英雄の書

出雲

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第十幕「銀の英雄」

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「……ど、泥は落としてきます」

 イズナは一応、ここに来る前には湯浴みをしてから来るが、今回はあの騒ぎがあったので仕方がない。

「馬鹿か、泥じゃなくて血を落とせ。裏にある。使いすぎるなよ」
「ありがとうございます」

 泥と血を丁寧に落としながら、ため息をつく。何だかんだ、結局リウネは優しい。こんなところも前とそう変わらない。リウネを大佐にしないなら、明日が終わればもう会えなくなる。勘違いでないのなら、リウネもイズナが来るのをそう嫌だと思っていないのだろう。自分の事を訊いてくれるのはその現れだろうから。
 嬉しい、のにとても複雑だった。一緒にほんの少しでも戦って、懐かしくて。でも、反面苛立ちもした。
  何故。何故あの人が空を駆けないのか。誰よりも黒き翼が似合うこの人が、なぜ地に墜ちている。違う。そうじゃない。もっとこの人の輝く世界を知っているんだ、と。
 誰よりも似合う、黒き翼を背負う背中を、知っている。

「……馬鹿ですね、イズナ」

 巻き込みたくないと思っているくせに。なのに誰より『黒の軍のリウネ大佐』に自分は惹かれている。悲しくて、情けない。

「明日。明日になったら、ちゃんと、別れるから」

 往生際の悪い自分に、言い聞かせる。

「今までの別れに比べれば、たいして辛いものじゃないでしょう?」

 彼は、たとえどんな生き方をしていたとしても、イズナとエドが焦がれたあの痛々しいほどの輝きを放った生き方でなくとも、リウネは。

「生きて、いるのだから」

 そう。生きて、いる。それだけで喜ばなくてはいけない。

「今度こそ……」

 決意のための言葉は、それ以上出てこなかった。



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