2 / 67
第一部 プロローグ
01 二人の出会い(挿絵あり)
しおりを挟む
その日「R-207」は死んだはずだった。突如襲った灼熱によって体を焦がし、骨を溶かし、その眼球にしっかりと絶望を焼きつけたまま、息絶えるはずだったのだ。
少なくとも、以前の彼ならその光景を容易に実現することは可能だっただろう。だが実際のところ、赤目の少年は迫り来る死を受け入れることができなかった。施設の瓦礫が崩れ、外へと飛び出した彼の背後からは引き止めるかのように悲痛な声が聞こえてくる。
「たすけてくれえ、誰かあ……」
「いだい……体が熱いよお……」
助けを懇願する声は、人間とは思えないおぞましい音の羅列だった。この場で何度も聞き流していた叫びだったが、それが人間のものだと認知してしまった時、少年は枷のつけられたその頼りない足を思わず止めた。自分の危機でも、少年に内包していた僅かな良心が自分だけ逃げるということを許さなかったのだろう。
僕だけ、僕だけが助かっていいのか。彼らにはなんの罪もないはずなのに。そう振り返った時にはもう遅く、周りに燃え移った木々が施設に倒れこみ、先ほどまで少年がいた施設は炎の海へと飲み込まれていった。
何故こんな事になったのだろう。僕達が一体何をしたのか。分からない。答えてくれる人間はもういない。
少年は片方しかない真っ赤な瞳に朱色の涙を浮かべながら、振り返ることなくひたすら走った。未だ離れることのない枷によって時折倒れ込むが、わけも分からず立ち上がり、自分に迫る赤から逃げ惑う。熱い、痛い、どこに行けばいいか分からない。五感が支配されパニックを起こす脳内とは裏腹に、その足は迷いもせずに前へと踏み出していた。
例えそれがどんなに困難な道だとしても、生きたい。生きなければと、走り続けた。
この森の向こうに自由があると信じて。
◆
アルマテア歴765年9月27日。この日はある人間にとって特別な日であり、同時に憎むべき日でもあった。
カツカツと長く伸びた廊下を金髪の青年が歩いていく。青年は穂の垂れたライ麦のような金髪をしていた。百八十センチほどの背丈で、背骨はしっかりと伸ばし、着こなされたシャツは飾り気のないシンプルなもので清潔感があった。左耳につけたリングピアスが鈍色に光を放ちながら揺れる。
しかし、横に流した前髪の間から覗かせる鮮やかな青の虹彩は、窓の外同様に曇りがかっていた。まるで、自分の中の大切なものが欠けてしまっているような、そんな虚無を映し出しているようだ。
長く一見細身のように見える青年の腕には白い花束が抱えられている。大きな離弁花類の白い花だ。花蕊は生える黄色をしていて、目立ちもせず、全体的に上品さを醸し出している。その光を纏っているような色彩は、まるで人魂のような現実にはありえない異質な存在感を放っていた。
「シアン様。外出されるのならこれを」
屋敷の入口前まで来た時に背後から声をかけられる。青年を追ってきたのは、執事と言う言葉のイメージをそのままとってつけたような、燕尾服に身を包んだ白髪の年寄りだった。背筋をピンと伸ばし、ぶれることのない安定した立ち振る舞いは、見た目とは違って若々しく見える。一見歳衰えて痩せているように見えるが、その執事服の中は筋骨隆々に違いない。そのシワだらけの手には黒い傘が握られていた。
「ありがとう。今年も、酷い雨だ」
「いえ。それにしても、もう少し収まってからの方が宜しいのでは?」
「今年は、やむ気がするんだよ。やっと青空を拝めるような、そんな気がする」
窓の外を見るに、晴れる予定はないようだが。そうとは口に出さず執事は「晴れるといいですね」と微笑んだ。屋敷を出て、青年は傘を差す。歩みに一切の迷いがない。けれどもその表情はこの天気と同様に晴れ晴れとしたものではなかった。
少し風が吹いているのか、真正面から雨粒が飛んできて、青年の濃藍色のコートに黒いシミを作った。先程より少しは弱くなっているものの、まだ止んではくれなさそうだ。ああ、うっとおしい。水溜りを避け、邸から少し離れたところにある大きな白い石造りの像までたどり着くと、青年は向き合うようにしっかりと像を見つめた。
髪の長い女性と凛々しい表情をした男性の像が並び、一緒になって天を見上げている。勿論、今は亡き両親を象ったものだ。その隣には石碑が像を挟むようにして立てられており、両親の名と、添えるようにして「ここに眠る」とだけ彫られてある。
かつて父は気高く、信念を貫き通す研究者だった。母は慈愛に満ち溢れ、不治の病にも関わらず笑顔を絶やさなかった強い人だった。けれど青年が八歳の時に父は事故で、十歳の時に母は持病で帰らぬ人となり、齢十歳にして青年はこの邸の当主となったのだ。
青年が両親を亡くしたのは丁度自分の誕生日である。年違いで二人共自分の誕生日に亡くなったのだから、悪魔の仕業だとか神に連れ去られたとか、そんなありもしない事を考えた事があった。そして自分もいずれこの日に連れ去られるのだと、そう切に願った事もある。
けれど、何も起こらずに気がつけば両親の死から十五年の月日が経っていた。たった一人には大きすぎる邸を遺して。だから幸せを奪った神を、その日から憎んでいた。いや、神なんかこの世に存在しないのだと。本当に神がいるならこんなのあんまりじゃないかなんて、そんなありもしない幻想に嘆いていた時代もあったものだ。
墓石の文字についた雨を拭き取るように白い手袋で払う。降り注ぐ雨の中でそんなのは無意味な事だ。死者に嘆くのも、また同じ事である。
「当主になって十五年、か。父さん、母さん。今日で俺も二十五だ。今年は迎えに来てくれるかな……」
像を見上げた青年はその表情とは裏腹に切なげに語りかけると、露に濡れた花束にキスをしてから両親の名が刻まれた石段に供える。雨に濡れてしまったことで早速花弁は萎れてしまったように見えた。青年はそれをただ見続ける。
メインは真っ白なソルネフィアだ。聞いたところによると、元は他国が原産だったものを旅人がこの国に持ち帰り、それから大陸中に広まった花だという。母が自分の誕生花ということで一番好きだった花だ。確か花言葉は、青は別れの悲しみ、赤は変わらない愛、白は……
