SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 プロローグ

02 名前のない化け物

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 ビクン。身体が痙攣したように一度大きく震え、重たい瞼をゆっくりと開ける。少年が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋の中だった。気怠げに上半身を起こすと、頭を鈍器で殴られたかのような激痛と共に平衡感覚がおかしくなって、思わず前屈みに体が傾く。ノイズのような甲高い耳鳴りが、更に頭痛を促進させているようだ。
 手足は疼痛に苛まれ、心臓を押しつぶす塊に胸が苦しくなり、今にも内臓を吐き出してしまいそうになる。息が上手くできなくて、度々大きな深呼吸をしなくてはならなかった。
 ふと頭を抑えていると、自分を縛りつけていた手足の桎梏が外れていることに気づく。これが外れるだなんて、いつぶりだろうか。いや、自分の記憶に体が自由だった時のものなんて残っていない。
 自由になった手足を不思議に思いながら、腕を上げたり、爪先を動かしたりして自由な感覚を確かめた。そうしてから、目に映った光景を一つずつ飲み込もうと辺りを見回す。
 寝ていたベッドの周りには高級感のある引出の取っ手がついた猫足のチェスト、細部まで装飾された鏡台の付近の壁には小さな絵画が取り付けてある。
 窓側には一人用の革ソファと木目の美しいテーブルが向き合うようにして置いてあり、その上には名も知らない真っ赤な花が飾られていた。
 黒く、かび臭いあの牢獄とは正反対で、視界は暖色系の調度品に囲まれており、全体的に温もりを感じる。此処は何処だ? 僕は死んだのか? 真っ先に浮かんだ疑問と共に、少年は自分の生死を思い出そうと頭を捻るが頭の痛みが増すだけで解決には至らなかった。
 眼前には目を焦がす眩しい世界が広がっている。それは今迄自分が目にした事がないような光景で、つまり夢にさえ思えないような場所だ。周囲が明るいからか、目が眩んで普段より視界も極端に狭く感じる。けれどあの暗い部屋より恐怖を感じさせない、謎の安心感があった。
 やはり此処は本当に死後の世界なのだろうか。あの時、僕は自分の知らぬ間に死んでしまっていたのだろうか。少年は痺れた手を精一杯動かしながら、ズキズキと痛む頭を覆うように抑える。
 ふと、頭を抑えた手に普段はない異質なものを感じた。ペタペタと頬から額にかけて触ってみると、額から左目にかけて布質のスベスベとした感触がある。顔本来の凹凸とは違ったでこぼこ感が気になるところだが、どうやら、顔を包帯で巻かれているらしい。どうりで普段より視界が狭かったのかと一人納得した。よく見てみれば、顔だけではなく爪先から身体全体にかけて包帯が巻いてあった。おかげで全体的に可動域は狭く、少し手足を動かしただけでも窮屈に感じる。いつの間にか自分が着ている服も白く、清潔なシャツに変わっていた。サイズが大きいのか、少し袖が余っているのが気になる所だ。
 その変わり様を奇妙に思いながら、少年は余った袖の部分のにおいを恐る恐る嗅ぐ。ふわぁとした石鹸の香りと陽の暖かさを包み込んだ匂いが鼻腔の奥を刺激し、今までに嗅いだことのない、優しく心地よい香りに思わず目を瞑る。知覚してみれば、周囲からも同じような匂いを強く感じた。あの血腥く、かび臭い牢獄の中にいたせいで鼻の機能が狂っているのか、鼻を含める全ての五感が敏感になっている。自然と少年の体の筋肉が弛緩した時だ。
「そんなに良かったか?」
 嘲笑を含んだ低い声音が耳元に聞こえてくる。その吐息に、思わず耳を抑えて振り向いてみると、いかにも悪意のある笑みを浮かべた金髪の青年が顔をのぞき込んでいた。少年は目の前に広がった見知らぬ男の顔に驚愕し、言葉にならない奇声を発すると、後退りをしてそのまま毛布を巻き添えに床へとずり落ちた。
