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1 英雄の帰還
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馬が地面を蹴る勢いで土埃が舞う。
遠征部隊の最前列を疾走する白色に灰色の毛が混じった馬は、どんどん後ろとの距離を作り、今では点程の大きさになっていた。
白灰色の馬に乗っていたフレデリックは、後ろで結んだ金色の髪を風に靡かせながら、誰よりも早く到着した崖の上から地平を見下げて目を細めた。
遠く眼下の大地には王都が見える。クレマン・アンリ・ルグラン国王が治めるルグラン王国は、今の国王で二十六代目を数える歴史ある王国だった。その王国に危機が迫ったのは六年以上前の事。均衡を保っていた隣国が突如侵攻し、国境付近の街は壊滅状態に陥った。その街を奪還すべく派遣されたのが、今回の遠征の為に編成されたフレデリック率いる遠征部隊の第一から第四まである部隊だった。
出兵当初フレデリックは第三部隊の副隊長にすぎなかった。その役職も、家柄のせいで一兵卒には出来ないという忖度からなるものでお飾りの役職。しかしまだ若かったフレデリックが半ば強引に決行した奇襲が成功し、敵兵を崩すきっかけたとなった。そして街奪還の足がかりとなる近くの村を取り戻したが、それからが長かった。
「フレデリック様! 勝手に進まないで下さい! あなたに何かあったら私も共に死にますからね!」
「馬鹿な事を言うな」
後ろから追いかけて来た腹心の部下である第一部隊の副隊長モルガンは、浅黒い肌に切れ長の目の、この国では珍しい容姿をしていた。口調は丁寧だがその視線は冷ややかなもので、後ろからやっと追いついてきた第一部隊を見ながら小さく息を吐くと、手を上げて先に行くように促している。
フレデリックは感慨深くその様子を見ながらモルガンの隣りに馬を動かすと、並びながらゆっくり歩みを進めた。
「やっと帰れるんだな。お前の事もようやく王都に連れ帰る事が出来る」
「私はあなたに拾われて人生というものを知りました。初めて人らしく生きる事を知ったのです」
「大袈裟だぞ。王都に帰ったらお前は騎士の称号を賜るんだ。堂々と生きろ。いいな? 絶対に俯くな」
「フレデリック様は念願の侯爵の爵位を賜るのですね。私にその価値は分かりかねますが、フレデリック様にとっては大事なのだと理解しています」
「侯爵家の次男である俺は爵位を継ぐ事は出来なかったし、出来たとしても侯爵とは思わなかった。陛下には感謝しているんだ、本当に」
「言葉通り国を救ったのですから当たり前といえば当たり前のようにも思います。それよりも嬉しいのは奥様にお会い出来る事ですよね?」
するとフレデリックは顔を真赤にして手綱を握り締めた。
「六年だぞ。待たせ過ぎだ。俺は愛想を尽かされていないだろうか」
「ずっと手紙のやり取りをしていたではありませんか。時に傷を負いながらも代筆だと奥様が心配なさるからと私が止めても聞かずに。愛想を尽かされるなんてありえません。でも容姿が変わった事には驚かれるかもしれませんね」
フレデリックは自分でも驚く程に体型が変わっていた。出発当時よりも背は伸び、筋肉の付いた身体は服の上でも分かる程に厚い。戦場を駆け巡れば豪快な剣で敵兵を三人一気に薙ぎ払った事もあった。いつしか敵味方関係なく恐れられていると気が付いてはいたが、戦場ではそれでいいと思っていた。
号令を掛ければ、沢山の兵達が指示通りに動く。それもこれもとにかく早く功績を上げて王都に戻る為に、それだけを念頭に置いて戦い続けた。どれだけ身体を鍛え敵を倒そうと、この感情だけは鍛える事が出来ない。妻の事となると頬が緩むのを止められなかった。
思い出して熱くなった顔を隠すようにモルガンの前に出た。仲間の後を追う形なった下り坂を進んでいく。
「敵将を討ち取った時の勇猛果敢な軍人とは思えない程にだらしないお顔ですね」
「見えてないだろ」
