれ、目を覚ませよ」
「いや?僕の目は覚めてるよ、はっきりとね。現実だけを見てる。夢を見てるのは君だ」
(僕は霙が好きだ。好きだけど、現実を見てるからこそ、告白しないんだ。ありえないことだって分かってるから。だから、こうする他なかったんだ)
(どうして?どうして本気で心から霙が好きな僕は告白できずにいて、僕の名前すら知らないこの子は簡単にそんなことを言えるんだろう?霙とは色んな話をしてきた。なのに、どうして霙とじゃなく、こんなよく知りもしない子とこんなことになってるんだろう?)
彼は惨めな気持ちを抱えたまま、素肌を晒そうとする若者の手から逃げるべく必死に抵抗した。
その寝台から汚れた敷き具を取り去って綺麗にし、自らも再び湯を浴びてさっぱりとした気分になった彼はそこで初めて違和感に気付いた。
ようやく(何かがおかしいのでは…?)と思い始めたのだ。
いくら霙が何を考えているのか分からないとはいえ、果たして本当に人を差し向けてまでこんなことをするだろうか?
果たして、自分の知る霙はそんなことをする人物だっただろうか?と。
(いや…霙は真面目で礼儀正しい性格でしょ?他人にあんなことさせるかな…しかも単純に荷物運びとかを頼むのとはわけが違うのに。そもそもなんて言ってここにあの子を寄越したんだろう?『男を抱いてこい』?そんなわけ…ないね?)
彼はとんでもないことをしてしまったと頭を抱える。
(ぼ、僕、本当にどうしようもないやつだな…!?こんなの…ちょっと冷静になって考えれば分かることなのに!あの子がどうしてここに来たのか知らないけど、とにかく全部僕の勘違いだったんだ!ま、待てよ…ってことは、あの子はあんな形で『初めて』を済ましちゃったのか!?純粋な子だったみたいなのに、うわ……!!ど、どうしよう、とんでもなく悪いことをしちゃったな……!?)
彼はにわかに罪悪感を感じ、あの若者に心の中で詫びる。
しかし、同時に(あれだけのことをしたのだから、もう2度とあの若者がここへ来ることもないだろう)(2度と顔を合わせることはないだろう)と安堵していた。
ところがそれから数日後、なんとあの若者が再びやってきた。
彼はなんとも言えない気まずさに包まれながら「あー…その、この間はごめんね、大丈夫だった?」と申し訳なさを滲ませて話す。
「本当に悪いんだけど、僕、勘違いをしてたみたいでさ…」
「…え?」
「本当…突然悪かったね、あんなことをするなんて。僕のこと、イカれてると思ったでしょ?はは、あはは…」
若者はまったく訳がわからないというようにその場に立ち尽くしている。
「君には悪いことをしたと思ってる…よ、うん…もし、もしもだけど、君が僕に何か責任を感じてるとしたら、そんなことはないからさ、全部僕が悪い…んだし。本当に…君の初めてをあんな感じで奪っちゃって、悪いね……」
若者にいくつも詫びの言葉を述べたところで、彼はふと浮かんできたある考えに言葉を切った。
ぼうっと遠くを見つめて考え込む。
この若者は、なぜまたここを訪ねてきたのだろうか。
あんなことがあった以上、もうここへは近寄りたくないと思うのが普通ではないだろうか?