 盛大な音を立てて背中から落ち、巻き添えにした毛布が全身に覆いかぶさると、少年の視界は再び暗闇の中へと引き戻される。急な事に少年は混乱しながらただ毛布の中を動き回った。毛布の中を動き回る奇妙な生き物に、青年は笑いを耐えようと口の中で奥歯を噛み締めていたが、耐えようにも耐えきれず、数秒経たないうちに小さく声に出して笑っていた。
「ったく、何やっているんだよ」
 呆れと笑いが入り混じった声で呟くと、青年は混乱し動き回る少年から毛布を剥ぎ取った。急に元の明るさに戻ったので少年はぽかんと口を開いたまま辺りを見回す。背中に感じる視線に振り返ると、そこには先程の青年が奇妙なものを見る目でじっとこちらを見つめていた。目が合った少年は反射的に立ち上がり、その場から勢いよく後退する。
「やあ、初めまして。君、大丈夫か? 随分ひどい怪我だけれど」
 一歩踏み出した言葉を遮るようにして、少年は睨みつけながら青年に向かって蹴りを放とうとした。青年はその蹴りを慌てて避けるが、避けたことによりすぐ側にあるベッドの支柱が蹴りを受け止める。ボキ、ボキボキッと太い支柱は鈍く大きな音を立てながら完全に折られると、青年のすぐ側に天蓋が崩れ落ちた。
「なっ……」
 急な出来事に青年は倒れていく様を横目で見送りながら、驚愕のあまり身体を硬直させる。一瞬の事で一体何が起こったのかさっぱりだが、確かにこの少年の蹴りが支柱を破壊したのだ。破壊? あの太さの支柱をこの細い足でか? その事実に青年は固まったまま、脳内で疑問を抱いていると、目の前の少年が勢いよく飛びかかった。
 反論する間もなく青年は少年に首を掴まれ、床へと押し倒された。息をする度にヒュウヒュウと喉元から息が漏れるような音が聞こえてくる。喉を潰される恐怖に鳥肌が立ち、背筋に冷や汗が垂れた。
「ふぅーーー! う゛ううーーー!」
 その見た目からは想像もできない力で、青年は強く首を絞めつけられた。首回りに与えられた圧力によって息もできずに視界が朦朧とし始める。苦しさによってぼやけた視界の先にいるそいつは、先程像の後ろで見た獣のような鋭い瞳をしていた。獣は始めに獲物の首を狙うというが、正しくそれだ。呻き声と言い、野生の動物と対面しているかのよう。
 けれど、殺意を抱いた瞳には先程とは違って薄らと涙を浮かべていた。手もガタガタと震えているのが己の首を通してハッキリと分かる。
「っは、ぐ」
 少年の手を自分の首から離すようにして掴むと、空気を求める魚のように口をパクパクと開け、呼吸を試みる。半目で少年を見つめてみれば、少年の瞳には苦しげな自分の表情が映しだされていた。はあはあと荒らげた息と鼓動が脳内に響き渡り、必然的に命の危機を感じる。どうしてこんな事をするのかは分からない。けれど、自分を捕らえた少年の瞳は、殺意というよりも助けを乞う瞳をしていた。自分はこんな事をしたくない。止めてくれと、そう訴える臆病な瞳だ。それを見て、ああ、この子はきっと怯えているだけなのだと青年は悟った。
「……っう」
 途端に少年の見ていた世界はぐにゃりと歪み、青年の首を掴んでいた手が緩む。思わず青年は少年を後ろへと突き飛ばし、涙を浮かべながら激しく咳き込んだ。数秒経って深呼吸とは違った大きな息をつくと、再び眼前の赤目の少年を見つめた。突き飛ばされた少年は床に尻をつきながら、苦しそうに前屈みになって息を荒らげている。
「大丈夫、か? 一応手当はしたがあまり動かない方がいい。全身に重度の火傷、後頭部強打により出血多量。外部だけならまだ良かったが、内臓もだいぶやられている。その動悸が何よりの証拠だ。てっきりこのままあの世行きかと思っていたけれど……その様子なら問題なさそうだな」
 青年はフラフラと立ち上がりながら、なおも少年に歩み寄る。少年はそれにさえ怯え、一歩一歩踏み出す度にビクビクと背中を痙攣させた。