「あなたを忘れない、だったか」
生前の頃、病弱だった母が話してくれた言葉を思い出す。花言葉に科学的な意味があるわけではないし、勿論興味があるわけでもない。けれど何故かその言葉だけが妙に心に引っかかっていた。その意味はよく分からないが、どの言葉よりも母がこの言葉に惹かれたような、そんな気がしたのだ。それこそ、また父と来世で会った時に、迷わず出会えるようにだなんて、美しい幻想を描いてみる。
まるで時でも止まったかのようだ。この世界の時間が止まって、あんなに鬱陶しく思っていた雨の音でさえ遠くに聞こえる。脱力して傘が傾いたせいで、片方の肩は濡れてしまい、張り付いた感覚がじわじわと体を侵食していく。けれども、不快感も何も感じることはなかった。五感が、周囲の時間が全て停滞している。ああ、世界はこんなに静かで、息苦しいものだったのか。
ばちゃん
青年はソルネフィアの花束を見つめてそんな事をぼぅと思惟していると、像の後ろから水の中に落ちたかのような大きな水音が聞こえてくる。その音に青年は即座に意識を現実に引き戻すと、すぐさま警戒するかのように辺りを見回した。
音の質量からして、自然が起こしたものとは考えにくい。野生の動物か、もしくは外部の人間のどちらかだろう。もし外部の人間だとするなら、邸の道から外れて来るのはおかしな話だ。
脳裏に浮かび上がった不安を解決するべく、青年は音源を探し像の後ろへと慎重に歩みを進める。像の後ろに近づいていくと、地面が削れてできた深い水溜りに浸かっている黒い影を見つけた。レッグホルスターから拳銃を取り出し構える。近づくにつれ、その姿がハッキリと浮かび上がってくる。
「……人か」
像にもたれかかるようにして倒れていたのは、ボロボロに破れた素朴な服に、手足には奴隷を主張するかのような枷がつけられた、白髪の人間だった。歳は見た目からして十代半ば頃だろう。身長はおおよそ百五十の小柄だが、体重は明らかに平均値に達していない。鳩尾程の髪の長さからして女だと思ったが、細い腕の筋肉質や骨格から男だろうと確信する。
そいつは既に満身創痍で爪先ひとつ動こうとしない。死んでいるのか、もしくは気絶しているだけなのか。死体なら死体で、後処理が面倒だな。不謹慎な事を考えながらも、青年は少しずつ謎の少年と距離を縮めていく。外傷としては枝か何かで切った切り傷が全身に、それを塗りつぶすかのように重度の熱傷が広がっていた。
特に左半分の顔の皮膚はひどく焼け爛れ、上と下の瞼が開いた黒い裂傷によってくっついているように見える。全身の出血も酷いし、生きていたとしてもこのままじゃあ、いずれ死に至るだろう。青年は冷静に少年の分析をしながら脈を測ろうと近づき、膝を曲げて細く今にも折れそうな腕を掴んだ。
途端に掠れた音と共に首が締め付けられる。ふと目線を下げてみると、その腕からは想像もできないような力で、胸倉を自分が掴んだ方の腕で掴まれていた。左目はやはり開かないのか、少年は真っ赤な瞳を獣のように瞳孔を開かせて、じっとこちらを睨みつけている。
ただ、それは一瞬と言える間だけで、少年は腕を脱力させて目を閉じた。その瞳に睨みつけられた間、雨音が、時の流れが止まる。一瞬見せた瞳は、まるで「触れれば殺す」と訴えているようで、青年は氷棒を当てられたかのようにゾクリと鳥肌が立つのを感じた。いや、きっとこんな状態で未だ動けることに驚いた為なのかもしれない。
死に際に来ての抗いか。けれども、その鼓動は確かにどくんどくんと規則正しく動いていた。生きている音が指先を通して感じる。まるで生きたい、自分は生きているのだと主張するかのように。
「へぇ、面白くなりそうだ」
湧き上がる好奇心に青年の口角がつり上がる。青年の青い瞳は少年の項を捉え、嬉嬉として細められた。止まないと踏んでいた雨は弱まっていき、雲の隙間からは光が差し込み始める。
この少年と出会ったのは偶然か、必然か。それはまだ、分からない。けれど、代わり映えのしない毎日が変わるのだと、青年は確かに感じていた。
プロローグ「二人の出会い」
ヴァルテナ大陸にはヴァルテナ、セレグレア、ルヴェーナの三つの種族が存在する。その中でもヴァルテナ人の国・ノルワーナ王国は大陸統一を目指し、侵略を繰り返すことで勢力を高めていた。
それと同時期、宗教上ノルワーナと常に緊張状態にあったアルマテア王国は病死によって王を亡くし、新たに若き王が即位していた。先代の死、そして隣国の脅威は国を混乱に陥れ、焦った若き王は真っ先にノルワーナの侵略を恐れて不可侵条約を提起するが実現されず、翌年に同盟国と先手をとってノルワーナに戦争をしかけたことでルミネア戦争が勃発する。しかし、植民地を拡大し勢力を高めたノルワーナが圧倒し、アルマテア王国は講和条約を締結したことで敗戦に終える結果となってしまった。
数十年間戦後混乱期の不景気に苦しめられていたアルマテア王国だったが、五年前に起きたノルワーナの謎の壊滅により経済復興は上向きに進行していく。これを好機に王は更なる領土拡大の為に亡国とかつて同盟だった国に宣戦布告する意を決した。
これにより、更なる軍事力強化を図って国軍の研究機関から一任されたリチャード・ブレイン博士率いる研究チームは、人間を扱った新たなる兵器生成の為にとある実験を開始する。
その内容は秘密裏に存在する各実験施設の被検体に毎日とある劇薬を投与し、性能のテストや被検体の精密検査などのデータの収集を目的としたものだった。特殊な投薬による細胞の拒絶反応が被験者に死を及ぼす恐れがある為、被験者の多くは各所から集められた奴隷や犯罪者達で、つまりは世間から消えても問題がない人間達だった。この人気のない山奥の一角にひっそりと佇む小さな実験施設もそのうちの一つである。
ここでの法律は死をもたらす実験が全てであり、どんなに非道なことを行おうが、何人殺そうが、自然の摂理として受け入れなくてはならなかった。
