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第20章 ハンティングエンジェル オンステージ!
第492話:窮極の混沌に坐す叡智は何処へ?
しおりを挟む――寝間着に使っている赤襦袢。
ツバサは右肩の生地をしっかり掴むと一気にそれを剥いだ。早着替えの技能で脱ぐと同時に来客を迎えるための衣装に着替えておく。
真紅のロングジャケットに黒のパンツスーツ。
神々の乳母となったツバサがよく身に付ける正装だ。
普段使いのものより高級な素材を惜しみなく使い、意匠や飾りに至るまで贅沢なデザインになっている。余所行き仕様なのだが、頑丈さと動きやすさを保証する縫製の仕上がりから防御力に強化効果まで、戦闘用としても最上級。
至高の存在を迎えるため気合いを入れたい。
着飾る衣装は常在戦場を心構えとした戦闘服だが、正装でもありこれ以上ないくらい着飾った盛装でもあった。
天敵と出会した被捕食者の心持ちでそろりと一歩を踏み出す。
亜座と寄球を視界に収めたまま、2人から目を離すことなくリビングルームからダイニングへ歩いていくと、亜座が座る席の向かい側へ回った。
いつもなら家の中の移動するだけの何気ない動き。
だというのに、たった数mを歩いただけで胆力が磨り減っていく。
目の前にいる少女と執事が人知を遙かに凌駕した超越的存在であると知覚してしまったがゆえに、生物としての本能が絶叫を迸らせている。
逃げろ――死ぬぞ。
しかし、人間であり神族となった理性が本能を説き伏せる。
逃げ場などない。この場から逃げるのは悪手だ。
――来訪者を無視するなど最悪の応対。
どれほど怖気に心胆を寒からしめようとも、現状から目を逸らさずに立ち向かうしかない。それが生き残るための活路を開く唯一の手段である。
そう信じるより他なかった。
神も人も獣も、彼女たちの前では塵芥に等しい。
初めて“祭司長”を前にした時も生物としての格の違いに恐れ戦き、全身が痙攣するほど居竦められた。しかし、彼女たちはその比ではない。
祭司長を前にした時は生物学的な死を覚悟した。
彼女たちはそれ以上――魂魄の消滅をも予感させる。
文字通り、次元がまったく異なるのだ。
肉体が死んでも輪廻転生の道があると期待できる真なる世界において尚、それすら許されない滅びをもたらす。彼女たちはそれができる立場にあった。
いいや、存在の消失すら成し遂げるだろう。
それも世界規模でやってのける。
少女か執事、どちらかが戯れに「消えろ」と呟いただけでツバサはおろかハトホル太母国、中央大陸どころか真なる世界が根底から消え失せるはずだ。
そこにあったという記録すら許されない。
全宇宙の記録を網羅しているとされているアカシック・レコードから抹消されるレベルで消去されるに違いない。
破壊神ロンドやその申し子リードの用いた消滅の比ではなかった。
それでも――祭司長の時より死への恐怖は薄い。
理由は恐らく殺意がないこと。
祭司長は真なる世界の活力を根刮ぎ奪うつもりで、邪魔する者は誰であれ蹂躙するつもりで攻め込んできた。神としてのレベルが違いすぎる相手からの殺意は、それだけで精神はおろか肉体さえ磨り潰す圧迫感をもたらした。
だが、目の前の2人にそれはない。
何人も敵わぬ絶対的存在としての風格には屈してしまいそうになる。
しかし、殺意はおろか敵意すらないのが救いだった。
近付くことさえ忌避……いいや、畏れ多いと感じてしまうのだが、それでも不敬な真似をせず礼儀を弁えれば、彼女たちの怒りさえ買わなければ話し合うこともワンチャンあるという希望的観測めいた直感があった。
だからこそ対話の席に着くべく、こうして懸命に動いているのだ。
たった数歩が万里より遠く感じる。
彼女たちの降臨による影響で空間が歪んでいるのかも知れない。物の本にはそういうことがままあると記されていた。
寄球が亜座の座る椅子の背もたれを掴む。
常にツバサが見えるよう椅子の向きを調節しているのだ。
たったそれだけの行為すら、世界の軸をブレさせるようだった。
敬意を表した会釈をした後、亜座と対面する位置の椅子にツバサは音も立てずに腰を下ろした。寄球も亜座の椅子をツバサへと向き合わせる。
拘束具のドレスと鉄球付き足枷で亜座は身動ぎもままならない。
そのサポートをするのが寄球の仕事らしい。
彼女が想像通りの存在ならば、這い寄る混沌の異名で知られる黒い男の従者がその役目を担うはずだが、まさか副王と思しき神性を連れてくるとは……。
絶対者に抱く圧倒的な畏怖は、重圧となってのし掛かる。
それでも観察できた事柄に対する考察は止められず、ここから真なる世界が終わりかねない状況を打破できないかと試行錯誤を巡らせていた。
まずは――持て成してみるか。
ツバサたちも今でこそ神族だが元を正せば人間。
神の奉り方に作法があるのは心得ている。
神々の中には特定の時期だけ人里にやってくる来訪神という種があり、その時が来たら人々は盛大に歓迎して、ありったけのお持て成しをするという。
真夜中の訪問者を丁重に迎え入れてみよう。
「――クロコ」
ツバサはメイド長を喚び出した。
過大能力で瞬間移動よろしくツバサの背後に現れたメイド長。
もう休めと言い渡したはずだが、名前を呼んだだけで瞬時に駆けつけるのは彼女ならではの有能さだ。寝る前なので寝間着に着替えていても叱りはしないが、ちゃんとクラシカルなデザインのメイド服を身に帯びていた。
クロコは両手を身体の前で結んでお辞儀する。
「お呼びでございますかツバサさ…………ま゛ッッッ!?」
顔を持ち上げて来客を確認した途端、クロコは白目を剥いて卒倒した。小さな唇の端から泡を吹いて意識を手放している。
亜座と寄球の発する――異次元の覇気。
別に示威目的で撒き散らしておらず、彼女たちは平素のままでいるのだが、目の当たりにすればLV999であろうと御覧の有り様である。
ツバサはLV999という枠組みを超えた超越者。
その自負があるツバサですらも神経を物理的に磨り減らす勢いで消耗しており、いつ意識が消えてもおかしくない狂気の威圧感に耐えていた。
四肢を硬直させたクロコは直立不動のまま倒れていく。
「――クロコ! お客人の前だぞ!」
「……ハッ!?」
主人としてツバサが力強い言葉で命じると、神族・御先神としての特性が働いてクロコの心身を賦活させる。これにより彼女は辛うじて意識を取り戻した。
(※御先神=主人への絶対服従を誓う神族。主人の命令に抵抗できなくなるデメリットに対し、従属することで多大な強化効果を得るメリットがある)
おきあがりこぼしみたいに立ち直るメイド長。
「し、失礼致しました……」
ハンカチを取り出してそそくさと口元の泡を拭う。
言葉にせずとも目の前の二人がどのような存在なのか? 対面しただけで本能的に理解したのだろう。いつも通りの無表情で何食わぬ顔をしているが、手足は恐怖から小刻みに震えており、今にも全力ダッシュしそうな逃げ腰だ。
御先神は主人と認めた者に絶対の忠誠を尽くす。
御主人様に呼ばれたからには、臆病風に吹かれるわけにもいかない。
メイド長の矜持がクロコを踏み留まらせていた。
面と向かうだけで魂を打ち砕かれそうな脅威を前にも必死で堪えていた。可哀想とは思うし申し訳なくもあるが、この地獄に付き合ってもらう。
ツバサは亜座から目を離さずクロコに指示を出す。
「お茶の用意を頼む」
決して粗相をするな、最高級の茶葉と菓子を準備してくれ。
暗に含めるまでもないが、念には念を入れて言外にクロコへ伝える。なんだかんだで二年を超える付き合いなので、もはやつうかあの仲である。
「……か、畏まりました!」
聞いたことがないほど声を上擦らせたクロコは、精神系強化を何重にも掛けることで動揺を無理やり抑え込み、まだ硬直気味の身体で一礼をした。
今にも躓きそうな足取りでキッチンに向かう。
ガクガクと震えが止まらない手でお茶の用意を始めている。
ほう、と亜座は感心の吐息を漏らした。
「インターホンはおろかノックも挨拶も一言断りもせず、玄関さえ潜らずに堂々と屋内に侵入して勝手に寛いでいた我々を客と見做してくれるのか?」
