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番外編
5「新月の夜」前編
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「お風呂気持ちよかったね、うん?さっぱりしたんでしょ、それとも僕と湯浴みをしたからご機嫌なのかな?」
『熊』と彼が番になってから丸1年が過ぎた冬。
夏の終わり頃に産まれた『虎』は生後5ヶ月ほどになり、手当たり次第に物を握っては齧りついたり、動くものをじっと目で追ったりといったことが増える頃になってきていた。
感情表現も豊かになり、『熊』は絶えず『虎』に話しかけては様々な遊びを仕掛け、『虎』の笑顔を引き出そうと必死になっている。
たった今も、湯浴みを終えた『熊』は彼に衣を着替えせられたばかりの『虎』に「虎は本当に湯浴みが好きだね、産まれたての頃から沐浴をしてると途中で寝ちゃってたもんね」とにこにこ話しかけていた。
男性オメガの子供の特徴として、出産までの妊娠期間の短さの他、産まれた後の成長が早いということも挙げられる。
小さく産まれた体でありながらも生後5ヶ月となった『虎』はすっかり大きくなり、今では重湯の離乳食を好んで食べるほどになっていた。
医者でさえ「この月齢でここまで離乳食を好むというのは、珍しいですね」と言うほどだ。
どうやら『虎』は食に関してかなりの興味を持っているらしい。
これは当分は彼にしか食の世話ができないだろうと思っていた『熊』にとっては願ってもないことで、「僕の作る重湯がとっても美味しいんだよね?」「虎は僕の作るご飯が大好きなんだね」「もう少し大きくなって、先生に『良いですよ』って言ってもらったら、そうしたらちょっとずつ他の色んな物を試してみようね」などと言いながら、まだ1日に1度だけの、ほとんど水である離乳食を『虎』に食べさせる時間を楽しみにしている。
(重湯はさすがに…誰が作っても同じじゃないのか?)と思う彼だが、それは絶対に『熊』には言わないだろう。
実際、『熊』は自分が差し出した匙に対して一生懸命 口を開けてせがんでくる『虎』のことが可愛くて仕方がないようだ。
『熊』の『虎』へ向けた愛情は日毎に高まっている。
彼は『虎』との遊びに夢中になっている『熊』の肩へ「湯冷めしちゃうだろ」と羽織を掛けてやりながら声をかけた。
「虎のことばっかり気にかけて熊が風邪をひいちゃったら元も子もないんだ、頼むよ」
「ん…ありがと」
「っ!!………ぉぅ」
彼はふと向けられた『熊』の笑顔からパッと目を逸らす。
「どうかした?」
「いや…なんでもない」
そのまま頬が熱くなっていくのを感じた彼は、「お父さんに沐浴させてもらったの、良かったね」とご機嫌な様子の『虎』へ微笑みかけた。
高鳴る彼の心臓…。
どういうわけか、近頃の彼には『熊』のことがどうしようもなく素敵に思えて仕方がない。
『虎』に向ける笑顔はとろけるような可愛らしいものであるのに、自分に向けられたものはなぜだか凛々しく、強さがあって、やけに格好良く見えるのだ。
そんなドキドキしている彼のことを知ってか知らずか、『熊』は「君も体を冷やしちゃだめだよ」と変わらない笑顔で言う。
「いつも僕達だけ先に湯浴みをさせてるでしょ、湯が冷めちゃってるんじゃないかって僕はいつも心ぱ……」
「あ、い、いやいや!!大丈夫だから!」
「そう?でも…」
「お、俺も湯浴みしてくる!虎、また後でね!」
『熊』に心配されることがどうにもくすぐったくてたまらず、彼は棚から自らの寝間着を引っ掴むと、バタバタと階下の浴室へ降りていった。
ーーーーーーーー
(なんだよ……別にこんなくらいじゃ湯は冷めないし………そんな、心配なんてしなくても……)
彼はブクブクと浴槽に顔を半分沈めながら『熊』とのやり取りを思い出す。
『熊』の世話焼きは今に始まったことではない。
たしかに『虎』に対しての世話焼きは今までとは違う新たなものかもしれないが、彼の体調を気遣ったり、代わりに何でもしてやりたいとでも言わんばかりの行動全ては出逢った当初からのものだ。
(虎がお腹にいたときだって熊は散々、うるさいってくらい俺に世話を焼いてたのに…どうしてちっとも慣れないんだ?どうしてこんなに気恥ずかしくなるんだよ?もう番になったし、子供だって産んだんだから、ちょっとくらい落ち着いてもいいんじゃないのか…)
バシャバシャと顔を洗いながら考え込む彼の脳裏に、つい先日医者から聞いたばかりの話が蘇ってきた。
ーーーーーーーー
「虎くん、もう少しで5ヶ月になりますね。男性オメガの方は早い人だとそろそろ発情が再開するようですが、君はなにか兆候は感じ取っていますか?」
虎の成長具合と自らの体調を診てもらっていた彼は、『虎』をあやしながら診察している医者に「え…は、発情?」と驚いて尋ねる。
「虎を産んでから…まだ5ヶ月なのに?そ、それって……」
「うん、驚きますよね?ベータやオメガの女性と男性オメガは本当に違うところが多いんですよ。発情もその1つです」
『虎』は泣き出さずにじっと医者の動きを目で追っていて、「虎くん、視力も問題ありませんね」と医者は微笑んだ。
