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ポメラニアンを拾う
しおりを挟む平日、雪隆は最寄駅の改札を出て自宅に向かう道を歩いていた。心地よい疲労感に包まれている。代わりに仕事を請け負ったためいつもよりも遅い電車を降りた。その同僚の子供が熱を出したとあっては断ることはできなかった。
ゆっくりと防寒具越しの息を吐くと白い空気が漏れ出る。マフラーは短く刈り上げた首元に温かい。
雪隆が同僚の仕事を肩代わりするのは何もこれが初めてではない。他人が困っていると自然と声を発してしまうのだ。元々はこの威圧感のある大きな体によって誤解されてしまうのを防ぐために始めたことだった。小学生の時からそうであった。
それは歳の離れた弟が生まれた後に拍車がかかった。「お兄ちゃんらしくいたい」その思いから頼られると断れなくなった。親が雪隆に常日頃そう言い聞かせていたのもあるかもしれない。
傘がなく困っている友達に唯一の傘を手渡したり、宿題を教えたり。些細なことであったが、感謝され頼りにされるのは悪い気分ではなかった。
そしてその「困っている」のがたとえそれが人ではなく犬だとしても、同じであった。
家への近道のために公園を通りぬける。ベンチと滑り台、ブランコだけの簡易的な公園。流石に日没後には人影はなく、ポツンとした灯りが灯されているだけだ。
「今日は水炊きにするか」
ビールを煽りながら鍋をつつく想像をする。独り言もこの寒い空気の中に消えていく。冬特有のしんとした鋭い気候。体が完全に凍える前にすぐに家に帰らなければ。
公園の出口付近の生垣を通りがかると、ガサガサとなった。
「わっ……なんだ?」
「……きゃん!わんっぐるるる……」
不審者かと思い身構えていたら、飛び出してきたのはふわふわと動く小さな毛玉。むしろ自分の声でびっくりさせてしまったと思うくらい小さな子。全身真っ黒で子熊のような見た目をしているそれは、ポメラニアンらしかった。身を低くして唸っている。咄嗟に思い出したのは、近年往来に認知されることが多くなってきているポメガバースのことであった。
ポメガバースとは、ストレスがトリガーとなってポメラニアン化が引き起こされる症状である。最近では花粉症と並んで認知されるようになってきた。
ポメガバースの因子を持つ人物は(現代社会では明確化されていないが日本人の三人に一人らしい)ストレスが限界値を超えると、時間・場所に関わらず犬のポメラニアンになってしまうのだ。犬になった場合、ポメガが満足するまで一緒に遊んだり丁寧にお世話をして──いわゆるちやほやすることで元の人型に戻る。
雪隆はポメラニアン化した人間に遭遇したのははじめてであった。人間が犬──しかも小型犬の代表格であるポメラニアンになることを知った時は驚きが勝った。そんなファンタジーチックなことが起こるのかと。しかし、会社で社員がポメガ化して休暇をとることが増えるにつれ、現実味を帯びてきた。突き詰めれば、雪隆もストレスが限界値に溜まった場合ポメラニアン化する可能性も秘めているということなのだ。他人事では無いかもしれない。
「ぐぅるるる……」
雪隆は怖がらせないように無駄に大柄な体をかがませる。目線をなるべく揃えられるように。スラックスの膝に砂埃がついてしまったが仕方がない。
対してお尻を上げ今にも雪隆にとびかからんとする小さな犬。彼または彼女の前足につけられている足輪を見て予想が正解に変わった。
ポメガバースを発症している国民は、一般的な飼い犬と区別をするために常時腕輪をつけている。それはポメガ達に義務化されている。(首輪は人間に戻った時に万一でも窒息する危険があることと、流石に首輪は支配されているようで倫理的にまずいのではと言うことで却下されている)
腕輪にはQRコードがついており、バーコードリーダーで読み取ればポメガの保護者たちの連絡先が表示されるようになっている。逆にポメガ達の不当な誘拐等を防ぐために、コードが読み取られた時の位置情報も保護者と警察に提示されるようになる。非常に便利な道具であった。