「耳が真っ赤です」
恨めしそうに後ろを振り返った時だった。モルガンのずっと後ろにきらめく光が目に入る。そこからは無意識だった。身体を捻りながら腕を伸ばしてモルガンの頭を抱えるように前に倒す。戦場で共に戦ってきた愛馬は予測しなかったであろう動きにも関わらず、利口にその場で足踏みをして止まった。しかし前から覆いかぶさられるようにして視界を遮られたモルガンの馬は暴れ出してしまった。放り出されたモルガンにしがみつくように馬上から身体が滑り落ちていく。フレデリックとモルガンは転がるように激しく坂道を落ちていった。
「イタッ」
アナスタシアは手元が狂い、針で刺してしまった指先を見つめて小さく息をついた。指先にはぷっくりと血が丸く滲み出している。急いで駆け寄ってきた侍女のルネは、そっと布を押し当てて止血すると手元から刺繍をしていたハンカチ一式を取り上げた。
「今日はここまでに致しましょう。いつもは器用な奥様が針でご自分の指を指すなど、きっとお疲れなのです」
アナスタシアは言われるままにハンカチをルネに渡した。
「ようやく旦那様が戻られるのですから、やつれた顔でお会いしたらご心配をかけてしまいますよ」
「少し浮かれていたみたい。フレデリック様がやっと帰ってくるのだと思ったら、なんだか眠れなくて」
ルネは念の為にと薬箱を取り出しながら微笑んだ。
「よく辛抱なさいましたね。旦那様が戻られたら目一杯甘えて良いのですからね」
その言葉に胸が震えて涙が溢れてしまった。
フレデリックとの結婚生活は一年にも満たなかった。結婚して少し経った後、隣国の侵略があり、あっという間にフレデリックの出兵が決まってしまった。侯爵家の次男のフレデリックは騎士団に所属していたが、王城務めのフレデリックにすぐに招集がかかるとは思ってもみなかった。爵位を継がないとはいえ、実家が男爵家の自分とフレデリックとの結婚には身分差がある。それなりの弊害を越えて結婚。そしてすぐの出兵だっただけに、アナスタシアは複雑な心境を六年もの間抱える羽目になった。
「戻られたら聞いてみたら良いのですよ」
心を見透かしたかのようなルネはフレデリックが赤ん坊の頃から側にいる侍女で、アナスタシアが嫁いできた時も暖かく迎えてくれた貴重な使用人の一人だった。白髪混じりの髪は年を感じるが、ルネ自身子供はいないので、肌は張りがあって孫がいる同年代の女性達よりも若々しく見えた。
「なぜ先陣をきる遠征部隊に志願されたのかって? 伺ったらご気分を害されないかしら」
「そんな事で怒ったりはしませんよ。旦那様はそれはもう奥様にべた惚れなんですからね」
言葉にされれば恥ずかしさが込み上げてくる。この六年間というもの、会えない寂しさを紛らわすように沢山の手紙のやり取りをしてきた。といっても文面に特別甘い言葉ある訳ではない。戦地との手紙のやり取りの為、中身は全て確認されるからというのもあるが、それでも文章の最後には必ず“愛しのアンへ、愛を込めて“と記されていた。おそらくこれが精一杯の愛情表現なのだろう。それを思うと熱くなる胸を押さえて立ち上がった。
「どうかなさいましたか?」
「もうすぐフレデリック様がお帰りになるんだもの。ルネの言う通りやつれた姿なんて見せられないわ。なんとしても眠らなくちゃ。お疲れのフレデリック様を妻として最高の笑顔でお出迎えるわ!」
すると、少し乾燥した手が手を包み込んでくる。
「本当に素敵な女性になられましたね。ここへ来たばかりの頃はまだほんの少女のようでしたのに」
「あの時はまだ十六歳だったもの。今はもう二十二歳なのよ、大人でないと困るわ」
「旦那様が腰を抜かさないといいのですけどね」
すると急に不安になってルネの手を握り返した。
「もしも私だって気が付かれなかったらどうしたらいいの? 確かに六年の歳月で人は変わるもの」
「それなら奥様は六年振りに帰ってきた旦那様に気づきませんか?」
「気がつくわ、絶対に!」
すると、ふっと目尻にシワを作ったルネが小さく笑った。
