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2 妻の存在
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「奥様! 早く参りましょう! もう到着しておりますよ!」
王都の大通りはすでに人でごった返していた。六年かけて敵国から国を守った英雄達の帰還に、誰もがその姿をひと目見ようとこれでもかと人が集まっている。凱旋パレードの後、指揮官クラスは城で国王と謁見するの為、フレデリックに会えるのは早くても夜遅くか、明日になってしまうだろう。その前にひと目だけでも無事な姿をこの目に焼き付けておきたかった。
ルネは上手く人並みを分けるようにして、とある食堂に入っていく。中の女将と示し合わせるとすぐに二階へと通してくれた。その場所は凱旋パレードを一望出来る絶好の場所だった。紙吹雪が舞い、音楽が鳴り響く大通りを馬に乗った兵士達が通り過ぎていく。そしてすぐに一人の男性に目が留まった。先頭の集団が過ぎた後、二頭の馬がその後ろを進んでくる。そしてその後ろにはまたもう一つの集団が続いていた。アナスタシアは声も出せずに立ち尽くしていた。出奔した時は短めのサラサラだった髪を後ろで結び、甲冑越しでも腕や肩幅が隆起しているのが分かる。陽に焼けた肌と、戦場にいたせいか鋭くなった眼光に違和感を覚えながらも、そこにいるのは間違いなくフレデリック本人だった。
堪らずに横からルネが声をかける。
「フレデリック坊ちゃん! アナスタシア様はこちらにおいでですよ!」
ルネも興奮しているらしく、いつのまにか昔の坊っちゃん呼びに戻っている。ルネは大歓声に負けない声で叫んだ。
「フレデリック坊っちゃん! ここですってば!」
「これじゃあ聞こえないわ」
アナスタシアの方が宥めるようにルネの袖を引いた瞬間、眼下に差し掛かったフレデリックが顔を上げた。心臓が鷲掴みにされたように跳ね、鼓動を打つ。声を出せずにいると、合っていたはずの視線は不意に外された。そしてそのまま先に進んで行ってしまった。
「フレデリック様!」
堪らずに叫んだがその背が振り返る事はなかった。
「あら坊っちゃんたら、涼しい顔をしていましたが、きっとこれだけの観衆を前に驚いていたのかもしれませんね」
「これだけ集まっているんだもの、気がつかなかったんだわ」
なんとなくモヤモヤとしたものが胸の中に広がり始めていたが、その感情には無理やり蓋をする事にした。
「今の民家から覗いていた可愛らしいお嬢さんとお知り合いですか? あなたも隅におけませんね、奥様がいらっしゃると言うのに」
「知らん。どこか庶民の娘だろう? しかし城まではこんなに遠かったか? 段々と頬が痛くなってきたぞ」
馬上でモルガンと軽口を叩きながら少しずつしか歩みを進められない事に苛立ちを隠しながら、小さく溜め息をついた時だった。目の前に群衆に押された少女が飛び出してくる。とっさに手綱を引いて馬を止め、飛び降りた。驚いたまま固まっている少女を抱き上げると辺りを見渡した。
「この者の母親、もしくは連れはいないか?」
すぐに群衆をかき分けて母親らしき女が飛び出してくる。青ざめた顔で少女を受け取ると、泣き出す少女の声に混じって何度も謝ってきた。
「申し訳ございません! 騎士様申し訳ございません!」
「気にしなくていいが決して手は離さないように」
そして少女の頭に手を置いて強めに撫でた。
「母に心配をかけてはいけないぞ。こんなに人が集まる時は良くない輩も紛れ込むのだからな」
少女は怯えたように母親の服を小さな手で握り締めた。馬に戻ると、隣りのモルガンはにっこりと少女に向かって微笑んでみせている。ちらりと視線をやると少女の頬に緩みが出来ているのが見て取れた。
「お前が話しかけた方が良かったな」
「フレデリック様の表情が硬すぎるのです。それに人攫いの話までしてしまって」
「本当の事だ。こんな日は、こんな日だからこそ群衆に紛れて王都にも人攫いがやってくるんだ。王都にいた時の任務の中にはそんな輩の取締もあった」
「もしや記憶が!?」
