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第5章 ラギウスの秘密

5-2・ヤダ、アタシ浮気しそう

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 先程の一戦などまるでなかったように、船上はのんびりとした空気に包まれていた。色褪せたぼろぼろの天幕の下、慣れた手つきでイーゴンがお茶の用意をし、それをメルヴィオラが手伝っている。神殿ではお茶を淹れてもらう立場の彼女が、楽しそうにイーゴンのあとについていく姿を見ていると、パトリックの胸に言葉にしがたい思いが溢れ出した。

 イスラ・レウスでもメルヴィオラは度々神殿を抜け出しており、その都度パトリックが連れ戻していた。水上都市であるから探す範囲は限られるものの、それでもメルヴィオラは市場か海を見渡せる崖の上のどちらかに必ずいるのだ。聖女という特別な存在であることを自覚して、パトリックが必ず見つけられる場所にしか行かない。
 イスラ・レウスから出ることはないと頭では理解していても、海を見つめる赤い瞳が時折泣き腫らしたように見えるものだから、パトリックは何度も声をかけるのを躊躇ったほどだ。

 その赤い瞳が、いま見たこともないくらいにキラキラと輝いている。弾ける波飛沫のように眩しく、水を得た魚のように生き生きと笑うメルヴィオラを見ていると、パトリックは自分の使命にわずかな陰りが差したことを感じてしまった。

「はい、これはパトリックの分よ」

 気付けば目の前に木の器が差し出されていた。

「メルヴィオラ様。何もこのようなことまでなさらずとも……」
「私がやりたいからやってるの。ほら、こっちに座って。親交を深めるには一緒にお茶を飲むといいってイーゴンが」

 やんわりと引かれた手を振りほどくこともできず、誘われるがままにぼろぼろの天幕の下に腰を下ろす。隣にはメルヴィオラ……と、その膝の上にはメーファが座っている。パトリックと目が合うと、意味深な笑みを向けてきた。
 自室へ戻ったらしいセラスと、ラギウスも姿が見えないので船長室に篭もっているのだろう。暢気に茶会で顔を合わせるほど、パトリックはまだ心の整理ができていないので、少しだけ気持ちは楽になった。

「この天幕もね、イーゴンが日焼けしないようにって張ってくれたのよ」

 海賊船の一角に天幕が張ってあることに違和感を覚えていたが、理由を聞けばメルヴィオラを気遣うもののようで、パトリックはほんの少しだけホッとした。彼女が言うように、海賊船でひどい扱いを受けていたわけではないらしい。

「感謝する」
「あらン、いいのよぉ。女の子に船旅は過酷だもの」
「しかし我々の船の方が快適にお連れできたものを……」
「そう言う野暮は言わないの! アナタも納得してここにいるんだから、二度とない海賊生活を楽しむくらいの遊び心はあっていいと思うわン」
「残念だが、私は職務でここにいるだけだ」
「お堅いオトコね。でもそこがいいわぁ。ヤダ、アタシ浮気しそう」

 どうしよう、と真剣に悩んでいる風のイーゴンに、メルヴィオラが暢気に笑っている。彼女にはイーゴンの目に垣間見える本気の熱が見えていないのだろう。ぞわりと背筋を這う悪寒に、パトリックは思わず剣を掴みそうになってしまった。

「今ならラギウスも見ていないし、浮気にはならないんじゃない?」
「いや、メーファ殿。そう言う問題では……」

 神秘の根源である精霊に対して一応敬称はつけているものの、パトリックの表情は険しいままだ。明らかにこのやりとりを楽しんでいることがわかってしまい、嫌でも眉間に皺が寄る。何なら軽く睨みも利かせていると、視界の端でイーゴンがパトリックの方へぬぅっと腕を伸ばしてくるのが見えた。

「アナタの制服もびしょびしょでしょ。アタシが洗ってあげるわぁ!」
「いや、私は結構……っ、待て待て! 脱がすな!」

 問答無用で上着を剥ぎ取られ、下に来ているシャツまで引き千切られそうな勢いに、パトリックが仰け反って抵抗する。そうこうしているうちにズボンのベルトにまで手がかかったことを察し、さすがのパトリックも隣にメルヴィオラがいることを忘れて炎を喚び出してしまった。
 とはいえそれは指輪を嵌めた右手にのみ淡く纏わり付く牽制の炎で、パトリックの意思に連動して濡れた服を乾かすだけの熱気の塊だ。触れてもじんわりと熱を感じるくらいなのだが、イーゴンの狂気を鎮めるにはちょうどいい目眩ましとなった。

「そんなに怯えられると、さすがのアタシもちょっとヘコむんだけどぉ」
「燃やされないだけマシだと思え! 服はもう乾いたから結構だ!」

 ヘコむといいながらも、イーゴンはなぜか幸せそうに制服に顔をうずめている。パトリックの上着と、ラギウスが彼に放り投げて返したものだ。それら二着をパトリックから奪い取ったイーゴンは交互に顔をうずめて、制服に残る二人の匂いを存分に堪能しているようだ。その姿に怯えるように、パトリックの右手から炎がシュンと消えた。

「だ、大丈夫よ。パトリック。イーゴンはああ見えても、すごく優しいから」
「優しいとはっ!? ……っ、いえ、何でもありません」
「ラギウスにも蹴られて喜ぶくらいだから、お兄さんも襲われそうになったら遠慮なく殴ればいいよ」

 襲われるのは自分の方なのかと青ざめはしたが、イーゴンの暑苦しい愛と怪力がメルヴィオラに向いていないことだけは不幸中の幸いなのかもしれない。そう思うことで、パトリックは自分の心を落ち着かせることにした。

「早急に儀式を終えて、ここからメルヴィオラ様を降ろさなければ……」

 メルヴィオラには直接害はなさそうだが、一瞬でパトリックに恐怖心を植え付けたイーゴン。
 神にも近しい存在である精霊なのに、なぜか少しも崇める気にならないメーファ。
 一番まともだが、一番無関心でもありそうなセラス。
 そして何よりメルヴィオラをいかがわしい目で見ているラギウスから、一刻も早く彼女を遠ざけねばならない。
 長年彼と剣を交え、対峙してきたパトリックだからわかるのだ。ラギウスはメルヴィオラに執着している。それが利用価値のある「聖女」への思いなのか、あるいは別の感情なのかはわからない。けれどメルヴィオラを見るラギウスの瞳の奥に獲物を狙う獣の鋭さが隠されていることを、パトリックは無意識に感じ取っていた。

 メルヴィオラを守らねば、と。そう強く思って握りしめた拳が、コツンと冷たい何かに当たる。座っているパトリックの腰の辺りに、金色の丸いものが落ちていた。さっきまでなかったので、おそらくイーゴンに上着を奪われた時にポケットから滑り落ちたのだろう。パトリックのものではないから、それはラギウスが着ていた上着から落ちたものだ。

 懐中時計かと思ったそれは、拾ってみると羅針盤であることがわかった。けれども透明な水晶の針はなぜかふたつ付いており、おまけにどんなに揺らしても微動だにしない。それに良く見れば文字盤にうっすらと羽根のような模様が見える。

 位置すら示さない羅針盤は、まるでよくできた装飾品のようだ。これもどこかの遺跡から盗んだものなのだろうか。そう思って何気に裏返した瞬間、パトリックは驚きのあまり羅針盤を落としそうになってしまった。

「……っ!」

 ラギウスが持っていた金色の羅針盤。その裏側に掘られていたのは、妖精の羽根と絡み合う草花のモチーフ。滅多に見ることのない刻印だが、魔法具を扱うものなら一度は目にしたことがあるだろう。
 それは精霊国ヴァーシオンを示す神秘のしるし。模様と一体化して隠されるように掘られていたのは、『ラギウス・レオ・ノール・ヴァーシオン』という名前だった。


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