「突き飛ばしてしまってすまなかった。俺の名はシアン・ブラッディ。この邸の当主だ。君に対して危害を加えるつもりは無い……って言葉は通じないのか」
 シアンは腰を折り曲げて、子供に言い聞かせるような優しい言い方で語りかけると、恐る恐る少年に手を差し出す。それを見た少年は怯えたその鋭い瞳でシアンを睨みつけた。
「う゛うー」
 声を張り上げた少年は歯をむき出しにして、シアンの指に噛み付く。途端に指から骨に食い込むような激痛が走り、じわりと噛まれたところから血が滲んでポタポタと床に赤い斑点を作っていった。野蛮で野性的、初めてそいつに抱いた印象のままだ。これじゃあ本当に獣じゃないかと、シアンは痛みで顔を歪めながら少年を見つめた。
 ギリギリと噛む力は衰える事なく強くなるが、シアンは黙ってそれを見つめる。まずは怯えている少年の警戒を解かなくては話にならない。敵意がないと一番手っ取り早く分からせるのはこちら側から手を出さないことだ。とはいえ、怯えているだろうが本当に殺されそうになったらそれなりの抵抗はさせてもらうけれど。そう背中に隠した銃の銃口を冷徹に光らせる。
 途端に噛まれている手に水の感触があり、シアンは驚いたように目を大きく開いた。自分の血と混ざって流れるのはまぎれもない少年の涙だ。驚いた事に敵意を剥き出しにしていた少年は涙を流していたのだ。それはまるで、自分の行いを拒絶しているかのように見える。それを見たシアンは緊張していた眉を下げた。
「もう、大丈夫だ」
 咄嗟に出た言葉と共にシアンは銃を衣服に隠し、少年の頭に優しく手を置いた。一度は戸惑ったが、怯えている子供に手を掛けるほど、大人気ないわけじゃない。少年はその手の温かさを感じると同時に、まるで糸が切れた人形のようにシアンに寄りかかり気を失った。 
「……軽いな」
 邸に連れてきた時もそうだったが、見た目以上に生きているだけの重さがない。この体でよく今まで生きてこれたものだ。いや、これは本当に生きているのだろうか。シアンは寄りかかる少年を見下ろして思った。
「シアン様!? 先程の音は……ひぃ! な、何があったのですか!?」
 扉をノックして入ってきた栗毛のメイドは、眼前のベッドの惨状を見て小さく悲鳴をあげた。背を向けていたシアンは少年を横抱きして、その場から立ち上がる。
「大丈夫ですか? お怪我は……」
「ベイカーか。ああ、問題ない。ベッドの柱が腐っていたみたいだ」
「は、はあ。でも、腐敗で折れるものでしょうか?」
「柱に虫でも巣食っていたのだろう。天然木のベッドだったからな。それより、使っていない来客用の部屋は片付いているか?」
「はい。今は物置に使っていますが、毎日掃除はしているので」
「ならいい。そのベッドは処分して、新しいのを置いてくれ。よろしく頼む」
 捨て台詞のように言い残して、シアンは部屋を後にする。残されたメイドは改めて見るベッドの惨状に「ええ……どうしよう」と言葉を漏らして、ため息をつくしかなかった。



 次に少年が意識を取り戻したのは三日後の朝だった。外ではちゅんちゅんと鳥の鳴き声が朝の澄んだ空気を通してハッキリと聞こえてくる。以前意識があった時より、明らかに身体が軽い。少年は何度か瞬きをすると、上半身だけをゆっくりと起こした。今は頭がはっきりしている。体調も良好だ。ふいに体に対して足元が重かったので足元を見てみると、牢獄を出て初めて出会った人間のシアンが、腕の中に顔を埋めるような体勢で静かに寝息をたてている。
「……うっ!?」
 少年は筋肉が緊張したかのように背筋をピンとさせて警戒態勢に入る。しばらく寝息を立てるシアンをじっと睨みつけていたが、起きる様子はなかったのでほっと安堵の息を漏らして肩の力を抜いた。以前の部屋とは違って物が多い。掃除はされているようだが、物置として使っていたのだろう。全体的に圧迫感があって息苦しさを感じはしたが、牢獄生活だった自分には寧ろこの方が開けた空間より落ち着いた。