人間の常識についてよく御存知で、とツッコみたい。
こんな脳内のぼやきすら読み取られていると思うのだが、決して口に出すことはしなかった。それが人間の礼儀だからである。
「あなたたちが……」
いつの間にか――喉が嗄れていた。
固唾を呑みすぎて干涸らびかけていたらしい。耳障りにならぬよう喉を鳴らして発声を整えると、改めて持て成す理由を説明していく。
「あなたたちがその気ならば……この真なる世界ごと我々を消し去ることも容易いでしょう……だが、あなたたちはそうしなかった」
わざわざ人間を模した化身を用意し、こうして話し掛けてきてくれた。
「話し合える余地がある……ならば、客として持て成しましょう」
「いいな君、出来ているし弁えている」
亜座は混沌の瞳を細め、少女らしい容貌ではにかんだ。
「羽鳥翼――今はツバサ・ハトホルだったか? わたしがこの姿で現れても軽んじることなく、この化身の奥に眠る本体を見据えている」
君はいいな、と亜座はシンプルな褒め言葉を気に入ったように繰り返した。それから全身の黒革ベルトを軋ませて後ろの執事を仰ぎ見る。
「寄球、おまえの進言を採用してこの端末にした甲斐があったぞ」
「恐れ入ります――お嬢様」
仕事ぶりを褒められた寄球は言葉少なに畏まった。
ふたつの名前を呼ばれたツバサは背筋を走る悪寒が止まらない。
こちらの神族としての名前は元より、人間だった頃の氏素性まで把握しているのは間違いない。高位のGMなら似たような真似をして脅しを掛けてくることもできるだろうが、この少女と執事は根本的なところで異なる。
ただ其処にいるだけで世界を震撼させる。
本気になればツバサたちのいる真なる世界のみならず、複雑に絡み合う世界によって構成される真なる世界という多重次元を消すことも適う神格。
神と呼ぶのも烏滸がましい唯一無二の存在なのだ。
「亜座……アザトース……」
呼び捨てにされたお返しではないが、様付けするほど気心の知れた間柄ではないので、敬称略は大目に見てもらうことにした。
窮極の混沌の中心、もしくは全宇宙の中心、あるいはすべての外にある空間。
そこに坐すは、万物の王である盲目にして白痴の神アザトース。
外なる神の総帥であり――クトゥルフ邪神群の頂点に立つ“魔皇”。
すべての多重次元とすべての時空間を生み出した根源であり、無限と混沌の中核にて冒涜の言葉を吐き続ける邪悪なる暗君ともされる。
白痴にして盲目と揶揄されるように知性や叡智は持ち合わせておらず、すべての邪神の頂点に相応しい混沌を御する最強の力を持ち合わせながらも、混沌の中心にある玉座で惰眠に耽っているとされている。
彼の無聊を慰めるため、従者である蕃神たちは絶えず踊り狂いながら粗野に太鼓を打ち鳴らし、聞くに堪えないオーボエやフルートの音色を奏でている。
宇宙と次元のすべてを誕生させた起源の創世神。
万物は彼より生じた被造物であるとか、世界は知性を持たないはずの彼の思考がデタラメに具現化したものとか、この世界はアザトースの見る夢として構成されているとか……諸説入り乱れて真説は定かではない。
だが『すべてがアザトースから生まれた』という点では一致する。
邪悪にして痴愚と恐れられるも全宇宙の創造主と認知されていた。しかし同族あるいは彼よりも上位存在である“旧神”と争ったとか反旗を翻したなどの説もあり、その戦いで知性や叡智を奪われたとされている。
窮極の混沌の中心にいるのも、そこに封印されたという話もある。
「……その拘束は封印の表れですか?」
好奇心から訊いてみると、亜座は縛られた両腕を顔の前に立てた。
「まあ、そんなところかな? こうして表舞台に顔を出すとはいえ『封印されていますよー?』という建前くらい誇示しておかないとな」
あいつらにも面子があるのだよ、と少女はくだらなそうに苦笑する。
あいつらとは旧神を指しているのだろうか?
これくらいの態度なら不敬に当たらないのか、亜座は想像したよりフレンドリィな受け答えをしてくれた。だが、まだまだ油断は禁物である。
次いでツバサは後ろに控える執事に目を移す。
「寄球……ヨグ=ソトース……」
名前を呼ばれてもピクリとも反応しない。泰然自若である。
最強無比の“魔皇”アザトースに仕える副王。
場合によってはアザトースを凌駕する一面を有するとされる、クトゥルフ神話の邪神群の中でも他の追随を許さない、強大な神性として知られている。
曰く――ヨグ=ソトースは門を知り門である。
門の鍵にして守護者であり、過去現在未来すべての時間と空間はヨグ=ソトースの内においてはひとつとして扱われるという。
無限というものを体現する存在であり、ひとつの内にあるすべてであり、すべての内にあるひとつ。こう表現すると多重次元の何処にでも存在できる時空連続体のように捉えられるが、実際にはそれよりも高次元にいるという。
(※作品によっては旧神の手であらゆる次元にも属さない狭間へと封印されているため、すべての次元と空間に接しているという裏を返した設定もある)
ヨグ=ソトースは――果てしなく無限に行き渡る。
際限を設けられることなく、制限を掛けられることなく、数学も理論も空想すらも置いてけぼりにするほど最果ての彼方まで届く途方もない存在。
そうした無限大の神秘を概念的に捉えた神性だとされている。
あらゆる次元と宇宙と時間の外にある――終局の空虚。
その多重次元の彼方にある終焉へと至る門を預かる守護者にして案内役もまた、ヨグ=ソトースの役目であるという。
まだ無反応を続ける寄球にツバサはもう少し振ってみた。
「亜座に寄球……偽名だとしたらアナグラムにもなってないし、各々の名前をわかりやすいように冠したとしか思えませんね」
寄球はお辞儀をすると、まとわせる虹色の光球をいくつか瞬かせた。
空間を揺らす衝撃とともに返事を寄越してくる。
「わかりやすさ、これが昨今の人間たちの風潮だとお聞きました」
痛いところを突いたつもりがブーメランで返ってきた。
ただのわかりやすさではない。言葉の裏に「どんなアホでバカでトンマで間抜けな愚物でもこれならわかるだろ?」と痛烈な皮肉が込められている。
昨今の人間とまとめて小馬鹿にしてもいた。
確かにツバサたちが異世界転移する前の地球、取り分け日本ではわかりやすさばかり追求される風潮があった。小説にしろ漫画にしろアニメにしろドラマにしろ映画にしろ、ちょっとでも難解にするとウケないのだ。
なので、わかりやすく気持ちいい物語ばかり量産されていた。
主人公の艱難辛苦などありはしない。
ただただ快適で素敵で無敵――そんな物語が持て囃される。
『カタルシスという苦味を抜かれた味気ないストーリーばっかだったわ。押し付けがましいお涙ちょうだいな感動ポルノも御免だったけどな』
インチキ仙人の残念そうな苦言を思い出す。
しかし、わかりやすさを追求すれば「幼稚だ」と識者っぽく鹿爪らしい文句を並べる奴が出てきたし、誰にでも理解できるように解説に力を入れれば「ウザい」と鼻で笑う者が後を絶たなかった。
山なしオチなし見せ場なしクライマックスなし、そんな起伏のない真っ平らなストーリーを指差して嘲笑う者もいた。
結局は他者を叩いて優越感に浸りたい者を増やしたに過ぎない。
ネットの意見という匿名性がそれを加速させた節もある。
そんな理解する意欲を失った人間の浅ましさを愚弄しているのか? はたまた他意なくそのまま参考にしただけなのか?
クロコ顔負けの不動な鉄面皮からは執事の内心を読み取れない。
言葉の選択をしくじったツバサは苦虫を噛み潰す。
しかし、もはや後には引けない。寄球も気を悪くした様子はなく、淡々と受け答えしたとしか思えないので、この話題で押していくことにした。
「わかりやすさを重視したということは……あなた方はこちらの想定した通りの神々であると考えてよろしいのですか? いわゆる……」
「左様――外なる神の二柱という認識で間違いございません」
単刀直入が過ぎる。分厚い鉈を叩き込まれた気分だ。
――いきなり正体をバラさなくても!?
