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天使は甘いキスが好き
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一方その頃太一はふと昔の思い出に捕らわれていた。あれはまだ恵が小学生の頃だ。
太一はふと微笑んでいた。確か友人の平方という少年と喧嘩をして帰ってきた時だ。
ーーーどうしてその会話になったのかは朧気だな。
太一は断片的に思い出していた。
『解る。この間、平片と喧嘩して先生に怒られた』
『そうか。嫌な思いしたか?』
恵は頷いた。
『胸が苦しかった。云わなくても良い事だったって、後で気付いて謝った』
『その子もきっと嫌な思いしただろうね。そうしてひとつひとつ学ぶんだ。焦らなくて良いから。時間はいっぱいあるんだから』
太一は肩車から恵を地面に降ろした。恵はこくりとまた頷く。素直に良い子に育ってくれと願いながら、太一もよくかおるのお腹を撫でたものだ。親子は似るものなのか。それとも他の家庭でも同じなのか。
『クリスマスは何が欲しいんだ?』
『ん? お母さんに赤ちゃん出来たし、もういらない』
他はいらないと、恵は頬を染める。吐く息は白い。太一は前から欲しがっていた、ヒーロー物のプラモデルを、こっそり買って置いてやろうと思った。太一は恵の柔らかな髪を撫でた。恵はキョトンとした眼で太一を見上げる。
『お母さんのお腹の赤ちゃんに、もう名前は決めたのか?』
恵との約束で、来年の誕生日プレゼントはいらないから、名前を考えさせてと強請られた。
『うん』
恵は嬉しそうに微笑んだ。
『なんて名前にしたんだ?』
家までの残りの距離を、手を繋いで歩く。
『伊吹』
太一は脚を止めた。
『…伊吹?』
その名は、昔太一が二歳の時に事故死した、双子の妹の名前だった。仏間に置かれた小さな女の子の写真でしか、太一は知らない。
十和子が懐かしそうによく太一に話していたのだ。家族で海に出掛けて、眼を離した隙の出来事。よく笑う人懐こい女の子。今は太一の兄弟は兄の勝のみだ。
『お爺ちゃんがね、叔母ちゃんのお話しをしてくれたの』
『え?』
あまり仲の良い親子ではなかった。喧嘩をした記憶しかない。厳し過ぎる父親に、いつの頃からか反発して来た。その父親は、恵が小学校に上がる前、癌で他界している。
『お爺ちゃん、太一には寂しい思いばかりさせて来たから、恵には沢山兄弟が出来ると良いなって、云ってたよ?』
太一は眼を見開いて、恵を見詰める。そんな言葉が聴けるとは思わなかった。子供に愛情が無い男なのだと、思っていたがどうやら、思い違いだったらしい。後で仏壇に手を合わせようかと、太一は思った。十二月の冬は日が暮れるのが早い。
『あ、お母さんだ!』
かおるが喫茶店経営を兼ねた自宅の前で手を振っている。恵は太一の大きな掌から抜け出して、かおるへと駆け出して行った。その小さな温もりが消えた事に、少々の寂しさを感じながら、太一も歩き出した。
「部長?」
ふと太一は我に返って秘書課の倉木を振り返る。エレベーター内は二人きりだ。夜の帳にガラスに映る二人の姿を、太一はぼんやりと眺めた。
「どうかなさいましたか?」
「いや…少し疲れただけだ」
この倉木と不倫関係になって半年。何度肌を重ねたのかもう、覚えてはいない。
「何でもない」
眼を逸らして太一は腕時計を見る。
ーーーなんだ、もうこんな時間か。
「でしたら、この後マンションに…」
倉木の手が太一の手を握り締める。太一は苦笑してさりげなくその手を離した。
「すまない。仕事が残っているんだ。それに…息子に知られてしまって」
驚くだろうか、と太一は倉木を一瞥する。倉木は驚いた様子も無く、肩に掛かった髪を払った。
「奥様には?」
「妻にはまだ。妊娠中だ。君も知っているだろう?」
倉木はガラスに映る二人分の姿を眺めた。二人を鏡の様に移すエレベーターのガラス。
倉木はどこかかおるに似た面差しをしているが、性格は反対だ。印象もかおるが『静』なら倉木は『動』と云える位に。ふとまた太一は昨夜の恵の顔を思い出した。かおるに良く似た顔。ズキリと胸に穴が開いた感じだ。驚愕に泣き出しそうな表情に、あぁ、自分は罪深い事をしたのだと、今更ながらに気付かされた。あんなにも自分に懐いていた、優しい瞳が、愚かな男を映した。麻痺していたのだ。