 ふと、部屋を目だけで観察していると、シアンの近くに包帯や水に浸かっているタオルなど、自分の看病をしていた形跡を見つける。そう言えば、体中が熱くなってもがいていた夢現の記憶にこの男がちらほらと出てきたような気がした。何度も「死ぬな」「しっかりしろ」などと声をかけ続けて。自分の記憶にある人間達はそんなことを言うはずがない。あの人間を人間とも思わない無機質な瞳で、自分が苦しみもがく様を見ているだけだったのだから。少年は前髪で隠れたシアンの瞳を見てやろうと、徐ろに手を伸ばした。
「ん? 起きたのか」
 興味本位で伸ばした手を遮って、シアンは眠そうに欠伸をしながら体を起こす。急に起きたので少年は驚いて思わず伸ばした腕を引っ込めると、同時にシアンから距離を置いた。伸ばした手をもう片方で覆い隠すように掴む。シアンは背筋を伸ばして欠伸をすると「そういえば」と思い出したかのように口火を切った。
「君、身体の調子はどうだ?」
 急に話を振られた少年は肩を大きく震わせた。君とは自分のことを指しているのだろうか? まだ牢から出てそんなに時が経っていない少年からしたら、牢の外にいる人間と話すなんて未知なる宇宙人と話しているも同然だ。そりゃあ挙動不審にも、疑心暗鬼にもなる。それにこの人間、今迄見てきた人種と違うから逆に怖い。無言のまま一向に目を合わせようとしない少年に、シアンが少し興奮したように話を続けた。
「記憶が曖昧かもしれないが、この三日間、君は高熱を出してね。傷も酷いし、いつ死んでもおかしくない状態だった。治ったとしても一生後遺症が残っても仕方がないと思っていたのに、それを三日でほぼ完治だ。人間の回復力を超越しているよ。俺は、もうダメかと思って教会に君の墓石を立ててもらう準備までしていたのに。無駄になったね」
「……ご、ごめんなさい。生きてて」
「へえ。驚いた。君話せるんだな……そんな事ないよ。自分の墓は自分で決めるべきだ。良かったね、生きてて」 
 笑みを浮かべるシアンに少年は怯えながら見つめ返し「いきて、る」と繰り返す。ふと視界の先に入った自分の掌に、思わず腕を上げる。
 シアンの言う通り、あれほど痛かった身体の痛みも完全に消え、巻いてあった包帯はいつの間にかなくなっている。どうやらその際に焼けただれた皮膚も治ってしまったらしくて、何ヶ所か剥がれて新しい肌が顔を出していた。ただ左目はまだ治ってないのか白い眼帯がしてあって、視界や物の距離感にどうも慣れない。本当に治っているのか。自分でも、恐るべき回復力だと少年は思った。
『へえ、切断しても再生するのか。おもしれえ、まるでトカゲのしっぽだ』
 同時に研究員の声が再生される。少年は死の淵に立たされてもなお、自分が生きていることに特別驚きはしなかった。数年に渡る屈辱から、既に知らされていたからだ。何度も死にかけて、その度に激しい苦痛に耐え忍びながら、延命を余儀なくした。死にたくても、牢獄の外からくる理不尽は、自分を殺してはくれなかった。
 大抵は数日で元に戻るが痛いのには変わりないし、与えられた痛みは生々しく鮮烈な恐怖として深く刻まれている。そう施設での事を思い出して少年は酷く震えあがった。でも、今僕は確かにここで生きている。そう考えただけで、自然と目からは涙が溢れた。自分の意思に反して次から次へと勝手に涙が出てくるので、少年は掌に落ちてくる涙の冷たさを感じながら不思議に思う。
「君、また泣いているのかい? 出会った時から泣いてばかりだな」
「……ごめんなさい」
「謝るなよ。生きている実感が手元にあって、今はほっとしているんだろう。人間として当然の感情だ。抑制せずに、気が済むまで泣けばいい」
 そう言ってシアンは丁寧に折りたたまれた清潔なハンカチを差し出した。少年は涙を溜めた瞳でそれを見つめてから、受け取らずに自分のシャツの袖で拭く。袖で拭くな、汚いと、シアンは差し出したハンカチを無理矢理少年の瞳に当てた。