雪隆の今いる公園付近には警察署があるため、警察官がすぐに駆けつけて保護してくれる可能性が高い。
「警察に届ければいいのか……?」
警察、という言葉を聞いた瞬間、より一層吠えられる。何かやましいことでもあるのか、それとも迷子(?)として連れて行かれるのが恥ずかしいのかはわからない。雪隆は直接届けた方が良いのでは手を伸ばすが、やはり拒否の態度を示された。
そうは言ってもぬいぐるみのように可愛らしい犬が吠えているので全然怖くない。後ろ毛の長いポンポンのような尻尾がゆっくりと動いている。威嚇の合図だ。
「きゃんきゃんきゃん……くちゅんっ」
元気に吠えていた黒い毛玉から可愛らしいくしゃみの混じった鳴き声が聞こえてくる。くしゃみも可愛らしい。犬とはいえ流石に雪でも降りそうな気候ではしょうがないだろう。
「うちに来る?」
ポメラニアンの前にかがんで、優しく尋ねる。雪隆の体は自然と動いていた。毛玉くん(仮)もこのままでは凍え死んでしまうと思ったのだろう、唸りながらも一歩こちらに近づいてきた。
「……それは持ってくの大変じゃない?」
わんこはその小さい体でずるずると服と貴重品を引きずっている。ポメラニアンが人間体の時に身につけていたものらしい。持っていこうと声をかけたら前足ではたかれてしまった。まぁ赤の他人に任せるのも不安だろうなとは思う。
「その服だけでもさ、持とうか?」
「わふぅ」
必死に引っ張って休憩して、引っ張って休憩して……公園を出る前に息も絶え絶えな様子に、雪隆は譲歩するよう声をかける。紺色のスーツらしき洋服が砂で汚れてしまっている。これは帰ったら汚れを払っておいた方がよさそうだ。
黒いポメラニアンも諦めがついたのか、ため息らしきものをついた後、ツヤツヤした鼻先でスーツの方を雪隆に押し付けた。
※※※※※
「さて、まずはお風呂かな?」
自宅のマンションへ帰宅した雪隆は手を洗うと、部屋着に着替えた。昨今のマンションは世界のポメガ化の増加に伴い、全室ポメガバース及びペット可の物件が多く見られる。雪隆の住む家も同様にポメガバースやわんこ等の動物が住居可能である。
エアコンをつけ、着替える際に脱いだスーツともう一つのそれをハンガーにかける。洋服は玄関先で丁寧に土汚れを払っておいた。
雪隆より少し狭いくらいの肩幅と丈のそれは男性用のものか。紺のスーツは一般の会社員らしからぬ重々しさがあった。こまめにクリーニングに預けているのだろう、土汚れ以外は糸のほつれ、皺一つ見つからなかった。
彼が引きずってでも持ってこようとしたそれらは大事なものだろう。革の長財布だけは噛み付かんばかりに威嚇されてポメラニアンがずっと咥えていたが。小さな口で持ち中身がぼろぼろとこぼれ落ちてしまわないか心配だったが、それは免れていた。
わんこがそのまま部屋に上がり込もうとしていたのを阻止して前足をホットタオルで拭く。人間で言えば土足で部屋に入るのと同じだからだ。
解放してやると、彼は一目散にベッドに飛び乗った。雪隆の気に入っているクッションの上に前足を乗せ二、三回踏みしめると、そのままお団子のように丸まった。感触が気に入ったらしい。
すっかり我が城のような振る舞いである。コロコロとして可愛らしい。思わず口からこぼれそうになるが、彼又は彼女の名誉のために口をつぐんでおく。
わんこの姿をずっと眺めていたかったが、そのままでは体の中が冷えてしまうだろうと早速湯船の準備をし始めた。
湯を張っている間に鍋の準備だ。今日は水炊きなのであらかじめ食材を切っておこう。湯で体を温めた後に鍋料理で体内も温める。完璧な計画だ。
雪隆が野菜を切っていると一瞬視線を感じてわんこに目を向けたが、そっぽを向いていた。そういえばポメガバースの人の場合、ポメラニアン化した時にネギは食べられるのだろうか。
犬のことについては、弟の手伝いをはじめた際に一通り勉強していたが、ポメガバースについては「こういう症状があるのだな」とニュースで齧った程度の知識しか持っていない。わからないから一応今回は除いておこう。
鶏肉に火が通り野菜を入れようとした時、お風呂が沸いた通知音が鳴った。
「ほら、きれいきれいしようか。その前にこの腕輪は外しておいた方がいいのかな?」
