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「暑いですね……」
 
 休暇を取ると言ったのでキアランは警備のしっかりした実家に帰って過ごすのかと思っていた。しかし気がつくとアレックスは雇い主とともに異国の避暑地へと向かっていた。歩けば3~4時間ほどで一周できてしまうこぢんまりとした島国だ。
 この国の言語はアレックス達が住む国と同じ全世界共通語だ。地方では方言を使う民族もいるが観光地であるこの地域は標準語を扱える人が多いので心配する必要はなかった。
 アレックス達の住む国との大きな違いは、坂道が多いことと観光産業を国の経済の柱にしていることだ。特に海に面したこの地域はヨット等マリンスポーツを楽しんだり海の幸が楽しめるとあって人気のスポットである。
 
「ほら! ヨットがあんなに! いい景色ですねー! あんなところに犬が乗っていますよ!」
 
 日除けの帽子を被ったキアランはいつもよりもはしゃいでいる。年に一回は来ていると言っていたが、これではまるで初めてきた子供のような反応だ。いつもは見ない子供のような笑顔が微笑ましい。本当にバカンスを楽しむつもりなのだろう。
 泥棒騒動、印鑑の破損などここのところ職場では地味な嫌がらせを受けているからその鬱憤うっぷんを晴らせばいいと思う。アレックスもキアランが笑顔でいてくれたら嬉しい。

「すんませんー」
「!」
「っ……大丈夫ですか?」
「ええ。それにしても楽しそうですね」

 坂道を登っていたら、板に車輪をつけた乗り物に乗った若者の集団がキアランの体ぎりぎりを通過する。
 この島に来てからしょっちゅう見る光景だ。どうやら流行っているスポーツらしい。坂道の頂上から乗り物に乗ると、最後は海に飛び込んでいる。アレックスは咄嗟に腕を引っ張って体に抱き付かせた。スリムな腰がアレックスの腕にすっぽりとおさまる。些細な接触に少し胸が浮き立つ。
 観光地だからこそこうやって特殊な手段でキアランに近づき、危害を加えたりスリを働こうとする輩もいるかもしれない。気を引き締めねばなるまいと護衛は思った。
 行者がキアランとアレックス二人分の荷物を持って、滞在するホテルへ向かう。この行者は出発の馬車から荷物持ち、帰りの時には足になってくれる。宿泊中の移動は自分たちで手配する。この宿泊する5日間限定で雇い入れた。ちなみにキアランの身の回りの世話はアレックスがすることになっている。まあキアランはほとんど自分のことができるため名目上に過ぎないとは思うが。
 休日は4泊5日で最終日は家でゆっくり過ごすことに決まった。もし帰れなかった時のために予備日を作っておいた。
 案内された宿はペンションのような場所だった。一部屋一部屋独立され、庭がついている。平屋でリビング、寝室、簡易キッチン、ダイニング風呂と洗面台、いずれも十分な広さを保っていた。
 
「これは……広いですね……ここのリビングが俺の家の広さですよ」
 
 掃除が大変そうなどと一種の逃避をして部屋を眺めた。てっきり宿屋のように部屋をふたつ取ったのかと思ったが、家丸ごと宿泊施設と懐が暖かい人は考えることが違う。
 
「レストランもあるし簡易の貯蔵庫もあるので簡単なものは作って食べられますよ。よろしければ以前のサンドイッチをご馳走しますね。あと一つだけ謝りたいことが……」
「食事問題は大丈夫ですね。なんですか?あれ……ベッドは一つなんです?」

 キアランの話を聞きながら寝室の扉を開ける。宿泊客は二人のはずなのになぜだかキングサイズのベッドが部屋の中央に鎮座している。

「ああ……実は予約したのが急だったからこのベッドしか空いてなかったんです。今から言って変えてもらいましょうか?」
「いいですよ。寝るだけですし」
「では、同じベッドで寝ましょうか」

 言葉を濁しながら謝罪するキアランだったが、アレックスは特に気にしていない。野宿も夜勤もすることがあるし丈夫な自分であれば床に寝ても風邪はひかないだろうし、もしベッドを共にするとしても何も起きないだろう。
 あれからキアランのアプローチなどもないし、泥棒を捕まえようとしてしてしまったキスのことはすっかり気にしなくなっていた。きっと相手も夜に文官室に泊まるというあまりない出来事に少しふざけてしまっただけだ。まるで妄想だったんじゃないかとさえ思えてくる。
 荷解きをしてソファに腰掛けたキアランの隣に立っていると、向かいに座るよう声をかけられる。
 
「とりあえず観光地は行きたいですよね。アレックスさんはどこか行きたいところがありますか?」
「いえ特に……部屋にこもってなくていいんですか」
「こんな遠くの国まで私に危害を加える人はいませんよ。もう少しリラックスしても大丈夫です」
 