「それにしても、あれだけ酷かった左顔面の皮膚も治っているようだし、君の回復力は凄いね。なにより、そんな身なりであれほど強力な力を持っているなんて驚きだ」
 ハンカチから手を離しながら少年の顔を見つめて呟く。少年は不満そうにハンカチで涙を拭きながら「ちから?」と掠れた声で聞き返した。
「ん? 覚えてないのか? 君、俺を攻撃しようとした際にベッドの支柱を一蹴りでへし折ったんだ」
 おかげであの部屋は当分物置部屋になるだろうなと、シアンは皮肉をこぼす。その言葉に、少年はこの屋敷に連れてこられたばかりの断片的な記憶が頭を過ぎった。あの時は錯乱していて、自分でも何をしていたかはあまり覚えていない。
 けれど、施設から脱出の際に石壁を破壊したり、あの太さの支柱をひと蹴りでへし折ったりなんて力は今までなかった筈だ。あったら大昔にあんな地獄の巣窟は抜け出していただろう。
 何をキッカケにこの力を得たのかは分からないが、あの日以来、自分の身体に何らかの変化が起きたのは確かだ。それが偶然でないことを、少年はどこかで理解していた。兵器になるべくしてなってしまったのだと。それは少年に再び恐怖を与える。
『モルモットの命など気にする必要は無い。死んだら燃やしとけ』
『―――しぶてぇな。まだ生きてんのか。気持ちが悪い』
『お前らみたいな役立たずでも、戦争の最前線に立たせる殺戮兵器として、この国に貢献できるようにしてやるんだ。少しは俺たちに感謝するんだな』
 脳裏に実験施設で研究員に浴びせられた言葉が過ぎる。その笑い声を、言葉を思い出して、再び涙が溢れ出しそうになった。動悸と震えが激しくなり、前屈みになって俯いた少年の表情は精彩を欠いている。
 そうか。そういう事か。もしかしたらあの時、この手で人の命を奪ってしまったかもしれない。研究員のいうように人を殺すための兵器として。錯乱していた記憶の中でシアンの首を締めつけている自分を思い出し、少年は涙を溜めていた瞳を見開いた。
「おい、大丈夫か? あの部屋については気にしなくていい。どうせ誰も使っていなかったしな」
 少年の様子にシアンは不満ながらも慌てて言い直す。けれど、自身の思考に閉じ込められた少年の耳には何も聞こえてこない。遠くに聞こえる声が耳の中をすぅーと通り過ぎていくだけだ。意識が遠のいていき、自身の鼓動がやけに大きく耳に張り付いている。
 必然的にここに居てはいけないということを少年は悟った。あいつらの言うような兵器にはなりたくない。誰かの命を奪うなんてごめんだ。少年は密かに決意を固めると、手に持っていたハンカチを力強く握りしめ、一息ついた。
「ここ……いたら、だめだ」
 シアンにハンカチを押し付けながら呟くと、ふらつきながらも立ち上がり、青年の横を通り過ぎようと歩みを進めた。
「おい、何処に行くつもりだ」
 不思議そうに横を通り過ぎていく少年の腕をシアンは強く握りしめた。やっと話してくれたのに、と付け加えて。腕を掴まれた少年は酷く怯えたようにすぐさま腕を振り切る。
「……ごめんなさい」
 恐怖と動揺に揺れる瞳を向けられた。何度か瞬きをしてから「いや、謝る意味が分からないが。第一、君、ここを出て何処かに行く宛でもあるのか? 家は」と聞き返す。その言葉を聞くなり、少年はその場で時が止まったかのように体を硬直させた。
 シアンの言葉はもっともだ。施設での凄惨な日々によって記憶が風化され、以前の事を何も覚えていない、それにここがどこかも分からない。勿論のこと、記憶のない少年に行く場所なんてどこにもなかった。
 帰る場所もないのにここから出てしまえば、飢え死にするのは目に見えている。それでもここにいるわけにもいかないと考え「ええっと」と目を逸らして固まっていると、少年の顔を再びシアンがのぞき込んだ。
「その反応だとないんだろ?」