なぜこの若者は再び、それも今度は山菜ではなく干し肉を持ってやってきたのだろうか。
(もしかして……)
彼は踵を返して帰ろうとしているらしい若者を「ねぇ!」と呼び止めた。
「んー…考えてみたけど、君がここへ来たのって、僕のことが忘れられないから、だったりして?」
「そ、それは…」
「わぁ、図星かな?ふふ、あんなことされたら、そりゃ気になっちゃうよね…そのお肉も僕にって持ってきてくれたみたいだし、こんなところまで来てくれたのに何もせず追い返しちゃうのは悪いし……」
彼はある企みをもって、若者を誘惑しにかかる。
「……どう?君さえ良ければ、『中に入っていかない?』」
(誘ってみて…その気がなければ手を出さなければいい)
「ほら…どうする?」
少しの間の後、若者がゆっくりと頷いたのを見て、彼は家の中へ招き入れた。
ーーーーーーーー
彼は自分のしていることが、どれだけ常識から外れているのかをはっきりと理解している。
理解してはいるが、彼にとってなによりも大切なのは霙のことだけなのだ。
霙のためになるのであれば、常識や自身の気持ち、体、そして相手となっているこの若者について省みることは一切ないと言える。
彼は若者が『行為』をすることに抵抗がないらしいと感じ取るやいなや、自身の『研究』に協力させようと考えついていた。
実際、この若者は非常に反応が分かりやすいのだ。
これは経験が少ないためなのか、もしくは元から感情を顕にする性格であるからなのかははっきりとは分からない。
しかし、彼の言葉や手管1つに反応で応えてくる若者は、彼にとって非常に協力的な人物として捉えられていた。
一連の行為を終えると、彼はすぐに若者を家へ帰すべく衣や寝台を整え始める。
彼はこの若者にすべてを許しているわけではない。
自身の中に放出していいのは霙だけ。
この寝台で眠っていいのは霙だけ。
それだけは譲れない一線としてずっと心に残しているのだ。
「じゃあね」
彼は戸のそばで若者を見送りながら、自らの後ろの疼きに身を震わせる。
若者に心を許しているわけではない彼は、どれだけ中を突かれてもそれで快感を得ることは一切なく、むしろ『早く自分でイイところを突き回したい』とうずうずしてしまうのだ。
(はぁ…早く僕も気持ちよくなって寝……)
戸を閉めようとした彼は、そこに人影が現れたことに気付いて手を止めた。
「あ、き、君…!!」
彼は自身の目を疑う。
立派な背格好をしたその人影。
霙だ。
間違いなく、霙本人だ。
なんと、ついに、霙がやってきた。
「…こんばんは」
そう低く挨拶する霙に、彼は胸を高鳴らせる。
『あの日』以降、彼が霙と会うのはこれが初めてだ。
ついにその日が来た、と彼はにわかに緊張する。
(ちょうどいい…僕はもうほぐれてるし!大丈夫、僕は上手くできる…!霙を満足させてみせる…!!)
「話を…しようと、思って」と言葉少なに話す霙に、彼は「と、とりあえず、中に…」と戸を開け放った。
彼は霙から目を離すことができない。
あまり見つめすぎるのも良くないとは思うものの、『あの日』以降久しぶりに見た霙は以前よりもいくらか引き締まったような様子で凛々しさが増している…ようなのだ。
はっきり言って、大した変化は見受けられないが、少なくとも彼にはそう見えているらしい。
後ろ手に戸を閉めた霙に、彼は「久しぶり…だね」となんとか声を出す。
「話…話を、するって…えっと……」
「あの人は、誰ですか」
「え?」
あまりにもはっきりと響く霙の声に、彼は俯かせていた顔をあげる。
しかし、霙は視線を床に落としたままだった。
「あの人?」
「今出ていった、あの人です」
「あ…あの子?あぁあの子、僕に干し肉を届けに来てくれたんだ、うん。それでちょっと話をして…」
彼は嘘をついているわけではない。
たしかに『何をしたか』については話していないが、干し肉を持ってきたことと話をしたことは事実だ。
さらに突き詰めて話をすればそうもいかないはずだが、彼にはそんな余裕はなかった。
すでに頭の中は霙とのこれからのことでいっぱいになっていたのだ。
(さっきまでのおかげで…もうすぐにでも挿れられるくらいほぐれてる。このまま霙を押し倒して……)
そこはかとなく漂う緊張感に心臓が激しく脈を打つ。
彼は霙に向けて1歩踏み出した。
霙はふらりと1歩後ずさる。
さらに、彼がもう1歩を踏み出す。
…霙は2歩後ずさり、戸に背をくっつけた。
(霙…もしかして、逃げてるの?)
彼はさらに近づこうとしたが、霙ははっきりとした声で「…帰ります」と言い、戸に手をかけた。
「すみません、私は…また日を改めさせてください、失礼します」
「え…ちょ、ちょっと」
「…失礼します」
引き止めるのも聞かず、さっさと家を出て行ってしまった霙。
彼は霙が今ここにいたという事実さえも信じられなくなり、呆然とその場に立ち尽くしてそれを見送った。
ーーーーーーー
(霙は…本当にどういうつもりなんだ…?)
