その杯に葡萄酒を~オメガバ―ス編~

蓬屋 月餅

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第1章

1「香り」

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 鉱酪通りの鉱業地域側にある小さな荷車整備工房では、輝く黒髪をした体格のいい男が働いている。
 『こう』という愛称で呼ばれているその男は22歳にして周りから一目置かれるほどの一人前の荷車整備職人となった腕利きの人物だ。
 酪農地域の生まれでありながらも幼くして両親を亡くし、その後7歳上の兄と共に工芸地域に暮らす母方の祖父母の元で育った彼は、若い頃に楽師として活躍していた祖父が晩年に傷んだ楽器の修復作業を仕事としていたことから いつしか木工に興味を持つようになり、そしてその後 数ある木工に関連した分野の中でも特に荷物の運搬などに利用される荷車についてを専門的に学ぶようになった。
 彼は11歳かそこらの頃にはすでに将来は荷車の製作、もしくは整備をする仕事に就きたいと思っていたために同じ年頃の子供達が友達とあちこちで遊んでいるときにも1人 木工場で職人の作業風景を見聞きするなどして専門的な知識を蓄えており、そもそも強い関心を持っている分野だったということも手伝ってか、どんな作業内容であってもすぐにものにして周りの大人達を唸らせていた。
 そして成人する頃にはすっかり熟練の職人達にも劣らない腕となった彼は、それから工芸地域の職人達の紹介によってこの鉱業地域にある小さな工房で親方に師事しながら働き始めたのだ。
 重く堅い木材などで作られた荷車の部品を扱う荷車整備職人というのは体力勝負の仕事でもあるのでなかなか大変なのだが、そんな仕事に従事している彼の第2性別はオメガである。
 
 アルファの兄が言うところによると、彼の第2性別がオメガだと判明したとき、両親は大いに喜んだらしい。
 アルファやオメガは人生を共にする『つがい』を見つけると健康で長生きをするということが知られているため、両親は2人の子供達がそれぞれアルファとオメガだと知って嬉しかったのだろう。
 アルファである兄もよく弟の夾に「お前がオメガだって分かったとき、母さん達と同じように兄ちゃんも嬉しくてさ…みんなでお祝いしたんだよ」と両親や家族4人で過ごした貴重な時間を思い出しては懐かしそうに話していた。
 しかしながら、夾は一般的なオメガとは言い難い体質をしていたのだった。
 なんと彼は成人したにもかかわらず、まだ生まれてから一度も【香り】を放ったことがないという特殊な体質の持ち主だったのだ。
 アルファやオメガはどの子も大体10歳くらいになると初めて【香り】を放つようになり、そして学び舎に通いながら同じ第2性別の子供達と共に自分や他人への【香り】の対処法を自然と身につけていくのだが、彼はその経験がないまま成長していた。
 本来の性、つまりオメガ性が発現しないということはこれまでに記録がないほど稀なことであり、工芸地域で昔から彼のことを診ていたかかりつけ医も『ごくたまに【香り】の相性がいいアルファに出逢うと体質が改善される方もいらっしゃるようですが、もしかしたら君もそうなのかもしれませんね』『無理に引き出そうとしてもそれはそれで体に強い負担がかかるものですから…こればっかりはこの先 気長に様子を見ていくしかないと思います』と数少ない文献の中からやっと探し出した女性オメガなどの情報を元に見守る他なかったのだ。
 彼が『オメガだと判定した当時の結果が間違っていて、本当は自分はベータなのではないか』と思うようにもなっていったのも無理はないだろう。
 彼の兄はそんな夾のことを心配してよくアルファの友人をそれとなしに紹介してきたのだが、その人達に会ったとしても結果は同じだった。
 オメガたらしめる【香り】が放てない以上、つがいとなる相手を見つけるのはほぼ不可能なことであり、ましてやつがいになるなどというのも夢のまた夢である。
 彼は『いつか自分もアルファとつがいになってその人と一緒に家族を作る』という子どもの頃から抱いていた夢を諦め、自分達を育ててくれた祖父母が亡くなり、兄も幼馴染で長らく恋人関係だったオメガの女性と結婚し つがいとなって新たな家族を築くことになったのをきっかけに、1人工芸地域から離れたところにある酪農地域でベータのようにしてひっそりと暮らすことにしたのだった。
 彼が引っ越したのは周囲にあまり人気ひとけがない長閑のどかな一軒家だ。
 その家は元々酪農地域の夜間の見張りの為の駐在所として機能していた建物を夾の両親が子供達と住むために改築していた家で、両親亡き後、長らく祖父母によって定期的に清掃管理されていた家である。
 本来、オメガはアルファの【香り】にあてられると一切抵抗などが出来なくなってしまうので身を守るためにも1人暮らしをするのは避けたほうがいいとされており、夾の兄はそんな人気ひとけのないところに1人で住むという弟をとても心配したのだが、そのときちょうど鉱業地域の工房で働くという話が持ち上がっていたのと『むしろこういう人気ひとけのないところのほうが落ち着いて暮らせるから』という彼の説得を受けてしぶしぶそれを承諾した。
 それから夾はそこで1人暮らしをしているというわけだ。
 ちなみに1人でいることを推奨しないというのはオメガに限った話ではないということを明言しておく。
 様々な人間関係において、力関係にまったく差がないという例はほとんどないからだ。
 男女であれアルファやオメガであれ、ベータ同士であったとしても必ず2人以上の人間がいればそこには力の差というものが生まれるものであり、あってはならないことではあるのだが、もしものことが起こった際にはどうしても力の弱い方が抵抗しきれないという事態に陥る。
 それを防ぐにはまず1人にならないことが1番だ。
 その中でもオメガは特にアルファに【香り】で屈服させられてしまうこともあるので、注意が必要だということである。