ツバサの後ろではクロコもまた気絶しかけている。
これだけ別次元の圧迫感を醸し出しているのだから、素知らぬ振りをしたところで無駄なのは承知の上だ。さりとて、人間の姿を借りて顕現したのだからもう少し取り繕ったらどうかと言い返したくもなる。
せめて心の準備くらいさせてほしい。
「もっとも、わたしたちの総体は大きいからな」
言葉足らずな寄球に代わり、亜座が饒舌に語り出した。
「君の前に現れたのは、まさに君の思い描いた外なる神々の留まるところを知らない膨大な意識の一端……気まぐれが具現化したような代物だ」
亜座の意志が、混沌の魔皇の全体意志とは限らない。
ツバサだってそうだろう? と亜座は親しげに同意を求めてくる。
「ひとつの事象に対して純度100%の意志を注ぐとは限らないはずだ。そこには多種多様な感情を織り込んでいるものだろう。わたしは混沌の中心から偶さか滴り落ちた、ほんのわずかな一雫とでも思えばいいよ」
「……意外、ですね」
頬を伝う冷や汗を拭ったツバサは問い掛ける。
「外なる神とは……我々が蕃神と名付けた神々の中でも別格の存在……私たちなど塵芥同然……歯牙にも掛けないものと思っていましたが……」
とても一人称に「俺」を使える気分ではない。
滅多なことではないが、ツバサは自分を「私」と呼んでいた。
「それは君、ナンセンスだよツバサ君」
人間だって大差ないだろ? と亜座はこちらの考えを是正する。
「人間という種は広大な宇宙へ思考を飛ばそうと試み、ついにはわたしたちの存在の片鱗の欠片くらいに辿り着くまで意識を拡大させてきた。それと同じくらいの労力を費やして、自分たちの目の届かない微小な世界を覗いてきたはずだ」
微生物、細菌、ウィルス、分子、原子、電子、素粒子……。
人間の手が届かない極小世界。
亜座はそんな研究を続けてきた人類史に準えてくる。
「そうしたミクロの世界に視野を広げ、あの手この手を尽くしてコンタクトを取ろうとしてきたじゃないか。わたしたちだって時に似たようなことをする。わたしの内側でもある宇宙や次元や世界……その片隅にできた、小さな小さな極小世界に目を向けることだってあるものさ。君だって幼い頃、虫眼鏡を手に入れたり顕微鏡を使う機会に恵まれたなら同じことをしたはずだ」
「あなた方も……矮小なものに気に掛けることがある……と?」
その通り、と亜座は本当にフランクに話し掛けてくる。
もはやフレンドリィといっても過言ではない。
「時間も順序も関係ない立場にあるわたしたちは、いつもいつでも常に退屈しているんだ。ろくに口も利けない下僕どものドラムにオーボエにフルートの音色ばかりじゃ、無聊の慰めには物足りないのさ」
「そんな時、お嬢様はこうして気まぐれに降臨なさるのでございます」
会話の境目を縫うように寄球が一言差し込んでくる。
……えーと、つまり、お忍び旅行みたいなものだろうか?
これが初めてではない、と言葉の裏が読めた。もしかすると過去にも真なる世界に介入しており、古代神族や魔族の前に降り立っていたのかも知れない。
彼女たちにしてみればほんの戯れだろうが――。
「残念ながら君たち人類は極小世界に生きる者やその仕組みを把握することはできても、会話を始めとした意思疎通は叶わなかった。しかし、外なる神と畏敬の念を抱かれるわたしたちならば造作もないことなのだよ」
「あなた方の等級に合わせた化身を用意すればいいだけのことです」
亜座は話し好きの多弁、寄球は寡黙ながら口を開くと毒舌。
二人にはそんな印象を抱きつつあった。
次女フミカから推薦されたクトゥルフ神話系の書籍各種。ツバサは暇があれば読むようにして一通り目を通していた。
邪神や蕃神といっても十人十色、それぞれに性格が垣間見えた。
しかし魔皇アザトースや副王ヨグ=ソトースはあまりに超然的すぎるため、人格どころか性格めいたものがあるとは思えなかった。擬人化するとこうなるのだろうか? それともこの場だけの話だろうか?
ツバサの心中を読んだのか、亜座がニヤリとほくそ笑む。
擬人化により露わになった性格について語るかと思えば、急に口を噤んで大人しくなった。まるで空気を読んだかのようである。
「……お茶をお持ちしました」
本当に空気を読んで静かにしてくれたらしい。
お茶の用意ができたクロコが配膳のため戻ってきてくれたのだ。
――万が一にも失敗は許されない。
絶対にしくじれない難易度の高すぎるお茶汲み。そのためかいつもならお盆で運んでくるものを、わざわざ給仕用ワゴンを押しての登場だ。
まずは客人である亜座と寄球へ近付いていく。
クロコの緊張度は120%を振り切れていることだろう。
外なる神の化身の間合いに踏み込むまで近寄らせるのは、自殺を強要するくらい酷な作業なのはわかっている。いつもは変態駄メイドには辛辣なツバサだが、今夜だけは「本気でゴメン」と土下座して謝ってもいい。
しばらくセクハラされても許してやろうと心に誓う。
「……ど、どうぞ」
奥歯を割る勢いで噛み締めたクロコは震える手付きを抑えている。
決して粗相のないようお茶と菓子を配っていく。
「ありがとう、メイドのお嬢さん」
「どうぞお構いなく――」
亜座と寄球は軽い会話で応じた。細やかな仕種さえ人間らしい。
湯気の立つ香り高い紅茶を亜座と寄球の前に置き(執事は着席していないので、テーブルの適当な位置へ)、贅を尽くした茶菓子の盛り合わせを二人の前に置いたクロコは、気持ち足早にツバサの元へ戻ってくる。
両眼は涙ぐんでおり、口元は波線を描くほど食い縛っていた。
「……クロコ、よくやってくれた」
「……お褒めに与り感謝の極みです」
外なる神への饗応という大仕事をやり遂げたメイド長に、囁き声ながら最大級の賛辞を贈る。クロコは礼を述べながらツバサにもお茶を淹れてくれた。
もう退出してもいいのにクロコは後ろへと控える。
亜座の執事に対抗意識を燃やしたのか、メイド長の意地を見せてくれた。
「さて、人格云々の話は後回しにするとして……」
亜座は出されたお茶と菓子を味わいながら話を進める。
といっても彼女の腕は拘束されていて自由が利かないので、寄球が介護よろしくお茶やお菓子を口まで運んでいた。いちいち命じなくても示し合わせたように動きを合わせられるのは、外なる神ゆえの融通性なのだろう。
「わたしたちが君を訪ねたのは他でもない」
祭司長が騒いでいてな、と亜座は事もなげに言った。
この発言にはツバサも面食らわせられる。
「祭司長……超巨大蕃神が……ッ!?」
「ストレートにクトゥルフと呼んでいいぞ。偉大なるクトゥルフ……あらゆる次元において、あいつは最大最強最上位のグランドクラスだがな」
新たなネタバレと追加情報に絶句する。
超巨大蕃神“祭司長”=偉大なるクトゥルフが正解であり、同種の眷族が何体もいる可能性があるのは考えていたが、その中でも最も大きく最も強いのが祭司長だということが亜座の口から開かされた。
道理で一般的なクトゥルフ神話とは一線を画するスケールなわけだ。
(※海底都市ルルイエに眠るとされるクトゥルフは、全長20~30mとされている。超巨大蕃神は片手だけで山脈のように大きな還らずの都を摘まめるため全長は計り知れない。小さめに見積もっても惑星サイズと推測されている)
外なる神が認めるのだから間違いあるまい。
亜座は楽しそうに自由の利く左手の人差し指を立てた。
「生まれたゾス星系では『地元じゃ負け知らず』で通っていたあいつが、久し振りに獲物と見定めたとある世界で手傷を負わされたという噂は、こちらの次元ではあらゆる神性や種族のSNSであっという間に広がったぞ」