「通常、男性オメガは番のアルファの協力が充分に得られていると産後の体の回復もとても早いのだと言われています。無理をしすぎることもないし、アルファが子供の世話をしているときに出す【香り】が心身を穏やかにしてくれるからです。つまり、アルファが子供を可愛がれば可愛がるほど男性オメガは早く『次』に備えることができるというわけですね」
「え……」
「虎くんは熊お父さんにとっても愛されているでしょう?なので、そろそろ君の発情が再開してもおかしくないのではないかと思うんです」
彼は医者に対してキャッキャと笑い声をあげている『虎』に視線を向けた。
ーーーーーーーー
(そうだよ…先生も言ってたじゃないか?たしかに虎が嬉しそうにすると熊から香る【香り】はすごく良くて………それで…俺も……うん………)
産後、彼はすでに『熊』から香る【香り】に惹き寄せられるようにして、数回 身体を重ね合わせていた。
どれも穏やかで、ゆったりと、夜の闇の中でひっそりと愛を囁き合うようなものだ。
彼はまた顔が熱くなっていくのを感じる。
ーーーーーーーー
「妊娠を希望しないのであれば、またあの抑制薬を作り直しておきましょう。もう前に調合したものは古くなってしまっていますから」
「あ、あの…」
「はい」
「いえ……その……」
「…?」
彼の言い出しにくそうな様子に、医者が「何でも聞いてくださいね」と促すと、その言葉に背を押された彼は「発情…しますかね?」と思いきって医者へ尋ねた。
彼がこう尋ねたのには、もちろん理由がある。
「その…俺、虎がお腹にいる間はずっと【香り】も弱かったし……過去のこともあって……もう発情しなくなってるんじゃないかって気がする…んです」
彼はずっと胸の奥に自身のオメガ性に関する不安を抱えたままだったのだ。
この数ヶ月間は『虎』のことを第一に考えていたため、彼は自分自身のことを二の次 三の次にして全くそういったことに考えが及んでいなかったのだが、『普通』であれば発情が再開する頃だと聞き、突然その不安ははっきりと形を表してきた。
『もしかしたら、もう2度と濃い【香り】を放つことができない体になっているのでは無いか』と。
濃い【香り】を放つことができない、発情がない体になるということは、すなわちそれは『虎』を兄にしてやることができなくなるということだ。
彼は漠然と『虎』に弟か妹を会わせてやりたいと思っていた。
それは、自身が姉の存在を大切に思っていたからこそだろう。
(もし本当に新たな命を宿せなくなっていたとしたら…)という不安は、彼の「発情…しなくなってるかも、しれません、俺……」という言葉からひしひしと伝わってくるようだ。
だがそんな彼に、医者は優しく声をかける。
「君の体は一時だけオメガ性を隠してしまっていただけなんです。完全に失っていたわけではありませんから、もう心配することはありませんよ」
「で、でも…」
「うん…心配するなと言われても難しいですよね?ただ、私は大丈夫だと思っています。君はこんなにも可愛い虎くんを産んだ立派なオメガなんですから!もし1年経っても発情せず、その上【香り】が薄くなっていくようなら、また他に方法を考えてみましょう。でもまずは心配しすぎず、穏やかに過ごすことが1番ですよ」
医者の柔らかな微笑みは彼を少しだけ落ち着かせ、「あの…もしも、なんですけど」とさらに口を開かせた。
「その、産後5ヶ月でまた、ってなったら…やっぱり駄目、ですよね?」
声を潜めた彼のその言葉に、医者は「いえ、駄目だということはありませんよ」と答える。
「たしかに続けて授かるのは負担もありますが、そもそも妊娠や出産に耐えられると身体が判断することで男性オメガは発情を迎えるんです。発情したということは、もう次に向けて体はきちんと受け入れる準備ができているということなんですよ」
「そういうもの…なんですか」
「はい、これも男性オメガだけですね。身ごもり方や妊娠期間、そしてその後…他の性にはない素晴らしいことだと、私は思います」
「じゃあ…大丈夫、なん、ですね…」
「えぇ、3人も4人も続けてというのでなければ。気分的にも良いのなら次を考えても構わないですよ」
じっと黙る彼に、医者は「きちんと家族で話し合ってみてくださいね」と言いながら、医者は『虎』を抱き上げる。
「来月はいよいよ6ヵ月!虎くんの第2性も分かる頃です。それまでになにか気になることがあれば、なんでも気軽に相談してください」
「あ…ありがとうございます、先生」
「いえいえ!…そうだ、一応 抑制薬は後で食堂にお届けします。使っても使わなくても、手元にあれば好きにできますからね。それから、虎くんを預けたいということであればいつでも言ってください、一晩責任を持ってお預かりしますよ」
少しずつぐずり始めた『虎』。
医者は「うん、お父さんのところに帰りたいんだよね?」と若干の名残惜しさを滲ませながら、診察を終えた『虎』を彼の腕の中へ返した。
ーーーーーーーー
(虎の弟か妹……俺はやっぱり、もう1人くらいは………)
彼はじっと湯の中で考え込んでいる。