 のんびりとホテル内施設の地図を眺めている雇い主は冷静なんだか呑気なんだかわからない。先ほどのはしゃぎようからして色々なところに連れ回されることは明らかだ。前途多難の幕開けか。
 水分補給を済まし最初は海へと向かった。海水浴をやるには寒すぎるからか観光客らしき影は控えめだ。水着で海に入る若者やパラソルの下に横になって優雅に昼寝をしている者。バカンスで来ている人が多いからか皆ゆったりとしている。
 潮の香りが鼻をくすぐる。海の水面に太陽光が反射してキラキラと光る。鳥が遠くで鳴いて餌を求めている。ホテルの売店で買ったビーチサンダルを履いて二人は波打ち際を歩いた。サクサクという音と体重をかけた分だけ沈む砂浜が面白い。
 
「細かく透明で色の綺麗な石みたいなものがあるでしょう。それは海に落ちたビンやガラス製品が長い時間をかけてぶつかり合って、丸く角が取れたものなんです」
「へえ……」
 
 人工物でもこんなに綺麗になるものなのか。石同士で丸くなったのか。そう感心していると、キアランがポツリと呟く。
 
「……人間同士もこうやって丸くなれたらいいのに」
 
 文官同士の衝突や企みから砕け、燃え尽きた人々をみてきたのだろう。その言葉に寂しさの響きを感じてアレックスは静かに波の音に耳を傾けた。自分ができることは、ない。隣に佇み続けることくらいだ。
 ゆっくりと周りを歩いていると空が赤く染まり水平線に太陽が沈んでいく。
 散歩をした後は海沿いのビストロで海産物の夕食を取る。キアランがこの店がいいと見つけてくれたのだ。内地生まれのアレックスにとって海産物は干物で食べることが多く塩辛いイメージがあったが、ここの料理は皆新鮮で食感もよく美味しいものばかりだった。
 故郷から出たことがないアレックスにとって全てが新しい経験だった。
 
「明日はどう過ごします?」
「俺、面白いものがありそうなのでバザールに行ってみたいです」
「いいですね」
 
 デザートの胚乳から搾られたミルクに甘く煮た豆と団子を浮かべたスープを啜っていると、酒を飲んで頬を赤くさせたキアランが尋ねてくる。
 
「あなたと素敵な時間が過ごせるなんて夢みたいです」
 
 うっとりと頬杖をつきながらマドラーでカクテルグラスを回している。その口説くような言い方に酔っているんだなと思う。目元と耳が赤く瞳は泣いた後のように潤んでいる。昼間の美しさとは違う、色気が潜んでいた。アレックスは思わず喉を鳴らしてしまう。そうして何で自分は興奮しているんだと気がついた。そもそも抱きたいとか抱かれたいとか久しぶりの感情すぎて麻痺していると思っていたのに。自分も酔っている?それはあり得ない。警護のために一滴も飲んでいないからだ。つまり素面でキアランに魅力を感じているということ。
 
「なんだよ副文官さんよ……口説くんなら自分好みの女の子にしてくださいよ」

 つい軽口で応酬する。まさか目の前の男より雄々しい自分を口説くはずがないと思いながら。

「真剣ですよ、これでも。それに私はバイなので男性と女性どちらも恋愛対象です……怖いですか?」
「はあ!? なんで俺が副文官様のこと怖がらなきゃならないんですか?」
「襲ったりとか……」
「そんなことされる前に返り討ちにしてやりますよ。それに……あんたなら人が嫌がることはしないってわかってるし……」
「アレックスさん……」
 
 キアランは言葉を止めてこちらをじっと見つめている。照れくさくなって何を言ったらいいかわからなくなったアレックスは、残りのデザートを無言でかきこんだ。
 帰宅後、夕食を終えている二人は自室のバスルームを使う。宿泊施設には大浴場があったのだが、常に行動を共にしなければならないし、風呂場で丸腰だといざという時フィンレーを守ることができない。そのため旅行中はずっと自室のバスルームを使うだろうと説明したらがっかりしていた。そんなに広い風呂のある大浴場が楽しみだったのだろうか。
 アレックスは警備のためにシャワー室入り口で待っていた。警戒は怠らないが、自然と今日見聞きしたものを思い出していく。どの方向を向いても初めての景色で、海という場所の音も香りも景色も想像以上のものだった。こんな機会がなければ一生見ることはなかっただろう。キアランに感謝である。
 
「アレックスさんお待たせしました。さあどうぞ」
 
 風呂上がりのキアランは壮絶な色気があった。先ほどのレストランで酔っていた時以上に。色素が薄く桃色に染まった肌といい、濡れた髪から垂れた雫が細い首筋に垂れ、いかがわしい雰囲気を醸し出す。そんな体の状態で、優しく微笑まれるのだ。
 
「……っちゃんと乾かしてくださいよ」
 
 なぜだか心臓がうるさい。赤くなった頬を隠すようにキアランと交代してアレックスが浴室に向かった。
 警護の隙を作らないためにはスピードが大事だ。早風呂は士官学校でも嫌と言うほど慣れさせられた。アレックスは手早く石鹸を泡立て頭から爪先まで全身を包み込む。貴族御用達の宿泊施設だからか髪を洗ってもキシキシと髪の毛が引っかかることはなかった。
 
「ってぇ……!」
 
 闇雲に泡だてすぎて目に泡が入る。慌ててシャワーを使おうとレバーを捻る。目を瞑ったままだったので冷水を出してしまった。
 
「冷たぁっ!」
 
 慌てた衝撃で中途半端に濡れた体はぬめりを帯びて滑りやすくなる。結果綺麗に磨き上げたタイルの上に転んでしまった。バスルームに体を打ちつける音と、暴れた腕がバス用品をタイルに打ち付けるやかましい音が響き渡る。
 
「大丈夫ですか!」
 
 慌ててこちらに来るキアランの足音。バスルームを開けられ、こちらに近づいてこようとしたのを止めようと動くと、残った泡がまたも悪戯をする。今度はキアランが床に足を取られこちらに頭から突っ込んできたのだ。
 
「はぶっ!」
「おおっと……フィンレーさん大丈夫ですかね?」
 
 アレックスは咄嗟に体の前の方──大胸筋で受け止める。マシュマロみたいな胸にキアランが顔をうずめる形になった。動きが一瞬止まっていたかと思うと、勢いよく体を離した。一応洗ってはいるのだがそんなに臭いのだろうか。
 
「ぷはっ……っごめんなさい!」
「ああ……頭は打ってませんし、怪我もしてませんよ……いてて……ただケツは打ったみたいであざとか出来てません?」
 
 意表返しに尻をキアランに向けて見せたら、なぜだか顔を茹蛸のように赤くさせて顔を背けられた。気のせいか鼻血らしきものも出ている。胸に顔を強打した感じではないとは思うのだが。もしかしてのぼせてしまったのだろうか。
 むさい男の尻なんて見ても嬉しくはないだろう。すぐにそばにあったタオルを腰に巻いて隠した。
 
「ざんね……ゴホンッ……怪我はないようなので安心しました」
「騒がしくてすみませんでした」
「いえ、役得ということで……」
「?」
 
 言っている意味はわからないが体の調子が悪いわけではないらしい。泡を流し終え体を拭くと素早く着替えた。そうして一台のベッドのみが置いてある寝室へと向かった。
 
「ささ、アレックスさん一緒に休みましょう」
 
 フィンレーがベッドをぽふぽふとたたいて寝るように促してくる。真っ白なシーツに薄紅色のチュール生地のベッドスカート。花びらが散らされることはなかったが、ベッドの両端のライトは薄ぼんやりと妖しく光り、まるで恋人たちのための場所みたいだ。
 
「……失礼しますよ」
 
 ベッド内に入ったら思ったよりもマットレスの感触は柔らかで疲れが一瞬で溶けていってしまいそうだ。自分が普段眠っている板みたいな硬さのベッドとは雲泥の差だった。こんな素晴らしい場所の宿泊費をあっさりと雇い主が賄うというのだから貴族の経済観念が想像できない。
 いざという時のため警棒をベッドサイドに置いておく。ベッドは二人が横になっても余裕で転がれるくらいだった。
 
「もっと近づけますか?この国、夜は結構冷えるんです。アレックスさんが風邪を引いてしまったら悲しいですし。もちろん私の方も困ります」
「わかりました」
 
 その言葉の意味が、アレックスとくっついていたいと思う下心からか、単純な親切からかどちらなのだろう。アレックスは後者だと思った。キスは事故、思わせぶりな態度も誰にだってしていそうだ。バイだとは言っていたが、まさか自分みたいなゴツくてむさい男は相手にしないだろうと思う。この人に似合うのは華奢で可憐な王の妾と呼ばれる者たちだろう。キアランが優しく細く柔い体を抱きしめて愛を囁く。それを想像したらなぜだか胸の中心が痛い。
 何かしらアクションを起こされたらどうするだろう。今度は拒否できるだろうか。結局そんなのは杞憂だとばかりにキアランのそばに近づくいて様子を見ると、満足そうに鼻を鳴らして目を瞑っていた。
 月明かりが美しい文官を照らす。まつ毛が影になって頬に落ちる。今はモノクルをかけていないからか、すんなりとした鼻梁はよりはっきりと見える。癖一つない薄緑色の髪下ろされていて頬に優しくかかる。まるで月からの使いがこの世に落ちてきたみたいだった。
 アレックスはその光景から目を離せずにいた。そして気がついてしまった。アレックスはこの人が、好きだ。目の前で無防備な表情で眠ってくれるこの美しい人に恋をしている。ささやかな口説かれる言葉も意識してしまうほどに、キス一つで相手の気持ちを聞きたくなってしまうほどに。
 ちくしょう、の口内で喚く。こんな身分違いの人に恋をしてしまったなんて絶望もいいところだ。結ばれる可能性なんでないに等しい。
 それでも今この光景を目に焼き付けようと雲が月を隠すまで見つめていた。
 

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