かつて、脱出を図ろうとして自らを縛り付ける鎖を引きちぎろうとした威勢のいい極悪の囚人は、極わずかに与えられる糧と過酷な実験に、鎖ではなく自ら舌を噛みちぎって絶命を辿り、また、乳臭さが残る丸い顔の幼い少女は、研究員の性処理の格好のマトとして夜な夜な男の味を植え続けられ、今日も生命の子種が注がれるのをただ待つばかりだ。
被検体としての役目も果たせなくなった人間達は、少量の糧によって脂肪を失い、細々とさせた四肢をバラバラに切り落とされて焼却炉へと放り込まれると、跡形も無く燃やされていく。ここに来るという事は即ち、己の短命を意味することになるのだ。
初めはこの研究に嫌悪を抱き「無理だ」「可哀想だ」と断念した研究員もいたが、今では自ら進んで研究に貢献しようとしている。強制された人間が権力をつけると、人間性までもが変わってしまうとはよく言ったものだ。人は誰しも狂気を内包している────ただ、それがたかが金や権力の為だけに抑制していた理性を一瞬で捨てきることができてしまうのだ。
そんな人間のドロドロとした感情が瘴気のようにこの実験施設を覆い尽くしている。空間を汚染し、正常だったはずの人間までもが狂気に飲み込まれていく。なんて、脆弱なのだろう。なんて、汚らわしいのだろう。人の心は。
この研究が一体何なのか。ましてや何故自分達なのか。牢の中で嘆く者も、灰になっていった者も誰一人としてこの研究の本意を知る者はいないだろう。知る権利も、ましてや人権さえも牢の中の人間には存在しない。知らない誰かに自分の生死を握られる、そんな馬鹿げた世界での法だ。白髪赤目の少年「R-207」もまた、そのうちの一人である。
一体どれ程の人間がこの実験で命を落としてきたのだろうか。いつか自分も彼らと同じ運命を辿ると思うと、恐怖で身が竦みあがり何も考えられなくなる。日が経つにつれて心身は窶れていき、希望を抱けなくなった心は絶望に侵食され、虚無感に陥った。そうなってしまえば、逃げ出そうとする気力さえ無駄なものだと諦観するようになる。
せめてもの救いに生に執着出来るものがあれば何か違ったのかもしれない。少年にはここに来る以前の記憶が皆無だった。逃げ出す先も、助けを求める相手もいないからこそ、周囲より早く逃亡する事への諦観が出来たのだ。
記憶はその人間が造りあげてきた、言うならば一つの存在価値と言っていいだろう。それがないなんて死者と同じようなもの。いや、この世に存在しているのか自分でも疑わしく思える。絶望する多くの人間達の中で彼が他の囚人と唯一違っていたのはそこだった。その諦めの早さに救われた事もあったが、それはつまり自分の精神の死を早めた事にもなる。実質、今の少年は息をするだけしか脳がないただの生ける屍だ。
悲鳴に怯え、動けなくなった体は脱力し、ただぼうっと冷たい地面を見つめるだけの日々が続いている。生きている事が苦しい。いっその事、殺してくれれば楽になれるのに。空想の自由を牢越しに描いていた暗がりの日常の中で、いつの間にか少年の精神は生きる事よりも死ぬ事を望んでいた。
きっとこのまま何も出来ずに自分は死んでいく。それもただ仕方がないと受け止めるばかりだった。あの日までは―――。
広さにして約三・三一平方メートルあまりの眼前に広がっていたのは、威圧感を放った黒い鉄格子と、深淵の闇ばかり。その「絶景」を眺められる牢獄が少年の住処だった。骨だけにも思える細い腕や足に色の違う肌の境目ができている。折角回復したが、またいつ「失う」かは分からない。足を抱えるように丸くなり、時が来るのをただひたすらに待った。
「こんな牢獄で一日中監視とは、俺達も不幸だよなあ」
入口付近で足を棒にさせて突っ立っている首の太い大柄な男がぼんやりと呟いた。倦怠感漂う男の低く、ねっとりとした声音。監視が呟くのは至って日常的な事だ。口火を切った男の呟きに、隣にいた中肉中背の男が続いて口を開く。
「何を今更。大体、この不景気にこうして職を貰っているだけでも有難いことなんだ。ちっとは感謝するんだな」
「そうだけどなあ。臭せえし、囚人はうるせえし、家にもろくに帰れやしねえ。お前、見たことあるか? 腐乱した女の死体に産み付けられた蛆が卵から孵って、女の秘部から湧いて出てくるところを。皮膚もガスが溜まってこんなに肥大してよ」
「ああ。お前って死体処理もしていたんだっけ?」
「まあな。人間の死体ってなんだろう……例えるのも難しい臭いしてるよな。なんていうか凄く異様に臭いんだよ。腐らせた豚の肉を燃やしてるみたいな.......なんていうの? 鼻にいつまでもまとわりつく感じ?」
「お前、自分の不快感を人に広げるなよ。聞きたくない」
「そうそう、他にも死体の中で飛び出た目玉の裏側にうようよとうねり動く……」
「ああ! だからやめろって。もう聞きたくない」
中肉中背の男は明らかに顔を歪めてから逸らす。なんだよ。もっとえぐい話あるのによ、と大柄な男はつまらなそうに口を尖らせた。
「そういや、その時聞いた話なんだが、お前知っているか?」
「死体の話はもう腹一杯だ」
「いいや。違う違う。三つあるうちの一つの研究施設が消滅したって話だ」
大柄な男の言葉に、中肉中背の男は下げていた眉を顰めて向き直った。確か、この極秘実験施設はここロザンドとは別に二つ設置されていると記憶している。どこも正確な位置は知らないが、ディオネール付近にあると言われる一つはこの実験の最高責任者であるリチャード・ブレインの本拠地だと風の噂で聞いていた。
「もしそれが本当なら博士がいる研究施設はありえないだろ? したら、別のもう一つか? なんで急に……」
「噂じゃ隣国の連中に情報が漏れたとか、戦争反対派によるものだと……考えられるとしたら、位置を悟られないように数を減らしたとか?」
「はあ? 冗談よせよ。そもそも、研究に関わる問題だ。いくら下っ端の俺たちでも、そんな重要な話が回ってこないのはありえない」
「聞いた話だ。俺にもよく分からねえよ。でも、考えてもみろ? 俺達はいつでも使い捨てられる道具みたいなものなんだぜ? 何が起こるかは分からないだろ?」
実際上が何を考えているのかは分かったものじゃない。流れる重々しい空気に「なあ、それって」と監視の一人が口を開いた。
「―――俺達が今日消される可能性もあるってことか?」
ジリリリリッ!