 見透かされたかのような言葉に、少年は言葉を詰まらせる。必死に理由を探してはみるものの、この男が納得しそうな答えが出てこなかった。放っておけばいいのに、つくづく変な男だ。
「だったら、使用人としてこの邸に住まないか? ここで会ったのも何かの縁だし、その力を見込んで頼みたいんだ……今日からここが君の家だ。分かるか?」
 少年は初めて触れ合う人の親切に受け皿を持っていなかった為か、何かあるのではないのかと必然的に意図を探るようにシアンの表情を伺った。一方シアンは馴れ馴れしく少年の肩に軽く手を置いて笑ってみせる。安心させるものなのか、だとしても今まで見てきた人種との違いに少年は怯えた様子でその手を強く振り払った。骨に響く痛みにシアンは赤くなった手を抑える。
「痛いなあ。なにか不満でも? 君が断る理由はないと思うけど」
「……僕は人間じゃない……へ、兵器なんだ。人を殺すための。そう言われて……だから人間とは一緒に、いた、いたらダメだ」
 研究員たちが言っていた言葉を繰り返す。そうだ、こんな力普通じゃない。確かにこいつは変な奴だけど、自分を助けてくれた事に変わりはない。なら、これ以上関わらないのがこいつの為だろう。自らを兵器とする事で、シアンから距離を置こうとした。とどめとばかりに「……お前のことを、傷つけたくない」と小さく呟く。それを聞いたシアンは「何言っているんだ?」と呆れたように言った。
「君は人間だろう? 」
「違う。だって、お前のこと殺そうとし……」
「俺は生きている」
 シアンの言葉に目を伏せたまま少年は肩を大きく震わせた。その穏やかな声に少年はどうすればいいか分からなくなる。青年は一向に反応を見せない少年に「ほら、こっちをしっかりみろ」と無理矢理顔を向かせた。
「なっ? 俺は生きているだろう? 実際に殺されていない。それが事実だ」
「こわ、怖くないのか? 僕のこと」
「怖い? 何故君のような子供に怯えないといけないんだ? 確かに君のその力は普通じゃない。初めて見た時は流石に驚いた。けれど考えてみろ。そんな力、誰にでも備わっているわけじゃない。故に君にしかできない事があるんだ。寧ろ神から与えられた恵みだとは思わないか?」
 淡々と語り出すシアンの言葉に「……そんなわけない」と振り向かせられた手を払う。一方でシアンは「後ろ向きなやつだな。それじゃあ、人生なんて楽しめない」と優しく笑って返した。
「……君は考えを放棄しているようで、自分を卑下し、人のことを気にかけている……優しいやつじゃないか。だが、考えすぎだな。人間なんてそこまで他人に興味はない。人生はもっと単純でいいんだ。考えすぎると気疲れしてしまうからな……まあ、気持ちは分からなくないが」
 考えるなら前向きに行こう、とシアンが人差し指を立てる。
「もし、その力が人を殺すためのものだと言うなら、人を守るために力を使えばいい。俺には君の力が必要なんだ」
「人を、守るための、力」
 思わず少年は繰り返し声に出した。ああそうだ、とシアンが首肯する。
「他者を守ろうとする行為は兵器にはできない。情がないからな。だから、君が他者を守ろうとする限り、君は人でいられるんだ」
「……ほ、んと……?」
 ずっと化け物だと言われてきた。自分は人ではないと。人でいられる、その言葉に心が温かくなった。
「あっ……で、でも、僕……」
 ギュッと胸あたりを掴みながら、申し訳なさそうに口を開いた時である。ぐううと、かつてない大きな音をあげて、言葉より先に二人の間を空腹の音が鳴り響いた。少年は思わず震えた腹を抑えると、その音を聞いたシアンから口に含んだ笑い声が聞こえてくる。
「それでどうだろう? 今なら寝床と食事つきだけど。腹が減ったなら今すぐ用意できるが?」
 シアンは口に折り曲げた指を添えて、笑いを堪えながら再び話を元に戻す。少年は羞恥で赤面になりながら暫く抵抗するようにじっとシアンを見つめていたが、何かを諦めたように肩の力を抜いた。
