124 / 180
夢に咲く花
50
しおりを挟む
ナキイが着替えの服を手に入れ病院に戻って来た時、彼の両腕には深緑の双籠手はなく、胸元に赤い花飾りのネックレスを身に着けるのみだった。
上半身素肌を晒したまま街中を闊歩するのは、通常なら気が引けただろうが、この非常時ではそもそも見る者もいない。
何せ、正体不明生物の発生に伴い、町は厳戒態勢だ。中心から半径十五キロ以内は屋内退避。シャッターを閉めた病院内部までは聞こえないが、現在町中に耳障りな警報が流れている。
なので病院に戻って来た時、ナキイはようやく静かになると胸を撫でおろしたものだったが、ドアの外にまで漏れる怒鳴り声に、顔をしかめた。
見た目の割に幼い印象を受けるやや低めの声。すぐに誰のものが察しがついた。
「ああ……」
やはりどうにもならなかったのだと、ため息が漏れた。あの巨大蜘蛛を見た時からこうなる気はしていた。こういう場面は何度立ち会っても気が滅入るもので、慣れる日など一生来ないだろう。
ナキイは一度は握ったドアノブを握り直し、もう一度、深いため息を吐いた。
――ガチャ……――
そうやって中に入る決心がつかないまま立ち尽くしていると、ドアが開き、中から医者とその助手が出てきた。互いに無言で一礼する。
「あの、すみません。中の彼の様子はどうなのでしょう」
ナキイは、そのまま廊下の左奥に向かおうとする医者を呼び止めた。
「先程も中の方に伝えましたが、手を尽くしましたが好ましい結果は得られませんでした。後は患者自身の生命力を信じるしかありません。ですが可能なら、すぐにでもお身内の方に連絡をされた方が良いでしょう」
日常の業務連絡が如く、医者はひどく淡々としていて、感情の伴わないセリフなど人によっては、神経を逆撫でするかもしれない。
ベッドの上で死にかけている人と何の所縁もないナキイだが、心にチクリと来るものがある。
「別の、もっと大きい病院に移したりはできないのでしょうか。今ならあれを避けて行くことも可能でしょうし、もっと……」
もっと医者として出来ることがあるんじゃないか。ナキイは態度に不信感露わにして尋ねた。
「患者の体力が持たないでしょう。それにうちは規模は小さいですが、医療体制は万全を整えています。不足はないと考えています」
だがやはり、医者は顔色一つ変えず、澄ました顔でナキイを見下ろす。
「テア山の雫もですか?」
それまで無表情を貫いていた医者の耳が、ピクリと反応を示した。
「よくご存じですね」
知っているのは実際に現物を持っているからだ。正直な所、その薬を使用するつもりはナキイにだってない。どれだけ貴重な薬か知っているからこそ、医者の返答は予想が付いていて、あえて尋ねたのだ。
「確かにうちにはありませんが、他の病院にだってありませんし……変わりませんよ。どこでも対処しようがないって、嘆いているんですから!」
吐き捨てるように語尾が強く切れ、医者は耳をブルルと震わせ鼻息を荒くした。
助手の女が医者の腕に手を添え宥めても、息を大げさに吸い込む音が聞こえてくる。
ナキイは恥ずべき事をしてしまった、と思った。自身のトラウマを刺激されつい言い過ぎてしまった。しかもだ、今は一応勤務中でもある。
「失礼しました。ありがとうございます」
ナキイが頭を下げると、医者も軽く頭を下げ返した。それから無言のまま、廊下の突き当りのドアに消えていった。
それからしばし、ナキイはドアの前で中に入るべきか否かを悩んでいた。
最後の時まで、彼らをそっとしておくべきではないのか。一度はそう思ったが、ここまで運んだ身としては、どうしても気になってしまう。
ナキイは思い切ってドアを開けた。
音を立てないようゆっくりとドアノブを回し、ドアの隙間から部屋の中を覗く。
中は奇妙なくらい静かだった。孝宏はベッドに顔をうつ伏して、時折、動かない友人の顔を覗き込んでいる。現状を理解できていないと優に物語っている彼の表情は、いつか見た光景と重なり、ナキイは心臓をキュッと締め上げられる。
ナキイには思い出したくない、決して忘れてはいけない記憶がある。
あの日からどれだけ時が経ったとしても色褪せない気持ちは、事あるごとに記憶の奥底から蘇りナキイをどん底に突き落とした。
――何とかしろ!あんたたちの責任だろう!?――
あの日、泣き崩れるあの人の両親にかける言葉もなく、何も出来なかった自分を責めることすら許されず、冷たくなっていくあの人を部屋の隅で見ていた。
そんな自分とは違う。彼は次第に弱っていく友人を前にしながら、何もできない自分を責めているのだろう。
そう思うとナキイは胸がざわつき、いても立ってもいられなくなった。そして、ほとんど衝動的に選択してはいけない言葉を口にしていた。
「終わりの零の解放」
掌で渦巻き始めた空気が、徐々に色づき圧縮され形作っていくのを、ナキイが握った時には、すでに個体として存在していた。
いつもは隠されているそれが完全に開放されるまでの僅かな時間、ナキイは本当にこれで良いのかと、自問自答を繰り返していた。
これを託された責任は大きい。だからこそ今の今まで使うことなくひたすら隠し持っていて、あの人にすら使えなかったのだが、それなのに見ず知らずの人の為に使おうとしているのは、むしろそれを責められても仕方がないという自覚はある。
すべきでないと頭の片隅で警告する自分がいるが、実際はベッドの二人から目を離せないでいる。見ているだけで泣きそうになるのだ。
ナキイの心がはっきりと固まらないまま十数秒後、渦巻いていた空気は茶色の小瓶へと変化を完了させた。
それは陶器で出来た、こげ茶の小瓶で、大きめのクルミほどはあるだろうか。アーモンド形で先端はやや細長く尖っており、その尖った部分にうっすらと横線が入る。
ナキイはテア山の雫をしっかりと両手で握りしめた。
上半身素肌を晒したまま街中を闊歩するのは、通常なら気が引けただろうが、この非常時ではそもそも見る者もいない。
何せ、正体不明生物の発生に伴い、町は厳戒態勢だ。中心から半径十五キロ以内は屋内退避。シャッターを閉めた病院内部までは聞こえないが、現在町中に耳障りな警報が流れている。
なので病院に戻って来た時、ナキイはようやく静かになると胸を撫でおろしたものだったが、ドアの外にまで漏れる怒鳴り声に、顔をしかめた。
見た目の割に幼い印象を受けるやや低めの声。すぐに誰のものが察しがついた。
「ああ……」
やはりどうにもならなかったのだと、ため息が漏れた。あの巨大蜘蛛を見た時からこうなる気はしていた。こういう場面は何度立ち会っても気が滅入るもので、慣れる日など一生来ないだろう。
ナキイは一度は握ったドアノブを握り直し、もう一度、深いため息を吐いた。
――ガチャ……――
そうやって中に入る決心がつかないまま立ち尽くしていると、ドアが開き、中から医者とその助手が出てきた。互いに無言で一礼する。
「あの、すみません。中の彼の様子はどうなのでしょう」
ナキイは、そのまま廊下の左奥に向かおうとする医者を呼び止めた。
「先程も中の方に伝えましたが、手を尽くしましたが好ましい結果は得られませんでした。後は患者自身の生命力を信じるしかありません。ですが可能なら、すぐにでもお身内の方に連絡をされた方が良いでしょう」
日常の業務連絡が如く、医者はひどく淡々としていて、感情の伴わないセリフなど人によっては、神経を逆撫でするかもしれない。
ベッドの上で死にかけている人と何の所縁もないナキイだが、心にチクリと来るものがある。
「別の、もっと大きい病院に移したりはできないのでしょうか。今ならあれを避けて行くことも可能でしょうし、もっと……」
もっと医者として出来ることがあるんじゃないか。ナキイは態度に不信感露わにして尋ねた。
「患者の体力が持たないでしょう。それにうちは規模は小さいですが、医療体制は万全を整えています。不足はないと考えています」
だがやはり、医者は顔色一つ変えず、澄ました顔でナキイを見下ろす。
「テア山の雫もですか?」
それまで無表情を貫いていた医者の耳が、ピクリと反応を示した。
「よくご存じですね」
知っているのは実際に現物を持っているからだ。正直な所、その薬を使用するつもりはナキイにだってない。どれだけ貴重な薬か知っているからこそ、医者の返答は予想が付いていて、あえて尋ねたのだ。
「確かにうちにはありませんが、他の病院にだってありませんし……変わりませんよ。どこでも対処しようがないって、嘆いているんですから!」
吐き捨てるように語尾が強く切れ、医者は耳をブルルと震わせ鼻息を荒くした。
助手の女が医者の腕に手を添え宥めても、息を大げさに吸い込む音が聞こえてくる。