途端に地の底から湧き上がるけたたましい警報音が牢獄内に響き渡る。かつてこの場所で聞いたことがない警報に、少年は大きく肩を震わせ、思わず体を起こした。周囲ではざわめきと、監視の怯えた声が混じっている。
「おいおい。まさか、冗談だろ!?」
監視の一人が怯えたように扉を見つめる。その声は先程の声とは違って、冷静さに欠いていた。固く閉ざされた鉄扉の向こうからは数名の研究員だろう声が聞こえてくる。監視の二人とは違って思った以上に冷静な声だ。
「おい! そこに誰かいるのか!? 何があった? 開けてくれ!」
中肉中背の男は思わず声を張り上げて扉を叩いた。監視中の為、外から施錠されている事を知っていた為だ。これはまさか、さっきあいつが言っていたディオネールの消滅と関係あるのだろうかなどとそんな考えが男の頭を巡る。
「なあ、中の人間は連れていかなくていいのか」
「何を言ってる。中に人間なんていないだろう?」
その口ぶりは冷徹で、まるで自分たちは助かるのだというような穏やかなものだった。それが変に不気味で、遠くで爆発音と何かが燃えるような音が小さく、耳奥に後を引くかのように残る。我々は長年の間、忘れてしまっていたのだ。捕えられている人間が、牢の中の人間だけだとは限らないという事を。
「畜生っ! やってられるか!」
怒りが破裂したかのように大柄な男が切迫した声を上げると、片方の監視を突き飛ばし、出入口である扉のノブをガシャガシャと乱暴に回し始めた。金属の掠れる音が、場の空気をさらに緊迫させたものにする。その空気や男の怒鳴りに、虚無に陥っていた少年は思わず鉄格子に左半分の顔面をつけて、監視の方を見た。
「おい落ち着けよ! そんなことしても鍵は交代のやつしか……」
「落ち着いていられるかよ! 俺はまだ死にたくないんだ!」
男は錯乱した瞳で扉に突進し、無理矢理こじ開けた。牢獄の閉ざされた空気が外の熱された空気を受け入れたことで、出入口には巨大な突風が生み出される。瞬間、外から流れ出す突風と共に真っ赤な炎が爆発的に噴き出し、衝撃波と巨大な熱が監視を飲み込んだ。一時の悲鳴をあげる暇さえも与えられない。
扉が破壊されたと同時に炎を巻き込んだ爆風は、外を眺めようとしていた少年を、後ろの石の壁へと容赦なく吹き飛ばす。軽々と舞い上がった身体は壁へと吹き飛ばされ、ドゴンッ、と鈍い音を立てて頭を強打すると、たちまち全身には雷に打たれたかのような猛烈な痛みが神経を駆け回った。
酷い熱傷で左半分の皮膚は頭皮まで焼け爛れ、赤い筋肉の筋に、水分を含んだ白と黒の皮膚が剥き出しになっている。右だけしか開くことが出来なかった瞳には、ピントが合わずにボヤけて歪んだ世界が映し出されていた。
「―――ああ゛ああああッ!!」
左目を抑え、地から湧き上がるような悲痛な声で地面をのたうち回る。絞めあげられていく激しい苦痛に、身体の制御がまるで効かない。耳を塞がれた時と同様に周囲の音を認知することが困難になり、自分の荒い息が頭の中で妙に煩く聞こえた。激痛に震えだした手足の桎梏が金属音を鳴らしている。
全てを奪った爆発は鉄格子を曲げるほどの火力で、はっきりと重なり始める視界の先には、何処から飛んできた木材やら薬品やらに炎が燃え移ってメラメラと燃えているのが見えた。その中には無残にも黒焦げとなった人間らしき姿もある。
ジュ、プシューと肉が鉄板で焼けるような音とともに髪の毛の焼け焦げた悪臭や人間の死臭が鼻腔を刺激し、涙と嘔吐感で息が止まった。異様で、知覚してはいけない、吐き気を促す人間の焼ける臭いだ。
見開いた瞳からは止めどなくぼたぼたと大粒の涙が溢れ出し、その度に正常な目の水分を蒸発させていく。苦しさのあまり肩を使って何度も大きく深呼吸をするが、灼熱の空気を吸った喉はひりひりと焼けるような激痛をもたらした。もう何がなんだか、自分の頭は理解が追いつかない。
う゛うっとカサついた喉で濁点の混じった呻きをあげる。ボロボロとこぼれ出す涙で顔はぐちゃぐちゃになり、それとは別に赤いどろりとした生々しいものが頬を伝う。熱を孕んだ耳元に大きく聞こえる自らの心の音にただ死を感じた。
このまま、僕は死んでしまうのだろうか―――死? 僕は死ぬのか? 何故、何故こんな所で死なないといけないんだ? 向き合った疑問に、少年は朦朧と霞み始める生と死のジレンマに挟まれながら身を震わせ、意識を保つ。
今までとは違う、死の間際に初めて感じた生への執着。暗がりで生きていた中で、最も強く感じたソレ。自分が何故こんなにも生きたいと思えるのか、この溢れ出す活力の源がなんなのか解せなかった。だって、自分には何も無いはずなのに。あれ程までに死を望んでいたはずなのに。僕は何故立ち上がろうとする? 何故こんなにも生きたいと思える?
「……たくない。ぃ、やだ。し、にたく、ない!」
胃の中に硫酸が注ぎ込まれたような吐き気と、麻痺した心に悪夢という現実を突きつけられた恐怖で声が上擦る。一層の事、この痛みに身を委ねてしまえば楽だった筈なのに。以前の自分は間違いなくそうしていたはずだったのに。少年は死を拒んだ。いや、受け入れるわけにはいかなかったのだ。
助けを呼んでも無駄な事は、気の遠くなるような昔から知っている。それでもたった一つの希望を求め、朦朧とした意識を保ちながらひたすら石の壁に拳を叩きつけた。死にたくない、まだ死にたくない、と懇願するように繰り返し頭の中で叫び続ける。
熱を帯びた拳から血を流そうが、骨が砕けようが何度も、何度でも叩きつけた。ビリビリと脳から全身の筋肉にかけて電流が駆け巡る。
いやだ。いやだ。いやだ!