(でも、熊はなんて言うかな…そうだよな、俺がまた寝込むことになったら、熊には虎の世話をもっと頼まなきゃならなくなるだろうし……そうなると、まだどう考えても早いよな?だけど俺だってこの先どうなるか……そ、そもそもどうやって熊に切り出したらいいんだ、こんな話…いきなり2人目がどうのなんて言い出したら、変……だよな?うーん……もう、よく分かんないな……)
「……の、のぼせるかも」
どれだけ浴槽に浸かっていただろうか。
じわじわと顔が熱くなり始め、彼はようやく湯浴みを終えた。
ーーーーーーーー
髪を浴布で拭いながら2階の部屋へ戻ると、すぐさま『熊』の「おかえり、温まれた?」という声と『虎』の笑い声が聞こえてくる。
「う、うん。ごめん、虎を任せっきりにして」
「全然!虎ね、いつになく機嫌がいいみたい。ずっとこうやって僕と遊びながらニコニコして君のことを待ってたんだよ」
『熊』は『虎』とずっとこうして遊んでいたらしい。
「うんー?そうなのか?どうして今日はこんなに機嫌がいいんだ?この…可愛い虎ちゃんめ!」と言いながら彼がそばへ寄っていくと、『虎』は一層 機嫌良く笑い声をあげた。
「今日1日この調子だったな、っていうかここ数日そうだ。どういうわけか日中は たいして昼寝もしないで遊んでばかりだし、かと言って不機嫌になることもなく夜はよく寝てて……なんだかやけにお利口じゃないか、うん?よく寝てくれるから父さん達は助かるけどさ。いつもこうだともっと、もっと助かるんだけど?」
仰向けに寝転がっている『虎』は傍らで覗き込むようにしている彼の顔をよく見たいのか、体に力を入れて寝返りを試みる。
しかしまだ上手く寝返ることができない『虎』はそのうち口をへの字に曲げ、「う、うぁ、ぁぁぅ」と目を潤ませ始めた。
「ちょっと前から頑張ってるけど…まだ難しそうだね、寝返りは」
「うーん、寝返りよりも先に歩き始めるんじゃないかって気がしてきた。ほら、なんだか力がありそうな足してるしさ」
「たしかにそうかも。…虎、上手くいかなくても何度も挑戦してみるの、偉いね。頑張り屋さんだな、可愛いね」
すっかり泣き顔になってしまった『虎』だったが、『熊』と彼が交互に話しかけ、さらに遊びを仕掛けたことでいつの間にか再び笑顔を取り戻していた。
しばらくそうして時を過ごした後、『虎』の手が冷えていないかと心配した彼が確認するように触れると、じんわりとそこからたしかな熱が伝わってくる。
それは具合が悪い時の熱ではないことを彼はすでによく知っていた。
「虎、眠いんだね?お手てが熱くなってる」
「あぁ…そうだね、これだけずっと遊んでいればいい加減眠くもなってくるよ」
「うん。それじゃ、夜の間よく寝れるようにお腹いっぱいにしておこう。な、虎」
『虎』に授乳をしている間、『熊』はせっせと『虎』のための小さな柵付きの寝台に寝具を敷き直したりして寝支度を進めていく。
『虎』のための寝台には、『虎』が真夜中にも寒い思いをすることがないように、そして寝返ってしまわないようにと分厚いながらも通気性のいい寝具が敷き詰められ、さらにしっかりとした覆いが天井から包み込むようになっている。
それもこれも、すべて1から物を揃えたのは『熊』だった。
あまりにも熱心に「こんなのはどう?」「こっちの方がいい?君はどう思う?色は?」などと聞いてきたため、彼は最終的に「別にどれでも……虎に良さそうなのなら」とすべて任せることにしたのだ。
職人達とのやり取りも『熊』が喜々として進めていたことを、彼は腹がいっぱいになってウトウトとし始めた『虎』を胸に抱きながら思い出す。
《寝た?》
《いや…まだ》
《こっちに寝かせて大丈夫だよ、連れてこれる?》
《うん…》
《虎、随分と重くなったよね。気をつけて…》
『虎』は背が寝台についた瞬間に ぱっと目を覚ましてぐずり始めたが、彼に《おやすみ、虎…ほら、ねんね……ねんね………》と額から鼻筋にかけてを何度もゆっくりと撫でられ、次第にとろりと瞼を閉じて寝付いていった。
少しの間、寝具に包まって眠る『虎』を見つめた後、2人は天井から垂れ下がる覆いで寝台をすっぽりと包み、自分達の身体を休めるためにかたわらにある2人の大きな寝台へと向かった。
「今日もお疲れ様」
「ん……熊のほうがもっと…お疲れ」
「ふふ、ありがとう。でも僕より君のほうがもっと…」
横たわって向かい合い、互いの今日1日を労うのは2人の習慣だ。
彼は日中『虎』の世話に掃除洗濯などと何かと忙しくしていて、食堂で調理をしている『熊』とはゆっくりと言葉を交わす機会もあまり多くない。
そのため、『虎』が眠った後のこの時間を殊の外大切にしているのだ。
彼の髪を労るように手で梳いていた『熊』は、ふいに「…もしかして、なんだけど」と口を開く。
「君、ちょっと…発情が始まりそうな感じ、してる?」
「え…わ、分かる?」
「うん…少しだけ【香り】が濃い気がする、かな」
『熊』に指摘されたことでパッと顔を赤らめた彼。
すると『熊』は「あっ、やっぱりそうだよね」と確信をもって言う。
「【香り】が濃くなってる。近いうちに抑制薬をもらっておかないとね」
「あ…薬…薬はもう…この間もらった」
「そう?それじゃ虎を預かってくれる人を……」