ナキイは恥ずべき事をしてしまった、と思った。自身のトラウマを刺激されつい言い過ぎてしまった。しかもだ、今は一応勤務中でもある。
「失礼しました。ありがとうございます」
ナキイが頭を下げると、医者も軽く頭を下げ返した。それから無言のまま、廊下の突き当りのドアに消えていった。
それからしばし、ナキイはドアの前で中に入るべきか否かを悩んでいた。
最後の時まで、彼らをそっとしておくべきではないのか。一度はそう思ったが、ここまで運んだ身としては、どうしても気になってしまう。
ナキイは思い切ってドアを開けた。
音を立てないようゆっくりとドアノブを回し、ドアの隙間から部屋の中を覗く。
中は奇妙なくらい静かだった。孝宏はベッドに顔をうつ伏して、時折、動かない友人の顔を覗き込んでいる。現状を理解できていないと優に物語っている彼の表情は、いつか見た光景と重なり、ナキイは心臓をキュッと締め上げられる。
ナキイには思い出したくない、決して忘れてはいけない記憶がある。
あの日からどれだけ時が経ったとしても色褪せない気持ちは、事あるごとに記憶の奥底から蘇りナキイをどん底に突き落とした。
――何とかしろ!あんたたちの責任だろう!?――
あの日、泣き崩れるあの人の両親にかける言葉もなく、何も出来なかった自分を責めることすら許されず、冷たくなっていくあの人を部屋の隅で見ていた。
そんな自分とは違う。彼は次第に弱っていく友人を前にしながら、何もできない自分を責めているのだろう。
そう思うとナキイは胸がざわつき、いても立ってもいられなくなった。そして、ほとんど衝動的に選択してはいけない言葉を口にしていた。
「終わりの零の解放」
掌で渦巻き始めた空気が、徐々に色づき圧縮され形作っていくのを、ナキイが握った時には、すでに個体として存在していた。
いつもは隠されているそれが完全に開放されるまでの僅かな時間、ナキイは本当にこれで良いのかと、自問自答を繰り返していた。
これを託された責任は大きい。だからこそ今の今まで使うことなくひたすら隠し持っていて、あの人にすら使えなかったのだが、それなのに見ず知らずの人の為に使おうとしているのは、むしろそれを責められても仕方がないという自覚はある。
すべきでないと頭の片隅で警告する自分がいるが、実際はベッドの二人から目を離せないでいる。見ているだけで泣きそうになるのだ。
ナキイの心がはっきりと固まらないまま十数秒後、渦巻いていた空気は茶色の小瓶へと変化を完了させた。
それは陶器で出来た、こげ茶の小瓶で、大きめのクルミほどはあるだろうか。アーモンド形で先端はやや細長く尖っており、その尖った部分にうっすらと横線が入る。
ナキイはテア山の雫をしっかりと両手で握りしめた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
魔がさした? 私も魔をさしますのでよろしく。
ユユ
恋愛
幼い頃から築いてきた彼との関係は
愛だと思っていた。
何度も“好き”と言われ
次第に心を寄せるようになった。
だけど 彼の浮気を知ってしまった。
私の頭の中にあった愛の城は
完全に崩壊した。
彼の口にする“愛”は偽物だった。
* 作り話です
* 短編で終わらせたいです
* 暇つぶしにどうぞ
エーテルギアの冒険者 〜異世界エルヴァニアで運命を掴む〜
Coppélia
ファンタジー
青と緑の光の世界‥スチームパンク×エーテルファンタジー――始動!
「ここは、どこだ…?」
-これはのちに「エーテルギア中興の祖」と称される、ある技術者の冒険譚-
日本で流行病に倒れた橘瑞樹が目覚めたのは、空に蒸気船が浮かび、エーテルと歯車が支える異世界の街「クロックタウン」。
自分がどうして16歳の青年として転生したのか、わからないことだらけの彼に手を差し伸べたのは、青い義手の研究者リリーだった。
エーテルというエネルギーを使い、街の暮らしを支える「エーテルギア」。
リリーからこの世界のあらましを聞いた瑞樹は、異世界で再び生きること模索し始めた。本によればこの世界には様々な謎がある。世界各地の「世界樹」に「天空の城」、「青いエーテルギア」、そして、瑞樹自身。
エーテル技術の探求と、新しい世界に誰も知らない謎が彼を待ち受けている。果たして、瑞樹は異世界で運命を切り拓けるのか——
異世界の技術と魔物が交錯するスチームパンク冒険譚、開幕!