彼は家の外で風に当たりながら、遠くの方に見える作業場を見つめて考える。
沢山の人が行き来する中でも彼の目は霙の姿をしっかりと捉えることができるのだが、こうして見ていると、霙は普段と少しも変わらずに作業をしているらしい。
(どうして…どうして?話をしに来たんじゃなかったの?どうして帰ったんだろう……まさか、また何週間も僕を放っておくなんてことは ないよね?僕はこんなにドキドキしながら待っているのに……ずっと待っているのに)
またもや何週間も待たされることになるのではないかと思った彼は居ても立ってもいられなくなり、翌日、霙に近づく機会を求めて朝から仕事場へ向かった。
ーーー
「えーっ!久しぶりだな、『姫』!」
「あははっ、久しぶり!相変わらず元気そうだなぁ」
「まぁな!まったく、お前はフラフラっと仕事しに来て…もう少し来るようにしろよ」
彼は1番親しい仕事仲間と賑やかに話をしながら霙の姿を目で追う。
賑やかにしていれば当然霙も自分の存在に気付くだろうと考えてのことだったのだが、霙は彼に近づくどころか視線さえも寄越さない。
(絶対に…今日は話をするんだ)と息巻く彼に、仕事仲間は「おい、聞いてるか?」と目の前で手をひらひら振った。
「あ…悪い、なんだ?」
「もう、話を聞いとけよ!…なぁ、俺、今日で仕事を辞めるんだ」
「え?」
彼が目を丸くして仕事仲間を見ると、「驚いたか?」と軽く笑う。
「俺、実家に帰るよ。帰って家の仕事を手伝うんだ」
「そんな…突然だな、随分」
「うーん、まぁいずれはと思ってたんだけど、俺、結婚が決まってさ。親同士が知り合いでそういう話になって…良い子だし、向こうも俺を気に入ってくれたみたいだから、もう決めたんだ」
「へ、ぇ…結婚……そっか…」
「なんだ、寂しいか?」
あはは、と笑う仕事仲間に、彼は「うん…寂しくなるな」と小さく答える。
人の入れ替わりが激しいこの仕事場で、共に長く働いていたこの仕事仲間。
いつまでもこのままのはずはないと思ってはいたものの、やはり実際にそういった話を聞くと茶化せないほどの寂しさが湧き上がってくるものだ。
仕事仲間はそんな彼に多少驚いたようだが、「また、どっかで会うこともあるよ」と元気に声をかける。
「偶然でもなんでも、きっとその機会はあるって!もし どうしても寂しくなったら会いに来いよ、俺は工芸地域にいるからさ!」
頭を多少乱暴にと撫でられた彼は「分かった分かった、うるさいなぁ」と困り顔になって笑う。
「結婚、おめでとう」
「おぅ!ありがとな!」
仕事仲間の眩しい笑顔は、彼の祝福する気持ちにほんの少しだけ傷をつけた。
ーーーーーーーー
その夜、彼は淹れたての熱いお茶を冷ましながら昼に話した仕事仲間のことを思い出す。
気心の知れた仕事仲間が漁業地域を去るのだ。
それも、結婚を機に。
彼は1人、「結婚か…」と呟く。
(結婚なんて、僕には縁がない話だな。でも、僕には縁がなくても霙はそうじゃない。霙もいつか…この漁業地域を離れて実家に帰るんだろうか、やっぱり結婚とかで。霙はかっこよくて面白いから、女の子に人気だろうし…結婚なんかすぐに決まるだろうな)
彼はお茶を一口飲もうと杯を傾けたが、まだ熱すぎてとても飲めそうにない。
「熱っ…」
彼はジンジンとする唇を指で触れて冷ます。
(別に僕はそれでも構わない。元から恋仲とか、そういうのを期待してるわけじゃないんだから。ただ、霙がここにいる間に僕を…『欲』の処理のためにでも触れてくれれば、それでいいんだ。多くを求めたりしない、僕は絶対にそんなことはしない。求めちゃいけないんだから。霙がここにいる間だけ……それがいつまでかは分からないけど)
霙は妹の世話を良くしていたというから、きっと結婚をすれば妻のことも大切にするだろう。
慈しみ、愛して、妻となる女性も必ず霙を心から愛するはずだ。
そうして愛する妻との間に子ができて、霙は妻とその子を愛すようになる。
幸せな家族のあるべき姿だ。
その妻の立ち位置に自身が立つなど、彼にとっては想像でもありえないことだった。
どんな夫婦より愛し合ったところで、その2人の愛が実りをもたらすことはない。
自らの子を慈しむ霙の姿を奪うなど、彼にはできないことだった。
家族を大切に思っている霙だからこそ彼は好意を寄せたのだというのに、自らがそこに入り込めばそんな霙の素晴らしい部分を壊してしまうと考えているのだ。
(霙が好きになる人は、どんな人なんだろう。奥さんになる人は、どんな人なのかな。霙の事を大切にしてくれる人だといいな。霙が大切にしてる家族のことも、同じように大切にしてくれるような……うん、きっとそういう人と一緒になるよね)