「あ…あのさ、熊」
「うん?」
彼はなんとか『熊』の言葉を遮ると、寝台から身を起こして座る。
『熊』が抑制薬の話をした途端、胸が締め付けられるように苦しくなった彼。
話をするならば、今だろう。
「熊…熊は、さ、この先…どう思う?」
「この先?」
「だ、だから……」
つっかえながら彼はなんとか口にする。
「俺、薬……飲まなきゃ、だめかな」
それは彼の精一杯の言葉だった。
番のどちらか片方が抑制薬を飲まずに発情するということは、男性オメガにとって非常に意味のあることだと『熊』も理解しているだろう。
彼は同じようにして寝台から身を起こした『熊』の方を見ることができず、視線を下に落としたままだ。
『熊』からの答えはなく、ただ静寂が辺りを包む。
「わ、分かってる……は、早すぎるよな?でも俺……俺は…」
「……」
「ち、違うんだよ、熊、俺はただ虎に弟か妹がいたらって……その…だったら早めがいいって……」
いつもであれば彼に何かしら声をかけてくる『熊』だが、今はすっかり黙り込んでしまっている。
その重苦しい雰囲気に居たたまれなくなった彼は、ついに「…ごめん」と呟いた。
「やっぱり……そう、だよな、薬…飲まないと、うん……変なこと言った……悪い」
「……ねぇ」
「いや、いいんだ、俺が薬を飲みさえすれば何でもないんだから、な、あはは…」
彼は喉が締め付けられるような苦しさを感じながらも「もう寝ようか」と掛け具を引っ張ろうとすると、その手を『熊』にいくらか強く握られる。
「…いいの?」
「なにが…」
「辛い思いをするのは、君なのに」
その声に彼が恐る恐る顔をあげると、真っ直ぐな『熊』の瞳が目に飛び込んできた。
「虎のとき、つわりが辛かったでしょ?それでも、君は…虎をお兄ちゃんにしてくれるの?」
心配そうなその言葉に、彼はしっかりと頷いて答える。
「…辛かったけど、そのおかげで虎に会えたんだ、俺はなんともない」
「でも…」
「俺より熊が大変だろ、大変に決まってるよ、今でさえ虎のことで手一杯なのに…俺はしばらく使いもんにならなくなって……」
『熊』は「いいや、そんなことない」とはっきり否定した。
「僕がしていることなんて、君に比べたら大したことはないんだよ。たしかに慣れないことも多いし楽ではないかもしれないけど…でも虎の笑顔があればどうってことない。君がこうしてそばにいてくれるだけで、それだけで僕は十分なんだ」
『熊』は掛け具を引っ張って彼の肩に掛けると、「僕もね、なかなか君に言い出せなかったんだよ」と申し訳無さそうに言う。
「僕は…ひとりっ子だったから、虎には弟か妹がいたらいいなって思ってたんだ、実は。でも僕より君のほうが大変なんだと思うと言っちゃいけないような気がして…」
「そ、そんなことない!俺だって…!」
「うん…ちゃんと話すべきだったね」
『熊』に抱きしめられ、彼はようやく胸のつかえが下りたように深く息をつくことができた。
『熊』の言葉が、行動が、表情が。
すべてが彼に『熊』は自分と同じ気持ちでいたのだということを知らしめてくる。
満ち足りた気分の中、『熊』は「こんなに早くて、体は大丈夫なの?」と囁くように尋ねてきた。
「1度先生に聞いてから…」
「もう聞いたよ、俺」
「本当?」
「うん」
「先生、なんて言ってた?」
抱きしめる腕の力を強めながら、彼は「大丈夫だって…言ってた」といくらか熱っぽさを込めて言う。
「体が十分に回復した証拠なんだって…男性オメガの発情は」
「そうなの…?」
「そうだよ、俺、嘘なんかつかない…次の準備ができると発情するって……言ってたんだ。それで…俺は早めがいいって……思ってるし……」
「それじゃ……本当に次の君の発情は、薬は飲まずに……いいの?」
「うん…そうして、そうしてほしい……」
彼は『熊』の体温にのせられ、口元にある『熊』の肩口に口づけてから、その唇を耳元や首筋へ移した。
「ま、待って……」
「うん…?」
「今夜はまだ…やめておこう」
堪え忍びながら、諭すように言う『熊』。
彼が不満気な視線を向けると、「ちょっとだけ…まだ我慢して」となだめるように頬を撫でられる。
「明日にでも…早いうちに虎を預かってくれる人を探して、きちんと君の発情に合わせられるようにしておこう?その方が安心できるし……いくら体が回復してたって、疲れてる体で発情したら…辛いでしょ」
「ん……」
「だから少しだけ、ね?この分だとそう日が経たないうちに君は『その日』になるはずだから……」
『熊』の言う事が正しく思えた彼は大人しく引き下がることにした。
『熊』との交わりはいつも信じられないほど良く、ほのかに疲れまで感じさせるものであるというのに、その後に理性を失うほどの交わりが待っているとしたら、翌朝きちんと動けるようになっているかどうかも怪しい。
さらに『虎』を起こさないようにしつつ、夜泣きを始めたらそちらに気を回さなくてはならないというのも気がかりだ。
そういった点を含めて『熊』は正しいと言えるだろう。
しかし、なんだかこの『約束』はあまりにも気恥ずかしいものではないか。
言わばこれは…。
(俺、今、熊と…こ、子作りの約束……したのか?)