「あるんですかSNS!?」
もう我慢の限界だ。普通にいつものノリでツッコミを入れてしまう。
これには寄球が冷静な声音で答えてくれる。
「あくまで似たようなものです。地球のそれとは多少異なります」
「おかげでわたしの耳にもすぐに噂が届いたからな」
喜々とするアザを中心に空間が波打つ。
彼女の強大な思考が喜びのあまり溢れているのか、ダイニングやリビングルームが宇宙空間に溶け込むような錯覚に吐き気を催す目眩を覚える。
見たこともない星座、星雲、そして未知の星の配置。
恐らく、ここがクトゥルフの生まれたゾス星系なのだろう。
話題のために思い返しただけで、時間も空間も飛び越えてゾス星系とこの場が接するほど近付けたようだ。これさえも亜座の力の波及に過ぎない。
ちょっとした感情の綻びが次元さえ曖昧にする。
改めて外なる神の想像を絶する力に度肝を抜かされてしまう。
目眩は抜けきらず、吐き気も止まらず、ツバサは項垂れかけていた。
「ちょっと前に祭司長も挨拶に来たんだろ?」
寄球が口元まで運んできたクッキーをポリポリ食べながら、亜座は祭司長が夢を通じてツバサに警告してきたことを指摘した。
「ええ、南方大陸には行くな、外なる神には手を出すな、と……」
「あれな――祭司長なりの激励だよ」
いや発破かな? と亜座は首を傾げながら言い直した。
ツバサは「は?」と間抜けな声で顔を上げる。
その反応が面白かったのか、亜座は微笑みを絶やさず続ける。
「地元じゃ負け知らずのあいつにはまともに喧嘩できる奴が少ないんだ。真っ向から勝負できるのはハスターを含む一握りの神性、あと古のものくらいかな? だもんだから、手傷とはいえ自分に傷を付けた君を買っているんだよ」
南方大陸に行くな――南方大陸へ行け。
外なる神に手を出すな――外なる神と戦え。
警告はすべて裏返し、ツバサが逆張りするのも折り込み済み。
「それに祭司長、黒山羊の姫とは一族総出で仲が悪いからな……君たちをぶつけて姫とその子供たちに嫌がらせするついでに、君たちを強くするためのトレーニング相手にでもさせるつもりなんだろうよ」
――ツバサたちを歯応えのある獲物に育てる。
より強力にして更なる“気”に満ちた活力を持つ獲物に仕立てるため、南方大陸に棲み着いた外なる神へ嗾ける魂胆だと亜座は推察していた。
「そして、美味しくなってきたところを頂くと……?」
神妙な面持ちのツバサだが、亜座は澄まし顔でお茶を啜っていた。
「果実は実っても青いうちは手をつけず、食べ頃に熟すまで待つものだ。永劫であるわたしたちに一歩譲るものの、彼らも永遠に等しい寿命を生きる者。退屈凌ぎのつもりなのだろう……ま、わたしたちも人のことは言えないがね」
――祭司長の意気を昂ぶらせる者が現れた。
即ち、彼を筆頭としたクトゥルフ邪神群が久し振りに力を振るうほど強力な敵が現れた証であり、次元を跨いだ大戦が起きる予兆を感じさせる。
いつか勃発する大戦争を亜座は待ち侘びていた。
混沌の瞳を弓形に曲げ、その奥でいくつもの超新星爆発を瞬かせる。
「戦の見物、無聊の慰めに打って付けだと思わないか?」
「あなた方にしてみれば試合観戦みたいなものなんですね……」
これまた意外でした、とツバサは心中を打ち明ける。
「あなた方のような上位者からすれば、ツバサたちも祭司長らも五十歩百歩の矮小な存在……こうして対面することすら許されない他愛ない者ども、どんぐりの背比べ程度の小さき生き物だと聞いていましたが……」
「それは人間も同じだろう? さっきの話を蒸し返すのか?」
存外しつこいな、と亜座は含み笑いする。
それでもツバサの正直さに免じたのか、また例え話をしてくれた。
「君たち人間も自分より下等とする生物を競わせて楽しんでいるはずだ。獣や虫を飼い慣らして、闘技場で戦わせてたりするじゃないか。いいや、人間同士でも優れた者を選抜してよく競わせているよな」
「……その通りですね、闘争を娯楽のひとつとしています」
好戦的かつ戦闘狂でもあるツバサは否定できない。
獣や虫を飼い慣らしての件は闘牛や闘犬に闘鶏、もしくは闘蟋といった飼育した動物を人の都合で戦わせる競技のことを言っているのだ。
(※闘蟋=コオロギを戦わせる遊技。中国を中心にアジア圏で古くから親しまれてきた。入れ込みすぎて国家すら傾けた例があるほど熱狂的ファンが多く、今日でも強いコオロギは日本円換算だと数十万円で取引されるくらい)
人間同士は言わずもがな、スポーツや格闘技を指している。
「下僕たちの太鼓やオーボエにフルートばかりでは飽きが来るのだよ。たまには血湧き肉躍るような戦いを見て楽しむこともある。この多重次元を誕生させて以来、宇宙のそこかしこで闘争は絶えないからな」
亜座は切実そうに訴えてきた。
「そのすべてをお嬢様は具に観戦してきております」
寄球の注釈コメントを拍車にして、外なる神々は激励してくる。
「わかるかツバサ君――見物人の眼は肥えているぞ」
「評価の厳しい観戦者が目を光らせてることをお忘れなきように」
――退屈な戦いで失望させてくれるなよ?
相手が格上だからと情けなくも不甲斐ないところを見せてくれるな。そんな期待感も込められており、これから確実に起きるであろう祭司長たちとの大戦争の開戦を待ちかねるようにも受け取れてしまう。
ツバサは失礼のないようセーブを掛けた深呼吸をした。
乾きっぱなしの喉をお茶で潤すと、ほんの少し勝ち気を取り戻す。
「上等です……望むところですよ」
外なる神だからと舐められっぱなしは性に合わない。
たとえこの場で「不敬である!」と消し飛ばされようとも、これくらいは言い返さないとツバサの反骨精神の気が済まなかった。
それでこそだ、と亜座は満足げに口の端を大きく釣り上げた。
「わざわざ顔を見せに来た甲斐があったな」
「敵うことのない負け戦に挑む覚悟を決めてからの不遜な物言い……挑戦者として天晴れな気概を示されましたね。お嬢様も殊の外お喜びです」
言葉に毒こそ忘れないものの、寄球からも割と高評価だった。
強気に出て良かったぁ……とツバサの内なる慎重派で臆病な部分がビクンビクン震えているのは内緒だ。いや、外なる神々には多分バレバレなのだが。
しかし、思ったより会話が成立していた。
寄球が「下等生物に等級を合わせてあげているのだからありがたく思いなさい」と前置きしたように、こちらのレベルにデチューン済みだとしてもだ。
亜座など友達になれそうな親しみやすさである。
「宇宙が誕生した時から……アザトースはすべてを見てきたのですか?」
だから、なんとなく質問めいた言葉を投げ掛けていた。
「ああ認てきたぞ、この世のすべてを識てきたとも」
亜座は拘束具を軋ませて座り直す。
「アザトースとは永遠であり宇宙だ。無限大としていつ果てることなく広がり続ける混沌の中核だ。そして、混沌とは無秩序な増大を止められない」
「無秩序の増大に抗う術はひとつ――観測です」
亜座の言葉を寄球が引き継ぎ、解説も執事の弁で続けられる。
「混沌とは自らではない何者かによって認識されることで、無秩序の増大に抑制を掛けられることを良しとします。いつしかそれは秩序と呼ばれる法則を強いるものとなっていき、混沌のエントロピーを制御するにまで至るのです」
世界各地の神話では、始まりに混沌がある場合が多い。
やがて混沌から原初の神々が立ち上がり、自分を取り巻く空間があると認識することで、そこに新しい世界を形作ろうと動き出す。
これは混沌から秩序が生まれる過程を表しているのではないか?