身体を蝕む激痛に意識を保つことが出来たのは、その思いがあってこそなのかもしれない。それぐらい「生きる事」に必死でいた。理由は分からなくとも、これだけはハッキリしている。僕は、そう。ただ生きたいのだと。
「う゛ああああああああ!」
腕を振りあげ、雄叫びのような声を上げた。両の拳が振り下げられた石壁は崩れていき、真っ向から風を感じながら外の世界を目にする。死にたくない。ただ、知りたい。見つけたい。自分から溢れ出るこの気持ちの理由を。答えを。
この時、少年の死んだ赤い瞳に初めて、光が宿った。
少なくとも、以前の彼ならその光景を容易に実現することは可能だっただろう。だが実際のところ、赤目の少年は迫り来る死を受け入れることができなかった。施設の瓦礫が崩れ、外へと飛び出した彼の背後からは引き止めるかのように悲痛な声が聞こえてくる。
「たすけてくれえ、誰かあ……」
「いだい……体が熱いよお……」
助けを懇願する声は、人間とは思えないおぞましい音の羅列だった。この場で何度も聞き流していた叫びだったが、それが人間のものだと認知してしまった時、少年は枷のつけられたその頼りない足を思わず止めた。自分の危機でも、少年に内包していた僅かな良心が自分だけ逃げるということを許さなかったのだろう。
僕だけ、僕だけが助かっていいのか。彼らにはなんの罪もないはずなのに。そう振り返った時にはもう遅く、周りに燃え移った木々が施設に倒れこみ、先ほどまで少年がいた施設は炎の海へと飲み込まれていった。
何故こんな事になったのだろう。僕達が一体何をしたのか。分からない。答えてくれる人間はもういない。
少年は片方しかない真っ赤な瞳に朱色の涙を浮かべながら、振り返ることなくひたすら走った。未だ離れることのない枷によって時折倒れ込むが、わけも分からず立ち上がり、自分に迫る赤から逃げ惑う。熱い、痛い、どこに行けばいいか分からない。五感が支配されパニックを起こす脳内とは裏腹に、その足は迷いもせずに前へと踏み出していた。
例えそれがどんなに困難な道だとしても、生きたい。生きなければと、走り続けた。
この森の向こうに自由があると信じて。
◆
アルマテア歴765年9月27日。この日はある人間にとって特別な日であり、同時に憎むべき日でもあった。
カツカツと長く伸びた廊下を金髪の青年が歩いていく。青年は穂の垂れたライ麦のような金髪をしていた。百八十センチほどの背丈で、背骨はしっかりと伸ばし、着こなされたシャツは飾り気のないシンプルなもので清潔感があった。左耳につけたリングピアスが鈍色に光を放ちながら揺れる。
しかし、横に流した前髪の間から覗かせる鮮やかな青の虹彩は、窓の外同様に曇りがかっていた。まるで、自分の中の大切なものが欠けてしまっているような、そんな虚無を映し出しているようだ。
長く一見細身のように見える青年の腕には白い花束が抱えられている。大きな離弁花類の白い花だ。花蕊は生える黄色をしていて、目立ちもせず、全体的に上品さを醸し出している。その光を纏っているような色彩は、まるで人魂のような現実にはありえない異質な存在感を放っていた。
「シアン様。外出されるのならこれを」
屋敷の入口前まで来た時に背後から声をかけられる。青年を追ってきたのは、執事と言う言葉のイメージをそのままとってつけたような、燕尾服に身を包んだ白髪の年寄りだった。背筋をピンと伸ばし、ぶれることのない安定した立ち振る舞いは、見た目とは違って若々しく見える。一見歳衰えて痩せているように見えるが、その執事服の中は筋骨隆々に違いない。そのシワだらけの手には黒い傘が握られていた。
「ありがとう。今年も、酷い雨だ」
「いえ。それにしても、もう少し収まってからの方が宜しいのでは?」
「今年は、やむ気がするんだよ。やっと青空を拝めるような、そんな気がする」
窓の外を見るに、晴れる予定はないようだが。そうとは口に出さず執事は「晴れるといいですね」と微笑んだ。屋敷を出て、青年は傘を差す。歩みに一切の迷いがない。けれどもその表情はこの天気と同様に晴れ晴れとしたものではなかった。
少し風が吹いているのか、真正面から雨粒が飛んできて、青年の濃藍色のコートに黒いシミを作った。先程より少しは弱くなっているものの、まだ止んではくれなさそうだ。ああ、うっとおしい。水溜りを避け、邸から少し離れたところにある大きな白い石造りの像までたどり着くと、青年は向き合うようにしっかりと像を見つめた。
髪の長い女性と凛々しい表情をした男性の像が並び、一緒になって天を見上げている。勿論、今は亡き両親を象ったものだ。その隣には石碑が像を挟むようにして立てられており、両親の名と、添えるようにして「ここに眠る」とだけ彫られてある。
かつて父は気高く、信念を貫き通す研究者だった。母は慈愛に満ち溢れ、不治の病にも関わらず笑顔を絶やさなかった強い人だった。けれど青年が八歳の時に父は事故で、十歳の時に母は持病で帰らぬ人となり、齢十歳にして青年はこの邸の当主となったのだ。
青年が両親を亡くしたのは丁度自分の誕生日である。年違いで二人共自分の誕生日に亡くなったのだから、悪魔の仕業だとか神に連れ去られたとか、そんなありもしない事を考えた事があった。そして自分もいずれこの日に連れ去られるのだと、そう切に願った事もある。
けれど、何も起こらずに気がつけば両親の死から十五年の月日が経っていた。たった一人には大きすぎる邸を遺して。だから幸せを奪った神を、その日から憎んでいた。いや、神なんかこの世に存在しないのだと。本当に神がいるならこんなのあんまりじゃないかなんて、そんなありもしない幻想に嘆いていた時代もあったものだ。
墓石の文字についた雨を拭き取るように白い手袋で払う。降り注ぐ雨の中でそんなのは無意味な事だ。死者に嘆くのも、また同じ事である。
「当主になって十五年、か。父さん、母さん。今日で俺も二十五だ。今年は迎えに来てくれるかな……」
像を見上げた青年はその表情とは裏腹に切なげに語りかけると、露に濡れた花束にキスをしてから両親の名が刻まれた石段に供える。雨に濡れてしまったことで早速花弁は萎れてしまったように見えた。青年はそれをただ見続ける。