「ぐるるるる……」
リビング兼寝室に居座るポメラニアンの前足に触れようとすると、素早く手を避けられた。タグを外されたくないのだろう。きっとポメガバースの人々にとって安全な保護が受けられる唯一の生命線であるからだ。
そりゃあ出会ったばかりで信用できないだろうし、こんな大きい男に世話されたくはないだろうなと思う。
仕方がないのでタグをはずすことは諦めた。足輪が防水加工であることを祈りつつわんこを脇に抱える。段々と湿り気のある空気の匂いが近づいていく事に微かな唸り声は聞こえるものの素直に抱えられてくれる。
やはり風呂に入らないまま眠ってしまうのは抵抗があるのだろう。ポメガバースはポメラニアン化したら犬の習性に引っ張られてしまうことが多いようだが、どうやら元の人物は綺麗好きのようだ。
ふわふわのお腹の中に自分よりも暖かい体温と細い骨の感触、どくどくと心臓が動く感触。雪隆はそれを腕に感じた。
一旦わんこをおろし雪隆はさっさと衣類を脱ぐ。学生時代にラグビーをしていたため、全体的に満遍なく筋肉と脂肪が付いている。もともと肉がつきやすい体質だったのか社会人となって生活が変わった今も体型は変わらない。胸筋と脂肪のついた胸を震わせながらポメラニアンの脇を抱え後ろ足を保護するように掬い上げる。行儀が悪いが足で開ける。
「まずは君から洗おうね」
「きゃん」
律儀に返事をしてくれる。黒いポメラニアンは風呂に入ってから急に素直になった。
体を洗うためのタオルをお湯で濡らしてボディーソープを絡ませる。ふと思ったのだが犬の体に人間のボディーソープは良いのだろうか。肌がかぶれてしまわないだろうか。いつも弟の仕事先で使っているのはわんこ専用シャンプーだ。こんな事なら弟に色々聞いておけばよかった。将来ペットを飼うのにも役立つだろうし。
一瞬迷ってタオルを脇に置きお湯だけの洗浄に決めると、シャワーコックを捻る。黒い毛玉は喉奥から柄の悪い声を出しながらも目を瞑って素直にいうことを聞いてくれる。それに可愛らしさと若干の優越感が湧いてしまう。可愛い可愛いと撫で回したくなるのを気合いで押さえ込んで雪隆は毛玉を洗い始めた。見た目は可愛いわんこでも、中身は成人した人間かもしれないのだ。
ただお湯で体を流すだけでなく、毛の間に詰まった汚れも流そうとゆっくりと背中に手を伸ばす。最初は優しく櫛で梳くように。段々と指の腹で掻くようにガシガシと汚れを落としていく。
「きちんと洗えているかな?」
返事はないがとろんと溶けた目で心地よいことがわかる。言葉はないけれど態度は雄弁だ。
途中、わんこの股を開かせて立派なものが露出した際には謝り倒した。お湯をかけた時以上の大きい唸り声が風呂場に響いた。同性とはいえ、他人のプライベートなゾーンを見てしまって気まずい。
黒い毛玉の洗浄が終わると今度は雪隆自身の体を洗おうとタオルを泡立てる。そうしていると視線を感じた。ぶるぶると全身を震わせ水気を飛ばし終えたポメラニアンの黒くつぶらな瞳。腕を上げ脇から胸へボディタオルを滑らすと丸く黒い頭も動く。
本来なら可愛いはずなのに雪隆の一挙一頭即を逃すまいと見つめる様は異常だった。
「何か変なものでもついてる?」
思わず彼に問いかけてしまったが無視をされ視線も逸らされる。謎の居心地の悪さから解放されほっと息をつく。素早く残りの体と頭を洗い終えると湯船へ向かう。
いつもなら湯船に浸かっていると仕事でのもやもやが思い浮かぶけれど、今は湯船の淵に手をかけて溺れないようにしているポメラニアンを見守るのに必死でそんな暇はない。舌を出し後ろ足は犬かきの要領でお湯を蹴っている彼の姿。雪隆はその可愛い姿を逃すまいと脳裏に焼きつけた。もし今スマホを持っていたら連写モードで写真を撮っていただろう。ポメガバースの彼の肖像権もあるのでそれはできないが。
風呂から上がり着替え、ポメラニアンの毛玉を乾かす。その間に準備していた食材達を鍋に入れる。雪隆のお腹は小さく限界を訴えていた。当初の予定通り水炊きだ。
ふつふつと具材が煮込まれて、火を止める。湯気はのんびりと出続けていた。
「待っててね。いま冷ますから……あちっ」
「きゃん」
