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◇序章【生き、逝き、行く】

序章……(八)  【水害と謀】

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 ◇◇◇




「――サシギさんッ!!
あっあの……今のそれは、この宿が……町の退避勧告の範囲に入ってるって話は、本当のことなんでしょうかッ!? あ、あぁっ……」

「あっおいっ、ニエっ……!」

 耳にした話がよほど衝撃的だったのだろう。
部屋の隅から、リンリを押し退ける形でサシギに向かって顔を出してしまったニエ。

 対してのサシギは、室内から顔を出したニエを見てから目を細めて固い表情を浮かべるが、

「はぁ失礼ながら。旦那様がなぜ、先程の受付の娘を部屋に連れ込んでいるかは……まぁ、このような時ですので目を瞑りましょう。えぇ――そうです。今の話は全て真実でございます」

 溜め息。彼女サシギは今それについてかく言う余裕が無いのだろう。リンリの尻尾に手を伸ばして握り、自らの感情を押し込めるよう首を一度振るとニエの問いに答え、くだんの『勧告』が真実だと断言するのだ。

「おーいサシギさんや、尻尾は止めてくれぃ」

 悶えるようにするリンリ。

「退避勧告が、真実――」

 言葉を反復して。ニエは目を見張り、

「――んなっ、なんでっ?!
町の外ならともかく……町の中でそんな勧告が出るなんて、そんな、あり得ない! ですよ。私が生まれてから一度も町の中で『退避しろ』なんて勧告は……出た事が無いのに……なんでぇっ!?」

 驚愕と困惑を含ませた感情をあらわにし。
額に手を当て、不規則な荒い呼吸で揺らぐ。彼女はしまいに立っていられず襖に寄りかかってしまった。

 そんなニエに肩を貸そうとして。正面から強い視線を感じ、ぶるりと尻尾を震わせるリンリ。

「おーいサシギさんや、何故に俺を睨む?」

「たとえ宿の娘の一人だろうと、お二人が俗の世に関わるという事を危惧きぐしているのです。そしてその感情を分かりやすく表明してみております」

 固い表情のまま、唇を尖らせるサシギ。

「表明、うん?」

 唇をへの字にして、溜め息を吐くサシギ。

「宿の娘が夜中にお二人と世間話に来る、えぇ結構でしょう。どうぞ心行くまで『親睦』なり深めていただければ。人と人の出逢であいは、先の畢生ひっせいを豊かにする宝であるとぞんじます。とはいえ、ですね。せめて私共に声を掛けて下さいませ。不肖ふしょうな身ながら私共がお側付きをしているのは、そういった――」

「――ん、悪い。後でしっかりと詫び入る。
サシギさん、今はほら、静かに!」

 リンリは少しだけ不服そうに尻尾を立ててサシギに視線を送っていたが、そこで宿の外から聞こえてくる騒ぎ声……喧騒に気が付いて獣の耳を揺らした。

『……ダメだ、もうどうしようもない。
クソぉこの一帯は諦めるしかぁねぇのかい?!』

『オイッ! まだこれを知らずに、ぐーすか寝ている奴もいる。もうそっちは諦めて、一軒でも多く回ってこれを報せてこいやィ! その方がまだ被害も少ないはずだ!!』

『どこに行けば良いのかね? ここより地面が高いところかしら? わたしゃ足が悪くて……どなたか! どなたかぁ! 安全な場所まで付き添ってもらえんかぃ!』

『どういうこった? 俺ぁ今見てきたんだが、大通りの先が通れねぇぞ! これじゃかなり回り道でもしないと高台に行けねぇじゃねぇかぁ!』

 そんな意識をすると聞こえてくる声。
叫び、怒声、悲鳴、泣き声、喚きの数々。
 リンリは目を細め、唾を飲む。その顔を凛とした真面目なものにすると、サシギとの話の主旨を戻す。

「――んで、サシギ。退避の勧告って具体的に“何”から避難しなきゃいけないんだ? さっきまでの強い雨からだいたいの見当はつくが……土砂か? 土石流でも向かって来てるのか?」