「きっと大丈夫ですよ。それに旦那様もより素敵になって戻られるでしょう。楽しみでございますね」
しかし、本来の帰還予定を過ぎてもフレデリックは戻らなかった。
遠征部隊の最前列を疾走する白色に灰色の毛が混じった馬は、どんどん後ろとの距離を作り、今では点程の大きさになっていた。
白灰色の馬に乗っていたフレデリックは、後ろで結んだ金色の髪を風に靡かせながら、誰よりも早く到着した崖の上から地平を見下げて目を細めた。
遠く眼下の大地には王都が見える。クレマン・アンリ・ルグラン国王が治めるルグラン王国は、今の国王で二十六代目を数える歴史ある王国だった。その王国に危機が迫ったのは六年以上前の事。均衡を保っていた隣国が突如侵攻し、国境付近の街は壊滅状態に陥った。その街を奪還すべく派遣されたのが、今回の遠征の為に編成されたフレデリック率いる遠征部隊の第一から第四まである部隊だった。
出兵当初フレデリックは第三部隊の副隊長にすぎなかった。その役職も、家柄のせいで一兵卒には出来ないという忖度からなるものでお飾りの役職。しかしまだ若かったフレデリックが半ば強引に決行した奇襲が成功し、敵兵を崩すきっかけたとなった。そして街奪還の足がかりとなる近くの村を取り戻したが、それからが長かった。
「フレデリック様! 勝手に進まないで下さい! あなたに何かあったら私も共に死にますからね!」
「馬鹿な事を言うな」
後ろから追いかけて来た腹心の部下である第一部隊の副隊長モルガンは、浅黒い肌に切れ長の目の、この国では珍しい容姿をしていた。口調は丁寧だがその視線は冷ややかなもので、後ろからやっと追いついてきた第一部隊を見ながら小さく息を吐くと、手を上げて先に行くように促している。
フレデリックは感慨深くその様子を見ながらモルガンの隣りに馬を動かすと、並びながらゆっくり歩みを進めた。
「やっと帰れるんだな。お前の事もようやく王都に連れ帰る事が出来る」
「私はあなたに拾われて人生というものを知りました。初めて人らしく生きる事を知ったのです」
「大袈裟だぞ。王都に帰ったらお前は騎士の称号を賜るんだ。堂々と生きろ。いいな? 絶対に俯くな」
「フレデリック様は念願の侯爵の爵位を賜るのですね。私にその価値は分かりかねますが、フレデリック様にとっては大事なのだと理解しています」
「侯爵家の次男である俺は爵位を継ぐ事は出来なかったし、出来たとしても侯爵とは思わなかった。陛下には感謝しているんだ、本当に」
「言葉通り国を救ったのですから当たり前といえば当たり前のようにも思います。それよりも嬉しいのは奥様にお会い出来る事ですよね?」
するとフレデリックは顔を真赤にして手綱を握り締めた。
「六年だぞ。待たせ過ぎだ。俺は愛想を尽かされていないだろうか」
「ずっと手紙のやり取りをしていたではありませんか。時に傷を負いながらも代筆だと奥様が心配なさるからと私が止めても聞かずに。愛想を尽かされるなんてありえません。でも容姿が変わった事には驚かれるかもしれませんね」
フレデリックは自分でも驚く程に体型が変わっていた。出発当時よりも背は伸び、筋肉の付いた身体は服の上でも分かる程に厚い。戦場を駆け巡れば豪快な剣で敵兵を三人一気に薙ぎ払った事もあった。いつしか敵味方関係なく恐れられていると気が付いてはいたが、戦場ではそれでいいと思っていた。
号令を掛ければ、沢山の兵達が指示通りに動く。それもこれもとにかく早く功績を上げて王都に戻る為に、それだけを念頭に置いて戦い続けた。どれだけ身体を鍛え敵を倒そうと、この感情だけは鍛える事が出来ない。妻の事となると頬が緩むのを止められなかった。
思い出して熱くなった顔を隠すようにモルガンの前に出た。仲間の後を追う形なった下り坂を進んでいく。
「敵将を討ち取った時の勇猛果敢な軍人とは思えない程にだらしないお顔ですね」
「見えてないだろ」
「耳が真っ赤です」