わんこが口の中を火傷してはいけないと火の通った食材を小皿により分け水で薄める。もう少し細かい方が食べやすいだろうと慌てて刻もうとまな板の上に載せる。鍋から上げたてのそれは案の定指先に熱い。
思わず声を上げた雪隆をわんこは一鳴きしてじっと見つめる。風呂場の一件から視線を合わせようとしなかったのに、だ。
とてとてと寝室からこちらに近づいてきて気遣わしげに見つめている動きに可愛さが募る。
「心配してくれてるのかな?ありがとう」
雪隆は手をひらひらさせてキッチンに向き直る。触れたのは一瞬だし、事実冷やせば大丈夫そうだ。
キッチンダイニングに食卓はあるのだがポメラニアンの彼には食べにくいだろう。リビングの床に彼のご飯を置く。自分はリビングのテーブルに食事の用意をした。
「いただきます」
わんこはくんくんと食べ物に対して鼻をひくつかせると、ゆっくりと口の中へ入れていく。
「美味しい?」
「…………」
雪隆の問いに答えてはくれなかったが無言でがっつくその様にホッと息をついて自身も箸に手を伸ばした。うん、鶏肉が美味しい。
「もう食べた?」
わんこは小皿を空にして口周りを舌でぺろりと舐め回すと、前足の先をお皿に乗せた。吠えて何かを訴えないところを見ると、満足したらしい。とてとてとベッドへと上がる。そうしてクッションの上に陣取り緩く欠伸をした。
雪隆も食事を終え皿と鍋を片付ける。
身綺麗にして腹もくちくなって。残るはポメラニアンを彼のおうちで休ませるだけ。雪隆はうとうとしている彼の足輪をチラリと見た。
「なあ、そろそろ連絡してもいいかな?」
ゆっくりと革製の足輪に手を伸ばす。すると触れられた前足を素早く体に収められた。
こんな周辺も暗くなって、さらに寒い時期に保護者は心配しているだろうし、一人暮らしだとしても終電の時間が過ぎてしまうだろう。
こんなに人間に戻りたがらないなんて、よほど普段のストレスがきついのか。スーツが彼のものだとすると家出少年という線は薄く成人男性か。
いつから公園にいたのかはわからないが、悪意のある第三者に見つからなくて良かったと思う。まぁ、この黒いポメラニアンにとって雪隆自身も得体の知れない存在かもしれないが。
親などに保護される年齢にではないにせよ、連絡がつかなくて家族や友人、会社が捜索届をしている可能性もある。
「いい子、いい子……」
宥める言葉は自然と口をついてでた。引っ込められた前脚を深追いせず、今度は顔元に手をやる。顎をこしょこしょと掻いたあと、ゆっくりと怖がらせないようにふかふかの頭を撫でる。垂れていた耳がふわりと自然な高さになって、尻尾が緩く振られる。やっと近くにいてもリラックスしてくれたみたいで嬉しい。
撫でやすいように優しく脇を抱えて膝に乗せる。あぐらをかいているのと筋肉と脂肪の詰まった太ももでズボンがぱつぱつになった上に、暖かく柔らかいものが乗る。体の中心はとくとくと心臓がはねていた。生き物を抱っこしているのだと克明に自覚する。
「ねえ、うちの子になる?」
言った後に、なぜなのか理由がわからなくなった。ポメガバースの彼は人間だから何を言っているのだろうと冷静な頭の片隅ではわかっていた。
それにしても初対面で人を寄せ付けないようなポメガは珍しいと思う。
犬の動物園や近所の散歩に遭遇した時でもポメラニアンは社交的で好奇心旺盛な子が多かった。ポメラニアン体であれば人としての性格の違いはあれど基本的にポメラニアンの人懐っこさに引っ張られると聞く。よほど人が嫌いな出来事にでもあったのだろうか。黒い毛玉がもつ淡褐色のつぶらな瞳に見つめられる。
「なんて、困っちゃうよな……」
冗談で済まそうと目の前の黒いポメラニアンに向かって苦笑していると、きゃんと一吠される。そうして顔が近づいたと思ったら、一瞬で誰かに顔を覗かれていた。
「困るんだけど」
「えっ……あ、元に戻りました、ね……?」
元ポメラニアンはさっと雪隆の胡座の上から逃れると、首を全方位回したり折り畳まれた足を立ち上がることで伸ばしている。
何がきっかけかは全くもってわからないが、どうやら人間に戻ることができたらしい。なら雪隆の役目は終わりか。