「――いいえ、純粋な『水』です。
そして向かって来るのではなく、ソレが町の内より押し寄せる可能性があるとのこと。すなわち『貯水場の決壊の危機』でございます。詳しいあらましは後でシルシからご説明を致しましょう。今はハクシ様を起こしていただき、お二人がお逃げになる準備のお急ぎを。いくら統巫の御身でも、大量の水に呑まれれば無事でいられる保障もございませんゆえに」

 サシギも直ぐに会話を切り替えて、現状のかいつまんだ説明後、リンリを急かす。

「んん堰堤えんていではなく、貯水場が決壊? それは意味不明な事だ。しかも『この町は近年じゃ水害とは無縁になった』とか聞いたばかりなんだけどな。……解った。直ぐに行動しよう。建物ごと倒壊して、押し潰されたまま水没でもしたら敵わないからな。と、ハクシの弁だ……」

「旦那様、お手伝い致します」

「サシギはまず着替えてこい! かなり官能的な格好になってるぞー! 外套の中に服着て来て!」

 そんな風に、直ぐ行動を開始しようとするリンリとサシギ。その二人の近くでは、未だに現状を理解出来ていない様子のニエがぼーと立ち尽くしていた。

「――あぁ、そうでした。貴女!」

 サシギは思い出したよう、入り口の前で立ち尽くし正直なところ二人の邪魔になっているニエを現実に戻すためにか、彼女にやや強めの声を掛ける。

「……はい? わ、私? ですか?」

「はい、貴女に対してだろう言伝を『娘がきっと上の階に居るから、見掛けたら伝えてほしい』と、下の階ですれ違った男と少年に頼まれていました」

「それ、父と弟、ですね。……なんて?」

「――家財は、持ち出しが可能な分を少年の方が持って退避する。男は、客の部屋を回って全ての客が無事に逃げた事を確認してから宿を出る。『だから、お前は宿の事を気にせずに、自分の大切な物だけ持って逃げろ!』『もしもの場合は、持ち出せた分の家財を二人で分けて自由に生きろ』との事」

「――ッ!!」

 ――ニエはそれを無言で聞き終わると、リンリとサシギの二人にさっとお辞儀をした後、廊下をまたドタドタと走って行ってしまった。




 ◇◇◇





「我は思う。其方そなたの言う『ふらぁぐ』とは、こういうのを言うのではないのかと。なるほど……後のある状況を引き出す……何とかかんとかが……伏線で……その事柄が……すぅ……なる、ほど……」

 リンリに起こされたハクシは一度は起きたものの、また畳に寝転び、尻尾を大事そうに抱いて丸くなってしまう。口から寝言なのか、先程の会話で言われた言葉をむにゃむにゃと呟いているが、状況が状況だけにその場にいるリンリには笑えない。

「ダメだ、起こすのには早すぎたんだ。
おい、サシギ……ハクシが完全に寝惚けてて動いてくれない。その場で溶けてしまう。ハクシ自身は俺が背負って行けば良いとして、ハクシの手荷物ってこの大量の櫛だけだったかな?」

「その櫛も確かにハクシ様が大切にしてる品ではございますが、リンリ様は特に忘れないでくださいませ、統巫の旦那様なのですから。まだ最重要な物が有ります! ……ハクシ様、念の為に確認いたしますが“枝刃エムシ”はお持ちでしょうか?」

「サシギ、案ずるな……。心配ない。
へーき……へーき……ほら、大丈夫……うん……。すぅ……。朝になったら……おこしてね」

 ハクシは懐から綺麗な紋様の鞘に入った脇差しを二人に見せて。また懐にそれを仕舞いむと、深い眠りの中に戻ってしまう。

「さようでございますか。ならば、他の荷物は既に私の着替えと共に回収して参りましたので。リンリ様の準備が宜しければ完了です」

「よし、もう出発できるな。俺個人の持ち物はこの巾着と枝刃これだけだし、櫛のセットもバッチリと持ったさ。じゃ、ハクシ様。背負って行くからくれぐれも寝惚けて落ちるんじゃないぞ?」

「我が、寝惚けて、背負う? 背負われる?
じゃあ、我は……酔うから、抱っこが良いなぁ。うん。……それが、良いね……くぅ……」

「両手が塞がるから駄目だ! ほら、このまま雑に背負って行くぞ! ちゃんと掴まれって!
……サシギ、後ろから来て、ハクシが落ちそうになったら声を掛けてくれないかな?」