『熊』から離れたことでいくらか冷静さを取り戻した彼は、その『約束』について改めて考え、真っ赤になった顔を隠すようにしながら寝台へ横になった。
「…おやすみ」
「う、うん…おやすみ……」
必要以上に互いを刺激しないよう、わずかに離れて寝具に包まった2人だが、離れていると かえって僅かな衣擦れの音や動きが気になって仕方がない。
結局彼は『熊』の腕にぴったりと身を寄せることで落ち着き、眠りについた。
ーーーーーーーーー
数時間後の真夜中のこと。
彼は1人温かな寝台から身を起こし、胸に手を当てて自らの鼓動をじっと感じ取っていた。
心臓が拍動するたびに高まる熱は、彼の息を荒くしていく。
それは陸国の誰もが寝静まった、新月の夜だった。
『熊』と彼が番になってから丸1年が過ぎた冬。
夏の終わり頃に産まれた『虎』は生後5ヶ月ほどになり、手当たり次第に物を握っては齧りついたり、動くものをじっと目で追ったりといったことが増える頃になってきていた。
感情表現も豊かになり、『熊』は絶えず『虎』に話しかけては様々な遊びを仕掛け、『虎』の笑顔を引き出そうと必死になっている。
たった今も、湯浴みを終えた『熊』は彼に衣を着替えせられたばかりの『虎』に「虎は本当に湯浴みが好きだね、産まれたての頃から沐浴をしてると途中で寝ちゃってたもんね」とにこにこ話しかけていた。
男性オメガの子供の特徴として、出産までの妊娠期間の短さの他、産まれた後の成長が早いということも挙げられる。
小さく産まれた体でありながらも生後5ヶ月となった『虎』はすっかり大きくなり、今では重湯の離乳食を好んで食べるほどになっていた。
医者でさえ「この月齢でここまで離乳食を好むというのは、珍しいですね」と言うほどだ。
どうやら『虎』は食に関してかなりの興味を持っているらしい。
これは当分は彼にしか食の世話ができないだろうと思っていた『熊』にとっては願ってもないことで、「僕の作る重湯がとっても美味しいんだよね?」「虎は僕の作るご飯が大好きなんだね」「もう少し大きくなって、先生に『良いですよ』って言ってもらったら、そうしたらちょっとずつ他の色んな物を試してみようね」などと言いながら、まだ1日に1度だけの、ほとんど水である離乳食を『虎』に食べさせる時間を楽しみにしている。
(重湯はさすがに…誰が作っても同じじゃないのか?)と思う彼だが、それは絶対に『熊』には言わないだろう。
実際、『熊』は自分が差し出した匙に対して一生懸命 口を開けてせがんでくる『虎』のことが可愛くて仕方がないようだ。
『熊』の『虎』へ向けた愛情は日毎に高まっている。
彼は『虎』との遊びに夢中になっている『熊』の肩へ「湯冷めしちゃうだろ」と羽織を掛けてやりながら声をかけた。
「虎のことばっかり気にかけて熊が風邪をひいちゃったら元も子もないんだ、頼むよ」
「ん…ありがと」
「っ!!………ぉぅ」
彼はふと向けられた『熊』の笑顔からパッと目を逸らす。
「どうかした?」
「いや…なんでもない」
そのまま頬が熱くなっていくのを感じた彼は、「お父さんに沐浴させてもらったの、良かったね」とご機嫌な様子の『虎』へ微笑みかけた。
高鳴る彼の心臓…。
どういうわけか、近頃の彼には『熊』のことがどうしようもなく素敵に思えて仕方がない。
『虎』に向ける笑顔はとろけるような可愛らしいものであるのに、自分に向けられたものはなぜだか凛々しく、強さがあって、やけに格好良く見えるのだ。
そんなドキドキしている彼のことを知ってか知らずか、『熊』は「君も体を冷やしちゃだめだよ」と変わらない笑顔で言う。
「いつも僕達だけ先に湯浴みをさせてるでしょ、湯が冷めちゃってるんじゃないかって僕はいつも心ぱ……」
「あ、い、いやいや!!大丈夫だから!」
「そう?でも…」
「お、俺も湯浴みしてくる!虎、また後でね!」
『熊』に心配されることがどうにもくすぐったくてたまらず、彼は棚から自らの寝間着を引っ掴むと、バタバタと階下の浴室へ降りていった。
ーーーーーーーー
(なんだよ……別にこんなくらいじゃ湯は冷めないし………そんな、心配なんてしなくても……)
彼はブクブクと浴槽に顔を半分沈めながら『熊』とのやり取りを思い出す。
『熊』の世話焼きは今に始まったことではない。
たしかに『虎』に対しての世話焼きは今までとは違う新たなものかもしれないが、彼の体調を気遣ったり、代わりに何でもしてやりたいとでも言わんばかりの行動全ては出逢った当初からのものだ。
(虎がお腹にいたときだって熊は散々、うるさいってくらい俺に世話を焼いてたのに…どうしてちっとも慣れないんだ?どうしてこんなに気恥ずかしくなるんだよ?もう番になったし、子供だって産んだんだから、ちょっとくらい落ち着いてもいいんじゃないのか…)
バシャバシャと顔を洗いながら考え込む彼の脳裏に、つい先日医者から聞いたばかりの話が蘇ってきた。
ーーーーーーーー
「虎くん、もう少しで5ヶ月になりますね。男性オメガの方は早い人だとそろそろ発情が再開するようですが、君はなにか兆候は感じ取っていますか?」
虎の成長具合と自らの体調を診てもらっていた彼は、『虎』をあやしながら診察している医者に「え…は、発情?」と驚いて尋ねる。
「虎を産んでから…まだ5ヶ月なのに?そ、それって……」
「うん、驚きますよね?ベータやオメガの女性と男性オメガは本当に違うところが多いんですよ。発情もその1つです」
『虎』は泣き出さずにじっと医者の動きを目で追っていて、「虎くん、視力も問題ありませんね」と医者は微笑んだ。
