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夢に咲く花

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 ナキイが着替えの服を手に入れ病院に戻って来た時、彼の両腕には深緑の双籠手はなく、胸元に赤い花飾りのネックレスを身に着けるのみだった。

 上半身素肌を晒したまま街中を闊歩するのは、通常なら気が引けただろうが、この非常時ではそもそも見る者もいない。
 何せ、正体不明生物の発生に伴い、町は厳戒態勢だ。中心から半径十五キロ以内は屋内退避。シャッターを閉めた病院内部までは聞こえないが、現在町中に耳障りな警報が流れている。

 なので病院に戻って来た時、ナキイはようやく静かになると胸を撫でおろしたものだったが、ドアの外にまで漏れる怒鳴り声に、顔をしかめた。
 見た目の割に幼い印象を受けるやや低めの声。すぐに誰のものが察しがついた。


「ああ……」


 やはりどうにもならなかったのだと、ため息が漏れた。あの巨大蜘蛛を見た時からこうなる気はしていた。こういう場面は何度立ち会っても気が滅入るもので、慣れる日など一生来ないだろう。
 ナキイは一度は握ったドアノブを握り直し、もう一度、深いため息を吐いた。


――ガチャ……――


 そうやって中に入る決心がつかないまま立ち尽くしていると、ドアが開き、中から医者とその助手が出てきた。互いに無言で一礼する。


「あの、すみません。中の彼の様子はどうなのでしょう」


 ナキイは、そのまま廊下の左奥に向かおうとする医者を呼び止めた。


「先程も中の方に伝えましたが、手を尽くしましたが好ましい結果は得られませんでした。後は患者自身の生命力を信じるしかありません。ですが可能なら、すぐにでもお身内の方に連絡をされた方が良いでしょう」


 日常の業務連絡が如く、医者はひどく淡々としていて、感情の伴わないセリフなど人によっては、神経を逆撫でするかもしれない。
 ベッドの上で死にかけている人と何の所縁もないナキイだが、心にチクリと来るものがある。


「別の、もっと大きい病院に移したりはできないのでしょうか。今ならあれを避けて行くことも可能でしょうし、もっと……」


 もっと医者として出来ることがあるんじゃないか。ナキイは態度に不信感露わにして尋ねた。


「患者の体力が持たないでしょう。それにうちは規模は小さいですが、医療体制は万全を整えています。不足はないと考えています」


 だがやはり、医者は顔色一つ変えず、澄ました顔でナキイを見下ろす。


「テア山の雫もですか?」


 それまで無表情を貫いていた医者の耳が、ピクリと反応を示した。


「よくご存じですね」


 知っているのは実際に現物を持っているからだ。正直な所、その薬を使用するつもりはナキイにだってない。どれだけ貴重な薬か知っているからこそ、医者の返答は予想が付いていて、あえて尋ねたのだ。


「確かにうちにはありませんが、他の病院にだってありませんし……変わりませんよ。どこでも対処しようがないって、嘆いているんですから!」


 吐き捨てるように語尾が強く切れ、医者は耳をブルルと震わせ鼻息を荒くした。
 助手の女が医者の腕に手を添え宥めても、息を大げさに吸い込む音が聞こえてくる。


 ナキイは恥ずべき事をしてしまった、と思った。自身のトラウマを刺激されつい言い過ぎてしまった。しかもだ、今は一応勤務中でもある。


「失礼しました。ありがとうございます」


 ナキイが頭を下げると、医者も軽く頭を下げ返した。それから無言のまま、廊下の突き当りのドアに消えていった。


 それからしばし、ナキイはドアの前で中に入るべきか否かを悩んでいた。

 最後の時まで、彼らをそっとしておくべきではないのか。一度はそう思ったが、ここまで運んだ身としては、どうしても気になってしまう。

 ナキイは思い切ってドアを開けた。
 音を立てないようゆっくりとドアノブを回し、ドアの隙間から部屋の中を覗く。


 中は奇妙なくらい静かだった。孝宏はベッドに顔をうつ伏して、時折、動かない友人の顔を覗き込んでいる。現状を理解できていないと優に物語っている彼の表情は、いつか見た光景と重なり、ナキイは心臓をキュッと締め上げられる。


 ナキイには思い出したくない、決して忘れてはいけない記憶がある。

 あの日からどれだけ時が経ったとしても色褪せない気持ちは、事あるごとに記憶の奥底から蘇りナキイをどん底に突き落とした。


――何とかしろ!あんたたちの責任だろう!?――


 あの日、泣き崩れるの両親にかける言葉もなく、何も出来なかった、冷たくなっていくあの人を部屋の隅で見ていた。

 そんな自分とは違う。彼は次第に弱っていく友人を前にしながら、何もできない自分を責めているのだろう。

 そう思うとナキイは胸がざわつき、いても立ってもいられなくなった。そして、ほとんど衝動的に選択してはいけない言葉を口にしていた。


「終わりの零の解放」


 掌で渦巻き始めた空気が、徐々に色づき圧縮され形作っていくのを、ナキイが握った時には、すでに個体として存在していた。

 いつもは隠されているそれが完全に開放されるまでの僅かな時間、ナキイは本当にこれで良いのかと、自問自答を繰り返していた。

 これを託された責任は大きい。だからこそ今の今まで使うことなくひたすら隠し持っていて、にすら使えなかったのだが、それなのに見ず知らずの人の為に使おうとしているのは、むしろそれを責められても仕方がないという自覚はある。

 すべきでないと頭の片隅で警告する自分がいるが、実際はベッドの二人から目を離せないでいる。見ているだけで泣きそうになるのだ。

 ナキイの心がはっきりと固まらないまま十数秒後、渦巻いていた空気は茶色の小瓶へと変化を完了させた。

 それは陶器で出来た、こげ茶の小瓶で、大きめのクルミほどはあるだろうか。アーモンド形で先端はやや細長く尖っており、その尖った部分にうっすらと横線が入る。


 ナキイはテア山の雫をしっかりと両手で握りしめた。


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