「承知しました! ……外套をどうぞ!」

「おぅ、ありがと!」

 リンリは受け取った外套を羽織り、ハクシにも外套を被せ。そのままハクシを背負ってサシギと共に廊下に出る。そうして、小走りで最初にニエに案内され通って来た廊下を進み、階段を下りて、また廊下を進み、宿の受付場の前まで戻ってきた。そこには待ち人が一人。

「……ん?」

「……シルシ」

「サシギ! いくらなんでも、人に突然自分の服を投げ渡して一人で飛んで行くとはなんじゃ! 酷くはないかのっ?! そもそも無闇に人前であの姿を晒すのは愚かじゃ!」

 そこで待っていたシルシは三人の姿を見掛けると、サシギに不満を洩らし、外套から先っぽの出た蛇の尻尾を揺らしながら近付いてくる。――これで旅の四人が揃った。

「お、シルシ。ご苦労様な感じだな!」

「リンリ様の労いの言葉、頂戴するのじゃ。
そして、そこで知らん顔しているサシギには儂が後で長々と文句を言ってやるから覚悟するのじゃぞっ!!」

「メンバーは全員揃った。これより、安全な場所まで落ち着いて避難するとしようか。高台と言っても俺にはどのくらいの高さから安全か解らないが、とりあえず外に出てみよう……と」

 リンリは暖簾を潜って宿の外に出ようとするが、彼女の外套の裾をシルシが引っ張ってそれを止める。

「……いや、リンリ様。ダメじゃ。表通りからは出ない方が良い。今は我先にと逃げようとして駆け回る町民や、何とか貯水された水を処理しようとする技師、オロオロとするだけの町の衛達など……様々な人間が犇めいていて通行もままならぬからの!」

「……ん? 違和感を感じるな。高台に避難すれば良いなら、どうしてこの町に住み慣れた町民が駆け回る? 久々の水害でパニックになるのは解るが、それだけだ。単純にそっから最短ルートで高い所へ走れば良いだけだろ」

「――それだけならば……簡単じゃな」

「ふーむ。それだけ、なら?」

「あーもぅ……人間とは愚かな物じゃよ。助け合いこそが最善な時に、他者を切り捨て、己の保身をはかる者が現れる。我先にと逃げ惑い、辺りを混迷させ、助かる為の術から皆で盲目となる。……いや、もしや……妙な周到さと迅速すぎる対応を考えると、何者かが予め謀っていたという線も十分に有るかのぅ?」

「迅速すぎる対応、謀っていた?」

「――即ち、あぁ、合点がいったのじゃ!」

「……嫌な予感がする。あれか、災害を利用して悪どい奴とかが策略をめぐらしてたり。考えが足りない馬鹿が、自爆して災害に繋がる被害が発生。それに偶々巻き込まれる登場人物達! ……みたいな“ベタ”な感じの流れだったりして?」

「リンリ様のわけ解らん言い回しでも、うむ、言いたい事は伝わるぞ。その通りじゃ。調べたところ――」

 シルシの言葉に息を呑む一同。

「――今現在、この周囲の主要な通りがほぼ、人が通れないほどに積み上げられた土嚢や瓦礫を集めた簡易的な防壁で“隔離”されておる!」

 …………。

「――なんでだよっ!!」

 理解できず、間を置いてから叫ぶリンリ。

 ――町民は逃げ場を求め、駆け回っていた。



 ◇◇◇



「儂はここに向かう最中に、安全圏で土嚢袋やら木材の防壁を積む作業をしている町の衛士達がしていた話に聴き耳を立てたのじゃ。曰く、表向きは『貯水場が決壊した際の溢れ出す水をこの一画で食い止める為』と」

「んで、まず塞いだのか。バカだな。
町の衛……というと警察官的な役人だろ? ソイツらにはオツムが無いのか? 塞いだら町民が避難できないだろうがっ! 切り捨てるつもりか!?」

「その通りじゃ。町民の逃げる道さえ早々に塞いでしまうとは阿呆過ぎる愚行。衛達も自らがやっている事に苦い顔をしていたのぅ。だけれど、元より町民を逃がす気が薄いとしたならば。この愚行の真のあらましは……おそらくはかりごと。“裏の事情”じゃろうな……」