「通常、男性オメガは番のアルファの協力が充分に得られていると産後の体の回復もとても早いのだと言われています。無理をしすぎることもないし、アルファが子供の世話をしているときに出す【香り】が心身を穏やかにしてくれるからです。つまり、アルファが子供を可愛がれば可愛がるほど男性オメガは早く『次』に備えることができるというわけですね」
「え……」
「虎くんは熊お父さんにとっても愛されているでしょう?なので、そろそろ君の発情が再開してもおかしくないのではないかと思うんです」
彼は医者に対してキャッキャと笑い声をあげている『虎』に視線を向けた。
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(そうだよ…先生も言ってたじゃないか?たしかに虎が嬉しそうにすると熊から香る【香り】はすごく良くて………それで…俺も……うん………)
産後、彼はすでに『熊』から香る【香り】に惹き寄せられるようにして、数回 身体を重ね合わせていた。
どれも穏やかで、ゆったりと、夜の闇の中でひっそりと愛を囁き合うようなものだ。
彼はまた顔が熱くなっていくのを感じる。
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「妊娠を希望しないのであれば、またあの抑制薬を作り直しておきましょう。もう前に調合したものは古くなってしまっていますから」
「あ、あの…」
「はい」
「いえ……その……」
「…?」
彼の言い出しにくそうな様子に、医者が「何でも聞いてくださいね」と促すと、その言葉に背を押された彼は「発情…しますかね?」と思いきって医者へ尋ねた。
彼がこう尋ねたのには、もちろん理由がある。
「その…俺、虎がお腹にいる間はずっと【香り】も弱かったし……過去のこともあって……もう発情しなくなってるんじゃないかって気がする…んです」
彼はずっと胸の奥に自身のオメガ性に関する不安を抱えたままだったのだ。
この数ヶ月間は『虎』のことを第一に考えていたため、彼は自分自身のことを二の次 三の次にして全くそういったことに考えが及んでいなかったのだが、『普通』であれば発情が再開する頃だと聞き、突然その不安ははっきりと形を表してきた。
『もしかしたら、もう2度と濃い【香り】を放つことができない体になっているのでは無いか』と。
濃い【香り】を放つことができない、発情がない体になるということは、すなわちそれは『虎』を兄にしてやることができなくなるということだ。
彼は漠然と『虎』に弟か妹を会わせてやりたいと思っていた。
それは、自身が姉の存在を大切に思っていたからこそだろう。
(もし本当に新たな命を宿せなくなっていたとしたら…)という不安は、彼の「発情…しなくなってるかも、しれません、俺……」という言葉からひしひしと伝わってくるようだ。
だがそんな彼に、医者は優しく声をかける。
「君の体は一時だけオメガ性を隠してしまっていただけなんです。完全に失っていたわけではありませんから、もう心配することはありませんよ」
「で、でも…」
「うん…心配するなと言われても難しいですよね?ただ、私は大丈夫だと思っています。君はこんなにも可愛い虎くんを産んだ立派なオメガなんですから!もし1年経っても発情せず、その上【香り】が薄くなっていくようなら、また他に方法を考えてみましょう。でもまずは心配しすぎず、穏やかに過ごすことが1番ですよ」
医者の柔らかな微笑みは彼を少しだけ落ち着かせ、「あの…もしも、なんですけど」とさらに口を開かせた。
「その、産後5ヶ月でまた、ってなったら…やっぱり駄目、ですよね?」
声を潜めた彼のその言葉に、医者は「いえ、駄目だということはありませんよ」と答える。
「たしかに続けて授かるのは負担もありますが、そもそも妊娠や出産に耐えられると身体が判断することで男性オメガは発情を迎えるんです。発情したということは、もう次に向けて体はきちんと受け入れる準備ができているということなんですよ」
「そういうもの…なんですか」
「はい、これも男性オメガだけですね。身ごもり方や妊娠期間、そしてその後…他の性にはない素晴らしいことだと、私は思います」
「じゃあ…大丈夫、なん、ですね…」
「えぇ、3人も4人も続けてというのでなければ。気分的にも良いのなら次を考えても構わないですよ」
じっと黙る彼に、医者は「きちんと家族で話し合ってみてくださいね」と言いながら、医者は『虎』を抱き上げる。
「来月はいよいよ6ヵ月!虎くんの第2性も分かる頃です。それまでになにか気になることがあれば、なんでも気軽に相談してください」
「あ…ありがとうございます、先生」
「いえいえ!…そうだ、一応 抑制薬は後で食堂にお届けします。使っても使わなくても、手元にあれば好きにできますからね。それから、虎くんを預けたいということであればいつでも言ってください、一晩責任を持ってお預かりしますよ」
少しずつぐずり始めた『虎』。
医者は「うん、お父さんのところに帰りたいんだよね?」と若干の名残惜しさを滲ませながら、診察を終えた『虎』を彼の腕の中へ返した。
ーーーーーーーー
(虎の弟か妹……俺はやっぱり、もう1人くらいは………)
彼はじっと湯の中で考え込んでいる。
(でも、熊はなんて言うかな…そうだよな、俺がまた寝込むことになったら、熊には虎の世話をもっと頼まなきゃならなくなるだろうし……そうなると、まだどう考えても早いよな?だけど俺だってこの先どうなるか……そ、そもそもどうやって熊に切り出したらいいんだ、こんな話…いきなり2人目がどうのなんて言い出したら、変……だよな?うーん……もう、よく分かんないな……)
