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本編
なんちゃってコロッケと皇子様
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「まあ、清春様が事故に?」
「愛人に殺されかけたとか。いい気味ですわ」
「命に別状はないみたいだが、当分は入院生活だな」
家に引きこもっているとなかなか外の情報が入らないものだが、辰之助が頻繁に顔を出してくれるおかげで、かろうじて世間から切り離されずにすんでいる。警官という仕事柄、顔も広く、世情に通じているので、世間知らずの胡蝶にとっては頼もしい存在だった。
「絶対にバチがあったんですよ」
「それより胡蝶、さつま揚げ買ってきたから一緒に食おうや」
さつま揚げ、と聞いて胡蝶は目を輝かせる。
「せっかくですから、おうどんでも作って上にのせましょうか?」
「その前にちょっと試したいことがあるのだけど、かあさん、バターはまだ残っていたかしら?」
「ええ、まだたっぷりありますよ」
早速、さつま揚げを頂戴して、台所へと走る。
まずはお湯を沸かして、さつま揚げに熱湯をかけて油臭さを取ると、乾いた布巾で丁寧に水気をとっていく。塩と胡椒で下味をつけ、たっぷりのバターで炒めたら完成だ。ソースをかけて食べると、ちょっとしたコロッケみたいな味になる。
「へぇ、結構いけるな、これ」
「これだけでも十分おかずになりますね」
ずっとやってみたかったレシピを試せて満足した胡蝶は、ついでとばかりにおうどんも作り始めた。麺は既に作ったものがあるので、用意するのはスープだけである。昆布とカツオで出しをとって、お醤油と砂糖、ほんの少しお酒をくわえる。濃い目に作ったおうどんのスープに茹でた麺を入れ、半熟卵とさつま揚げをのせたら完成だ。お好みで生姜のすりおろしやとうがらしの欠片を加えると、さらに美味である。
「この麺、引き締まってて食感がいいな」
「茹でた後に水洗いして、もう一度熱湯で温めたの」
「手間がかかってるんですねぇ」
その分、料理が美味しくなるのであれば、少しも苦にはならない。
「あのさつま揚げの食い方は気に入ったわ」
「よかった、また作ってあげるね」
「そういえば今度、客を一人……いや、二人か? 連れてきてもいいか?」
妙に言葉を濁す息子に、佳代がすぐさま反応する。
「ダメに決まってるだろ。胡蝶様は今、人前には出られないんだよ」
「身内ならいいべさ」
「身内って……」
怪訝そうな表情を浮かべる佳代に、辰之助も困った顔をする。
「悪いな、お袋。俺も上からの命令で、詳しいことは話せないんだ」
「あたしら以外で胡蝶様のお身内といったら……まさか……」
今にも白目を剥いて、気絶しそうな佳代を胡蝶は慌てて支える。
「しっかりして、かあさん」
「どうする? 胡蝶。俺も本音を言えば、気が進まないんだが」
「あら、私なら平気よ、兄さん。どうせあの子でしょうから」
まさか父親が自分に会いに来るとは思えないし。
「お忍びで来られるから護衛は最低限でいいらしい。騒ぎにはならないと思うが」
それを聞いて、間違いないと呆れてしまう。
「物好きな子ね。こんな田舎にまで来るなんて」
「それだけ、胡蝶様のことを慕っておられるのですよ」
いいえ、それはないわねと、胡蝶はこっそり考える。
それから数日後のこと、烏の鳴く夕暮れ時に、護衛を連れて彼は現れた。
「やあ、姉さん。可愛い弟が会いに来ましたよ」
弟と言っても、正確には従弟だ。彼の母親、桜子は和国日ノ丸の皇后であり、胡蝶の叔母に当たる。