フレデリックは期待を込めて見てくるモルガンを不憫に思いながら首を振った。
「奥様が不憫でなりません。もちろんフレデリック様あなたもですが」
「本当に俺に妻がいるんだよな?」
「そんな嘘つきませんよ」
「そうだな。とにかく陛下への謁見が先だ。これからの事はその後で考えるさ」
歓声に紛れるようにして話していた声も城が見えるにつれ、更に大きなものとなり掻き消えていく。総隊長のプアリエを先頭にして一から四までの部隊の指揮官達は城の中へと入って行った。
王の間には国の重鎮達が集まっていた。先頭に膝を突く総隊長の後ろに続き、各隊長と副隊長達が膝を突いていく。その時、明らかに泣き出しそうな兄の姿が目に入った。兄のディミトリ・ギレム侯爵は大袈裟に目頭を押させて感極まった様子で小さく震えている。それが国王の近くなものだから、嫌でも視界に入ってきて正直うんざりしてしまう。
――こういうところは昔から変わっていないな。
「よく戻ったな、ルグラン王国の英雄達よ! 各々には希望する褒美を与えよう。今はゆっくりと長きに渡る疲れを癒やされよ」
国王と兄のディミトリは学友だった事もあり、昔からフレデリックもよく一緒に遊んだ中だった。その国王が心配そうにこちらに視線を向けてくるところを見ると、おそらくあの話もすでに耳に入っているのだろう。最も、国王の耳に入らない訳がない。
――俺が記憶を失くしている事を。
「フレデリック! フレデリック、大丈夫なのか?」
謁見が終わり廊下に出た瞬間、案の定ディミトリが追い掛けてきた。
「まさか僕の事も忘れているんじゃないだろうな? まさかお兄様の事が分からない? さぁお兄様と読んでみてくれ!」
その瞬間、さすがに深い溜め息が出てきた。
「覚えていますよ、兄上。どさくさに紛れてお兄様だなんて。それと一部ですが記憶を失っている事はどうかご内密にお願い致します」
「あ、すまなかった。それで具体的にはどのくらい忘れているんだ?」
「所々です。小さい頃の記憶はありますが、出兵する辺りのものはありません。だからなぜ戦場にいたのかも正直分かりません。でも戦って過ごしていた時の事は覚えています。所々抜け落ちたように覚えていないのです」
「それならまずはアンに会って安心するといい」
「アンとは?」
「アンだよ、アナスタシア! まさかお前自分の妻の事も忘れているのか?」
返事を出来ずにいるとディミトリは頭を抱えてどことなく辺りを見渡した。
「今から家に帰るのか?」
「もちろん。家にはそのアナスタシアがいるんですよね?」
「可哀想なアン。まさかこんな事になるなんて。一刻も早く思い出してやれ」
「お言葉ですがそのような負担になる発言はお控え下さい」
ディミトリはずっとフレデリックの後ろに控えていた少し色黒の美丈夫な男に目を向けた。今まで優しそうに細めていた目に力が宿る。
「副官のモルガンです。この男がいなければ俺は今ここにいなかったでしょう」
「弟が世話になったようだな。ディミトリ・ギレムだ」
「生意気を申しました。閣下」
ディミトリから離れた所でフレデリックはモルガンの肩を叩いた。
「兄がすまない。年が離れいるからか昔から何かと過保護なんだ。お前でなくとも知らない者にはああいう態度なんだ」
「気にしておりませんよ。それよりも過保護ならばよく戦場行きを了承なさいましたね」
「覚えてはいないが、行ってしまえば連れ戻す事は出来ないだろう? 手紙といえど国を守る為に向かった者の帰還を促すような内容を送れる訳がない」
通り過ぎる使用人達がこちらをチラチラ見てくる視線に気づきながら、二人で大浴場へと向かった。
「俺達相当臭うだろうな」
「仕方ありませんよ。川で水浴びをしたのでさえ、三日も前ですからね。でも視線はそれだけじゃないように思います」
訳が分からずにもう一度辺りを見渡すと、目が合った侍女達が小走りで走り去っていく。
「本当に分かりませんか? 女性達はあなたに湧いているのだと思います」
「お前じゃなくてか?」
「私などよりもあなたの方が……」
「なに男同士で褒め合っているんだ! お前達もさっさと中に入れ!」