(そうして霙が幸せになってくれたら、僕はそれでいい。2度と会うことがなくたって、これまで話した思い出があるし、最高の思い出だって……大丈夫、それだけで生きていける。霙がいなくなったら僕も家に帰って、それから家を手伝って…ただそうやって歳をとっていけばいい……)
くるくると杯を回してお茶が冷めるのを待っていた彼は、戸の外に来客の気配がすることに気付いて手を止める。
もしや霙だろうか、とも思ったが、以前にも期待したことで結局落胆するハメになっていたため、(どうせ霙じゃないよな)と沈んだ気分のまま戸を開けた。
「あれ…また来たんだね?」
「…ちょっと、話があって」
そこにいたのはあの若者だった。
今夜の彼はすでに仕事仲間のことや霙のことで頭がいっぱいだというのに、その上この若者は何か彼に話があるらしい。
(はぁ…また『勉強』か。まぁ、しといて損はないけど)
彼は自身の中を洗うのがもはや習慣と化しているため、このまま無駄話をするよりもさっさとことを済ませてしまった方がいいと投げ遣りに考えて若者に迫る。
「話なんかするより…」
「あいつ、君に何をしたんだ」
「え?」
「あいつだよ。この間見たんだ、この家に押し入っていった あの…」
彼は若者の言葉を遮り、周囲に人がいないことを確認してから「とりあえず、中に入って」と若者を家の中に入れた。
この若者は、一体何の話をしに来たというのだろうか。
真面目な、深刻そうな表情をしているところを見ると、その話は彼にとって頭が痛くなるようなことらしいと想像がついたが、やはりその通りらしい。
若者は霙のことについて詰め寄るように話し出した。
「君はあいつに弱みでも握られてるんだろう?だからこんなことになってるんだ」
若者の言葉に、彼は「…弱み、か。まぁ…たしかに弱みといえば弱みだろうね。それも、どうしようもないくらいの」と自嘲気味になる。
たしかに彼は霙に弱みを握られているようなものだ。
同性である霙への叶わない恋心を。
遊びでも構わないから、触れてほしいと願ってやまない想いを。
だが、それらはこの若者にはまったく関係のないことだ。
いい加減、彼は若者の話し方に頭が痛くなってきて「放っておいて。別にどうしようという気もないし」と吐き捨てるように言った。
しかし、若者は「…関係ある」と食い下がる。
「俺は…君を助けたい」
大真面目にそう言う若者。
彼は「は…?何言ってるの」と乾いた笑いを響かせる。
「助けたいって?どうしたの、君。まさか僕に本気になっちゃったとか?ははっ、やめときなよ」
「どうして」
「どうしてもなにもないけど、ロクなことにならないって!2回?ヤッた相手のことに首を突っ込むなんて、君は本当にウブなんだなぁ。君って僕より歳下でしょ?しかも、君は僕の名前も知らないんじゃない?あぁ、これが若さってやつかぁ」
「…俺は真剣に話してるんだ」
「はいはい、分かったから分かったから」
彼は若者の告白じみた言葉に対して冷ややかな感情を抱いている。
なぜなら、彼は『本当に心の底から誰かを想う』という気持ちの強さがどれだけのものかを身を以て知っているからだ。
霙への彼の想いは、こんなものではない。
もっと深く、強く、強大だ。
たいしてきちんと会話をしたこともないこの若者の告白とはわけが違う、と彼は自身の名前のことも引き合いに出して言い放つ。
ばつが悪そうに名前をたずねてくる若者だったが、彼はピシャリとはねつけた。
「『姫』、だけど?皆、僕のことを『姫』って呼んでるし、君だってそうだったでしょ?別に今更知ろうとしなくったって、いいんじゃない?」
彼はこの若者と2度体を重ねはしたが、結局のところ心を許しているわけではないのだ。
若者に強引に寝台へ押し倒されても、彼は苛立つ心のままに話し続ける。
「いい加減にしてくれ、目を覚ませよ」
「いや?僕の目は覚めてるよ、はっきりとね。現実だけを見てる。夢を見てるのは君だ」
(僕は霙が好きだ。好きだけど、現実を見てるからこそ、告白しないんだ。ありえないことだって分かってるから。だから、こうする他なかったんだ)
(どうして?どうして本気で心から霙が好きな僕は告白できずにいて、僕の名前すら知らないこの子は簡単にそんなことを言えるんだろう?霙とは色んな話をしてきた。なのに、どうして霙とじゃなく、こんなよく知りもしない子とこんなことになってるんだろう?)
彼は惨めな気持ちを抱えたまま、素肌を晒そうとする若者の手から逃げるべく必死に抵抗した。
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