メインは真っ白なソルネフィアだ。聞いたところによると、元は他国が原産だったものを旅人がこの国に持ち帰り、それから大陸中に広まった花だという。母が自分の誕生花ということで一番好きだった花だ。確か花言葉は、青は別れの悲しみ、赤は変わらない愛、白は……
「あなたを忘れない、だったか」
生前の頃、病弱だった母が話してくれた言葉を思い出す。花言葉に科学的な意味があるわけではないし、勿論興味があるわけでもない。けれど何故かその言葉だけが妙に心に引っかかっていた。その意味はよく分からないが、どの言葉よりも母がこの言葉に惹かれたような、そんな気がしたのだ。それこそ、また父と来世で会った時に、迷わず出会えるようにだなんて、美しい幻想を描いてみる。
まるで時でも止まったかのようだ。この世界の時間が止まって、あんなに鬱陶しく思っていた雨の音でさえ遠くに聞こえる。脱力して傘が傾いたせいで、片方の肩は濡れてしまい、張り付いた感覚がじわじわと体を侵食していく。けれども、不快感も何も感じることはなかった。五感が、周囲の時間が全て停滞している。ああ、世界はこんなに静かで、息苦しいものだったのか。
ばちゃん
青年はソルネフィアの花束を見つめてそんな事をぼぅと思惟していると、像の後ろから水の中に落ちたかのような大きな水音が聞こえてくる。その音に青年は即座に意識を現実に引き戻すと、すぐさま警戒するかのように辺りを見回した。
音の質量からして、自然が起こしたものとは考えにくい。野生の動物か、もしくは外部の人間のどちらかだろう。もし外部の人間だとするなら、邸の道から外れて来るのはおかしな話だ。
脳裏に浮かび上がった不安を解決するべく、青年は音源を探し像の後ろへと慎重に歩みを進める。像の後ろに近づいていくと、地面が削れてできた深い水溜りに浸かっている黒い影を見つけた。レッグホルスターから拳銃を取り出し構える。近づくにつれ、その姿がハッキリと浮かび上がってくる。
「……人か」
像にもたれかかるようにして倒れていたのは、ボロボロに破れた素朴な服に、手足には奴隷を主張するかのような枷がつけられた、白髪の人間だった。歳は見た目からして十代半ば頃だろう。身長はおおよそ百五十の小柄だが、体重は明らかに平均値に達していない。鳩尾程の髪の長さからして女だと思ったが、細い腕の筋肉質や骨格から男だろうと確信する。
そいつは既に満身創痍で爪先ひとつ動こうとしない。死んでいるのか、もしくは気絶しているだけなのか。死体なら死体で、後処理が面倒だな。不謹慎な事を考えながらも、青年は少しずつ謎の少年と距離を縮めていく。外傷としては枝か何かで切った切り傷が全身に、それを塗りつぶすかのように重度の熱傷が広がっていた。
特に左半分の顔の皮膚はひどく焼け爛れ、上と下の瞼が開いた黒い裂傷によってくっついているように見える。全身の出血も酷いし、生きていたとしてもこのままじゃあ、いずれ死に至るだろう。青年は冷静に少年の分析をしながら脈を測ろうと近づき、膝を曲げて細く今にも折れそうな腕を掴んだ。
途端に掠れた音と共に首が締め付けられる。ふと目線を下げてみると、その腕からは想像もできないような力で、胸倉を自分が掴んだ方の腕で掴まれていた。左目はやはり開かないのか、少年は真っ赤な瞳を獣のように瞳孔を開かせて、じっとこちらを睨みつけている。
ただ、それは一瞬と言える間だけで、少年は腕を脱力させて目を閉じた。その瞳に睨みつけられた間、雨音が、時の流れが止まる。一瞬見せた瞳は、まるで「触れれば殺す」と訴えているようで、青年は氷棒を当てられたかのようにゾクリと鳥肌が立つのを感じた。いや、きっとこんな状態で未だ動けることに驚いた為なのかもしれない。
死に際に来ての抗いか。けれども、その鼓動は確かにどくんどくんと規則正しく動いていた。生きている音が指先を通して感じる。まるで生きたい、自分は生きているのだと主張するかのように。
「へぇ、面白くなりそうだ」
湧き上がる好奇心に青年の口角がつり上がる。青年の青い瞳は少年の項を捉え、嬉嬉として細められた。止まないと踏んでいた雨は弱まっていき、雲の隙間からは光が差し込み始める。
この少年と出会ったのは偶然か、必然か。それはまだ、分からない。けれど、代わり映えのしない毎日が変わるのだと、青年は確かに感じていた。
プロローグ「二人の出会い」
ヴァルテナ大陸にはヴァルテナ、セレグレア、ルヴェーナの三つの種族が存在する。その中でもヴァルテナ人の国・ノルワーナ王国は大陸統一を目指し、侵略を繰り返すことで勢力を高めていた。
それと同時期、宗教上ノルワーナと常に緊張状態にあったアルマテア王国は病死によって王を亡くし、新たに若き王が即位していた。先代の死、そして隣国の脅威は国を混乱に陥れ、焦った若き王は真っ先にノルワーナの侵略を恐れて不可侵条約を提起するが実現されず、翌年に同盟国と先手をとってノルワーナに戦争をしかけたことでルミネア戦争が勃発する。しかし、植民地を拡大し勢力を高めたノルワーナが圧倒し、アルマテア王国は講和条約を締結したことで敗戦に終える結果となってしまった。
数十年間戦後混乱期の不景気に苦しめられていたアルマテア王国だったが、五年前に起きたノルワーナの謎の壊滅により経済復興は上向きに進行していく。これを好機に王は更なる領土拡大の為に亡国とかつて同盟だった国に宣戦布告する意を決した。
これにより、更なる軍事力強化を図って国軍の研究機関から一任されたリチャード・ブレイン博士率いる研究チームは、人間を扱った新たなる兵器生成の為にとある実験を開始する。
その内容は秘密裏に存在する各実験施設の被検体に毎日とある劇薬を投与し、性能のテストや被検体の精密検査などのデータの収集を目的としたものだった。特殊な投薬による細胞の拒絶反応が被験者に死を及ぼす恐れがある為、被験者の多くは各所から集められた奴隷や犯罪者達で、つまりは世間から消えても問題がない人間達だった。この人気のない山奥の一角にひっそりと佇む小さな実験施設もそのうちの一つである。
ここでの法律は死をもたらす実験が全てであり、どんなに非道なことを行おうが、何人殺そうが、自然の摂理として受け入れなくてはならなかった。