恨めしそうに後ろを振り返った時だった。モルガンのずっと後ろにきらめく光が目に入る。そこからは無意識だった。身体を捻りながら腕を伸ばしてモルガンの頭を抱えるように前に倒す。戦場で共に戦ってきた愛馬は予測しなかったであろう動きにも関わらず、利口にその場で足踏みをして止まった。しかし前から覆いかぶさられるようにして視界を遮られたモルガンの馬は暴れ出してしまった。放り出されたモルガンにしがみつくように馬上から身体が滑り落ちていく。フレデリックとモルガンは転がるように激しく坂道を落ちていった。
「イタッ」
アナスタシアは手元が狂い、針で刺してしまった指先を見つめて小さく息をついた。指先にはぷっくりと血が丸く滲み出している。急いで駆け寄ってきた侍女のルネは、そっと布を押し当てて止血すると手元から刺繍をしていたハンカチ一式を取り上げた。
「今日はここまでに致しましょう。いつもは器用な奥様が針でご自分の指を指すなど、きっとお疲れなのです」
アナスタシアは言われるままにハンカチをルネに渡した。
「ようやく旦那様が戻られるのですから、やつれた顔でお会いしたらご心配をかけてしまいますよ」
「少し浮かれていたみたい。フレデリック様がやっと帰ってくるのだと思ったら、なんだか眠れなくて」
ルネは念の為にと薬箱を取り出しながら微笑んだ。
「よく辛抱なさいましたね。旦那様が戻られたら目一杯甘えて良いのですからね」
その言葉に胸が震えて涙が溢れてしまった。
フレデリックとの結婚生活は一年にも満たなかった。結婚して少し経った後、隣国の侵略があり、あっという間にフレデリックの出兵が決まってしまった。侯爵家の次男のフレデリックは騎士団に所属していたが、王城務めのフレデリックにすぐに招集がかかるとは思ってもみなかった。爵位を継がないとはいえ、実家が男爵家の自分とフレデリックとの結婚には身分差がある。それなりの弊害を越えて結婚。そしてすぐの出兵だっただけに、アナスタシアは複雑な心境を六年もの間抱える羽目になった。
「戻られたら聞いてみたら良いのですよ」
心を見透かしたかのようなルネはフレデリックが赤ん坊の頃から側にいる侍女で、アナスタシアが嫁いできた時も暖かく迎えてくれた貴重な使用人の一人だった。白髪混じりの髪は年を感じるが、ルネ自身子供はいないので、肌は張りがあって孫がいる同年代の女性達よりも若々しく見えた。
「なぜ先陣をきる遠征部隊に志願されたのかって? 伺ったらご気分を害されないかしら」
「そんな事で怒ったりはしませんよ。旦那様はそれはもう奥様にべた惚れなんですからね」
言葉にされれば恥ずかしさが込み上げてくる。この六年間というもの、会えない寂しさを紛らわすように沢山の手紙のやり取りをしてきた。といっても文面に特別甘い言葉ある訳ではない。戦地との手紙のやり取りの為、中身は全て確認されるからというのもあるが、それでも文章の最後には必ず“愛しのアンへ、愛を込めて“と記されていた。おそらくこれが精一杯の愛情表現なのだろう。それを思うと熱くなる胸を押さえて立ち上がった。
「どうかなさいましたか?」
「もうすぐフレデリック様がお帰りになるんだもの。ルネの言う通りやつれた姿なんて見せられないわ。なんとしても眠らなくちゃ。お疲れのフレデリック様を妻として最高の笑顔でお出迎えるわ!」
すると、少し乾燥した手が手を包み込んでくる。
「本当に素敵な女性になられましたね。ここへ来たばかりの頃はまだほんの少女のようでしたのに」
「あの時はまだ十六歳だったもの。今はもう二十二歳なのよ、大人でないと困るわ」
「旦那様が腰を抜かさないといいのですけどね」
すると急に不安になってルネの手を握り返した。
「もしも私だって気が付かれなかったらどうしたらいいの? 確かに六年の歳月で人は変わるもの」
「それなら奥様は六年振りに帰ってきた旦那様に気づきませんか?」
「気がつくわ、絶対に!」
すると、ふっと目尻にシワを作ったルネが小さく笑った。
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