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第3章 絶望の正体
011 闇の入口
しおりを挟む認識疎外を施したノゾミは、雅司と共に電車、バスを乗り継ぎ施設へと向かった。
時間にして1時間。結構遠いんだな、そう思った。
道中、雅司はずっと険しい顔をしていた。
自分の姿は雅司にしか見えない。周囲に違和感を与えない様、ノゾミは無言を貫いていた。
――初めて出会った時の顔だ。
そう思いながら。
三階建ての施設は、郊外にひっそりと佇んでいた。看板がなければ、どこにでもあるハイツと言われても納得する、そんな趣の建物だった。
入口でカードキーを当てると、自動ドアが静かに開いた。
事務所には誰もいなかった。タイムカードを押した雅司は、
「着替えて来るよ」
そう言って、ロッカールームに入っていった。
中に入った時、すぐに感じた。
ここの空気は澱んでいると。
そして匂いにーー死を感じた。
「おまたせ」
ジャージ姿の雅司が、ノゾミに笑顔を向ける。
しかしそれは、この数日見てきた笑顔とは、まるで違うものだった。
「……大丈夫なの?」
「ああ、問題ない」
そう言って小さく笑い、荷物を手に階段を上っていく。
雅司の担当は二階だった。
「しばらく相手出来ないけど」
「勝手についてきたんだから、私のことは気にしないで。雅司はいつも通りにしてていいから」
「悪いな。21時には落ち着くと思うから」
これから数時間、彼の戦いが始まるんだ。
そう思ったノゾミの耳に、女の怒声が聞こえてきた。
「じゃあ入るぞ」
雅司がカードキーを当てる。
「帰らせてよ!」
扉を開けると、白髪の女が立っていた。
「こんにちは佐藤さん。どうされました?」
笑みを浮かべ、穏やかに声を掛ける。
「帰るって言ってるのよ! こんな所に、いつまで閉じ込めておくのよ!」
「佐藤さん佐藤さん、帰るのは明日ですよ。長男さん、明日の10時に迎えに来るって」
「……そうなの?」
「ええ。今日来たかったんだけど、都合がつかなかったみたいで。もう一晩だけ、ここに泊まって欲しいって」
「そうなのね……分かったわ。明日帰れるのね」
「ええ。だから……」
そう言って、佐藤の耳元に顔を近付け、囁くように言った。
「最後の一日。僕が明日の朝までいますので、よろしくお願いしますね」
雅司の囁きに、佐藤が嬉しそうにうなずく。
「でも佐藤さん。帰っても僕のこと、忘れないでくださいよ」
「忘れる訳ないじゃない! ずっと覚えてるわよ!」
満面の笑みを雅司に向ける。
「ははっ、よかった。じゃあ佐藤さん、そろそろ晩御飯なんで、一緒に行きましょうか」
そう言って佐藤の手を握り、雅司が静かに扉を閉めた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。結構大変よ」
夕食の準備をしている女性スタッフが、そう言って苦笑いを浮かべる。
「体調不良の人は?」
「特にないわ。佐藤さんの帰宅願望が強いのと、小林さんがいつも以上に立ち上がろうとしてる。今も縛ってるけどあの感じ、今夜寝ないかもね」
ーーえ? 縛ってるって、何?――
当たり前の様に話すスタッフの言葉に、ノゾミが困惑の表情を浮かべた。
食堂には、8人の利用者が座っている。
うち、車椅子の利用者が3人。その人たちを見て、言葉の意味を理解した。
車椅子とテーブルの脚が、紐で縛られていた。その中で一人、何とかそこから抜け出そうと、テーブルを押している女性がいた。小林だった。
彼女は何度もテーブルを押し、体を揺らしながら「うーうー」とうめき声をあげていた。
「準備の方、任していいですか」
「いいわよ。配膳するまでは残るから」
「すいません、お願いします」
雅司は荷物をスタッフエリアに放り込み、小林の元へと向かった。
「こんばんは小林さん。もうすぐご飯出来ますからね、もう少しだけ待っててもらえますか」
その言葉に小林が動きを止め、雅司の顔を覗き込む。
「もうちょっとで出来ますからね」
すると小林は雅司の髪をつかみ、引っ張った。
「いたたたたたっ……ははっ、小林さん、今日も元気ですね。心配だったけど安心しました。それじゃあ待ってて下さいね」
そう言って手を振りほどき、立ち上がる。
辺りを見渡し、全員の様子を観察する。
いつも、まず初めに雅司がしていることだった。こうして観察することで、利用者の状態が何となく分かるのだ。
雅司は各居室に向かい、寝間着と翌朝用の下着、靴下等を用意していった。オムツやパットの残数も確認する。
それが終わると、夕食後に服用する薬の確認。一人一人の名前、日付をチェックし、水と一緒にセットする。
「ちょっといいですか」
慌ただしく動く雅司に、恰幅のいい男性が近付いてきた。
「渡辺さん、どうされました?」
唯一の男性利用者、渡辺に笑顔で応える。
「いや、さっきからずっと頼んでるんだが、息子に会わせてほしいんだ」
言葉は丁寧だが、表情は険しかった。
「息子さんですよね。渡辺さんにそう言われてたから、事務所の人が連絡してましたよ。明日の昼、電話がかかってくるそうです」
「明日ですか? いや、それならいいんです」
「よかったですね。明日、ゆっくり話してくださいね」
「ああ、ありがとう」
「いえいえ」
そう言いながら、夕食後に回収する義歯用のケースを準備する。
「田中さーん、どこに行くんですかー」
今度は奥のテーブルにいる、田中と呼ばれた女性が立ち上がろうとしていた。
「田中さん田中さん、立ち上がったら危ないですよ。この前みたいにこけたら大変でしょ」
「田中さんも、結構不穏だよ。縛った方がいいかも」
「……ですね」
そう言うと田中を座らせ、椅子とテーブルを紐で縛った。
「もうちょっとだけ、辛抱しててくださいね。ご飯が終わったら、お布団に連れていきますから」
そう言って頭を撫でると、田中は不満気にうつむき、テーブルの脚を蹴った。
「そろそろ出来るよ」
「ありがとうございます。消毒行きますね」
「お願い」
消毒用のアルコールを、一人一人の手に吹きかけていく。利用者の中にはそれが何か分からず、アルコール塗れの手を舐めようとする者もいた。
「はーい、山本さん、手をごしごしして下さいねー」
女性スタッフが、トレイをテーブルに運んでいく。
フロアーに入ってから1時間。息つく間もなく走り回る二人を、ノゾミは呆然と見つめていた。
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