「……食べてもいいのか?」
「……ああ! うちのコックが作る飯は絶品だからな。楽しみにするといい」
 目を逸らした少年の言葉に、シアンは歓喜の声をあげる。空腹で了承してしまうなんて情けない。とはいえ、ここに置いてもらうのはありがたいことではあるし、ある程度生活が安定してきたら邸を出ればいい話だと少年は自分を納得させるように密かに思った。
 そんな少年の考えも知らずにシアンは呑気に笑っている。見れば見るほど人畜無害そうな男だ。顔立ちも、施設で見てきた人間とは違う。優しくて、温かくて、だからこそ戸惑う。
「歓迎するよ。ええと、名前は。そういえば、まだ聞いていなかったな」
 その言葉に少年は目を見開いて再度固まる。じっとこちらを見つめ、暫くして眉を下げると、暗い表情のまま目線を逸らした。明らかに嫌そうな少年の態度に、地雷を踏んでしまったかとシアンは慌てる。
「ああ、言いたくないなら構わない。無理強いするつもりは……」
「ない」
 少年は小さく答えた。正確には思い出せないのだが。あったとしても、研究員に振られた被験番号ぐらいしかない。そう考えると本当に自分は何も持っていないのだと気付かされた。シアンはなにか訳ありなのかと理由を聞こうとはせずに黙り込む。そんな青年に、少年はますます暗然とした表情になって肩を落胆させた。
「そうか……そうだな。じゃあ、俺が君に名前をつけてやるよ」
「え?」
 顎に手を当てたシアンは「ううん。そうだな」と少年を上から下まで見つめて考え始める。なんでそうなるんだ? と少年は思ったが、面倒なので黙って考え込むシアンをただ見つめた。暫く無言が続いていると、シアンがなにか思いついたように指を鳴らし、振り向いた。その表情は子供のような無邪気さに満ち溢れている。
「ツグナ。ツグナ・クライシス(Tsuguna crisis)はどうだ?」
「……ツグナ、くらいしす?」
 青年の得意げな表情に、少年は微妙に顔を歪ませながら答える。言葉に理解はあるものの、とても発音しにくい名前だ。
「君の血のような(Sicut sanguis)赤い瞳をアナグラム化してみたんだ。あ、ちなみにクライシスのRは君の項に書かれたR-207からきている。俺は君の事を何も知らないからね。けど、唯一君が持っていたものがそれだからさ、折角だし使わせて貰おうと思って」
 我ながら良いセンスだと、自信満々の笑みでシアンは少年に説明する。その説明に少年は項を触り、先程よりも落ち込んだ様子で「これ見たのか」と小声で呟く。
「ああ、君の介抱の際に。すまない、嫌だったか?」
「……ううん」
 間が空いた答えにまた地雷を踏んでしまったか、とシアンは慌てて考え直そうと黙り込む。名前は一生自分に付くものだし、結構真面目に考えたつもりだった。とはいえ、明らかに少年の地雷でありそうなところから拾ってきた自分も自分だ。少し意地悪が過ぎたかと、シアンは改めて頭を捻り始める。
「僕……人間じゃない……って。これ……」
 少年は項を抑えたまま、力なく地面を見下ろした。シアンはそれを聞いて、大きく分かりやすいように「はあ」と言葉に出してため息をつく。
「君はそんなに兵器になりたいのか?」
「……えっと」
「なんで自信がないんだ。なりたくないんだろ? だったらそれでいいじゃないか。それは、ただの意味をなさない文字列だ。他人の言葉に押しつぶされる必要はない。君が何者なのかは君自身が決めろ」
「……わからない」
 少年は何度か瞬きして、項のそれを手で強く抑える。今まで人に生死を握られる世界にいて、自分はただ人以下の存在であることを受け入れるしかなかった。これが当然だと思っていた少年にはその言葉が理解できず、ただ混乱とどうしようもない焦燥感が渦を巻いて膨れ上がる。
「何が分からないんだ。 君の心は君のものだろう? もっと人間である事に自信を持ったらどうだ」