混沌が無秩序の増大を制するため観測者を求めた結果だ。
「……量子論みたいな話ですね」
遠大すぎる話にツバサはなけなしの知識で縋りついた。
分子や原子に素粒子といったミクロの世界では、それらの粒は波としてどこにでも偏在する。それは決して定まらず混沌としている。
しかし、観測すれば一カ所に定まる。秩序だったものとなるのだ。
大は小を兼ねる――大宇宙と小宇宙は照応する。
宇宙の原理とは突き詰めればすべて同じなのかも知れない。
だがアザトースとは窮極の混沌。その権化である。
ヨグ=ソトースを始めとした他の神性を観測者とした場合、亜座が「この世のすべてを認識してきた」と自負する点には疑問が浮かぶ。
認識するには知性が求められるからだ。
「失礼かも知れないが……あなたは万物を創造した神でありながらも、盲目にして白痴の王とも呼ばれている。先ほど宇宙のすべてを見てきたと肯定されていたが、それを理解する知能を持っていないのでは……?」
無礼にも聞こえる問い掛けなので、ツバサは恐る恐る切り出した。
亜座は上機嫌で返してくる。
「うつけの振りは楽しいぞ。誰もがわたしを侮ってくれる」
「振り、ですか……盲目なのも白痴なのも……?」
戸惑いがちなツバサに、亜座は少々ぼやかした回答を寄越す。
「意図してやり始めたわけではないのだが、結果的にそうなった……という言い方だと間違いは少ないかも知れんな。端末を人間レベルに引き下げたとはいえ、こうして君と深夜のお茶会を楽しむことができるのだ」
目は見えるし思考能力もあるぞ、と混沌の瞳がウィンクした。
――アザトースの知性に関しては諸説ある。
まず最初から思考という概念がない説。
これはアザトースの思考が現在進行形で具現化しており、それがこの宇宙を形成しているという説だ。ゆえにこの世界は不条理かつ不合理でデタラメであり、人間の見出した科学的法則などクソの役にも立たないという。
次に旧神によって知性と叡智を奪われた説。
この場合、旧神はアザトースの同族だったり彼を生み出した更なる上位存在ともされているが、その旧神といざこざを起こした結果、敗北したアザトースは知能を取り上げられて次元の果てに封印されてしまった。
(※主に作家オーガスト・ダーレスの描いたクトゥルフ神話の世界観によく見られる特徴。クトゥルフ神話辞典を編纂していたフランシス・レイニーやリン・カーターもこうした設定を用いていた)
あるいは、この世はアザトースの見ている夢という説。
宇宙のすべても多重次元も、すべて窮極の混沌の中心で惰眠を貪るアザトースの夢であり、彼が目覚めれば何もかもが終焉を迎えるそうだ。
(※クトゥルフ神話の生みの親であるラブクラフトが敬愛した作家ロード・ダンセイニ。彼が著した『ペガーナの神々』に登場する神々の父マアナ=ユウド=スウシャイは「神々を生んでから眠りにつき、目覚めたら世界が終わる」という設定があり、これとよく似ている。アザトースの着想をこの神から得た話もあるが、宇宙はアザトースの見る夢という設定は後継作品にのみ散見するもので、少なくともラブクラフトや初期の作家陣には見られない)
変わった説では――這い寄る混沌こそがアザトースの知性。
従者として分離したアザトースの知性が、ナイアルラトテップというトリックスターを演じて世界を混乱に陥れているとする説である。
「そのすべてを――わたしは肯定しよう」
亜座ははっきり断言した。
ツバサが脳内に巡らせていたアザトースの知性に関する諸説について、全面的に認めるというのだ。やはり心の裏も読まれていたらしい。
ブチブチッ! と危機感を刺激する音がする。
亜座が両腕を拘束する黒革のベルトを引き千切り、ツバサを歓迎するかのように左右へと開いたのだ。無残に引き千切られたベルトは蛇のように身悶え、それぞれの腕を縛り上げるように巻き付いていく。
そして――混沌が渦巻いた。
彼女のテンションに呼応するのか、通常空間が混沌で蕩けそうになる。
「君の思い描いているアザトースの在り方はどれも正しい。そして、これまでにあったわたしに関するすべての考察も、これからわたしについて語るであろう推察も、遍くすべてをわたしは認めようじゃないか」
拘束具できつく縛られた両腕を広げた亜座は虚空を見上げた。
その果てに終極の空虚があるのかも知れない。
総身にまとう虹色の光球を泡立たせて寄球も弁舌を振るう。
「窮極の混沌とは、秩序によって整えられた数多の次元から断絶しています。それがゆえにすべての次元の根底にあり、すべての次元の基底と成り得るのです。これにより相互矛盾を孕みかねない事象であろうとも、多重次元というそれぞれの次元において成立し、その奥底に座する“魔皇”の存在を立証するのです」
多重次元の底にあるであろう窮極の混沌。
そこに鎮座する魔皇アザトースはすべての次元の根源であるからこそ、あらゆるアザトースの有り様を肯定して正当化できるらしい。
亜座のような人間の化身も許容する――ということだ。
彼女はアザトースが人間とコミュニケーションを取るための翻訳機。人間ならば微生物を調べるための虫眼鏡や顕微鏡が擬人化したようなもの。
アザトースという混沌、その総体の一部に過ぎない。
今にも混沌に飲み込まれそうなほど異質化してしまったダイニング。
亜座はその中心でふんぞり返っていた。
「粘液と触手と肉塊でグチョグチョに蠢動するのもアザトースだし、二枚貝に触手が生えたような化身もアザトースだ。美男美女、そしてわたしのような美少女になってもアザトース……アザトースは無限大だ」
正しく無秩序に増大する混沌そのものだな、と亜座は自画自賛した。
両腕の拘束こそ破りはしたものの、彼女の右手は袋のようなもので封じられたままだ。ただし、左手だけは何故か開放されている。
左手を開いたり握ったりしながら、表情を斜に構えていく。
「そうだな。祭司長との喧嘩へ前向きな君に出血大サービスだ。この窮極の混沌であるアザトースの視座、それを垣間見せてあげようではないか」
またしても周囲の空間が波打つ感覚に襲われる。
亜座や寄球との会話に集中するあまり……いや、そちらに注力することで目を逸らしていたが、彼女たちが口を開く度に空間は変転していた。
宇宙の最果てや混沌の入り口、それが目の端を横切っていた気がする。
亜座と寄球の後ろに強烈な光が集まっていく。
それは宇宙に屹立する人型となり、光の巨人のように眼へ映った。地球生まれの日本育ちだと、どうしてもM78星雲出身な正義の味方を連想してしまう。
あれは恐らく――旧神のイメージだ。
「君が記憶から掘り起こしたアザトースの知識にこんなものがあったな」
魔皇は旧神と諍いを起こして知性を奪われた。
旧神こそがこの多重次元を制する最も偉大な存在であり、魔皇はその被造物でありながら反旗を翻し、その戦いで敗北して知恵を没収された説。
あるいは旧神も魔皇も同種同族の上位存在であり、思想の違いから戦争を引き起こしたが、魔皇は破れたため罰として知能を剥ぎ取られた説。
どちらにせよ、アザトースは知性と叡智を奪われている。
「窮極の混沌よりすべてを生み出したはずのアザトースが、クソッタレな旧神にどういうわけか頭脳をぶっこ抜かれて阿呆にされたのではないかと……」
「……お嬢様、言葉遣いが御下品です」
容貌に相応しい単語をお選びください、と寄球が苦言を呈した。
構うことなく亜座は問題を掲げてくる。
「では、奪われたはずのアザトースの知性はどこにあるのだろうな?」
亜座は左手を小さな胸へと押し当てる。
まるで自分自身がアザトースの知能、その精髄の化身であるかのようにだ。暗喩していると安易に考えたくもなるが、そんな単純ではあるまい。
いやいや、と亜座は茶化すように首を左右へ振る。
「たとえわたしがアザトースの知恵の化身だとしても、末端の末端の末端……数え切れないほどある末席に腰を下ろすのが関の山だよ」
こちらの試行錯誤などお見通しらしい。
旧神たちの不手際を鼻で笑うように亜座は言った。
「末席であるがゆえに取るに足らない存在だと見逃されている。この次元にまで目を光らせていそうな旧神も、こうしてわたしが大っぴらに活動しようとも動きはせず、目こぼししているのやも知れない……奴らにも面子があるからな」
最強の魔皇を封じた――その実績から来る面子だ。
アザトースから知性と叡智を奪い取り、次元の底へ封印したと旧神は確信しているはずだが、実際には御覧の通りだ。アザトースという総体から零れ落ちた化身はこのように営々と活動している。
旧神が気付いたとしても「封印しました!」と公言している手前、おいそれと取り締まって大事にもしたくあるまい。
多少のことは黙認してやり過ごす――この判断が最良だろう。
いわゆる“鎖に繋げられない強者”、迂闊に対処できない不穏分子だ。
「だが、わたしはアザトースの知恵そのものではない」
再確認するように亜座は明言した。
「さて、窮極の混沌より万物を生みし魔皇の叡智は何処へ?」
問い掛けは終わらない。
きっとツバサが正解を見つけるまで詰問してくるだろう。夜が明けてもこの悪夢のような茶会が続くかと思うと拷問のようだ。
正しい答えを見出す必要がある。
外なる神からの魂をも削り殺すプレッシャーを浴びながら、有為転変と目まぐるしく空間が変わる異様な環境の只中に放り込まれ、集中力を補うのにも激しく消耗する最悪のコンディションでもひたすら思案を巡らせる。
確かに――些細ながらも違和感はあった。
フミカから貰ったクトゥルフ神話の資料にも、アザトースは知能を奪われたと記されている場合が多く、それを実行したのは旧神と併記されていた。
このせいでアザトースは盲目にして白痴の神となる。
そして、王の間であり玉座でもある窮極の混沌の中心は、アザトースを幽閉する牢獄も兼ねるようになったという筋書きだ。
どこかの次元ではそういう展開があったのだろう。
うつけの振りと評したように、旧神に華を持たせてその次元を管理しやすいようにと、アザトースがわざと仕向けた感がありまくりなのだが……。
しかし、アザトースに知性がないのは定説でもある。
万物の王でありながら盲目にして白痴の神という異名は伊達でない。
ならば――魔皇の叡智はいったい何処へ行ったのか?
ヒントだ、と亜座は屈託のない笑顔で言った。
「君は既に一度アザトースより切り離された知性と叡智、その触手の端っこを掴みかけたことがあるのだぞ。そう、君が誰より尊敬する師の手引きでな」
「師の……手引きで……ッ!?」
次の瞬間、ツバサは過去に通じる記憶の扉を潜っていた。
~~~~~~~~~~~~
『――森羅万象あらゆるものを神仏と考えればいい』
不意に懐かしい声が耳朶を打った。
外から鼓膜を震わせた音声ではない。ツバサの古い記憶から湧き上がるように聞こえてきた過去からの声だ。この渋い声色を忘れるはずがない。
ツバサの師匠ことインチキ仙人――斗来坊撲伝。
真なる世界出身の灰色の御子であり、本名はケンエン・テンテイ。
どんな事情があったか定かではないが、ツバサの実家で我が物顔に居候していたこの不良老人は、家賃代わりにとツバサに武道を仕込んでくれた。
――それだけに留まらない。
大切なことも無駄な知識も、ほとんど師匠が教えてくれたのだ。
夏休みや冬休みなどの長期休学中のこと。
この期間、ツバサはよくインチキ仙人に連れ回された。
人も通わぬ深山幽谷へ連れて行かれたのだ。
山籠もりと称しての修行だったが、まだ小学生くらいのツバサはキャンプ感覚で楽しんでいた。合気を始めとした格闘術を学ぶのみならず、アイテム無しでも生きていけるサバイバル術なども叩き込まれたのはいい思い出である。
瞑想なんて子供向きじゃない修行もさせられた。
野山が見渡せる断崖絶壁――師弟仲良くそこで座禅を組む。
朝から晩まで座禅なんて日もあったくらい。
眼ぇつぶって座ってるの飽きた! とツバサが子供らしいワガママを喚くと、師匠は苦笑いで瞑想の助けになる話をしてくれたものだ。
『万物は神仏から成り立ち、万象もまた神仏……そして万人も神仏だ』
『昨日食べた晩飯も、今朝した糞もか?』
幼稚なジョークで小馬鹿にしたつもりだが、師匠は『そうだ』と悪ガキを窘めることなく大真面目に認めてくれた。
『日本の神様は八百万の神とかいうだろ? そんだけ神様がいるんだ、飲食の神もいれば糞尿の神もいる。アマテラスとかスサノオとか強くて格好いい神様ばかりじゃねえ。退屈な日常を支える神も汚物を担当する神もいるんだよ』
あらゆるものに神仏が宿ることを説いてくれた。
『お米一粒にだって7人から88人の神様が宿ってるんだぞ』
『お米ひとつに……88人だとしたら超過密状態だな。微生物みたいなサイズで入っていると考えてもいいけど、要するに観念的な考え方だよな』
『ガキのくせして小賢しい。師匠の顔が見てみてえよ』
ツバサは爪が食い込むまでインチキ仙人の頬を人差し指で突いた。
気にすることなく師匠はよく回る舌を動かす。
『そんなわけで、この世はどこもかしこも神様仏様だらけよ』
当たり前だ――世界そのものが神仏なんだからな。
『そこら辺の名もない草にも神仏は宿っている。鼻クソよりも小さい石にも、砂の一粒や土の一欠片も神仏だ。そういったものから滋養を喰らって生きている虫、魚、小動物、鳥、獣……生命そのものが神仏の現れだと言ってもいい』
『じゃあ、人間も神ってことになっちゃうぞ?』
植物や動物に神が宿っているなら、それらを食べて栄養にする人間にも神が宿ってしまう理屈になる。そのことをツバサは疑問視した。
『そうだぞ、人間も神仏だ。正しくは神仏の一部ってところかな』
もはや瞑想の修行は諦めた師匠は長話を始めるが、弟子への見栄えを大切にしたのか座禅を解くことはしなかった。
『昔、インドをぶらついてた時に一人の遊行僧から聞いた話だ』
この世のすべては無常にして無情である。
どれだけ祈ろうとも神や仏が助けてくれることはない。そういった奇跡にまつわる逸話も枚挙に暇はないが、それは偶然にも命拾いした人々が自らの体験をこじつけるように神仏と結びつけたに過ぎないのだ。
神も仏も――何もしてはくれない。
無慈悲に酷い目に遭ったまま消えていく者は数知れず。
世はなべて無上に無情で無常なのだ。
『神は誰よりも優しくて何よりも残酷……両極端を併せ持つ。仏は寛大であるがゆえに幸も不幸も分け隔てない……在るが侭なり、と見過ごすだけだ』
――神も仏もこの世には存在する。
何故なら、世界も空間も宇宙も次元も神仏より生まれたのだから。
ただ人間にとって都合が良くないだけ。
『苦しくても助けてくれないし、辛くても何もしてくれない、あれが欲しいこれが欲しいと求めても与えてくれない、ああなりたいこうなりたいと願ってもなれるわけじゃない……死にたくないと願っても寿命が来れば死ぬ』
神も仏も人間には何もしてくれない。
これをインチキ仙人は『当たり前だ』と嘲笑った。
『すべての神仏は人間である――すべての人間は自分である』
なら自分でやるしかねぇだろ? と師匠は気障なウィンクをした。
女子ならイチコロだが、男子は半眼で口を真一文字に結んだ。
『インド発祥のバラモン教やヒンドゥー教、そして仏教などの死生観ってのは輪廻転生に基づいている。魂が幾度となく生まれ変わりを繰り返すことだ』
宇宙を創造した神――梵天。
人間の魂は死後、自我となって宇宙の根源である梵天へと還る。何故なら自我とは宇宙を創り出した梵天の一部であり、梵天が姿を変えたものだからだ。
――梵天が世界を創った理由。
それはすべてを経験するためだとされている。
『あらゆる人生を謳歌するため、人類のみならず世界というすべてをその身で余すところなく味わうため、梵天はこの世のすべてを創造したんだと』