 元からあまり大勢の人の中に混ざって話したりすることを好まない性格をしている夾の普段の行動範囲といえば、仕事場である整備工房と家と散歩で行く近くの森や川沿いの他には夕方の時間帯から開く【柳宿りゅうしゅくうつわ】という食事処ぐらいしかない。
 鉱酪通りの酪農地域側、少し奥まったところにあるその食事処は積極的に人のいるところへ行こうとしない夾を心配した親方から『夕食だけでも自宅以外で食べて人と関わるようにしてはどうだ』と勧められたことをきっかけに、彼が自分で居心地よく感じられる場所をあちこち探して回った結果見つけた場所だ。
 隣接する酒場と中で繋がっているその【柳宿の器】は夕方から開く落ち着いた雰囲気の食事処で、どちらかというと寡黙な男達が集まる場であり、必要以上に誰かと関わり合ったりせず自分の好きなように過ごすことが出来る上、料理もとても美味しく、そこを取り仕切っている青年も物腰の柔らかな爽やかで親切な人だったのですぐに彼のお気に入りとなったのだ。
 一日の仕事を終えてから一度家に帰って軽く汗を流したりした後、また鉱酪通りまで出てきて【柳宿の器】にて夕食を食べるのが彼のお決まりとなっている。
 彼はそんな毎日を送りながら周りの人間がアルファだとかベータだとか、自分がオメガだとか、そういったことをすっかり気にせずに仕事に明け暮れる毎日を過ごしていた。


ーーーーーーー


「今日もありがとうございました。美味しかったです、ご馳走様」

 そう声をかけて【柳宿の器】を出た夾。
 それはある初秋の日の夜のことだった。
 いつもより夕食を摂りにくるのが少し遅れたせいもあったのだろうが、彼が食事を終えた頃には空には月が昇りかけており、所々に街灯が灯っているとはいえ 早いところ家に帰らなければどんどんと帰り道が見えづらくなってしまうだろうというくらいの暗さになっていた。

(あぁ…もう早く帰らないと)

 夾は急いで帰途につくべく鉱酪通りから酪農地域の自宅へと続く脇道に入ろうとしたのだが、なんとそこから2歩も踏み出さないうちにすぐ隣にある酒場から男達が出てきて、彼は驚いた拍子に思わずそばの物陰へと隠れてしまった。
 別に構わず行ってしまえばよかったのだが、なんとなく隠れてしまったのだ。
 そのまま出て行く機会を失ってしまい、夾は男達の会話を図らずも聞いてしまう。
 どうやら男は3人いるらしいのだが、言葉を交わしているのはそのうちの2人のようだ。