後ろから肩を掴まれるようにして大浴場の中へと押し込まれる。散乱した服で足の踏み場もない中、無造作に服を脱いで中に入ると、そこには屈強な男達がひしめいていた。先についた者達からすでに湯に浸かっている。平民の兵士達も今頃は同じように王都の大浴場で疲れを癒やしている頃だろう。フレデリックもさっそく湯の中に足を入れるとじんわりとした暖かさに思わず呻き声を上げた。
「何が悲しくて野郎共と風呂に入らなくちゃいけないんだよ。早く良い女を抱きてえな」
先程大浴場の前で肩を抱いてきた第三部隊の隊長リュカは両手両足を伸ばしながら大きな独り言を呟いた。年は少し若かったように思う。それでも戦場で年は関係ない。成果を上げればそれに応じた階級へと上がっていく。故にこの男も確か子爵出だったが、戦場での実力を買われて第三部隊の隊長にまで上り詰めていた。紅く短い髪に、アーモンド型の大きな瞳には意志が感じられ、その風貌はまさに軍人。言葉使いも仕草も乱暴だが、歯に衣着せぬ物言いはフレデリック自身は気に入っていた。
「なあフレデリック、今から王都の娼館に行かないか? お前達もどうだ? 俺が奢ってやるぞ!」
どこからともなく歓声が湧き上がる。返事をしようとする前にモルガンの方が先に口を開いた。
「フレデリック様は行かれません。これから奥様の所に戻られるのです」
ぎくりとしてモルガンを見ると射竦められるように目が細められた。
「よもや奥様がいらっしゃるのにリュカ様のお言葉に乗るおつもりでしたか?」
「家に帰るさ、もちろん」
「なんだなんだ? その様子だと家に帰りたくないとみた! 嫁さんとはうまくいっていなかったのか? まあ六年も離れているとなぁ」
「そういうお前はまだ結婚していないじゃないか」
「俺は出兵当時はまだ二十歳だったんだ。どうせ家に帰ったら見合い話がどっさりきているだろうし、今のうちに遊んでおかなくちゃな」
不思議そうな顔でリュカを見ると、怪訝そうに眉を顰めてきた。
「なんだよ」
「お前でもそんな事考えるんだな」
「あのな、俺も一応子爵家の跡取りなわけ。お前はもう結婚もしているし、気が楽でいいよな」
「それなんだが、俺は今回褒美として侯爵の爵位を賜る事になったんだ」
「爵位? お前の功績なら別に驚かないが、そうだったのか。ギレム兄弟はそれぞれ侯爵家となるんだな。これはまたややこしいな」
「兄はそれでいいと言っているが、いちを本家と分ける形で名前の中に兄の名を入れる事になった。それで分家としての区切りを付けるつもりだ」
「まあ、反抗はしませんって意志は必要だよな。それにしてもお前が爵位にこだわっていたとは少し驚いた」
確かにフレデリック自身、それが気になっていた。記憶を断片的に失った時にその理由も失ってしまったらしい。自分自身はリュカの言う通り、爵位など関係ないと思っている。特に軍人として確固たる地位を築いた今、そこまで侯爵の爵位が欲しいとは思っていなかった。それでもギレム家に根回しをしたり、遠征先から陛下へ褒美を強請ったり、今の自分からは到底考えられない行動をしているようにも思えてならなかった。しかしそれをリュカに言う訳にもいかず、湯から勢いよく立ち上がった。
「それにしてもお前の奥さん、抱き潰されてしまうんじゃないか?」
裸をまじまじと見つめてくるリュカは、にやにやといやらしい顔をしていた。その頭を思い切り湯の中に鎮めると騒いでいる声を無視して、大浴場を出た。
「お前も来るか?」
後ろを着いてきていたモルガンは首を振った。
「私はしばらくプアリエ隊長の元でお世話になります」
「てっきり俺と来るとばかり思っていた。でもまあそうか、プアリエ隊長なら騎士団にも顔が効くし、お前も騎士としてその方がいいか」
若干の寂しさを残して言うと、モルガンは堪えきれずに吹き出した。こんな表情を見せるのは珍しい事だった。
「私はお許し下さるならフレデリック様の元でずっと働きたいと思っております。でも今はご記憶の事がありますから、治療に専念した方がよいと思っただけです。ロラン先生も言っていたでしょう? 外傷がほぼない以上、記憶を取り戻すには時間が必要だと。しばらくゆっくりして下さい」