自分は完璧だと、妻を愛していると思いその反面、逃げていた。現実から。社会からのストレスから。
空はどんよりとした雨雲が良し寄せていた。
太一はふと微笑んでいた。確か友人の平方という少年と喧嘩をして帰ってきた時だ。
ーーーどうしてその会話になったのかは朧気だな。
太一は断片的に思い出していた。
『解る。この間、平片と喧嘩して先生に怒られた』
『そうか。嫌な思いしたか?』
恵は頷いた。
『胸が苦しかった。云わなくても良い事だったって、後で気付いて謝った』
『その子もきっと嫌な思いしただろうね。そうしてひとつひとつ学ぶんだ。焦らなくて良いから。時間はいっぱいあるんだから』
太一は肩車から恵を地面に降ろした。恵はこくりとまた頷く。素直に良い子に育ってくれと願いながら、太一もよくかおるのお腹を撫でたものだ。親子は似るものなのか。それとも他の家庭でも同じなのか。
『クリスマスは何が欲しいんだ?』
『ん? お母さんに赤ちゃん出来たし、もういらない』
他はいらないと、恵は頬を染める。吐く息は白い。太一は前から欲しがっていた、ヒーロー物のプラモデルを、こっそり買って置いてやろうと思った。太一は恵の柔らかな髪を撫でた。恵はキョトンとした眼で太一を見上げる。
『お母さんのお腹の赤ちゃんに、もう名前は決めたのか?』
恵との約束で、来年の誕生日プレゼントはいらないから、名前を考えさせてと強請られた。
『うん』
恵は嬉しそうに微笑んだ。
『なんて名前にしたんだ?』
家までの残りの距離を、手を繋いで歩く。
『伊吹』
太一は脚を止めた。
『…伊吹?』
その名は、昔太一が二歳の時に事故死した、双子の妹の名前だった。仏間に置かれた小さな女の子の写真でしか、太一は知らない。
十和子が懐かしそうによく太一に話していたのだ。家族で海に出掛けて、眼を離した隙の出来事。よく笑う人懐こい女の子。今は太一の兄弟は兄の勝のみだ。
『お爺ちゃんがね、叔母ちゃんのお話しをしてくれたの』
『え?』
あまり仲の良い親子ではなかった。喧嘩をした記憶しかない。厳し過ぎる父親に、いつの頃からか反発して来た。その父親は、恵が小学校に上がる前、癌で他界している。
『お爺ちゃん、太一には寂しい思いばかりさせて来たから、恵には沢山兄弟が出来ると良いなって、云ってたよ?』
太一は眼を見開いて、恵を見詰める。そんな言葉が聴けるとは思わなかった。子供に愛情が無い男なのだと、思っていたがどうやら、思い違いだったらしい。後で仏壇に手を合わせようかと、太一は思った。十二月の冬は日が暮れるのが早い。
『あ、お母さんだ!』
かおるが喫茶店経営を兼ねた自宅の前で手を振っている。恵は太一の大きな掌から抜け出して、かおるへと駆け出して行った。その小さな温もりが消えた事に、少々の寂しさを感じながら、太一も歩き出した。
「部長?」
ふと太一は我に返って秘書課の倉木を振り返る。エレベーター内は二人きりだ。夜の帳にガラスに映る二人の姿を、太一はぼんやりと眺めた。
「どうかなさいましたか?」
「いや…少し疲れただけだ」
この倉木と不倫関係になって半年。何度肌を重ねたのかもう、覚えてはいない。
「何でもない」
眼を逸らして太一は腕時計を見る。
ーーーなんだ、もうこんな時間か。
「でしたら、この後マンションに…」
倉木の手が太一の手を握り締める。太一は苦笑してさりげなくその手を離した。
「すまない。仕事が残っているんだ。それに…息子に知られてしまって」
驚くだろうか、と太一は倉木を一瞥する。倉木は驚いた様子も無く、肩に掛かった髪を払った。
「奥様には?」
「妻にはまだ。妊娠中だ。君も知っているだろう?」
倉木はガラスに映る二人分の姿を眺めた。二人を鏡の様に移すエレベーターのガラス。
倉木はどこかかおるに似た面差しをしているが、性格は反対だ。印象もかおるが『静』なら倉木は『動』と云える位に。ふとまた太一は昨夜の恵の顔を思い出した。かおるに良く似た顔。ズキリと胸に穴が開いた感じだ。驚愕に泣き出しそうな表情に、あぁ、自分は罪深い事をしたのだと、今更ながらに気付かされた。あんなにも自分に懐いていた、優しい瞳が、愚かな男を映した。麻痺していたのだ。
自分は完璧だと、妻を愛していると思いその反面、逃げていた。現実から。社会からのストレスから。
空はどんよりとした雨雲が良し寄せていた。
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