「……の、のぼせるかも」
どれだけ浴槽に浸かっていただろうか。
じわじわと顔が熱くなり始め、彼はようやく湯浴みを終えた。
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髪を浴布で拭いながら2階の部屋へ戻ると、すぐさま『熊』の「おかえり、温まれた?」という声と『虎』の笑い声が聞こえてくる。
「う、うん。ごめん、虎を任せっきりにして」
「全然!虎ね、いつになく機嫌がいいみたい。ずっとこうやって僕と遊びながらニコニコして君のことを待ってたんだよ」
『熊』は『虎』とずっとこうして遊んでいたらしい。
「うんー?そうなのか?どうして今日はこんなに機嫌がいいんだ?この…可愛い虎ちゃんめ!」と言いながら彼がそばへ寄っていくと、『虎』は一層 機嫌良く笑い声をあげた。
「今日1日この調子だったな、っていうかここ数日そうだ。どういうわけか日中は たいして昼寝もしないで遊んでばかりだし、かと言って不機嫌になることもなく夜はよく寝てて……なんだかやけにお利口じゃないか、うん?よく寝てくれるから父さん達は助かるけどさ。いつもこうだともっと、もっと助かるんだけど?」
仰向けに寝転がっている『虎』は傍らで覗き込むようにしている彼の顔をよく見たいのか、体に力を入れて寝返りを試みる。
しかしまだ上手く寝返ることができない『虎』はそのうち口をへの字に曲げ、「う、うぁ、ぁぁぅ」と目を潤ませ始めた。
「ちょっと前から頑張ってるけど…まだ難しそうだね、寝返りは」
「うーん、寝返りよりも先に歩き始めるんじゃないかって気がしてきた。ほら、なんだか力がありそうな足してるしさ」
「たしかにそうかも。…虎、上手くいかなくても何度も挑戦してみるの、偉いね。頑張り屋さんだな、可愛いね」
すっかり泣き顔になってしまった『虎』だったが、『熊』と彼が交互に話しかけ、さらに遊びを仕掛けたことでいつの間にか再び笑顔を取り戻していた。
しばらくそうして時を過ごした後、『虎』の手が冷えていないかと心配した彼が確認するように触れると、じんわりとそこからたしかな熱が伝わってくる。
それは具合が悪い時の熱ではないことを彼はすでによく知っていた。
「虎、眠いんだね?お手てが熱くなってる」
「あぁ…そうだね、これだけずっと遊んでいればいい加減眠くもなってくるよ」
「うん。それじゃ、夜の間よく寝れるようにお腹いっぱいにしておこう。な、虎」
『虎』に授乳をしている間、『熊』はせっせと『虎』のための小さな柵付きの寝台に寝具を敷き直したりして寝支度を進めていく。
『虎』のための寝台には、『虎』が真夜中にも寒い思いをすることがないように、そして寝返ってしまわないようにと分厚いながらも通気性のいい寝具が敷き詰められ、さらにしっかりとした覆いが天井から包み込むようになっている。
それもこれも、すべて1から物を揃えたのは『熊』だった。
あまりにも熱心に「こんなのはどう?」「こっちの方がいい?君はどう思う?色は?」などと聞いてきたため、彼は最終的に「別にどれでも……虎に良さそうなのなら」とすべて任せることにしたのだ。
職人達とのやり取りも『熊』が喜々として進めていたことを、彼は腹がいっぱいになってウトウトとし始めた『虎』を胸に抱きながら思い出す。
《寝た?》
《いや…まだ》
《こっちに寝かせて大丈夫だよ、連れてこれる?》
《うん…》
《虎、随分と重くなったよね。気をつけて…》
『虎』は背が寝台についた瞬間に ぱっと目を覚ましてぐずり始めたが、彼に《おやすみ、虎…ほら、ねんね……ねんね………》と額から鼻筋にかけてを何度もゆっくりと撫でられ、次第にとろりと瞼を閉じて寝付いていった。
少しの間、寝具に包まって眠る『虎』を見つめた後、2人は天井から垂れ下がる覆いで寝台をすっぽりと包み、自分達の身体を休めるためにかたわらにある2人の大きな寝台へと向かった。
「今日もお疲れ様」
「ん……熊のほうがもっと…お疲れ」
「ふふ、ありがとう。でも僕より君のほうがもっと…」
横たわって向かい合い、互いの今日1日を労うのは2人の習慣だ。
彼は日中『虎』の世話に掃除洗濯などと何かと忙しくしていて、食堂で調理をしている『熊』とはゆっくりと言葉を交わす機会もあまり多くない。
そのため、『虎』が眠った後のこの時間を殊の外大切にしているのだ。
彼の髪を労るように手で梳いていた『熊』は、ふいに「…もしかして、なんだけど」と口を開く。
「君、ちょっと…発情が始まりそうな感じ、してる?」
「え…わ、分かる?」
「うん…少しだけ【香り】が濃い気がする、かな」
『熊』に指摘されたことでパッと顔を赤らめた彼。
すると『熊』は「あっ、やっぱりそうだよね」と確信をもって言う。
「【香り】が濃くなってる。近いうちに抑制薬をもらっておかないとね」
「あ…薬…薬はもう…この間もらった」
「そう?それじゃ虎を預かってくれる人を……」
「あ…あのさ、熊」
「うん?」
彼はなんとか『熊』の言葉を遮ると、寝台から身を起こして座る。
『熊』が抑制薬の話をした途端、胸が締め付けられるように苦しくなった彼。
話をするならば、今だろう。
「熊…熊は、さ、この先…どう思う?」
「この先?」
「だ、だから……」
つっかえながら彼はなんとか口にする。
「俺、薬……飲まなきゃ、だめかな」
それは彼の精一杯の言葉だった。