「落ち着いたら家に呼ぶからな」
「ありがとうございます、楽しみにしています」
王都の大通りはすでに人でごった返していた。六年かけて敵国から国を守った英雄達の帰還に、誰もがその姿をひと目見ようとこれでもかと人が集まっている。凱旋パレードの後、指揮官クラスは城で国王と謁見するの為、フレデリックに会えるのは早くても夜遅くか、明日になってしまうだろう。その前にひと目だけでも無事な姿をこの目に焼き付けておきたかった。
ルネは上手く人並みを分けるようにして、とある食堂に入っていく。中の女将と示し合わせるとすぐに二階へと通してくれた。その場所は凱旋パレードを一望出来る絶好の場所だった。紙吹雪が舞い、音楽が鳴り響く大通りを馬に乗った兵士達が通り過ぎていく。そしてすぐに一人の男性に目が留まった。先頭の集団が過ぎた後、二頭の馬がその後ろを進んでくる。そしてその後ろにはまたもう一つの集団が続いていた。アナスタシアは声も出せずに立ち尽くしていた。出奔した時は短めのサラサラだった髪を後ろで結び、甲冑越しでも腕や肩幅が隆起しているのが分かる。陽に焼けた肌と、戦場にいたせいか鋭くなった眼光に違和感を覚えながらも、そこにいるのは間違いなくフレデリック本人だった。
堪らずに横からルネが声をかける。
「フレデリック坊ちゃん! アナスタシア様はこちらにおいでですよ!」
ルネも興奮しているらしく、いつのまにか昔の坊っちゃん呼びに戻っている。ルネは大歓声に負けない声で叫んだ。
「フレデリック坊っちゃん! ここですってば!」
「これじゃあ聞こえないわ」
アナスタシアの方が宥めるようにルネの袖を引いた瞬間、眼下に差し掛かったフレデリックが顔を上げた。心臓が鷲掴みにされたように跳ね、鼓動を打つ。声を出せずにいると、合っていたはずの視線は不意に外された。そしてそのまま先に進んで行ってしまった。
「フレデリック様!」
堪らずに叫んだがその背が振り返る事はなかった。
「あら坊っちゃんたら、涼しい顔をしていましたが、きっとこれだけの観衆を前に驚いていたのかもしれませんね」
「これだけ集まっているんだもの、気がつかなかったんだわ」
なんとなくモヤモヤとしたものが胸の中に広がり始めていたが、その感情には無理やり蓋をする事にした。
「今の民家から覗いていた可愛らしいお嬢さんとお知り合いですか? あなたも隅におけませんね、奥様がいらっしゃると言うのに」
「知らん。どこか庶民の娘だろう? しかし城まではこんなに遠かったか? 段々と頬が痛くなってきたぞ」
馬上でモルガンと軽口を叩きながら少しずつしか歩みを進められない事に苛立ちを隠しながら、小さく溜め息をついた時だった。目の前に群衆に押された少女が飛び出してくる。とっさに手綱を引いて馬を止め、飛び降りた。驚いたまま固まっている少女を抱き上げると辺りを見渡した。
「この者の母親、もしくは連れはいないか?」
すぐに群衆をかき分けて母親らしき女が飛び出してくる。青ざめた顔で少女を受け取ると、泣き出す少女の声に混じって何度も謝ってきた。
「申し訳ございません! 騎士様申し訳ございません!」
「気にしなくていいが決して手は離さないように」
そして少女の頭に手を置いて強めに撫でた。
「母に心配をかけてはいけないぞ。こんなに人が集まる時は良くない輩も紛れ込むのだからな」
少女は怯えたように母親の服を小さな手で握り締めた。馬に戻ると、隣りのモルガンはにっこりと少女に向かって微笑んでみせている。ちらりと視線をやると少女の頬に緩みが出来ているのが見て取れた。
「お前が話しかけた方が良かったな」
「フレデリック様の表情が硬すぎるのです。それに人攫いの話までしてしまって」
「本当の事だ。こんな日は、こんな日だからこそ群衆に紛れて王都にも人攫いがやってくるんだ。王都にいた時の任務の中にはそんな輩の取締もあった」
「もしや記憶が!?」
フレデリックは期待を込めて見てくるモルガンを不憫に思いながら首を振った。
「奥様が不憫でなりません。もちろんフレデリック様あなたもですが」