喜怒哀楽を、艱難辛苦を、裕福な生活を送れる王侯貴族も、飢えと渇きに苦しむ奴隷も、虐げられて殺されていく者も、他者を傷付けて悦に入る殺人者も、学識と見聞を究める賢者も、無知蒙昧に毎日を過ごす無生産者も……。
『ツバサも斗来坊も――自我であり梵天なのさ』
やられたらやり返す。師匠は年の割には張りのある人差し指で、まだ幼かったツバサのほっぺがへちゃむくれになるまで突き返してきた。
インチキ仙人はグリグリ頬をイジってくる。
『一木一草、金銀銅鉄岩石、虫類禽獣、天地海……すべてが梵天より生まれた。梵天はそれらを視て聴いて識るために自我を創り出したんだ』
混沌とした原初より生まれた世界。そのすべてを経験するため自我を備えた人間という観測者を生み出し、秩序という理を敷いていく。
その意味を幼いツバサは理解できなかった。
世界の根源こそが梵天――万物はそこより生じてそこへと還る。
『梵天とはすべての始まりにしてすべての終わり。時間も空間も先も後もなく、人が言うところの善悪はおろか法則も規則もない……ただだた混沌としており、何にでもなれるがゆえに何もないようなものだろう』
『じゃあ――窮極の混沌だな』
『小坊のくせして厨二病全開かよ! だが、そいつぁ言い得て妙だな』
ツバサが子供っぽく例えると師匠は爆笑した。
『自我が生まれて死んで輪廻を回ることで、梵天は自分の創った世界のなんたるかを識る。喜びも怒りも哀しみも楽しみも、すべてが尊い経験なんだ』
神も仏もないものか! と泣き叫ぶのもまた一興。
『その絶望すらも梵天が望んだ経験のひとつよ』
非道のままに殺される者も梵天から生まれた自我ならば、非道のままに殺す者もまた梵天に還るべき自我である。
『こうして世界は巡り巡っていく……梵天は自らが生み出した世界を味わい尽くしているのかも知れねえな』
『ふーん、梵天とか混沌ってのは欲張りなんだな』
酸いも甘いも噛み分けるどころか、辛いも苦い塩っぱいも食べ尽くしたい。
幼いツバサはそんな感想を抱いたものだった。
いいねその表現、とインチキ仙人は笑いながら人差し指を引いた。
『梵天とは宇宙の真理、世界を成り立たせる至高の原理だ。一方で自我とは超越的自我とも呼ばれる個人の意識や精神、もしくは魂そのもの……双方の本質がまったく同じ純粋なる意識だと正しく理解した時こそ、人間は解脱とか悟りの境地に到達できるとあの遊行僧は宣っていたが……』
――すべての経験を味わい尽くした先にある境地。
『それもまた、解脱や悟りに辿り着くための手なのかも知れねえな』
『師匠は煩悩まみれだから一生無理だな』
『ぬかせ小童。おれぁ仙人だぞ、天仙地仙尸解仙も思いのままよ』
とっくに解脱って悟ってらぁな、と師匠は嘯いた。
正体が灰色の御子だと知った今、このセリフは意味深長である。
顔はどこまでも広がる深山幽谷を見つめたまま真正面を向いていたインチキ仙人だが、横目でツバサを見つめてニヤリと頬を緩ませる。
『厨二病を発症した我が弟子なら、こういう考え方のがウケるか?』
別のアプローチ手段を見付けたのか、「すべての人間は神仏の一部である」という思想について新たな切り口から語り出した。
『全人類の意識は奥の底で繋がってる……って話を知ってるか?』
仏教ならば阿頼耶識――精神医学ならば集合的無意識。
すべての人間の意識は時間や空間を越えて、無意識の奥底でひとつに繋がっているとされている。それは途方もないくらい巨大な意識の総体であろう。
それこそ“神”と呼ぶに相応しいほどの――。
『集合的無意識からすれば我々人類の意識など氷山の一角にもならんほど小さいものだろうが、梵天から無数の自我が生まれたように、阿頼耶識から個々人の意識が枝分かれしたと考えれば……これもまた宇宙の原理なんだろうよ』
『宇宙の原理……それを識るために人間は生まれた?』
人類だけとは限らねえ、とインチキ仙人は待ったを掛ける。
『この世界はいくつもの次元が薄ーいミルフィーユ生地みたいに何層にも重なった多重次元ってやつだ。未だ見ぬ宇宙の彼方の異星人や、別の次元の異世界人、それこそクトゥルフの邪神みたいな奴らの意識さえも……』
『……集合的無意識で繋がってるのか!?』
言われるほど厨二病ではないツバサでも、この壮大なスケールの考え方には少年ハートをおもいっきり焚きつけられてしまった。
思わず「フハッ!」と変な鼻息で興奮してしまう。
弟子の食いつきに満足したのか、師匠は楽しげに喉を鳴らす。
そして虚空の果てを窺うように青い空を見上げた。
『無数にある次元に生きとし生けるすべての知性あるもの、その意識の奥底……いやさ深淵に眠る“神”がいたとしたら……』
そいつは一体全体――どんな神様なんだろうな。
~~~~~~~~~~~~
「そうだ――君の深淵にもアザトースはいる」
亜座の声を聞いたツバサの意識は、追憶の回廊から帰ってきた。
今まで深山幽谷の崖にいたはずだ。名残惜しい感覚がつきまとう。
隣には師匠もいた。久し振りに語らい合った気分だ。
錯覚ではない。ツバサも少年の頃に立ち返っていたという実感があった。
これも外なる神が降臨した影響か? 過去を思い出していたというより、記憶をとてつもなくリアルに追体験していたような感覚に見舞われる。
おかげで意識を取り戻した後、酷い齟齬がやってきた。
肉体と精神に極端なズレを覚えるのだ。
さっきまで身も心も少年期の羽鳥翼だったのに、我に返ってみれば爆乳巨尻の地母神ツバサ・ハトホルに戻っているのだ。精神的にも男の子に戻っていたツバサは重すぎる乳房やお尻に初々しいドキドキを思い出していた。
初めての女体化! みたいな新鮮体験だ。
……遊んでる場合じゃない! 目の前には外なる神々がいるのだ!
超爆乳をバウンドさせながら亜座と向き直る。
対面する席に――亜座の姿はない。
綺麗に平らげて空になったお菓子皿。紅茶が注がれたティーカップも余韻のような湯気が立ち上るが、こちらも中身は空だった。
お嬢様の亜座がいなければ、付き添いの執事である寄球もいなかった。
空間の揺らぎも収まり、魂を砕きそうな威圧感も消えている。
我が家のダイニングは在り来たりな夜の静けさを取り戻していた。
だが、外なる神の気配は完全に失せていない。
残り香のようなものが一帯の空気を煮凝らせており、ツバサに緊張感を緩めることを許してくれなかった。乳房の谷間は冷や汗でじっとり濡れている。
「馳走になった――久方振りに楽しめたぞ」
声はすれども姿は見えず、されど亜座の声は確かに耳へ届いた。
仄かに別次元の空気も漂ってくる。
姿なき言伝はまだ少し残っているようだ。
「祭司長と戦うのはいずれとして、近く黒山羊の姫と見えるそうだな? あの娘は定命の者と戯れることを好む……精々楽しませてやってくれ」
また会おうツバサ君、と亜座の声は別れを告げる。
「そして忘れるな――アザトースはいつも君の深淵にいることを」
この言葉を最後に外なる神の気配は消えた。
完全に立ち去ったと確信できるまでに一分、どこかに潜んでいるんじゃないかと警戒すること二分、それでも安心できなくて微動だにできず三分。
「…………ぶはぁぁぁッ!」
五分後――ようやくツバサは大きく息をついた。
超爆乳が潰れようがクーパー靱帯がおかしくなろうが構うものかと、テーブルに突っ伏して全身を弛緩させるように脱力する。両手を突いたまま倒れ込み、深呼吸をこれでもかと繰り返して気持ちを落ち着かせていく。
神族になって以来、ここまで疲弊したのは初体験かも知れない。
破壊神ロンドとの最終決戦よりも疲れた気がする。
「あ、あれが……外なる神の王か……ッ!」
戦争にならなくて良かったぁ! と涙声で安堵してしまう。
情けなくて恥ずかしくてみっともないことこの上ないが、あれには絶対に勝てないと本能が訴えてくる。いいや、無意識の奥底が囁きかけてくるのだ。
――集合的無意識を敵に回すことはできない。
敵とか味方とかの範疇に収まる代物ではなかった。
自分の無意識、その深淵に牙を剥くなど不可能なのだから……。
息が整ってきたツバサは虚ろなまま呟く。
「アザトースは、窮極の混沌は……その本体と知性は……名を変え品を変え、様々な神話や宗教の中で……理解しようと試みられてきたんだ……」
たかだか四千年の人類史ばかりではない。
恐らくは祭司長ことクトゥルフたちも、多重次元のどこかで生きる異星人や異世界人も、窮極の混沌にまつわる真実を識ろうと躍起だったに違いない。
アザトースは宇宙の原理――その知性は集合的無意識。
この真実すらも、上澄みのように薄っぺらいものなのかも知れない。
アザトースの深奥には、もっと恐ろしい真実が隠されている可能性だって捨てきれないのだ。なにせ全貌を把握した者は誰一人としていないのだから。
アザトースそのものでもない限りは――。
「……おっぱい痛い」
どれほどダイニングテーブルに突っ伏していたのか、ハトホルミルクで張り詰める乳腺を蓄えた乳房が圧迫されて痛みを覚えてしまった。
ようやく上半身を起こすと、大量の冷や汗が滴る。
バケツで水を被ってもここまでびしょ濡れにはなるまい。汗腺はあっても汗を流すことは神族の肉体だとあまりない。それほどの窮地に陥りながらも、ひたすら恐怖に耐えたという肉体からの警告なのだろう。
胃とかもキリキリ痛む気がするし、心臓の鼓動もドンドットット♪ ドンドットット♪ とドラムみたいな聞いたことのないリズムを奏でている。
神族なのに不整脈か? と不安になりそうだった。
頭から汗を拭いながらツバサは振り向く。
「クロコ、今回ばかりはご苦労だっ……クロコォォォーーーッ!?」
メイド長は後ろで卒倒していた。
待機姿勢を崩さず横倒しになっており、口からはカニ顔負けの泡を吹いて白目を剥いている。メイド服の腰回りが不自然に濡れていた。
恐怖が限界を超えて失禁までしたらしい。これは不可抗力だ。
今夜だけは大目に見てやってほしい。
外なる神々の絶対的な威圧感に屈して逃げるか我を失うかしてもおかしくなかったのに、彼女たちのためにお茶を用意して接待し、あまつさえ仕事を終えたら逃げていいものを主人に最後まで付き添ったのだ。
御先神としての自尊心を貫いた彼女を褒めてやりたい。
「今夜はもう……ゆっくりお休み……」
ツバサは珍しく優しい声を投げ掛けると、まだ震えが抜けない足でどうにか立ち上がり、クロコの前にしゃがみ込んだ。
口元の泡を拭って白目をつぶらせ、リビングに運んでやる。
ソファの一角に横たわらせると、近くで寝ていたミロの元へあたふたと駆け寄っていく。クロコには悪いが、ツバサにとって彼女の安否が最優先事項だ。
いや、そんなことクロコなら百も承知か。
「くぅ~……すぴぃ~……かぁ~……すぺぺ~……」
アホの子らしい締まりない寝息。
鼻提灯を膨らませて眠りこけるミロを確認して、ツバサは肺の空気をありったけ吐き出すような息を吐いた。これでようやく安心できる。
最愛の娘をおもいっきり抱き締め、今度はソファに突っ伏した。
熟睡していたのが幸いしたのだろう。
外なる神々の気配に当てられることもなく下手に騒ぐこともなかったため、あの別次元を覗くような異質な空気を感じずに済んだのだ。
寝た子を起こさないようにミロを愛でていた直後のこと。
「――ツバサ君、無事か!?」
「――ツバサちゃん平気! まさか死んでねぇよな!?」
リビングルームのドアを蹴破る勢いで、横綱ドンカイと剣豪セイメイが飛び込んできた。どちらも戦闘用装束に着替えて準備万端である。
尋常ならざる緊迫感からか、どちらも水を被ったように汗まみれだ。
亜座と寄群の出現――彼らも外なる神の降臨を察知していた。
押っ取り刀で駆けつけたはいいものの、ツバサが亜座たちと対話を始めてしまったため、殴り込むわけにも行かず廊下でスタンバっててくれたのだ。
いざとなれば決死の覚悟で外なる神へ挑んだに違いない。
ツバサは倦み疲れた瞳だが感謝の念を讃えると、命懸けで馳せ参じてくれた二人の心意気に涙ぐむ。今はぎこちない会釈をするのがやっとだった。
「俺なら大丈夫……ひとまず、彼女たちにはお帰りいただきました」
外なる神々には――その一言を続けられない。
ミロを抱いたままソファに身を預けて寝落ちしてしまいたいが、オカン系男子ゆえの責任感から、疲れ果てた五体に鞭打って確認していく。
「……ダインやフミカは?」
ドンカイは強張った面持ちで答えてくれた。
「長男夫婦には子供たちを連れて飛行母艦に籠もってもらったわい。もしもの時には全力で逃げるように伝えておる。無論、スプリガン族のみんなと連携して一人でも多くの国民を連れて逃げるようにじゃ」
「……国民の避難は?」
セイメイはらしくない真剣な眼差しである。
「こっちが声かけるまでもなく、イヨちゃんが万里眼で気付いてくれたみたいでな。オリベの爺さんと三将を叩き起こして、スプリガン族にも連絡して、大騒ぎにならない程度に国民への避難を呼び掛けてくれてたぜ」
そうか……と短く答えてツバサは肩を落とした。
ツバサがあれこれ指示をせずとも、長男夫婦もドンカイもセイメイも、それぞれ独自の判断で動いてくれた。そのことが頼もしくも嬉しかった。
なのに――外なる神々にはあまりに無力。
避難が完了する寸前、ハトホル太母国ごと中央大陸を……それどころか勢い余って真なる世界をまとめて消し去ることも朝飯前だろう。外なる神はそれくらい力を持て余していた。手加減を間違えただけで次元ごと滅ぼされかねない。
こちらの努力を嘲笑ひとつで帳消しにする絶対的脅威。
我知らずツバサは拳を握り締めていた。
「お茶会で帰ってくれなかったらどうなっていたことか……ッ!」
どうしようもない力の差を理解しつつ、勝ち目のない上位存在に心を折られかけながらも、燃え上がる激情は狼煙を立ち上らせようとする。
――反撃の狼煙だ。
外なる神への対抗手段、それを模索することが止められなかった。
「彼らに太刀打ちする術なんてあるのか!? だが、見つけ出さなきゃ……ッ!」
「――蕃神の先触れが来てたんやな」
いつの間にか傍らにノラシンハが立っていた。
老いた聖賢師の表情には深刻さが露わになっている。この非常事態に何もできなかった無力さを詫びるように、深い皺の刻まれた顔が項垂れていく。
「すまん兄ちゃん……おれ、なんの力にもなれへんで……」
ノラシンハはその場に膝を折って謝った。
床に手を付きそうな老翁をツバサは手で制する。
「謝ることはないよ爺さん……俺だって話し相手を務めただけ、たったそれだけでこんなへばってるんだから……とんでもないな、外なる神ってのは」
功労賞はクロコかな、と力なく冗談を口にする。
「それより……蕃神の先触れってのは?」
謂われがあるような呼び方が気になったので尋ねてみる。
ノラシンハはポツリポツリと語ってくれた。
「おれも風の噂でしか聞いたことないんやが……昔っから蕃神との大きな戦が起きる前、その戦で重要な役割を果たした英雄んところに現れるそうや」
まるで前兆のように現れるという。
明らかに蕃神側の存在だが――有する力は桁違いの段違い。
神族や魔族に多種族、あるいは人間のような姿で現れるのだが、それは仮の姿なのは一目瞭然。出現しただけで次元も空間も歪む。
英雄と小一時間ほど会話すると跡形もなく消えるという。
「話した内容は英雄によって違うそうやが、よっぽど不吉なことでも言われるんか話したがらない奴も多いとか……兄ちゃんはどうなんや?」
ノラシンハは心配そうに尋ねてきた。
ツバサはたっぷり逡巡した後、諦観を帯びた冷笑を浮かべて答える。
「なぁに、大したことじゃない……ただの励ましだったよ」
頑張れ――そう背中を叩かれただけさ。
メチャクチャ要約させてもらったが、概ね間違っていないはずだ。
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