「裏の事情……ねぇ」

「――町の中に三ヶ所ある貯水場の利権。
……支流、小川から堰堤を利用して汲み取った水を、有料だが格安で、自ら水を汲みとる手間さえ要らず町民に流す貯水場。現在、七つ有る堰堤を含め、三ヶ所其々に別の権力者、上役人のお偉いさんが利権を持っておる。うち一ヶ所で水害が起き、仮にその範囲で人死も出る甚大な被害が発生したとくれば、その権力者は貯水場と堰堤の管理不届きと責任を押し付けられ、利権は没取、他の権力者の物となる。だから結託し、ある意味での人為的な水害で――」

「――シルシ。うん。その話は凄く興味深いんだが、長くなりそうだし、非常に胸糞が悪くなりそうだ。悪いが“要するに”で話してくれないか?」

「――つまり、地上の逃げ道は迷路で、裏路地を上手く通らなければ高台には逃げ切れぬ。実質安全な場所に逃げるとなると、地理的な高台に逃げるよりも、丈夫な建物の、なるべく高い階に退避する方が手っ取り早く安全だという事になるの」

 リンリは外套の中で顔をしかめた。

「さて、ここで問題だ。逃げる事に必死で、パニックになって、その選択を冷静に考えられない人。または、思い付いても間に合わなかった人達はどうなるんだろうな?」

 そして、水害から逃げ切れなかった者達がその結果どうなるか。頭では理解しているものの、敢えてシルシに確認するリンリ。

「運の良い者以外、ほぼ、死ぬの。このままでは。まあ、儂的には『ざまぁみろ』といったところじゃが。……ほれ、丁度、向かいの宿ならば良さそうではないか。屋根の上まで登れば確実に安全じゃ!」

「よし、把握した。つまりは、だ――」

「サシギ、飛んでくれんかの?
この宿の高い階から直接、向かいの宿の屋上に一人ずつ運んで欲しいんじゃ。さすれば「――ハクシ、起きてくれ!!」

 リンリはシルシの言葉を遮り、低い声で背中のハクシにそう言った。今までのどこか飄々として冗談交じりの声色ではなく。感情を感じさせない、いいや多くの激情を抑え込み、表面上どうにか平静を保っているような冷たく棲んだ声で。

「……リンリ様、今ハクシ様を起こしてどうするおつもりじゃ? まさか、何かしようとでもお考えでは? ……もしもそうなら、ダメじゃ、考え直してくだされ。この災害は、この町の愚か者達が招いた避けられぬ定め。干渉する必要はありませぬぞ!」

「シルシ。お前の心はそれで晴れるのか?
町の誰かの死によって、お前はそれで救われるとでもいうのか? 過去、ここに愛もあったのでは? 親しみもあったのでは? それらを育んだ町を切り捨てた先に、絶対に後悔はしないと言い切れるか? お前の過去は、今を蔑ろにし、未来に繋がるのか?」

「何を……」

「シルシ。お前は現在こそ“そんな”成りをしてるが、元々は人間だったんだろ。この町で暮らした普通の町娘だった。……お前はもう人を見限みかぎったと言ったがな、人間の心まで捨てたのか? 断片的だがお前の過去を聞いて、人間が、この町が嫌いな訳も理解している。だが、それとこれとは話が違う!!」

「うぬぅぅ……」

「今のお前は、ハクシと俺の使従だ。ならばこの場は俺の意に従え! めいをもって、いのちとうとぶ――ほまれ有る系統導巫の使従というならば、其れに相応しい行動と心意気を持ちこれを矜持きょうじとせよ! なんだろ?」

 どこかの受け売りの言葉を放つ。

 顔を隠す頭巾を取り払うと、リンリは獣のように変化した金の瞳をシルシに数秒向ける。そして、再度背中のハクシに大声で言った。

「頼む、起きてくれハクシ。お前なら、お前と俺ならきっと何とかできるだろ? ――彼の系統導巫のハクシ様と、そのツガイであり統巫のようでもある俺。俺達二人と、使従二人ならさっ!!」
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