「本当に俺に妻がいるんだよな?」
「そんな嘘つきませんよ」
「そうだな。とにかく陛下への謁見が先だ。これからの事はその後で考えるさ」
歓声に紛れるようにして話していた声も城が見えるにつれ、更に大きなものとなり掻き消えていく。総隊長のプアリエを先頭にして一から四までの部隊の指揮官達は城の中へと入って行った。
王の間には国の重鎮達が集まっていた。先頭に膝を突く総隊長の後ろに続き、各隊長と副隊長達が膝を突いていく。その時、明らかに泣き出しそうな兄の姿が目に入った。兄のディミトリ・ギレム侯爵は大袈裟に目頭を押させて感極まった様子で小さく震えている。それが国王の近くなものだから、嫌でも視界に入ってきて正直うんざりしてしまう。
――こういうところは昔から変わっていないな。
「よく戻ったな、ルグラン王国の英雄達よ! 各々には希望する褒美を与えよう。今はゆっくりと長きに渡る疲れを癒やされよ」
国王と兄のディミトリは学友だった事もあり、昔からフレデリックもよく一緒に遊んだ中だった。その国王が心配そうにこちらに視線を向けてくるところを見ると、おそらくあの話もすでに耳に入っているのだろう。最も、国王の耳に入らない訳がない。
――俺が記憶を失くしている事を。
「フレデリック! フレデリック、大丈夫なのか?」
謁見が終わり廊下に出た瞬間、案の定ディミトリが追い掛けてきた。
「まさか僕の事も忘れているんじゃないだろうな? まさかお兄様の事が分からない? さぁお兄様と読んでみてくれ!」
その瞬間、さすがに深い溜め息が出てきた。
「覚えていますよ、兄上。どさくさに紛れてお兄様だなんて。それと一部ですが記憶を失っている事はどうかご内密にお願い致します」
「あ、すまなかった。それで具体的にはどのくらい忘れているんだ?」
「所々です。小さい頃の記憶はありますが、出兵する辺りのものはありません。だからなぜ戦場にいたのかも正直分かりません。でも戦って過ごしていた時の事は覚えています。所々抜け落ちたように覚えていないのです」
「それならまずはアンに会って安心するといい」
「アンとは?」
「アンだよ、アナスタシア! まさかお前自分の妻の事も忘れているのか?」
返事を出来ずにいるとディミトリは頭を抱えてどことなく辺りを見渡した。
「今から家に帰るのか?」
「もちろん。家にはそのアナスタシアがいるんですよね?」
「可哀想なアン。まさかこんな事になるなんて。一刻も早く思い出してやれ」
「お言葉ですがそのような負担になる発言はお控え下さい」
ディミトリはずっとフレデリックの後ろに控えていた少し色黒の美丈夫な男に目を向けた。今まで優しそうに細めていた目に力が宿る。
「副官のモルガンです。この男がいなければ俺は今ここにいなかったでしょう」
「弟が世話になったようだな。ディミトリ・ギレムだ」
「生意気を申しました。閣下」
ディミトリから離れた所でフレデリックはモルガンの肩を叩いた。
「兄がすまない。年が離れいるからか昔から何かと過保護なんだ。お前でなくとも知らない者にはああいう態度なんだ」
「気にしておりませんよ。それよりも過保護ならばよく戦場行きを了承なさいましたね」
「覚えてはいないが、行ってしまえば連れ戻す事は出来ないだろう? 手紙といえど国を守る為に向かった者の帰還を促すような内容を送れる訳がない」
通り過ぎる使用人達がこちらをチラチラ見てくる視線に気づきながら、二人で大浴場へと向かった。
「俺達相当臭うだろうな」
「仕方ありませんよ。川で水浴びをしたのでさえ、三日も前ですからね。でも視線はそれだけじゃないように思います」
訳が分からずにもう一度辺りを見渡すと、目が合った侍女達が小走りで走り去っていく。
「本当に分かりませんか? 女性達はあなたに湧いているのだと思います」
「お前じゃなくてか?」
「私などよりもあなたの方が……」
「なに男同士で褒め合っているんだ! お前達もさっさと中に入れ!」