 呆れて強い口当たりになったシアンの言葉に少年は黙りこんだ。眉間に皺を寄せ、見開いた瞳孔には実に多くの感情が複雑に混濁して浮かんでいる。そんな少年の様子を見て、シアンは困り果てたように眉を下げながら目線を逸らして頭を掻いた。
 項の番号や手足の桎梏から、少年の生い立ちや環境が劣悪だったのだろうとは想定がつく。少年の怯え方からしても、人間に対してあまりいいイメージを持っていないことは明白だ。少しからかっていたが、傷が癒えない状態で軽率にこの話題に踏み込むのは、彼の心の傷をさらに深めてしまうかもしれない。
 どうせこれから時間はあるだろうし、これについてはじっくり信頼を得ながら聞いていけばいいだろう。今彼に必要なのは、確かな自己肯定感と安心感だ。幸薄な人間を現実という恐怖から遠ざけることは容易ではない。話題を逸らしても、なにかのキーワードで、勝手に恐怖を思い出してしまうだろう。典型的で、面倒なタイプだ。なら、 遠回しに確信をつきながら、優しい言葉で肯定しつつ恐怖を改変し丸め込むか。シアンは切り替えるように一度瞬きしてから、先程よりも優しく穏やかな笑みを浮かべた。
「俺は君を軽蔑なんてしないし、君が嫌がるならこれ以上それについて聞くつもりもない。項の番号から持ってきたのは、それを消してやりたかったんだ」
「……消す?」
「それとはまた違ったものに生まれ変わらせる。過去を捨てて、また違う自分になれるような……って、なんだか恥ずかしくなってきた。今のは忘れてくれ。別なものを考える」
 照れくさいのかシアンは顎に手を当てて考える素振りをする。違う自分に生まれ変わる、か。少年はそれを聞いてしばらく間を開けてから「それでいい」と言い放った。シアンはそんな少年に瞬きを何度かして見つめてから「いいのか?」と問いかけると「いいって言ってる」と顔を背けた少年から返ってくる。
 シアンの話で気が変わったと言えばそうだ。今まで自分は被検体という扱いを受けてきた。けれど、この男は自分を一人の「人間」として見てくれる。同じ目線に立とうとしてくれる。何より一生懸命頭を捻らせて自分の名を考えてくれる人間に少年はそれで充分満足だった。純粋に嬉しさがこみ上げていた。
「そうか! 気に入ってくれたなら良かった」
 やはり単純なやつだとシアンが少年を見てみれば、長い白髪の間から見えた少年は無表情ながらも閉ざされた唇を歪ませ、先程より明るい表情を浮かべているような気がした。そんな表情もできたんだなと、シアンは感心に思いながら目を細める。
「じゃあ改めて。これからよろしくな、ツグナ」
 目の前に差し出された手をツグナは暫く不思議そうに見つめた。顔を上げてみれば、シアンはこちらに向かってニコニコと微笑んでいる。その圧力に負けると、ツグナは差し出された手の上に無言で手を置いた。これじゃあ、まるで犬のお手だ。
「……ははっ、そうか。ありがとう」
 シアンの満足そうな答えに、ツグナは意味も分からずに顔を顰めた。
 初めは俺の手にすら怖がっていたのに、ツグナは今自分から俺の手に触れてくれた。彼なりにちょっと認めてくれたのだろうか。そんなことを考えて、シアンは一人満足そうに笑みを浮かべるのだった。
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 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

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神崎未緒里
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本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

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