かつて、脱出を図ろうとして自らを縛り付ける鎖を引きちぎろうとした威勢のいい極悪の囚人は、極わずかに与えられる糧と過酷な実験に、鎖ではなく自ら舌を噛みちぎって絶命を辿り、また、乳臭さが残る丸い顔の幼い少女は、研究員の性処理の格好のマトとして夜な夜な男の味を植え続けられ、今日も生命の子種が注がれるのをただ待つばかりだ。
被検体としての役目も果たせなくなった人間達は、少量の糧によって脂肪を失い、細々とさせた四肢をバラバラに切り落とされて焼却炉へと放り込まれると、跡形も無く燃やされていく。ここに来るという事は即ち、己の短命を意味することになるのだ。
初めはこの研究に嫌悪を抱き「無理だ」「可哀想だ」と断念した研究員もいたが、今では自ら進んで研究に貢献しようとしている。強制された人間が権力をつけると、人間性までもが変わってしまうとはよく言ったものだ。人は誰しも狂気を内包している────ただ、それがたかが金や権力の為だけに抑制していた理性を一瞬で捨てきることができてしまうのだ。
そんな人間のドロドロとした感情が瘴気のようにこの実験施設を覆い尽くしている。空間を汚染し、正常だったはずの人間までもが狂気に飲み込まれていく。なんて、脆弱なのだろう。なんて、汚らわしいのだろう。人の心は。
この研究が一体何なのか。ましてや何故自分達なのか。牢の中で嘆く者も、灰になっていった者も誰一人としてこの研究の本意を知る者はいないだろう。知る権利も、ましてや人権さえも牢の中の人間には存在しない。知らない誰かに自分の生死を握られる、そんな馬鹿げた世界での法だ。白髪赤目の少年「R-207」もまた、そのうちの一人である。
一体どれ程の人間がこの実験で命を落としてきたのだろうか。いつか自分も彼らと同じ運命を辿ると思うと、恐怖で身が竦みあがり何も考えられなくなる。日が経つにつれて心身は窶れていき、希望を抱けなくなった心は絶望に侵食され、虚無感に陥った。そうなってしまえば、逃げ出そうとする気力さえ無駄なものだと諦観するようになる。
せめてもの救いに生に執着出来るものがあれば何か違ったのかもしれない。少年にはここに来る以前の記憶が皆無だった。逃げ出す先も、助けを求める相手もいないからこそ、周囲より早く逃亡する事への諦観が出来たのだ。
記憶はその人間が造りあげてきた、言うならば一つの存在価値と言っていいだろう。それがないなんて死者と同じようなもの。いや、この世に存在しているのか自分でも疑わしく思える。絶望する多くの人間達の中で彼が他の囚人と唯一違っていたのはそこだった。その諦めの早さに救われた事もあったが、それはつまり自分の精神の死を早めた事にもなる。実質、今の少年は息をするだけしか脳がないただの生ける屍だ。
悲鳴に怯え、動けなくなった体は脱力し、ただぼうっと冷たい地面を見つめるだけの日々が続いている。生きている事が苦しい。いっその事、殺してくれれば楽になれるのに。空想の自由を牢越しに描いていた暗がりの日常の中で、いつの間にか少年の精神は生きる事よりも死ぬ事を望んでいた。
きっとこのまま何も出来ずに自分は死んでいく。それもただ仕方がないと受け止めるばかりだった。あの日までは―――。
広さにして約三・三一平方メートルあまりの眼前に広がっていたのは、威圧感を放った黒い鉄格子と、深淵の闇ばかり。その「絶景」を眺められる牢獄が少年の住処だった。骨だけにも思える細い腕や足に色の違う肌の境目ができている。折角回復したが、またいつ「失う」かは分からない。足を抱えるように丸くなり、時が来るのをただひたすらに待った。
「こんな牢獄で一日中監視とは、俺達も不幸だよなあ」
入口付近で足を棒にさせて突っ立っている首の太い大柄な男がぼんやりと呟いた。倦怠感漂う男の低く、ねっとりとした声音。監視が呟くのは至って日常的な事だ。口火を切った男の呟きに、隣にいた中肉中背の男が続いて口を開く。
「何を今更。大体、この不景気にこうして職を貰っているだけでも有難いことなんだ。ちっとは感謝するんだな」
「そうだけどなあ。臭せえし、囚人はうるせえし、家にもろくに帰れやしねえ。お前、見たことあるか? 腐乱した女の死体に産み付けられた蛆が卵から孵って、女の秘部から湧いて出てくるところを。皮膚もガスが溜まってこんなに肥大してよ」
「ああ。お前って死体処理もしていたんだっけ?」
「まあな。人間の死体ってなんだろう……例えるのも難しい臭いしてるよな。なんていうか凄く異様に臭いんだよ。腐らせた豚の肉を燃やしてるみたいな.......なんていうの? 鼻にいつまでもまとわりつく感じ?」
「お前、自分の不快感を人に広げるなよ。聞きたくない」
「そうそう、他にも死体の中で飛び出た目玉の裏側にうようよとうねり動く……」
「ああ! だからやめろって。もう聞きたくない」
中肉中背の男は明らかに顔を歪めてから逸らす。なんだよ。もっとえぐい話あるのによ、と大柄な男はつまらなそうに口を尖らせた。
「そういや、その時聞いた話なんだが、お前知っているか?」
「死体の話はもう腹一杯だ」
「いいや。違う違う。三つあるうちの一つの研究施設が消滅したって話だ」
大柄な男の言葉に、中肉中背の男は下げていた眉を顰めて向き直った。確か、この極秘実験施設はここロザンドとは別に二つ設置されていると記憶している。どこも正確な位置は知らないが、ディオネール付近にあると言われる一つはこの実験の最高責任者であるリチャード・ブレインの本拠地だと風の噂で聞いていた。
「もしそれが本当なら博士がいる研究施設はありえないだろ? したら、別のもう一つか? なんで急に……」
「噂じゃ隣国の連中に情報が漏れたとか、戦争反対派によるものだと……考えられるとしたら、位置を悟られないように数を減らしたとか?」
「はあ? 冗談よせよ。そもそも、研究に関わる問題だ。いくら下っ端の俺たちでも、そんな重要な話が回ってこないのはありえない」
「聞いた話だ。俺にもよく分からねえよ。でも、考えてもみろ? 俺達はいつでも使い捨てられる道具みたいなものなんだぜ? 何が起こるかは分からないだろ?」
実際上が何を考えているのかは分かったものじゃない。流れる重々しい空気に「なあ、それって」と監視の一人が口を開いた。
「―――俺達が今日消される可能性もあるってことか?」
ジリリリリッ!