「お久しぶりです、紫苑皇子」
「皇子はよしてくださいといつも言っているでしょう? 姉さん」
今年で16歳になる紫苑は、涼しげな目をした美少年だ。女性だけでなく男性にも懸想されるほどの美貌の持ち主で、本人もそれを自覚している。美しいだけでなく聡明で、周囲の者たちからも慕われているが、一方で変わり者としても知られていた。貴族文化よりも平民文化を好み、しばしば皇子であるという身分を隠して、下町へ視察に行くこともあるとか。
「姉さんが羨ましいな、こんな人気のない寂しい田舎で暮らせるなんて」
「やっぱり、私を馬鹿にしに来たのね」
「まさか、大好きな姉さんの手料理を食べに来たに決まっているでしょう」
呆れた、と胡蝶は目を大きくする。
「皇宮料理の何が不満なのよ」
「不満はありません。ただ無性に、姉さんの田舎料理が食べたくなって」
紫苑に会ったのは、花ノ宮家に連れ戻された直後のことだ。彼は、体調を崩して実家に戻っている母親と共に花ノ宮家に滞在していて、暇を持て余していた。それで比較的、歳の近い胡蝶が、遊び相手を務めることになったのだ。
――最初はてっきり女の子だと思っていたのよね。
お人形のように可愛らしい顔立ちをしていたが、中身は少しも可愛くなかった。わがままな癇癪持ちで、一緒にいるだけでもイライラした。しまいには胡蝶のことを「めかけのこ」と呼んで馬鹿にしたので、頬をひっぱたいて泣かしたのだ。
――あの日、初めてお父様にぶたれて、とても怖かった。
皇子に手をあげるなんてとんでもない、世が世ならお手打ちものだと、三日間押し入れに閉じ込められた。使用人は誰も同情してくれなかったし、田舎の母を思って、泣いてばかりいた。すると「だいじょうぶ?」と扉越しに話しかけてくれた人がいて、「ごめんね」と謝られた。「ひどいことを言ってごめんね」と。すぐに紫苑だとわかった。
それからは紫苑とは仲直りをして、こっそり田舎の遊びを彼に伝授した。小石を池の水面に向かって投げたり、草で船を作って浮かべたりと楽しい時を過ごした。砂糖と水だけでべっこう飴を作ったこともあって、彼は嬉しそうにそれを舐めていた。
女学校に通うようになってからは、紫苑に会う機会はほとんどなくなってしまったものの、たまに会えば手料理をふるまうようになっていた。のちに本妻にばれて、貴族の娘が料理をするなどもってのほかだと叱責されるのだが、紫苑の母親が本妻のことを嫌っていたので、紫苑がそばにいる時だけは、好きなことができた。
「手土産に、姉さんの好きな甘酒を持ってきましたよ」
「仕方がないわね。簡単なものでいいなら」
と言いつつ、お佳代の顔を見るが、彼女は先ほどから口も利かず、皇子の顔を見るなんて恐れ多いと、辰之助の頭を畳に押し付けてひれ伏している。紫苑の後ろには護衛らしき青年が控えており、片目に眼帯をしていて、元軍人といった風情だ。
――私を含めたら五人分……おかわりの分も入れて、できれば六人分くらい用意しておきたいところだけど。
とりあえず台所へ行って食材を確認する。大人数だとお鍋を作るほうが簡単だけど、さすがに紫苑がいるので無理だろう。紫苑は田舎料理を食べたいようだから、里芋の煮っ転がし、お豆腐の味噌汁、高菜とさつま揚げの煮物で、他の皆は……。
メニューが決まったら早速料理だ。
後ろからとことこ付いてきた紫苑の相手をしつつ、手を動かす。
「どうして僕だけ和食で、他の者たちはオムライスなんですか?」
「何よ、田舎料理が食べたかったんでしょ?」
「なるほど、姉さんはオムライスが食べたかったんですね」
「……悪い?」
つい勢いで、なんちゃってコロッケまで作ってしまったのだが、紫苑はそれはそれは美味しそうに食べてくれて、胸がほっこりした。今思うと、辛い花ノ宮家での生活に耐えてこられたのは、彼がいたおかげかもしれない。
「そちらの方も、よろしければお召し上がりになって」
先ほどから黙ってじっとしている護衛の青年に声をかけると、「いえ、自分は結構です」と即座に断られる。お佳代にいたっては、食べ物が喉を通らないからと、辰之助を連れて早々に奥の部屋へと逃げてしまった。
「一眞。食べろ。せっかくの料理が冷めてしまうだろ」
有無を言わせぬ紫苑の言葉に「ははっ」と頭を下げると、少し離れた場所で黙々と食事を始める。「味わって食えよ」と言われれば、再び「ははっ」と頭を下げる律儀さだ。
「貴方もずいぶんと偉くなったものね、紫苑」
「一眞は僕の教育係兼護衛ですから、裏で僕を操っているのは彼の方かもしれませんよ」
まあと驚いて青年を見ると、彼は恐縮したように肩をすくめていた。
「私をからかうのはおやめくださいと、いつも言っているでしょう、殿下」
「けれどその若さで、殿下の教育係を務められるなんて、素晴らしいことですわ」
「我が父上が彼を気に入って、軍から引き抜いたくらいですから」
ということはよほど腕が立つのだろう。代々、皇子の教育係には、家柄も良く、文武両道の者しか選ばれないので、きっと優秀に違いない。よく見れば精悍な顔立ちをした好青年なので、おそらくもう婚約者がいるか、結婚していることだろう。
――こういう方の奥様は、きっと幸せね。
自分でも下世話な考えだと思いつつ、想像して、ついため息をついてしまう。
「貴方も一眞様を見習って、お父様の期待に応えないと」
「うわ、姉さんまで……やめてくださいよ」
楽しい夜は瞬く間のうちに過ぎて行き、紫苑が護衛を連れて帰ってしまうと、胡蝶はくすくす笑いながら、母と兄を呼びに向かう。いらぬ気を遣いすぎたのか、二人とも部屋でぐったりしていた。
「殿下はもうお帰りになったから。ご飯にしましょう」
***
「良かったですね、元気な姉君の姿が見られて」
「何がいいもんか。実の父親に幽閉されているっていうのに……」
車が発進すると同時に、向かい側に座る一眞に話しかけられ、紫苑はぶすっと答えた。
「けれど生き生きとされて、楽しそうでしたよ」
「姉さんには田舎の空気が合っているのかもしれないな」
短い沈黙の後で、一眞が口を開く。
「……北小路清春の件、どうします?」
「さあ、どうしようかな」
胡蝶の元夫、北小路清春は現在、怪我をして入院している。骨を何本か折っているらしいので、すぐに退院することはないだろう。車のひき逃げによる事故として処理されたものの、実際は裏で紫苑が手を回していたのだった。胡蝶の婚約が決まった時、自分は留学中であったため、結婚そのものを阻止することはできなかったが、これでいくらか胸がすいたと紫苑は嗤う。
「噂では家令に命じて身辺整理をしているようですよ。愛人と手を切って、別れた妻に再婚を申し込むつもりだとか」
「いっそ殺しとけば良かったかな」
軽口を叩く紫苑に、「俺がやりましょうか?」と一眞が応える。
「軍でも経験があるので」
「冗談だよ。真に受けるな」
「ですが……」
「なんだ、お前。さては姉さんに胃袋を掴まれたな」
珍しく黙り込む一眞に、紫苑は吹き出す。
「この件に関しては母上に動いてもらうことにする。母上は花ノ宮の本妻を嫌っているし、あの冷酷な侯爵も、妻の言葉より母上の言葉に耳を傾けるだろう」
「そうですね」
「姉さんは母上のお気に入りなんだ。当初は僕の婚約者にと望まれていたが、血が濃すぎるのは良くないと父上に止められてね。……残念だよ」
だからこそ胡蝶には幸せになってもらいたいと、強く願う紫苑だった。
「愛人に殺されかけたとか。いい気味ですわ」
「命に別状はないみたいだが、当分は入院生活だな」
家に引きこもっているとなかなか外の情報が入らないものだが、辰之助が頻繁に顔を出してくれるおかげで、かろうじて世間から切り離されずにすんでいる。警官という仕事柄、顔も広く、世情に通じているので、世間知らずの胡蝶にとっては頼もしい存在だった。
「絶対にバチがあったんですよ」
「それより胡蝶、さつま揚げ買ってきたから一緒に食おうや」
さつま揚げ、と聞いて胡蝶は目を輝かせる。
「せっかくですから、おうどんでも作って上にのせましょうか?」
「その前にちょっと試したいことがあるのだけど、かあさん、バターはまだ残っていたかしら?」
「ええ、まだたっぷりありますよ」
早速、さつま揚げを頂戴して、台所へと走る。
まずはお湯を沸かして、さつま揚げに熱湯をかけて油臭さを取ると、乾いた布巾で丁寧に水気をとっていく。塩と胡椒で下味をつけ、たっぷりのバターで炒めたら完成だ。ソースをかけて食べると、ちょっとしたコロッケみたいな味になる。
「へぇ、結構いけるな、これ」
「これだけでも十分おかずになりますね」
ずっとやってみたかったレシピを試せて満足した胡蝶は、ついでとばかりにおうどんも作り始めた。麺は既に作ったものがあるので、用意するのはスープだけである。昆布とカツオで出しをとって、お醤油と砂糖、ほんの少しお酒をくわえる。濃い目に作ったおうどんのスープに茹でた麺を入れ、半熟卵とさつま揚げをのせたら完成だ。お好みで生姜のすりおろしやとうがらしの欠片を加えると、さらに美味である。
「この麺、引き締まってて食感がいいな」
「茹でた後に水洗いして、もう一度熱湯で温めたの」
「手間がかかってるんですねぇ」
その分、料理が美味しくなるのであれば、少しも苦にはならない。
「あのさつま揚げの食い方は気に入ったわ」
「よかった、また作ってあげるね」
「そういえば今度、客を一人……いや、二人か? 連れてきてもいいか?」
妙に言葉を濁す息子に、佳代がすぐさま反応する。
「ダメに決まってるだろ。胡蝶様は今、人前には出られないんだよ」
「身内ならいいべさ」
「身内って……」
怪訝そうな表情を浮かべる佳代に、辰之助も困った顔をする。
「悪いな、お袋。俺も上からの命令で、詳しいことは話せないんだ」
「あたしら以外で胡蝶様のお身内といったら……まさか……」
今にも白目を剥いて、気絶しそうな佳代を胡蝶は慌てて支える。
「しっかりして、かあさん」
「どうする? 胡蝶。俺も本音を言えば、気が進まないんだが」
「あら、私なら平気よ、兄さん。どうせあの子でしょうから」
まさか父親が自分に会いに来るとは思えないし。
「お忍びで来られるから護衛は最低限でいいらしい。騒ぎにはならないと思うが」
それを聞いて、間違いないと呆れてしまう。
「物好きな子ね。こんな田舎にまで来るなんて」
「それだけ、胡蝶様のことを慕っておられるのですよ」
いいえ、それはないわねと、胡蝶はこっそり考える。
それから数日後のこと、烏の鳴く夕暮れ時に、護衛を連れて彼は現れた。
「やあ、姉さん。可愛い弟が会いに来ましたよ」
弟と言っても、正確には従弟だ。彼の母親、桜子は和国日ノ丸の皇后であり、胡蝶の叔母に当たる。
「お久しぶりです、紫苑皇子」
「皇子はよしてくださいといつも言っているでしょう? 姉さん」
今年で16歳になる紫苑は、涼しげな目をした美少年だ。女性だけでなく男性にも懸想されるほどの美貌の持ち主で、本人もそれを自覚している。美しいだけでなく聡明で、周囲の者たちからも慕われているが、一方で変わり者としても知られていた。貴族文化よりも平民文化を好み、しばしば皇子であるという身分を隠して、下町へ視察に行くこともあるとか。
「姉さんが羨ましいな、こんな人気のない寂しい田舎で暮らせるなんて」
「やっぱり、私を馬鹿にしに来たのね」
「まさか、大好きな姉さんの手料理を食べに来たに決まっているでしょう」
呆れた、と胡蝶は目を大きくする。
「皇宮料理の何が不満なのよ」
「不満はありません。ただ無性に、姉さんの田舎料理が食べたくなって」
紫苑に会ったのは、花ノ宮家に連れ戻された直後のことだ。彼は、体調を崩して実家に戻っている母親と共に花ノ宮家に滞在していて、暇を持て余していた。それで比較的、歳の近い胡蝶が、遊び相手を務めることになったのだ。
――最初はてっきり女の子だと思っていたのよね。
お人形のように可愛らしい顔立ちをしていたが、中身は少しも可愛くなかった。わがままな癇癪持ちで、一緒にいるだけでもイライラした。しまいには胡蝶のことを「めかけのこ」と呼んで馬鹿にしたので、頬をひっぱたいて泣かしたのだ。
――あの日、初めてお父様にぶたれて、とても怖かった。
皇子に手をあげるなんてとんでもない、世が世ならお手打ちものだと、三日間押し入れに閉じ込められた。使用人は誰も同情してくれなかったし、田舎の母を思って、泣いてばかりいた。すると「だいじょうぶ?」と扉越しに話しかけてくれた人がいて、「ごめんね」と謝られた。「ひどいことを言ってごめんね」と。すぐに紫苑だとわかった。
それからは紫苑とは仲直りをして、こっそり田舎の遊びを彼に伝授した。小石を池の水面に向かって投げたり、草で船を作って浮かべたりと楽しい時を過ごした。砂糖と水だけでべっこう飴を作ったこともあって、彼は嬉しそうにそれを舐めていた。
女学校に通うようになってからは、紫苑に会う機会はほとんどなくなってしまったものの、たまに会えば手料理をふるまうようになっていた。のちに本妻にばれて、貴族の娘が料理をするなどもってのほかだと叱責されるのだが、紫苑の母親が本妻のことを嫌っていたので、紫苑がそばにいる時だけは、好きなことができた。
「手土産に、姉さんの好きな甘酒を持ってきましたよ」
「仕方がないわね。簡単なものでいいなら」
と言いつつ、お佳代の顔を見るが、彼女は先ほどから口も利かず、皇子の顔を見るなんて恐れ多いと、辰之助の頭を畳に押し付けてひれ伏している。紫苑の後ろには護衛らしき青年が控えており、片目に眼帯をしていて、元軍人といった風情だ。
――私を含めたら五人分……おかわりの分も入れて、できれば六人分くらい用意しておきたいところだけど。
とりあえず台所へ行って食材を確認する。大人数だとお鍋を作るほうが簡単だけど、さすがに紫苑がいるので無理だろう。紫苑は田舎料理を食べたいようだから、里芋の煮っ転がし、お豆腐の味噌汁、高菜とさつま揚げの煮物で、他の皆は……。
メニューが決まったら早速料理だ。
後ろからとことこ付いてきた紫苑の相手をしつつ、手を動かす。
「どうして僕だけ和食で、他の者たちはオムライスなんですか?」
「何よ、田舎料理が食べたかったんでしょ?」
「なるほど、姉さんはオムライスが食べたかったんですね」
「……悪い?」
つい勢いで、なんちゃってコロッケまで作ってしまったのだが、紫苑はそれはそれは美味しそうに食べてくれて、胸がほっこりした。今思うと、辛い花ノ宮家での生活に耐えてこられたのは、彼がいたおかげかもしれない。
「そちらの方も、よろしければお召し上がりになって」
先ほどから黙ってじっとしている護衛の青年に声をかけると、「いえ、自分は結構です」と即座に断られる。お佳代にいたっては、食べ物が喉を通らないからと、辰之助を連れて早々に奥の部屋へと逃げてしまった。
「一眞。食べろ。せっかくの料理が冷めてしまうだろ」
有無を言わせぬ紫苑の言葉に「ははっ」と頭を下げると、少し離れた場所で黙々と食事を始める。「味わって食えよ」と言われれば、再び「ははっ」と頭を下げる律儀さだ。
「貴方もずいぶんと偉くなったものね、紫苑」
「一眞は僕の教育係兼護衛ですから、裏で僕を操っているのは彼の方かもしれませんよ」
まあと驚いて青年を見ると、彼は恐縮したように肩をすくめていた。
「私をからかうのはおやめくださいと、いつも言っているでしょう、殿下」
「けれどその若さで、殿下の教育係を務められるなんて、素晴らしいことですわ」
「我が父上が彼を気に入って、軍から引き抜いたくらいですから」
ということはよほど腕が立つのだろう。代々、皇子の教育係には、家柄も良く、文武両道の者しか選ばれないので、きっと優秀に違いない。よく見れば精悍な顔立ちをした好青年なので、おそらくもう婚約者がいるか、結婚していることだろう。
――こういう方の奥様は、きっと幸せね。
自分でも下世話な考えだと思いつつ、想像して、ついため息をついてしまう。
「貴方も一眞様を見習って、お父様の期待に応えないと」
「うわ、姉さんまで……やめてくださいよ」
楽しい夜は瞬く間のうちに過ぎて行き、紫苑が護衛を連れて帰ってしまうと、胡蝶はくすくす笑いながら、母と兄を呼びに向かう。いらぬ気を遣いすぎたのか、二人とも部屋でぐったりしていた。
「殿下はもうお帰りになったから。ご飯にしましょう」
***
「良かったですね、元気な姉君の姿が見られて」
「何がいいもんか。実の父親に幽閉されているっていうのに……」
車が発進すると同時に、向かい側に座る一眞に話しかけられ、紫苑はぶすっと答えた。
「けれど生き生きとされて、楽しそうでしたよ」
「姉さんには田舎の空気が合っているのかもしれないな」
短い沈黙の後で、一眞が口を開く。
「……北小路清春の件、どうします?」
「さあ、どうしようかな」
胡蝶の元夫、北小路清春は現在、怪我をして入院している。骨を何本か折っているらしいので、すぐに退院することはないだろう。車のひき逃げによる事故として処理されたものの、実際は裏で紫苑が手を回していたのだった。胡蝶の婚約が決まった時、自分は留学中であったため、結婚そのものを阻止することはできなかったが、これでいくらか胸がすいたと紫苑は嗤う。
「噂では家令に命じて身辺整理をしているようですよ。愛人と手を切って、別れた妻に再婚を申し込むつもりだとか」
「いっそ殺しとけば良かったかな」
軽口を叩く紫苑に、「俺がやりましょうか?」と一眞が応える。
「軍でも経験があるので」
「冗談だよ。真に受けるな」
「ですが……」
「なんだ、お前。さては姉さんに胃袋を掴まれたな」
珍しく黙り込む一眞に、紫苑は吹き出す。
「この件に関しては母上に動いてもらうことにする。母上は花ノ宮の本妻を嫌っているし、あの冷酷な侯爵も、妻の言葉より母上の言葉に耳を傾けるだろう」
「そうですね」
「姉さんは母上のお気に入りなんだ。当初は僕の婚約者にと望まれていたが、血が濃すぎるのは良くないと父上に止められてね。……残念だよ」
だからこそ胡蝶には幸せになってもらいたいと、強く願う紫苑だった。
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