後ろから肩を掴まれるようにして大浴場の中へと押し込まれる。散乱した服で足の踏み場もない中、無造作に服を脱いで中に入ると、そこには屈強な男達がひしめいていた。先についた者達からすでに湯に浸かっている。平民の兵士達も今頃は同じように王都の大浴場で疲れを癒やしている頃だろう。フレデリックもさっそく湯の中に足を入れるとじんわりとした暖かさに思わず呻き声を上げた。
「何が悲しくて野郎共と風呂に入らなくちゃいけないんだよ。早く良い女を抱きてえな」
先程大浴場の前で肩を抱いてきた第三部隊の隊長リュカは両手両足を伸ばしながら大きな独り言を呟いた。年は少し若かったように思う。それでも戦場で年は関係ない。成果を上げればそれに応じた階級へと上がっていく。故にこの男も確か子爵出だったが、戦場での実力を買われて第三部隊の隊長にまで上り詰めていた。紅く短い髪に、アーモンド型の大きな瞳には意志が感じられ、その風貌はまさに軍人。言葉使いも仕草も乱暴だが、歯に衣着せぬ物言いはフレデリック自身は気に入っていた。
「なあフレデリック、今から王都の娼館に行かないか? お前達もどうだ? 俺が奢ってやるぞ!」
どこからともなく歓声が湧き上がる。返事をしようとする前にモルガンの方が先に口を開いた。
「フレデリック様は行かれません。これから奥様の所に戻られるのです」
ぎくりとしてモルガンを見ると射竦められるように目が細められた。
「よもや奥様がいらっしゃるのにリュカ様のお言葉に乗るおつもりでしたか?」
「家に帰るさ、もちろん」
「なんだなんだ? その様子だと家に帰りたくないとみた! 嫁さんとはうまくいっていなかったのか? まあ六年も離れているとなぁ」
「そういうお前はまだ結婚していないじゃないか」
「俺は出兵当時はまだ二十歳だったんだ。どうせ家に帰ったら見合い話がどっさりきているだろうし、今のうちに遊んでおかなくちゃな」
不思議そうな顔でリュカを見ると、怪訝そうに眉を顰めてきた。
「なんだよ」
「お前でもそんな事考えるんだな」
「あのな、俺も一応子爵家の跡取りなわけ。お前はもう結婚もしているし、気が楽でいいよな」
「それなんだが、俺は今回褒美として侯爵の爵位を賜る事になったんだ」
「爵位? お前の功績なら別に驚かないが、そうだったのか。ギレム兄弟はそれぞれ侯爵家となるんだな。これはまたややこしいな」
「兄はそれでいいと言っているが、いちを本家と分ける形で名前の中に兄の名を入れる事になった。それで分家としての区切りを付けるつもりだ」
「まあ、反抗はしませんって意志は必要だよな。それにしてもお前が爵位にこだわっていたとは少し驚いた」
確かにフレデリック自身、それが気になっていた。記憶を断片的に失った時にその理由も失ってしまったらしい。自分自身はリュカの言う通り、爵位など関係ないと思っている。特に軍人として確固たる地位を築いた今、そこまで侯爵の爵位が欲しいとは思っていなかった。それでもギレム家に根回しをしたり、遠征先から陛下へ褒美を強請ったり、今の自分からは到底考えられない行動をしているようにも思えてならなかった。しかしそれをリュカに言う訳にもいかず、湯から勢いよく立ち上がった。
「それにしてもお前の奥さん、抱き潰されてしまうんじゃないか?」
裸をまじまじと見つめてくるリュカは、にやにやといやらしい顔をしていた。その頭を思い切り湯の中に鎮めると騒いでいる声を無視して、大浴場を出た。
「お前も来るか?」
後ろを着いてきていたモルガンは首を振った。
「私はしばらくプアリエ隊長の元でお世話になります」
「てっきり俺と来るとばかり思っていた。でもまあそうか、プアリエ隊長なら騎士団にも顔が効くし、お前も騎士としてその方がいいか」
若干の寂しさを残して言うと、モルガンは堪えきれずに吹き出した。こんな表情を見せるのは珍しい事だった。
「私はお許し下さるならフレデリック様の元でずっと働きたいと思っております。でも今はご記憶の事がありますから、治療に専念した方がよいと思っただけです。ロラン先生も言っていたでしょう? 外傷がほぼない以上、記憶を取り戻すには時間が必要だと。しばらくゆっくりして下さい」
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