「久しぶりに呑んだからか ちょっと酔ってるみたいだけど、大丈夫か?」
「平気へいき~こんなくらいどうってことないって~」
「そういうこと言うやつほど酔ってるんだぞ」
「もぅ~だぁいじょぶだってば!僕には頼もしいつがいがいるんだもん、彼がちゃんと僕を家まで連れ帰ってくれますから~」
「はぁ…まったく」

 影から様子を伺ってみるとたしかにそこには3人の男がいる。
 小柄な男と普通の体格をした男、そして酒場の戸に背を向けて立つ赤銅色の髪をした男だ。
 この赤銅色の髪をした男は【柳宿の器】と中続きになっている隣の酒場の方を取り仕切っているらしい人物である。
 何度か遠目に働いている姿を見かけたことがあるのだが、灯りに照らされて輝かんばかりのその髪色が印象的だったので夾もよく覚えていた。
 その赤銅色の髪をした男と話している2人のうちの小柄な男の方はべろべろに酔っているようにも見えるが、しかしその口調やふらふらとした立ち姿にはどこかわざとらしさがあって、おそらく本気で酔っているのではなくその横にいる普通の体格をした男に寄りかかるための口実らしいと察せられる。
 気心の知れた3人なのだろう。彼らはあれやこれやと話しながらも楽しそうだ。
 だが夾は聞こえてきた会話のとある一部分が気になっていて、そうした和やかな様子からはすっかり気が削がれていたのだった。
 彼が気になった会話の一部分というのは、小柄な男が言った『僕には頼もしいつがいがいるんだもん』という一言だ。

つがいって…そんな相手がいたらどんなに良いか。実際はそんな簡単に見つかるもんじゃないのに)

 夾はそんなことを考えながら心の中でため息をつく。
 あの小柄な男と普通の体格をした男が本当につがいなのだとすれば2人のうちどちらかは男性オメガということになるだろうが、まずその可能性はないに等しく、であればベータ同士などで仲良くしている男2人組が戯れに『つがい』と言ったに違いない。
 しかし当事者である男性オメガの夾に言わせてみれば、もはやそうしたつがいなどというものは幻想にすぎないのだった。
 散々【香り】やオメガ性やつがいといったことについて悩み、考え抜いてきた夾にはむしろ(そういうあれこれに悩むことなくただ好きになった人をつがいと言ったり、本当のつがいのようにして寄り添い合うことができた方がよっぽどいいだろうな)と思えてならない。
 人間誰しも大小さまざまな悩みはあるだろうが『少なくとも自分のような悩みを抱えたことのある者はいないだろう』という少し冷めた思いもある。
 だがそうしたことを悶々と考えていたせいでその後3人の男達がどのような会話を交わしていたのかはすっかり聞き逃してしまい、気付いたときには小柄な男は『つがい』だと言った普通の体格をした男におぶられて去っていくところになっていたのだった。
 2人の姿には仲睦まじさが溢れていて本当につがいのようにも見えたが、しかし何分なにぶん外は月が昇るほど薄暗くなっていたので そのどちらかがつがいの証である『うなじあて』をしているかどうかというのも分からず、結局本当のところはどうなのかも分からないまま 夾はその後ろ姿をぼぅっと見送る。
 しかし彼はつがいという単語に気を取られていたせいで、後に残った赤銅色の髪の男が振り向き、物陰に隠れるようにしていた自分の姿に気付いたのだと理解するのが一瞬遅れてしまったのだった。
 別に盗み聞きをしようとしていたわけではない、のだが…こういうときには、なんというか、気まずい空気が流れるものだ。
 なんとなく会釈を交し合う2人。
 妙な雰囲気に包まれるその気分があまりにも心地悪くて、夾はどういうわけか しどろもどろに余計なことを口走ってしまった。
 よせばよかったのに、余計なことを。
 きっと気まずくてたまらない雰囲気が彼にそうさせたに違いない。