番のどちらか片方が抑制薬を飲まずに発情するということは、男性オメガにとって非常に意味のあることだと『熊』も理解しているだろう。
彼は同じようにして寝台から身を起こした『熊』の方を見ることができず、視線を下に落としたままだ。
『熊』からの答えはなく、ただ静寂が辺りを包む。
「わ、分かってる……は、早すぎるよな?でも俺……俺は…」
「……」
「ち、違うんだよ、熊、俺はただ虎に弟か妹がいたらって……その…だったら早めがいいって……」
いつもであれば彼に何かしら声をかけてくる『熊』だが、今はすっかり黙り込んでしまっている。
その重苦しい雰囲気に居たたまれなくなった彼は、ついに「…ごめん」と呟いた。
「やっぱり……そう、だよな、薬…飲まないと、うん……変なこと言った……悪い」
「……ねぇ」
「いや、いいんだ、俺が薬を飲みさえすれば何でもないんだから、な、あはは…」
彼は喉が締め付けられるような苦しさを感じながらも「もう寝ようか」と掛け具を引っ張ろうとすると、その手を『熊』にいくらか強く握られる。
「…いいの?」
「なにが…」
「辛い思いをするのは、君なのに」
その声に彼が恐る恐る顔をあげると、真っ直ぐな『熊』の瞳が目に飛び込んできた。
「虎のとき、つわりが辛かったでしょ?それでも、君は…虎をお兄ちゃんにしてくれるの?」
心配そうなその言葉に、彼はしっかりと頷いて答える。
「…辛かったけど、そのおかげで虎に会えたんだ、俺はなんともない」
「でも…」
「俺より熊が大変だろ、大変に決まってるよ、今でさえ虎のことで手一杯なのに…俺はしばらく使いもんにならなくなって……」
『熊』は「いいや、そんなことない」とはっきり否定した。
「僕がしていることなんて、君に比べたら大したことはないんだよ。たしかに慣れないことも多いし楽ではないかもしれないけど…でも虎の笑顔があればどうってことない。君がこうしてそばにいてくれるだけで、それだけで僕は十分なんだ」
『熊』は掛け具を引っ張って彼の肩に掛けると、「僕もね、なかなか君に言い出せなかったんだよ」と申し訳無さそうに言う。
「僕は…ひとりっ子だったから、虎には弟か妹がいたらいいなって思ってたんだ、実は。でも僕より君のほうが大変なんだと思うと言っちゃいけないような気がして…」
「そ、そんなことない!俺だって…!」
「うん…ちゃんと話すべきだったね」
『熊』に抱きしめられ、彼はようやく胸のつかえが下りたように深く息をつくことができた。
『熊』の言葉が、行動が、表情が。
すべてが彼に『熊』は自分と同じ気持ちでいたのだということを知らしめてくる。
満ち足りた気分の中、『熊』は「こんなに早くて、体は大丈夫なの?」と囁くように尋ねてきた。
「1度先生に聞いてから…」
「もう聞いたよ、俺」
「本当?」
「うん」
「先生、なんて言ってた?」
抱きしめる腕の力を強めながら、彼は「大丈夫だって…言ってた」といくらか熱っぽさを込めて言う。
「体が十分に回復した証拠なんだって…男性オメガの発情は」
「そうなの…?」
「そうだよ、俺、嘘なんかつかない…次の準備ができると発情するって……言ってたんだ。それで…俺は早めがいいって……思ってるし……」
「それじゃ……本当に次の君の発情は、薬は飲まずに……いいの?」
「うん…そうして、そうしてほしい……」
彼は『熊』の体温にのせられ、口元にある『熊』の肩口に口づけてから、その唇を耳元や首筋へ移した。
「ま、待って……」
「うん…?」
「今夜はまだ…やめておこう」
堪え忍びながら、諭すように言う『熊』。
彼が不満気な視線を向けると、「ちょっとだけ…まだ我慢して」となだめるように頬を撫でられる。
「明日にでも…早いうちに虎を預かってくれる人を探して、きちんと君の発情に合わせられるようにしておこう?その方が安心できるし……いくら体が回復してたって、疲れてる体で発情したら…辛いでしょ」
「ん……」
「だから少しだけ、ね?この分だとそう日が経たないうちに君は『その日』になるはずだから……」
『熊』の言う事が正しく思えた彼は大人しく引き下がることにした。
『熊』との交わりはいつも信じられないほど良く、ほのかに疲れまで感じさせるものであるというのに、その後に理性を失うほどの交わりが待っているとしたら、翌朝きちんと動けるようになっているかどうかも怪しい。
さらに『虎』を起こさないようにしつつ、夜泣きを始めたらそちらに気を回さなくてはならないというのも気がかりだ。
そういった点を含めて『熊』は正しいと言えるだろう。
しかし、なんだかこの『約束』はあまりにも気恥ずかしいものではないか。
言わばこれは…。
(俺、今、熊と…こ、子作りの約束……したのか?)
『熊』から離れたことでいくらか冷静さを取り戻した彼は、その『約束』について改めて考え、真っ赤になった顔を隠すようにしながら寝台へ横になった。
「…おやすみ」
「う、うん…おやすみ……」
必要以上に互いを刺激しないよう、わずかに離れて寝具に包まった2人だが、離れていると かえって僅かな衣擦れの音や動きが気になって仕方がない。
結局彼は『熊』の腕にぴったりと身を寄せることで落ち着き、眠りについた。
ーーーーーーーーー
数時間後の真夜中のこと。
彼は1人温かな寝台から身を起こし、胸に手を当てて自らの鼓動をじっと感じ取っていた。
心臓が拍動するたびに高まる熱は、彼の息を荒くしていく。
それは陸国の誰もが寝静まった、新月の夜だった。
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