いずれ最強の錬金術師?
小狐丸
ファンタジー
テンプレのごとく勇者召喚に巻き込まれたアラフォーサラリーマン入間 巧。何の因果か、女神様に勇者とは別口で異世界へと送られる事になる。
女神様の過保護なサポートで若返り、外見も日本人とはかけ離れたイケメンとなって異世界へと降り立つ。
けれど男の希望は生産職を営みながらのスローライフ。それを許さない女神特性の身体と能力。
はたして巧は異世界で平穏な生活を送れるのか。
**************
本編終了しました。
只今、暇つぶしに蛇足をツラツラ書き殴っています。
お暇でしたらどうぞ。
書籍版一巻〜七巻発売中です。
コミック版一巻〜二巻発売中です。
よろしくお願いします。
**************
魔法と剣どっちにするって聞かれたから、魔法選んだらめっちゃ大変なんだけど!?
たぬきち25番
ファンタジー
【第二章完結】
平均を極める高校生、時白秀人は異世界に迷いこんでしまった。
異世界での秀人はかなり優秀で、美人魔法学術士や、なんと一国の王子まで秀人を側に置こうとしていたが、平均感覚が抜けない秀人だけが自分の魔法の才能に気付けないのだった。
そんな中、異世界では魔王復活の兆しが見え始めた。
逃げ出したいのに、逃げ出せない!!
誰か、変わって~~~切実に~~~!!
※小説家になろう様にも掲載させて頂いております。
チートがちと強すぎるが、異世界を満喫できればそれでいい
616號
ファンタジー
不慮の事故に遭い異世界に転移した主人公アキトは、強さや魔法を思い通り設定できるチートを手に入れた。ダンジョンや迷宮などが数多く存在し、それに加えて異世界からの侵略も日常的にある世界でチートすぎる魔法を次々と編み出して、自由にそして気ままに生きていく冒険物語。
アラフォー料理人が始める異世界スローライフ
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
ある日突然、異世界転移してしまった料理人のタツマ。
わけもわからないまま、異世界で生活を送り……次第に自分のやりたいこと、したかったことを思い出す。
それは料理を通して皆を笑顔にすること、自分がしてもらったように貧しい子達にお腹いっぱいになって貰うことだった。
男は異世界にて、フェンリルや仲間たちと共に穏やかなに過ごしていく。
いずれ、最強の料理人と呼ばれるその日まで。
婚約破棄されなかった者たち
ましゅぺちーの
恋愛
とある学園にて、高位貴族の令息五人を虜にした一人の男爵令嬢がいた。
令息たちは全員が男爵令嬢に本気だったが、結局彼女が選んだのはその中で最も地位の高い第一王子だった。
第一王子は許嫁であった公爵令嬢との婚約を破棄し、男爵令嬢と結婚。
公爵令嬢は嫌がらせの罪を追及され修道院送りとなった。
一方、選ばれなかった四人は当然それぞれの婚約者と結婚することとなった。
その中の一人、侯爵令嬢のシェリルは早々に夫であるアーノルドから「愛することは無い」と宣言されてしまい……。
ヒロインがハッピーエンドを迎えたその後の話。
モノ作りに没頭していたら、いつの間にかトッププレイヤーになっていた件
こばやん2号
ファンタジー
高校一年生の夏休み、既に宿題を終えた山田彰(やまだあきら)は、美人で巨乳な幼馴染の森杉保奈美(もりすぎほなみ)にとあるゲームを一緒にやらないかと誘われる。
だが、あるトラウマから彼女と一緒にゲームをすることを断った彰だったが、そのゲームが自分の好きなクラフト系のゲームであることに気付いた。
好きなジャンルのゲームという誘惑に勝てず、保奈美には内緒でゲームを始めてみると、あれよあれよという間にトッププレイヤーとして認知されてしまっていた。
これは、ずっと一人でプレイしてきたクラフト系ゲーマーが、多人数参加型のオンラインゲームに参加した結果どうなるのかと描いた無自覚系やらかしVRMMO物語である。
※更新頻度は不定期ですが、よければどうぞ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる