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番外編 カールの恋煩い2
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――コツコツコツコツ。
――コツコツコツコツ。
「カール、いい加減にしないと怒るぞ」
執務室の時計の針がまもなく頂点へと向かおうとする頃。書類に目を通していたルイスは、カールの手首を掴んだ。
「何するんですかッ!」
「お前、よくもそんな口が利けるな。私は時期当主だぞ!」
「でも今のご当主は旦那様です」
「そんな態度なら今後雇ってやらないぞ!」
「いいですよ。旦那様が家門をルイス様に譲られたら、俺も一緒にモンフォール領に隠居しますから」
「それじゃあエルザはどうするんだよ。離れて暮らすのか?」
するとカールは言葉の変わりに首を傾げた。
「子犬みたいな顔をするんじゃない、似合わないぞ」
「だって急にルイス様が変な事を言い出すから」
「急にってお前、エルザがまだ帰って来ていないからイラついているんだろ? 心配しなくてもルドルフと一緒なんだから問題ないさ」
「なんでそんな事分かるんですか!」
その時、外に馬車の音が聞こえる。カールは話半分のまま慌ただしく部屋を出て行ってしまった。
「あれで本当に気が付いていないのか? どうせこの部屋が玄関の真上だからろくに手伝いもしないで窓に張り付いたんだろうに」
「今日はありがとうざいました」
「こちらこそ楽しかったですよ」
「また呼んで下さいね」
エルザは玄関に手を掛けた時、玄関の扉が一気に開いた。
「カール、どうしたのこんな時間に」
「随分遅かったな」
「ルドルフさんのお家は居心地がいいから長居してしまって。ルドルフさんのお家は今……」
“お家”という言葉にカールの頭は真っ白になっていた。エルザが何かを言おうとしている事にも気が付かずに、口から溢れた言葉は最低なものだった。
「それなら泊めてもらえば良かったじゃないか」
「そんな訳にはいかないじゃない」
「ルドルフさんなら俺も安心して任せられるし」
とっさ顔を上げたがもう遅かった。エルザはヒュッと息を飲むと、屋敷の中に飛び込んで行ってしまった。
「今のは失言ですね」
「あなたには関係ないです」
「ですが私が原因で言い争いになってしまったようですが」
「それじゃあ聞きますけど、こんな時間まで未婚の女性を連れ回すのは非常識だと思いませんか?」
「モンフォール伯爵の了承は得ておりますのでご心配には及びません。私、信頼されているようですので」
その瞬間、カールは勢いよく扉を締めた。
「旦那様が一番に信頼しているのは俺だぞ! きっとそうなのに、何なんだよあいつ。少し仕事が出来るからって!」
扉を背を預けると顔を覆った。
「エルザ? 入ってもいいか?」
しかし返事はない。カールは扉に背を付いてそのまま床に座った。
「さっきは悪かった。旦那様が許容しているなら俺がとやかく言う事じゃなかったよな」
小さな物音が部屋からする。
「俺達は何も変わらないと思っていたんだ。でも考えてみたら当然だよな、俺達の環境はあれから信じられない程に変わったんだ。お前だって……」
その瞬間、扉が開きカールは内側に倒れた。
「いってぇ」
倒れて入ったのは、初めて見るエルザの部屋の中だった。
後ろに手を突いたカールは、驚いた表情で見上げた。膝の上にはエルザ。そしてその顔は明らかに怒っている。
「カールはどうしたいの?」
「とりあえずどけよ」
身体を捻って起き上がろとすると、エルザは膝立ちのまま更に上ってきた。腹の上に居られては身動きが取れない。きっちりと首元まで締められたワンピースとは裏腹に、スカート部分は捲れ上がってしまい、白い腿が顕になっていた。とっさに顔を背けると、エルザは泣きそうな顔をして肩を掴んできた。
「なんで私から逃げるのよ。私があのお店の子みたいにもう若くないから? それでもあんな風に誰かに押し付ける必要なんてないじゃない!」
「違うって! あれは押し付けたんじゃなくて、ルドルフさんならお前も安心だろうと」
「安心?! 何がどう安心なの?」
「ルドルフさんはしっかりしているし、誠実な男だと思う。なにより侯爵家の筆頭執事だろ。最適だと思っただけだ」
「あなたいつから私のお父さんになったのよ」
「……悪かったよ。俺はお前が幸せになるならそれでいいんだ」
肩を掴む力が強くなる。それでもそれを我慢したのはその手が震えていたからだった。
「あなたは私を幸せにはしてくれないの?」
「俺は家にいる事なんて少ないし、仕事と家庭の両立なんて出来る程器用でもない。それに俺は完全に行き遅れだ」
そう言って自虐的に笑ってみせると、なぜか水滴が服の上に落ちてきた。
「エルザ?」
エルザの目からは幾つもの大粒の涙が溢れてきていた。
「なんで泣くんだよ」
どうしていいのか分からずにその涙を袖でゴシゴシ拭いてやると、肩を掴んでいた手から力が抜けていくのが分かった。
「それはあなたが何年もモンフォール領の人達の為に頑張ってきたからじゃない。家に帰る事が出来ないのも、そんな年になるまで一人なのも、ずっと自分の事は後回しにして生きてきたからでしょ! それを欠点みたいに言わないで!」
「悪かったよ。……でもお前は王都に来たんだから自由に恋愛する事だって出来たのに」
その時、目の前にエルザの顔が迫ってくる。そして唇が触れ合う寸前の所で止まった。
「本当に平気なの? 私がこんな風に他の誰かと触れ合っても」
そのままエルザが離れていく。そして腹の上から降りた。
「……あの災害の後ずっと決めていたの。お互いにやるべき事をして、大切な人達が皆幸せになったら、そしたら」
カールは言葉の途中で後ろからエルザを抱き締めていた。
「モンフォール領の復興はまだだ。だから俺はまだ苦しんでいる者達がいる場所へ奔走すると思う。モンフォール伯爵は身分が足枷となって出来ない事を俺が代わりにやりたいんだ。それが俺の夢なんだよ」
「分かっているわ。旦那様はあなたの一番だもの」
「……一番じゃない」
「え?」
振り返ったエルザの赤い目元をそっと撫でた。ガサついた、触れられればきっと痛いであろうその指にも、エルザは恥ずかしそうに唇を小さく噛んだのが目に入った瞬間、カールはその唇に吸い寄せられるように口づけをしていた。
短いけれど、二人には長い時間を埋めるような大切な口づけだった。ゆっくりと離れていく唇の感覚さえ鮮明になってしまう。名残惜しそうに離れた唇を補うように、きつく抱き締めた。
「エルザが昔に言ったんだ。“旦那様に一番信頼されている人が好き”って」
「え? そんな事言った?」
「覚えていないのは分かっていたよ。エルザこそ旦那様が一番だったじゃないか」
「待って、本当に覚えていないの」
「俺がモンフォールの屋敷に来てすぐの事だったと思う。大きな門の外で急に現れた小さい侍女が箒を手に、追い回して来たんだから」
「あぁ、だってあの時のあなたったら汚れていて物取りかと思ったんだもの」
「いつでも来ていいと言われたものの尻込みして二の足を踏んでいた所を追いかけ回されて、気が付いたら屋敷の中に入っていたんだ」
「え、そうだったの?」
「そうだよ。エルザが俺をあの屋敷に入れてくれたんだ。そして旦那様がご出張で長く家を開けていた時だったと思う。旦那様はいつも沢山働いていて大変そうだから、もし仕事を任せられる人が出来たらきっとその人の事を好きになっちゃうわって」
とっさに身体が引き離される。そして顔を背けられてしまった。
「……それなんとなく覚えがあるわ。妊娠中の奥様とカトリーヌ様のお世話が大変で、旦那様早く帰って来ないかなぁって思っていた気がするもの」
「世話が大変だったから?」
「そうよ。だってあの時まだ十歳だったのよ! 今思えば、他にも侍女はいたのに私を傍に置いてくださったのは、きっと奥様の優しさだったのだろうけど」
すると背けられていた顔が伺うようにカールの方へ向いた。
「がっかりした? 私はただ自分の仕事が少しでも減ればと思ってそう言っただけなの」
カールは再び腕の中にエルザを閉じ込めていた。やがてエルザの手がおずおずと背中に回ってきて、カールは無意識にニヤけてしまっていた。
「なってくれる? 俺の奥さん」
びくりと腕の中の身体が跳ねたのが分かった。そして耳まで真っ赤の顔をどうしても見たくて、カールはそっと身体を離そうとした。しかし意外とある力はびくりともしない。
「返事は?」
「もちろん“はい”よ!」
何故か怒りながら言ったエルザを、笑いながら抱き締めた。
ベルトラン家の庭園で夫婦仲良くお茶を飲んでいたアルベルトとカトリーヌのそばにいたルドルフを今か今かと待ち、ようやく離れた所で捕まえたカールは意を決して頭を下げた。
「俺はエルザと結婚する事になりましたッ!」
拳の一つでも振ってくるかと覚悟を決めていると、帰ってきたのは小さな失笑だった。
「おめでとうございます」
「怒らないんですか?」
「祝福致しますよ」
呆気に取られているカールを他所に、ルドルフはカートを押していってしまう。
「もしかして気を使ってくださっています? むしろ一発殴ってくれた方がまだマシです!」
するとルドルフは面倒そうにカートを脇に寄せると、白い手袋をはめた両手首を回した。
「こういうの面倒なんですけれどね。傷など付けて帰った日には身重の妻にも心配掛けてしまいますし」
「そうですよね! 身重の奥さんに心配掛けるのは良くないです……え、妻!? 身重?」
「言ってませんでしたっけ? 私結婚しております。もう十年になります」
「結婚? 十年? で、でもエルザと出掛けていると聞いていますよ!」
「妻は五度目の出産なので、今子供達の面倒を見るのが本当に大変で、エルザさんが我が家に来て子供達の相手をしてくれているんです」
「そんなぁ」
カールは壁に手を突いてしばらくの間動けなかった。
「これで少しはエルザさんに恩返しが出来たでしょうか」
そう言うとカートを押して離れていく背中を見つめながら、後ろに来た気配を察して呟いた。
「お二人はご存知だったのですね」
「隠していた訳じゃないのよ。カールが知らないという事が頭から抜けていたわ」
屈託ない笑顔で笑うカトリーヌに毒気も抜けてしまう。
「俺はもう屋敷に帰ります」
「ちょっと、カール!」
放心したように通り過ぎていくカールに、カトリーヌは少し気の毒そうに視線で追った。
「子供の頃、カールはずっと大人だと思っていたんです。でも今になって思えば父と一緒に奮闘してくれていた時のカールはまだ若くて、きっと辛い事も沢山経験したはずです」
「彼もこれからは人の為だけではなく、自分の為の人生を歩んでいくんだろう。エルザと共に」
「沢山守ってもらった分、今度は私が二人を守ってあげたいんです」
すると、カトリーヌはカールの背中を見送っていた顔を引き戻され、アルベルトの腕の中にそっとしまわれた。
「俺達の事も宜しく頼むよ」
「もちろんです」
カトリーヌはクスクスと笑いながら広い胸に頬を押し付けた。
カールがモンフォールの屋敷に戻るなり、なぜか同僚に拘束されてしまった。
「カールを見つけました!」
「よし! そのままこちらに連れて来い!」
「旦那様!?」
モンフォール伯爵はカールを見つけるなり、門に待たせていた馬車に押し込んできた。中にはエルザが座っていた。
「旦那様はどうされたんだ?」
「分からないわ。私もここに押し込まれたのよ」
コソコソ話をしていると、モンフォール伯爵の指示で馬車が動き出す。訳が分からないままカールは窓から身を乗り出した。
「旦那様! これは一体何事ですか?」
するとモンフォール伯爵は言葉の代わりに大手を振って馬車を見送ってきた。
よく見ると馬車の中には着替えと大袋に入った大金。そして封筒。封筒の中には二枚の手紙と鍵が一つ入っていた。
――旅行しながら一ヶ月帰って来ないように。一ヶ月後の今日、礼拝堂にてお待ちしております。モンフォール伯爵家一同。追伸、こちらも準備しておきましたのでゆっくり過ごして下さい。
手紙の二枚目は地図。
「これって、まさか家の鍵?」
カールは深い溜息を吐きながらその手紙を顔の上に乗せた。
「もしかして泣いているの?」
「うるさい」
エルザは微笑みながらその肩に寄り添った。
「私達、愛されているわね」
返事の代わりに肩が抱き寄せられる。ハラリと落ちた手紙の字は、僅かに滲んでぼやけていた。
――コツコツコツコツ。
「カール、いい加減にしないと怒るぞ」
執務室の時計の針がまもなく頂点へと向かおうとする頃。書類に目を通していたルイスは、カールの手首を掴んだ。
「何するんですかッ!」
「お前、よくもそんな口が利けるな。私は時期当主だぞ!」
「でも今のご当主は旦那様です」
「そんな態度なら今後雇ってやらないぞ!」
「いいですよ。旦那様が家門をルイス様に譲られたら、俺も一緒にモンフォール領に隠居しますから」
「それじゃあエルザはどうするんだよ。離れて暮らすのか?」
するとカールは言葉の変わりに首を傾げた。
「子犬みたいな顔をするんじゃない、似合わないぞ」
「だって急にルイス様が変な事を言い出すから」
「急にってお前、エルザがまだ帰って来ていないからイラついているんだろ? 心配しなくてもルドルフと一緒なんだから問題ないさ」
「なんでそんな事分かるんですか!」
その時、外に馬車の音が聞こえる。カールは話半分のまま慌ただしく部屋を出て行ってしまった。
「あれで本当に気が付いていないのか? どうせこの部屋が玄関の真上だからろくに手伝いもしないで窓に張り付いたんだろうに」
「今日はありがとうざいました」
「こちらこそ楽しかったですよ」
「また呼んで下さいね」
エルザは玄関に手を掛けた時、玄関の扉が一気に開いた。
「カール、どうしたのこんな時間に」
「随分遅かったな」
「ルドルフさんのお家は居心地がいいから長居してしまって。ルドルフさんのお家は今……」
“お家”という言葉にカールの頭は真っ白になっていた。エルザが何かを言おうとしている事にも気が付かずに、口から溢れた言葉は最低なものだった。
「それなら泊めてもらえば良かったじゃないか」
「そんな訳にはいかないじゃない」
「ルドルフさんなら俺も安心して任せられるし」
とっさ顔を上げたがもう遅かった。エルザはヒュッと息を飲むと、屋敷の中に飛び込んで行ってしまった。
「今のは失言ですね」
「あなたには関係ないです」
「ですが私が原因で言い争いになってしまったようですが」
「それじゃあ聞きますけど、こんな時間まで未婚の女性を連れ回すのは非常識だと思いませんか?」
「モンフォール伯爵の了承は得ておりますのでご心配には及びません。私、信頼されているようですので」
その瞬間、カールは勢いよく扉を締めた。
「旦那様が一番に信頼しているのは俺だぞ! きっとそうなのに、何なんだよあいつ。少し仕事が出来るからって!」
扉を背を預けると顔を覆った。
「エルザ? 入ってもいいか?」
しかし返事はない。カールは扉に背を付いてそのまま床に座った。
「さっきは悪かった。旦那様が許容しているなら俺がとやかく言う事じゃなかったよな」
小さな物音が部屋からする。
「俺達は何も変わらないと思っていたんだ。でも考えてみたら当然だよな、俺達の環境はあれから信じられない程に変わったんだ。お前だって……」
その瞬間、扉が開きカールは内側に倒れた。
「いってぇ」
倒れて入ったのは、初めて見るエルザの部屋の中だった。
後ろに手を突いたカールは、驚いた表情で見上げた。膝の上にはエルザ。そしてその顔は明らかに怒っている。
「カールはどうしたいの?」
「とりあえずどけよ」
身体を捻って起き上がろとすると、エルザは膝立ちのまま更に上ってきた。腹の上に居られては身動きが取れない。きっちりと首元まで締められたワンピースとは裏腹に、スカート部分は捲れ上がってしまい、白い腿が顕になっていた。とっさに顔を背けると、エルザは泣きそうな顔をして肩を掴んできた。
「なんで私から逃げるのよ。私があのお店の子みたいにもう若くないから? それでもあんな風に誰かに押し付ける必要なんてないじゃない!」
「違うって! あれは押し付けたんじゃなくて、ルドルフさんならお前も安心だろうと」
「安心?! 何がどう安心なの?」
「ルドルフさんはしっかりしているし、誠実な男だと思う。なにより侯爵家の筆頭執事だろ。最適だと思っただけだ」
「あなたいつから私のお父さんになったのよ」
「……悪かったよ。俺はお前が幸せになるならそれでいいんだ」
肩を掴む力が強くなる。それでもそれを我慢したのはその手が震えていたからだった。
「あなたは私を幸せにはしてくれないの?」
「俺は家にいる事なんて少ないし、仕事と家庭の両立なんて出来る程器用でもない。それに俺は完全に行き遅れだ」
そう言って自虐的に笑ってみせると、なぜか水滴が服の上に落ちてきた。
「エルザ?」
エルザの目からは幾つもの大粒の涙が溢れてきていた。
「なんで泣くんだよ」
どうしていいのか分からずにその涙を袖でゴシゴシ拭いてやると、肩を掴んでいた手から力が抜けていくのが分かった。
「それはあなたが何年もモンフォール領の人達の為に頑張ってきたからじゃない。家に帰る事が出来ないのも、そんな年になるまで一人なのも、ずっと自分の事は後回しにして生きてきたからでしょ! それを欠点みたいに言わないで!」
「悪かったよ。……でもお前は王都に来たんだから自由に恋愛する事だって出来たのに」
その時、目の前にエルザの顔が迫ってくる。そして唇が触れ合う寸前の所で止まった。
「本当に平気なの? 私がこんな風に他の誰かと触れ合っても」
そのままエルザが離れていく。そして腹の上から降りた。
「……あの災害の後ずっと決めていたの。お互いにやるべき事をして、大切な人達が皆幸せになったら、そしたら」
カールは言葉の途中で後ろからエルザを抱き締めていた。
「モンフォール領の復興はまだだ。だから俺はまだ苦しんでいる者達がいる場所へ奔走すると思う。モンフォール伯爵は身分が足枷となって出来ない事を俺が代わりにやりたいんだ。それが俺の夢なんだよ」
「分かっているわ。旦那様はあなたの一番だもの」
「……一番じゃない」
「え?」
振り返ったエルザの赤い目元をそっと撫でた。ガサついた、触れられればきっと痛いであろうその指にも、エルザは恥ずかしそうに唇を小さく噛んだのが目に入った瞬間、カールはその唇に吸い寄せられるように口づけをしていた。
短いけれど、二人には長い時間を埋めるような大切な口づけだった。ゆっくりと離れていく唇の感覚さえ鮮明になってしまう。名残惜しそうに離れた唇を補うように、きつく抱き締めた。
「エルザが昔に言ったんだ。“旦那様に一番信頼されている人が好き”って」
「え? そんな事言った?」
「覚えていないのは分かっていたよ。エルザこそ旦那様が一番だったじゃないか」
「待って、本当に覚えていないの」
「俺がモンフォールの屋敷に来てすぐの事だったと思う。大きな門の外で急に現れた小さい侍女が箒を手に、追い回して来たんだから」
「あぁ、だってあの時のあなたったら汚れていて物取りかと思ったんだもの」
「いつでも来ていいと言われたものの尻込みして二の足を踏んでいた所を追いかけ回されて、気が付いたら屋敷の中に入っていたんだ」
「え、そうだったの?」
「そうだよ。エルザが俺をあの屋敷に入れてくれたんだ。そして旦那様がご出張で長く家を開けていた時だったと思う。旦那様はいつも沢山働いていて大変そうだから、もし仕事を任せられる人が出来たらきっとその人の事を好きになっちゃうわって」
とっさに身体が引き離される。そして顔を背けられてしまった。
「……それなんとなく覚えがあるわ。妊娠中の奥様とカトリーヌ様のお世話が大変で、旦那様早く帰って来ないかなぁって思っていた気がするもの」
「世話が大変だったから?」
「そうよ。だってあの時まだ十歳だったのよ! 今思えば、他にも侍女はいたのに私を傍に置いてくださったのは、きっと奥様の優しさだったのだろうけど」
すると背けられていた顔が伺うようにカールの方へ向いた。
「がっかりした? 私はただ自分の仕事が少しでも減ればと思ってそう言っただけなの」
カールは再び腕の中にエルザを閉じ込めていた。やがてエルザの手がおずおずと背中に回ってきて、カールは無意識にニヤけてしまっていた。
「なってくれる? 俺の奥さん」
びくりと腕の中の身体が跳ねたのが分かった。そして耳まで真っ赤の顔をどうしても見たくて、カールはそっと身体を離そうとした。しかし意外とある力はびくりともしない。
「返事は?」
「もちろん“はい”よ!」
何故か怒りながら言ったエルザを、笑いながら抱き締めた。
ベルトラン家の庭園で夫婦仲良くお茶を飲んでいたアルベルトとカトリーヌのそばにいたルドルフを今か今かと待ち、ようやく離れた所で捕まえたカールは意を決して頭を下げた。
「俺はエルザと結婚する事になりましたッ!」
拳の一つでも振ってくるかと覚悟を決めていると、帰ってきたのは小さな失笑だった。
「おめでとうございます」
「怒らないんですか?」
「祝福致しますよ」
呆気に取られているカールを他所に、ルドルフはカートを押していってしまう。
「もしかして気を使ってくださっています? むしろ一発殴ってくれた方がまだマシです!」
するとルドルフは面倒そうにカートを脇に寄せると、白い手袋をはめた両手首を回した。
「こういうの面倒なんですけれどね。傷など付けて帰った日には身重の妻にも心配掛けてしまいますし」
「そうですよね! 身重の奥さんに心配掛けるのは良くないです……え、妻!? 身重?」
「言ってませんでしたっけ? 私結婚しております。もう十年になります」
「結婚? 十年? で、でもエルザと出掛けていると聞いていますよ!」
「妻は五度目の出産なので、今子供達の面倒を見るのが本当に大変で、エルザさんが我が家に来て子供達の相手をしてくれているんです」
「そんなぁ」
カールは壁に手を突いてしばらくの間動けなかった。
「これで少しはエルザさんに恩返しが出来たでしょうか」
そう言うとカートを押して離れていく背中を見つめながら、後ろに来た気配を察して呟いた。
「お二人はご存知だったのですね」
「隠していた訳じゃないのよ。カールが知らないという事が頭から抜けていたわ」
屈託ない笑顔で笑うカトリーヌに毒気も抜けてしまう。
「俺はもう屋敷に帰ります」
「ちょっと、カール!」
放心したように通り過ぎていくカールに、カトリーヌは少し気の毒そうに視線で追った。
「子供の頃、カールはずっと大人だと思っていたんです。でも今になって思えば父と一緒に奮闘してくれていた時のカールはまだ若くて、きっと辛い事も沢山経験したはずです」
「彼もこれからは人の為だけではなく、自分の為の人生を歩んでいくんだろう。エルザと共に」
「沢山守ってもらった分、今度は私が二人を守ってあげたいんです」
すると、カトリーヌはカールの背中を見送っていた顔を引き戻され、アルベルトの腕の中にそっとしまわれた。
「俺達の事も宜しく頼むよ」
「もちろんです」
カトリーヌはクスクスと笑いながら広い胸に頬を押し付けた。
カールがモンフォールの屋敷に戻るなり、なぜか同僚に拘束されてしまった。
「カールを見つけました!」
「よし! そのままこちらに連れて来い!」
「旦那様!?」
モンフォール伯爵はカールを見つけるなり、門に待たせていた馬車に押し込んできた。中にはエルザが座っていた。
「旦那様はどうされたんだ?」
「分からないわ。私もここに押し込まれたのよ」
コソコソ話をしていると、モンフォール伯爵の指示で馬車が動き出す。訳が分からないままカールは窓から身を乗り出した。
「旦那様! これは一体何事ですか?」
するとモンフォール伯爵は言葉の代わりに大手を振って馬車を見送ってきた。
よく見ると馬車の中には着替えと大袋に入った大金。そして封筒。封筒の中には二枚の手紙と鍵が一つ入っていた。
――旅行しながら一ヶ月帰って来ないように。一ヶ月後の今日、礼拝堂にてお待ちしております。モンフォール伯爵家一同。追伸、こちらも準備しておきましたのでゆっくり過ごして下さい。
手紙の二枚目は地図。
「これって、まさか家の鍵?」
カールは深い溜息を吐きながらその手紙を顔の上に乗せた。
「もしかして泣いているの?」
「うるさい」
エルザは微笑みながらその肩に寄り添った。
「私達、愛されているわね」
返事の代わりに肩が抱き寄せられる。ハラリと落ちた手紙の字は、僅かに滲んでぼやけていた。
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