なぜだろう?少しがっかりしてしまうのは。本気で飼いたいと思っていなかったくせに。
ストレッチをしていた彼は、烏の濡れ羽色とでもいうような漆黒の髪色は少しぱさついている。前髪は会社員らしくなく少し長めだ。ただ、髪に隠れていても、淡褐色の瞳の力は強い。じっと見つめられていることが嫌でもわかった。風呂に入っていたから雪隆が使っているシャンプーの匂いがするのに、甘くスパイスっぽい蠱惑的な香りが混ざるのは彼の体臭か。
そして、肝心なことは人に戻った彼が何も身につけていないということであった。全体的に綺麗について引き締まった筋肉。服を着たら細身に見えるだろう適度な感じの。
そんな彼が体をほぐした後は雪隆の太ももに上半身を預け、こちらを一心に見つめているのだ。言葉を失ってしまう。
「……やけど」
「へ?」
男は唐突にそう言って雪隆の指先に口を近づけた。熱い食材に触れた時に入念に冷やしておいたおかげで、今は痛みが無い。雪隆にはそれがまるでわんこが怪我を治すように思えた。
「………あんたさ」
音も整った顔の輪郭が近づいてきた。後少しで鼻の頭同士がぶつかるというその時、無機物的な電子音が聞こえてきた。
「ちっ……」
ポメラニアンだった男は短く舌打ちをすると、電話を手に取った。どうやら彼のスマートフォンだったらしい。
「もしもし……はい」
だるそうに雪隆のもとから離れ、キッチンへと向かっていく。会話を聞かれないようにするためだろう。雪隆は詰めていた息を吐き出した。
※※※※※
「結局なんだったんだ……」
嵐が過ぎ去り、雪隆は呆然と玄関を見つめる。
結局あの電話が終わった後、男はさっさと自分の衣服に着替えると自分の持ち物を持って帰っていった。途中手帳に何かをしたためたのち、破ってリビングテーブルの上に置いた。その動きを雪隆は静止することも、事情を聞くことさえも出来ず眺めているだけだった。
元ポメラニアンは玄関のドアを開け「鍵、かけとけよ」と真っ直ぐに雪隆を見つめ、尋ねる。素早い動きであった。かろうじて雪隆が頷くのを確認すると名残などない様にさっさと出て行った。
本音を言うと、そのままこの家に泊まっていれば良いではないか、と思っていた。ストレスでポメラニアンになってしまうくらいなのだから、忙しなく帰ってしまわなくても良いのではと。
まぁ、ポメラニアンの姿でリラックスしていたように見えたとしても、実際はどうかわからない。ある程度の仕草で犬としての彼の気持ちは察せられても、心の中の本当の気持ちまでは雪隆といえどわからないからだ。人間に戻った今、赤の他人の家よりもすみ慣れた我が家だったり馴染みのある場所の方が精神衛生上良いことはなんとなくわかっている。
雪隆と黒い毛玉のポメラニアンは、今日初めて会った者同士だからだ。
人生生きてきた中であんなに不遜な態度を取られたことははじめてで向かっ腹を立てる暇さえなかった。それに怒れなかったのは、呆気に取られていたと同時にポメラニアンの名も知らぬ彼から寂しさを感じたからであった。
もちろん人型に戻った彼からは、しょげた尻尾や耳は見えないし、はっきりと「寂しい」と口にはしていない。それでも去っていく背中が名残惜しげに見えた。
ぽつんと一人暮らしの部屋に座ったまま。一緒に食事を共にしたテーブルに残されたのは、彼がおいていったメモ。そこには名前と電話番号が書かれていた。
佐々木博明、それが彼の名前らしい。ポメガバースに出会ったのが初めてであった雪隆にとって、目の前で人型に変身されたことも火傷した場所を口吸いされたことも夢のように現実味が湧かなかった。
逃避してベッドに潜る。クッションには黒く細い犬の毛。さっきまでポメラニアンだった彼がいたのだという証だった。
もう二度と会うことは無いだろうと思った。第一、雪隆はこちらの名前すらも知らせていない。身元のわからない(来ている服装で会社員とはわかるだろうが)他人に対して再び関わろうとは思わないだろう。雪隆は、ポメガバースの人間を保護した、それだけだ。
だが、彼との出会いは始まりにすぎなかった。
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