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その後の話
牛タンか、いなり寿司か
しおりを挟む「なぁ、虎太郎、梅干しを見ると唾液が出てくるのはなんでなんだ?」
「条件反射っていうやつだろ。俺は最近、胡蝶を見るとそうなる」
「それ、単に腹が減ってるだけだろ。胡蝶を梅干しババぁみたく見てんなら、殴るぞ」
「梅干しの話なんかしてねぇし。条件反射だよ。胡蝶を見ると腹が減るんだ。辰兄は違うのか?」
「……そういえば」
「ってか、うちに梅干しババぁがいるとしたら、それはお袋だよ」
「言えてらぁ」
あははと、男たちの無神経な笑い声が家中に響く。
居間でお茶をすすりながら、息子たちの会話をたまたま耳にしたお佳代は、胡蝶を呼び寄せて言った。
「今後一切、あんな馬鹿息子どもにお嬢様の手料理を振る舞う必要はありません」
怖い顔をするお佳代を見て、胡蝶はキョトンとする。
「どうしたの、母さん、急に」
「急に、ではありませんわ。お佳代は常々考えておりました、お嬢様は息子たちの好物を知り尽くし、毎晩美味しい料理で息子たちを笑顔にしてくれる。それはそれで尊い行いですけれど、お嬢様が真に心を尽くすべきは息子たちではなく、他にいるのでは? と」
「母さんったら、まどろっこしい言い方はやめて、はっきり言って」
「龍堂院様ですわっ、お嬢様っ。あたくしたち家族は皆、あの方に信じられないほどお世話になっているというのに――倒れて動けないあたくしを抱えて、病院へ連れて行ってくださったのも他ならぬ龍堂院様でした。いわばあたくしにとっては命の恩人。それなのにお嬢様ときたら、馬鹿息子たちの食事を作るのに夢中で、あの方のことをないがしろに――」
さすがの胡蝶も、この言葉には黙っていられず、
「まあ、ないがしろになんてしていないわっ。一眞さんにはいつだって感謝していてよ」
「でしたら、これから食事の時は龍堂院様もお誘いして、あの方の好物を作るべきでは?」
ようやくお佳代の言いたいことが見えてきたと、胡蝶は口を開く。
「お誘いはしているけれど、いつも断られているのよ。仕事中だからって」
「あたくしたちに遠慮しているだけですわっ。もっと強引にお誘いになればいけますっ」
鼻息荒くお佳代は断言する。
ところで、とわざとらしい咳ばらいをすると、
「龍堂院様の好物はなんですの?」
「それが……一眞さんはあまり食事に執着がないみたいで」
必要最低限の栄養が取れれば十分だという一眞のことを思い出して、ため息がこぼれる。
その上、彼は食べるのが早く、味にも頓着しない。
「特に好き嫌いはないとおっしゃっていたわ」
お佳代は腕組みして考え込むような顔をすると、
「これまで、龍堂院様が口にしたもので、反応が良かったものは?」
「そうねぇ、私が作ったものはなんでもおいしいと言って食べてくださるけど……」
「外食時はどうでしたか?」
「いつも肉料理を召し上がっているイメージがあるわ」
そういえば、一眞は化け狐の混ざり者だと言っていた。
狐の好物と言えば油揚げである。
今度、油揚げを使った料理で彼をもてなそうかと考えていると、
「油揚げなんて、御貴族様の食べ物じゃありませんわ」
お佳代に強く反対されて、断念する。確かに狐イコール油揚げは単純すぎるかもしれないし、一眞に対しても失礼である。でも試すだけなら……。
「お嬢様、それよりもいいものがありますわ」
そう言ってお佳代は、氷式冷蔵庫からあるものを取り出して見せた。
「まあ、綺麗なお肉」
「ただのお肉じゃありませんわ。牛タンです。高級品ですわ」
ハッと息を吞む胡蝶に、お佳代は声を潜めて言った。
「くれぐれも息子たちには秘密に。肉を前にすると飢えた猛獣になりますから」
「どうしたの、これ」
「清水の舞台から飛び降りる気持ちで買いました。ぜひ龍堂院様に召し上がって欲しくて」
なるほど、少し前にこそこそ出かけていたのは、これを買うためだったのか。
「今夜は虎太郎を連れて出かけますから、お嬢様、あとはどうすべきか、分かりますね?」
***
牛タンを使って何を作ろうか考えた末、シンプルなものにした。
まず塩コショウでお肉に下味をつけて、薄く油を引いたフライパンでさっと炒める。
厚切りだとお佳代は言っていたものの、牛タンは薄いのであまり焼き過ぎないようにして、みじん切りにしたネギやすりおろしたニンニク、塩コショウとごま油を混ぜたものを盛りつけ、レモンを添えれば完成だ。
これを嫌いな殿方はいないとお佳代が断言した通り、一眞は嬉しそうに完食してくれた。これけではもの足りないだろうと思い、牛タンととろろ丼も作ったところ、おいしいおいしいと言って食べてくれる。実はこっそりいなり寿司も作っておいたのだが、この分だと必要なさそうだと思い、遠ざけておいた。
「ごちそうさまでした、おいしかったです」
「お粗末様でした。お口に合って良かったわ」
今夜は誰もいないから一緒に食事して欲しいと言うと、一眞は喜んで付き合ってくれた。
「一眞さん、私、一眞さんにはとても感謝しているの」
「どうしたんですか、急に」
「いいえ、ただ、感謝の気持ちを伝えたくて。いつも家族のことで、一眞さんにはご迷惑ばかりかけているから」
お佳代に言われたことを思い出して、胡蝶はしょぼんと肩を落とす。
「私が一眞さんにしてあげられることといえば、これくらいのことしか……」
「他にもできることはありますよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべて、一眞は囁くように言う。
「もっと俺に甘えてください。もっと俺の名前を呼んで、俺のそばにいてください」
そんな簡単なことでいいのかと、胡蝶は目を丸くする。
そろそろと彼のそばへすり寄れば、強く抱きしめられて、匂いを確かめるように鼻先を押し付けられる。
「貴女はいい匂いがします」
「さっき、お肉を焼いたから」
「違います、そういう意味じゃなくて……」
「一眞さんはお日様の匂いがするわ」
「今日は一日中、外に出ていたので」
ただ黙ってくっついているだけで幸せだという彼に、
「一眞さんはとても疲れていらっしゃるのね」
「そうかもしれません」
「枕を出しますから、少し横になったらいかが?」
「だったら胡蝶も横になってください。離れないで」
言ったあとで、彼は苦笑する。
「これではどちらが甘えているのか分からないな」
「もっと甘えてくださっても結構よ」
言いつつ彼の頭をなでて、膝枕をする。
「子守歌でもうたいましょうか?」
「それはさすがにやめてください。恥ずかしいので」
うっとりとした表情で目を瞑ると、一眞は噛みしめるようにつぶやく。
「感謝するのは俺のほうですよ。俺のことを好いてくださって、ありがとうございます」
お佳代と虎太郎が帰ってくる前に、一眞は片づけを済ませて行ってしまった。
もったいないので残ったいなり寿司を虎太郎に食べてもらおうと思った胡蝶だったが、
「あら、ないわ」
全て一眞が食べてしまったらしい。その上、牛タンよりもおいしかったらしく、後日そのことを知った胡蝶は、たびたびいなり寿司を作るようになるのだった。
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