「ははっ…つがいって、そんな…男のオメガなんてのは…そんなの……」

 もちろん彼は自分自身のことを指して言ったのだ。
 『男のオメガなんてそうそういるものじゃない』
 『つがいの相手なんて、男性オメガには見つかるはずがない』と。
 それはもう何度も自分に言い聞かせてきた言葉でもあったので、咄嗟のことでつい口から出てしまったのだ。
 だが余計なことを口走ってしまったと後悔するより早く、なんと彼は酒場の裏路地の陰のところに連れ込まれて背を壁へと強く押し付けられていたのだった。
 何が起こったのかも分からないほどの速さで腕を掴まれ、不意のこととはいえまったく抵抗できないくらいの強い腕力によって。
 あまりにも急なことで目を丸くする夾。

「あの2人に…なんか文句でもあんのか」
「っ……」

 赤銅色の髪をした男は夾にぐっと顔を近づけて迫り、低く威圧的な、怒気を孕んだ声で話す。

「誰が誰とどうなってたっていいだろ、他人がとやかく言うもんじゃないってのが分かんないのか?」
「そ…そんなつもりで言ったんじゃ……」
「へぇ?じゃあどういうつもりだったんだ?ほら、言ってみろよ」

 夾の両肩を壁に強く押し付けながら話すその様子はまさに有無を言わせぬというような感じで、なんとか誤解を解かなければと思うものの、この状況のせいで上手く言葉が出てこない。
 しかしながら不思議なことに、夾は恐怖を感じているというわけではないのだった。
 男はさらなる威圧感を与えようとしてなのかすでに充分すぎるほど近づいているのにまだ徐々に距離を詰めてきていて、体のあちこちが触れ合うくらいにまでなっている。
 それが妙にドキドキさせるのだ。
 それに、どうにかしてそんな意図はなかったのだということを伝えようと男の瞳を見た時…夾はその美しさにすっかり目を奪われてしまった。
 月夜の下で輝く、青みがかった灰色の瞳。
 それはまるで宝玉でできているかのようであり、夾はそのあまりの美しさに鼓動が早くなるのを感じながら息を呑み、そしてより一層虜になった。
 鼻腔と肺一杯に満ちる…まるで針葉樹林の中にでもいるかのように錯覚してしまうほどの深く爽やかな香り。
 その香りにはわずかにピリリとしたような辛みに近い何かも含まれているようだ。
 夾は初めはそれがその男の衣から漂ってきたものかとも思ったのだが、その後すぐに自分が感じたその香りが何なのかを理解し、そしてそれまで考えていた一切をどこかへと投げ去ってただただ衝撃に身を打ち震わせていた。

「………」

 身動ぎ一つすることができず、言葉すらもない完全な膠着状態でじっと見つめ合う2人。
 なんの動きもなくこのまま続くかと思われたその状況だが、ふと聞こえてきた「セン~?ちょっと裏を手伝ってほしいんだけど」という声によってそれは一変する。

「外でなんか作業してたりする?もしかして忙しい?」

 その声が【柳宿の器】のあるじである青年のものだというのは夾にもすぐに分かった。
 セン、と呼ばれたその赤銅色の髪の男はパッと夾から離れると「あぁ、今行くよ」と声を張り上げて答える。

「空いた酒瓶を片してたんだ、もう終わったから中に戻るよ」
「そう?じゃあよろしくね」
「うん」

 何事もなかったかのように釦付きの衣の皺が寄っていたところを伸ばし、身体全体をくまなくはたいてから酒場の方へと戻っていく赤銅色の髪の男。
 角を曲がる一瞬に夾を一瞥したその瞳は、まるで釘を刺すかのように鋭いものだった。


 1人になった路地裏で夾は胸を押さえてはぁっと深く息をつく。
 緊張感から解き放たれた反動のためか体中の力が失われてしまったようで、彼はそばの壁へともたれ掛かりながらなんとか鼓動を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。
 こんな経験は初めてのことだ。恐ろしく思ったって不思議はなかっただろう。
 だが彼はあの赤銅色の髪をした男が去り際に見せたあの鋭い眼光でさえもが素敵に思えてならず、むしろ胸を高鳴らせていたのだった。

(あんなに綺麗な瞳の人がいるだなんて……髪も綺麗だったけど遠目ではあの瞳を見ることはできなかったから全然気付かなかった……でもさっきはこんな近くで…)

(しかもこの香りも…まだここに少し残ってるのだけでも呼吸するたびにすごくよく感じられて……)

 密着していた体の感触と奥の奥まで覗き込むようにして見た瞳の色、そしてあの針葉樹林にでもいるかのような気分にさせる香り。
 夾はそれらを頭の中に鮮明に描き出すことを止められずに何度も反芻してしまう。
 何度も繰り返し、記憶にしっかりととどめようとするように。
 何度も何度も。
 すると気付いた時にはすでにあの針葉樹林のような香りの他に何か別のものが混ざり始めていて、夾は目を瞬かせた。

(なんだ…?香りが変わった……?これは木の香りじゃない、なんていうか…花みたいな…甘い…感じの……)

 彼がその変化の正体に気付いたのはすぐのことだ。
 思わず手のひらで鼻と口をふさいだ彼は、それから弾かれたように自宅の方へ向けて全速力で走りだした。
 途中躓いてこけそうになりながらもひたすら一心に走って自宅まで。
 ようやくたどり着いた自宅の戸を開けて中に入ると、彼は内側からきちんと鍵をかけ直し、しっかりと鍵がかかっていることを繰り返し確認してから床へとへたり込んでしまう。
 落ち着かない鼓動。まだ漂う花のような香り。
 それは明らかに彼自身に起きた変化だった。

(こんなときは…こんな時はまずどうするんだったっけ……そうだ、く…薬を…まずは抑制薬を飲まないと……!)

 調理場のすぐ隣にある戸棚から応急箱を持ち出し、小瓶に入っている丸薬を一粒口に放り込む夾。
 彼は飲み込んだ丸薬の効果が早く現れることを期待して水をなみなみ一杯飲んだが、それでもまだ動悸は治まらなかった。
 じわじわと熱を帯びる体はすっかり濃厚な甘い香りに包まれている。
 その香りというのは間違いなく、彼のオメガ性が放ったオメガの【香り】だ。

(俺って本当にオメガだったんだ…これが俺の【香り】、なんだよな?まさかそんな…今までなんともなかったのにいきなりこんな風になるなんて……やっぱりあの人と話したからなんだろうか、あの人のことを想うと……っ)

 裏路地での出来事を再び思い出すだけで治まりかけていた体の熱と動悸が再び舞い戻ってきて彼は胸を押さえる。
 そしてあの赤銅色の髪の男から香ってきた針葉樹林のような香りに意識を向けると夾を包む甘い【香り】はさらに濃くなった。

(あの人のあれは…衣とかの香りじゃなかったんだ、あれがあの人の【香り】なんだ)

(あの人は…あの綺麗な人はアルファだったんだ…!)

 彼の胸は様々な思いによってこれ以上ないというほどにまで高鳴っている。
自分は本当にオメガだったのだということ
ついに自分の【香り】がどういうものなのかを知れたということ
初めて間近でアルファの【香り】を浴びたこと
そして…自分を貫くかのように見ていた青みがかった灰色の瞳や薄暗い中でも輝いているようだった赤銅色の髪を、心の底から美しいと思ったこと。
 戸惑う思いもないわけではないが、それを上回る喜びと安堵、胸の高鳴りによって彼は体の内側からこみ上げてくる微笑みと薄紅に染まる頬を止めることができない。

「セン、さん………」

 青みがかった灰色の瞳を思い浮かべながらそっとそうして呟く夾。
 急な発情の際などに使用される抑制薬は徐々に効き目をみせて彼の甘く濃厚な【香り】の発散をゆるやかに止めていったが、しかし彼が赤銅色の髪をしたあの男、『セン』と呼ばれていたあの男のことを思い浮かべるたびにその効き目は曖昧になって、また動悸と熱をぶり返させたのだった。
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