途端に地の底から湧き上がるけたたましい警報音が牢獄内に響き渡る。かつてこの場所で聞いたことがない警報に、少年は大きく肩を震わせ、思わず体を起こした。周囲ではざわめきと、監視の怯えた声が混じっている。
「おいおい。まさか、冗談だろ!?」
監視の一人が怯えたように扉を見つめる。その声は先程の声とは違って、冷静さに欠いていた。固く閉ざされた鉄扉の向こうからは数名の研究員だろう声が聞こえてくる。監視の二人とは違って思った以上に冷静な声だ。
「おい! そこに誰かいるのか!? 何があった? 開けてくれ!」
中肉中背の男は思わず声を張り上げて扉を叩いた。監視中の為、外から施錠されている事を知っていた為だ。これはまさか、さっきあいつが言っていたディオネールの消滅と関係あるのだろうかなどとそんな考えが男の頭を巡る。
「なあ、中の人間は連れていかなくていいのか」
「何を言ってる。中に人間なんていないだろう?」
その口ぶりは冷徹で、まるで自分たちは助かるのだというような穏やかなものだった。それが変に不気味で、遠くで爆発音と何かが燃えるような音が小さく、耳奥に後を引くかのように残る。我々は長年の間、忘れてしまっていたのだ。捕えられている人間が、牢の中の人間だけだとは限らないという事を。
「畜生っ! やってられるか!」
怒りが破裂したかのように大柄な男が切迫した声を上げると、片方の監視を突き飛ばし、出入口である扉のノブをガシャガシャと乱暴に回し始めた。金属の掠れる音が、場の空気をさらに緊迫させたものにする。その空気や男の怒鳴りに、虚無に陥っていた少年は思わず鉄格子に左半分の顔面をつけて、監視の方を見た。
「おい落ち着けよ! そんなことしても鍵は交代のやつしか……」
「落ち着いていられるかよ! 俺はまだ死にたくないんだ!」
男は錯乱した瞳で扉に突進し、無理矢理こじ開けた。牢獄の閉ざされた空気が外の熱された空気を受け入れたことで、出入口には巨大な突風が生み出される。瞬間、外から流れ出す突風と共に真っ赤な炎が爆発的に噴き出し、衝撃波と巨大な熱が監視を飲み込んだ。一時の悲鳴をあげる暇さえも与えられない。
扉が破壊されたと同時に炎を巻き込んだ爆風は、外を眺めようとしていた少年を、後ろの石の壁へと容赦なく吹き飛ばす。軽々と舞い上がった身体は壁へと吹き飛ばされ、ドゴンッ、と鈍い音を立てて頭を強打すると、たちまち全身には雷に打たれたかのような猛烈な痛みが神経を駆け回った。
酷い熱傷で左半分の皮膚は頭皮まで焼け爛れ、赤い筋肉の筋に、水分を含んだ白と黒の皮膚が剥き出しになっている。右だけしか開くことが出来なかった瞳には、ピントが合わずにボヤけて歪んだ世界が映し出されていた。
「―――ああ゛ああああッ!!」
左目を抑え、地から湧き上がるような悲痛な声で地面をのたうち回る。絞めあげられていく激しい苦痛に、身体の制御がまるで効かない。耳を塞がれた時と同様に周囲の音を認知することが困難になり、自分の荒い息が頭の中で妙に煩く聞こえた。激痛に震えだした手足の桎梏が金属音を鳴らしている。
全てを奪った爆発は鉄格子を曲げるほどの火力で、はっきりと重なり始める視界の先には、何処から飛んできた木材やら薬品やらに炎が燃え移ってメラメラと燃えているのが見えた。その中には無残にも黒焦げとなった人間らしき姿もある。
ジュ、プシューと肉が鉄板で焼けるような音とともに髪の毛の焼け焦げた悪臭や人間の死臭が鼻腔を刺激し、涙と嘔吐感で息が止まった。異様で、知覚してはいけない、吐き気を促す人間の焼ける臭いだ。
見開いた瞳からは止めどなくぼたぼたと大粒の涙が溢れ出し、その度に正常な目の水分を蒸発させていく。苦しさのあまり肩を使って何度も大きく深呼吸をするが、灼熱の空気を吸った喉はひりひりと焼けるような激痛をもたらした。もう何がなんだか、自分の頭は理解が追いつかない。
う゛うっとカサついた喉で濁点の混じった呻きをあげる。ボロボロとこぼれ出す涙で顔はぐちゃぐちゃになり、それとは別に赤いどろりとした生々しいものが頬を伝う。熱を孕んだ耳元に大きく聞こえる自らの心の音にただ死を感じた。
このまま、僕は死んでしまうのだろうか―――死? 僕は死ぬのか? 何故、何故こんな所で死なないといけないんだ? 向き合った疑問に、少年は朦朧と霞み始める生と死のジレンマに挟まれながら身を震わせ、意識を保つ。
今までとは違う、死の間際に初めて感じた生への執着。暗がりで生きていた中で、最も強く感じたソレ。自分が何故こんなにも生きたいと思えるのか、この溢れ出す活力の源がなんなのか解せなかった。だって、自分には何も無いはずなのに。あれ程までに死を望んでいたはずなのに。僕は何故立ち上がろうとする? 何故こんなにも生きたいと思える?
「……たくない。ぃ、やだ。し、にたく、ない!」
胃の中に硫酸が注ぎ込まれたような吐き気と、麻痺した心に悪夢という現実を突きつけられた恐怖で声が上擦る。一層の事、この痛みに身を委ねてしまえば楽だった筈なのに。以前の自分は間違いなくそうしていたはずだったのに。少年は死を拒んだ。いや、受け入れるわけにはいかなかったのだ。
助けを呼んでも無駄な事は、気の遠くなるような昔から知っている。それでもたった一つの希望を求め、朦朧とした意識を保ちながらひたすら石の壁に拳を叩きつけた。死にたくない、まだ死にたくない、と懇願するように繰り返し頭の中で叫び続ける。
熱を帯びた拳から血を流そうが、骨が砕けようが何度も、何度でも叩きつけた。ビリビリと脳から全身の筋肉にかけて電流が駆け巡る。
いやだ。いやだ。いやだ!
身体を蝕む激痛に意識を保つことが出来たのは、その思いがあってこそなのかもしれない。それぐらい「生きる事」に必死でいた。理由は分からなくとも、これだけはハッキリしている。僕は、そう。ただ生きたいのだと。
「う゛ああああああああ!」
腕を振りあげ、雄叫びのような声を上げた。両の拳が振り下げられた石壁は崩れていき、真っ向から風を感じながら外の世界を目にする。死にたくない。ただ、知りたい。見つけたい。自分から溢れ出るこの気持ちの理由を。答えを。
この時、少年の死んだ赤い瞳に初めて、光が宿った。
0
お気に入りに追加
25
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる