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第八章 WEAK SELF
三十六、WEAK SELF(三)
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「ただいま、山辺」
「お帰りなさいませ」
「体の調子はどう?」
「大丈夫ですわ。子も元気に動いておりますのよ。今日はよくお腹を蹴飛ばしております。今も、ほら」
夕刻、宮の入り口で帰りを出迎えてくれた山辺。その、ややふっくらとしてきたお腹を愛おしそうに撫でる。
誘われるように手を伸ばし、自分もその腹に触れる。
「あ、動いた」
手のひらに感じた、ポコンというか、グニュッとした感触。「蹴る」というより「押し出す」。
「これでまだ生まれないんだからなあ。生まれる頃にはどれだけ大きくなってるのかなあ」
今は初春。
梅が散り、桜が咲いては散り、橘の白い花が咲く季節になってようやくこの子は生まれる。
我が子に会うのが待ち遠しい。早く生まれてこい。早くこの手に抱いてみたい。いや、充分に大きく元気に育ってから生まれてこい。
「ちゃんと山辺の腹から出てこられるのかな」
大きくなりすぎて、出てくるのが難しくなったりしないかな。大きくなりすぎて、息が詰まったりしないのかな。
「大丈夫ですよ。ちゃんと生まれます。でないとわたくし、産みの苦しみを長く味わうことになりますわ」
「あ、そうだった。ごめん」
「この子はアナタに似て聡い子です。時が満ちたら、自ずと生まれ出ます。それも母に負担のかからないよう、スルッと生まれますよ」
「わかるの?」
「ええ。今も心配性な父に、ため息を漏らしておりますわよ。ほら」
ポコポコ。
「本当だ」
叱咤するような子の動き。
「今日は氷高と長屋が遊びに来てくださったんです。早くこの子の顔が見たいって、まだ生まれないのって、大津さまと同じことを申してましたわ」
「うわ、僕はあの二人と同じなの?」
待ち遠しいのはわかるけど、同等のことしか考えてないのは、ちょっと嫌だ。幼稚過ぎる。
「それだけこの子が大事に思われてるのでしょうね。氷高なんて自分がお世話するんだってきかなかったんですから」
「いや、それなら自分のところに生まれる弟妹の方を頼むよ。あちらのほうがこの子より早く生まれるんだし」
氷高と珂瑠の弟妹は、藤の季節に生まれる。
「大津さまの妻になるつもりなんでしょうね。子を育てるのは妻の役割ですから」
「ええっ。あの約束、まだ忘れてないの?」
――あたちがおじさまのおよめさんになってあげる!!
氷高が三つの時に勝手に交わされた約束。あれはまだ有効だったのか。
「それがね、面白いんですのよ。氷高がダダをこねたら、なぜか長屋がショボンと肩を落としましたの。どうしてかしら、ね」
「えーっと。それって、その……、そういうこと、なのかい?」
「ええ。そういうことなんでしょうねえ」
いくらなんでも早熟すぎないか? 氷高ももちろんだけど、長屋も。
「となると、高市異母兄上と草壁は兄弟でありながら、互いの舅、岳父となるのか。ややこしいし、大変そうだなあ」
「気の早い心配ですこと」
クスクスと笑い出した山辺。
「この子だって、いつどこで誰を好きになるかわかりませんのに」
「それこそ気が早いよ。まだ生まれてもないのに。山辺も人のこと言えないよ」
「あら、そうですわね」
互いの気の早さに笑い合う。
子が生まれるのはまだ先のこと。子の心配はもっと先のこと。
案じるにはまだ早すぎる。
「気が早いと言えば、川島の異母兄さまたちもですわよ。泊瀬部さまもいらしてくださって、赤さまにって布を贈っていただいたのですが、その……。全部、紅や薄色のものばかりでしたの」
「それって……。生まれるのは女の子って思われてる?」
「おそらくは」
「それで男子だったらどうする気なんだ」
ペチンと自分の額を叩いて空を見上げる。
「阿閉の異母姉さまがおっしゃったそうなんです。わたくしのお腹が前へ突き出てきてないから、生まれるのは女の子だろうって。男子だった場合は、お腹が前へせり出すそうですわよ」
「いや、それでも……」
言いながら、山辺のお腹を見やる。たしかにまだそこまで前へ出ていないけれど。
「これからもっと膨らむだろうに」
教えた阿閉も阿閉だが、それを信じて早とちりする泊瀬部も泊瀬部だ。男子が生まれたら、布の染め直しを要求しよう。山辺の産んでくれた子なら、薄色も似合うだろうけど、似合ったことで、女の子と間違えられたらかわいそうだ。
「忍壁さまは、明日香と相談して、子に似合う簪を贈ってくださるそうです」
「あー」
上には上がいたか。仮に女の子が生まれたとして、その子が簪を挿すまでに育つのはいったい何年後の話なんだか。
「気が早すぎるよ。いくらなんでも」
「もっとも、忍壁さまはこの子への贈り物を相談することを口実にして、明日香に会うことを楽しみにしていらっしゃいましたけど」
なるほど。
生まれる姪に簪を贈ろうと思うんだけど、何が良いかな? よかったら一緒に選んでくれない? ついでに、きみにも素敵な簪を贈るよ。一緒に選んでくれたお礼。姪に贈るものより、ずっと素敵な簪を贈るよ。
忍壁の魂胆は、そんなことろだろう。生まれる子を色恋の種にされ、ちょっと複雑な気分になる。
「それだけ生まれてくるのを楽しみにしていただいてるのですわ。幸せな子です。この子は」
「そうだね」
みなに愛されて、幸せに暮らす。なんとなくだけど、川島が一番の子煩悩になってあやしてくれる気がする。川島が抱いた赤子が粗相し、汚れた襁褓に戸惑う姿と、それを見て、腹を抱えて笑う忍壁と、情けない夫に呆れる泊瀬部が想像できた。
「さあ、室に戻ろうか。いくら春とはいえ、まだ寒いよ。体を冷やしては、お腹の子が驚いてしまう」
山辺の体をいたわりながら温かい室へと向かう。
クェコッ、ケコッ……。
「あら、鴨」
室に続く回廊で、金色に波打つ池に浮かぶ二羽の鴨を見かける。
「あれは鴛鴦だね。ほら、雄の毛色が華やかだ」
以前にもこんなことを話したことがあったなと思い出す。
「鴛鴦はね、一度番った相手を変えず、最後まで想いあう鳥なんだよ」
「まあ、そうなんですの」
違う。
鴛鴦は番う鳥として名高いが、生涯を通して同じ伴侶を選び続けることはない。片方がいなくなれば、別の仲間と番うこともある。
「あんなに寄り添って。まるで僕たちみたいだね」
言って山辺の肩をグッと抱き寄せる。
この先、父と皇后との諍いで、自分はどうなってしまうのか。
自分だけじゃない。高市や草壁、川島、忍壁。そして山辺。大切な兄弟、友、妻。
誰もが無事でいられる未来はあるのか。あるとすれば、それはどんな方法で得られるのか。
ここで生きる、幸せになる道を探す。
そう八尋に告げたけれど、本当は怖い。怖くてたまらない。
あの時。
淡海大津宮から逃げた時に決まった未来。その先で得た幸せ。愛する人。生まれる子ども。あの時から続く苦しみの中であっても、この幸せを、ここにいられて良かったと思っている。この先の未来も、こうしてきみにそばにいてほしい。一番近くで、弱くて情けない僕を支え続けてほしい。
けれど。
時が来たら、その時は鴛鴦の番のように――。
「大津さま。わたくしはずっとお側におります。いつだってお支えいたしますわ」
見透かしたような山辺の言葉。
ああ、ダメだな。また一人で考え込む。悪いことばかり思ってしまう。こんなに寄り添ってくれているのに。その癖は、もうすぐ父親になるっていうのに、なかなか抜けそうにない。
「そうだね。そばにいてくれると助かるよ。なんたって僕は弱くて弱くてどうしようもない、泣き虫で臆病な男だからね」
バサバサっと翼をはためかせ、鴛鴦の夫婦が空に舞い上がる。翼から飛び散った水滴が残照に煌めく。
あの鳥たちは、明日、どこの空を飛んでいるのだろう。天蓋無窮の青い空の彼方だろうか。八尋が暮らす広い空の下だろうか。
その空に想いを馳せ、目を閉じる。
夜の帳が静かに池を包みこんだ。
「お帰りなさいませ」
「体の調子はどう?」
「大丈夫ですわ。子も元気に動いておりますのよ。今日はよくお腹を蹴飛ばしております。今も、ほら」
夕刻、宮の入り口で帰りを出迎えてくれた山辺。その、ややふっくらとしてきたお腹を愛おしそうに撫でる。
誘われるように手を伸ばし、自分もその腹に触れる。
「あ、動いた」
手のひらに感じた、ポコンというか、グニュッとした感触。「蹴る」というより「押し出す」。
「これでまだ生まれないんだからなあ。生まれる頃にはどれだけ大きくなってるのかなあ」
今は初春。
梅が散り、桜が咲いては散り、橘の白い花が咲く季節になってようやくこの子は生まれる。
我が子に会うのが待ち遠しい。早く生まれてこい。早くこの手に抱いてみたい。いや、充分に大きく元気に育ってから生まれてこい。
「ちゃんと山辺の腹から出てこられるのかな」
大きくなりすぎて、出てくるのが難しくなったりしないかな。大きくなりすぎて、息が詰まったりしないのかな。
「大丈夫ですよ。ちゃんと生まれます。でないとわたくし、産みの苦しみを長く味わうことになりますわ」
「あ、そうだった。ごめん」
「この子はアナタに似て聡い子です。時が満ちたら、自ずと生まれ出ます。それも母に負担のかからないよう、スルッと生まれますよ」
「わかるの?」
「ええ。今も心配性な父に、ため息を漏らしておりますわよ。ほら」
ポコポコ。
「本当だ」
叱咤するような子の動き。
「今日は氷高と長屋が遊びに来てくださったんです。早くこの子の顔が見たいって、まだ生まれないのって、大津さまと同じことを申してましたわ」
「うわ、僕はあの二人と同じなの?」
待ち遠しいのはわかるけど、同等のことしか考えてないのは、ちょっと嫌だ。幼稚過ぎる。
「それだけこの子が大事に思われてるのでしょうね。氷高なんて自分がお世話するんだってきかなかったんですから」
「いや、それなら自分のところに生まれる弟妹の方を頼むよ。あちらのほうがこの子より早く生まれるんだし」
氷高と珂瑠の弟妹は、藤の季節に生まれる。
「大津さまの妻になるつもりなんでしょうね。子を育てるのは妻の役割ですから」
「ええっ。あの約束、まだ忘れてないの?」
――あたちがおじさまのおよめさんになってあげる!!
氷高が三つの時に勝手に交わされた約束。あれはまだ有効だったのか。
「それがね、面白いんですのよ。氷高がダダをこねたら、なぜか長屋がショボンと肩を落としましたの。どうしてかしら、ね」
「えーっと。それって、その……、そういうこと、なのかい?」
「ええ。そういうことなんでしょうねえ」
いくらなんでも早熟すぎないか? 氷高ももちろんだけど、長屋も。
「となると、高市異母兄上と草壁は兄弟でありながら、互いの舅、岳父となるのか。ややこしいし、大変そうだなあ」
「気の早い心配ですこと」
クスクスと笑い出した山辺。
「この子だって、いつどこで誰を好きになるかわかりませんのに」
「それこそ気が早いよ。まだ生まれてもないのに。山辺も人のこと言えないよ」
「あら、そうですわね」
互いの気の早さに笑い合う。
子が生まれるのはまだ先のこと。子の心配はもっと先のこと。
案じるにはまだ早すぎる。
「気が早いと言えば、川島の異母兄さまたちもですわよ。泊瀬部さまもいらしてくださって、赤さまにって布を贈っていただいたのですが、その……。全部、紅や薄色のものばかりでしたの」
「それって……。生まれるのは女の子って思われてる?」
「おそらくは」
「それで男子だったらどうする気なんだ」
ペチンと自分の額を叩いて空を見上げる。
「阿閉の異母姉さまがおっしゃったそうなんです。わたくしのお腹が前へ突き出てきてないから、生まれるのは女の子だろうって。男子だった場合は、お腹が前へせり出すそうですわよ」
「いや、それでも……」
言いながら、山辺のお腹を見やる。たしかにまだそこまで前へ出ていないけれど。
「これからもっと膨らむだろうに」
教えた阿閉も阿閉だが、それを信じて早とちりする泊瀬部も泊瀬部だ。男子が生まれたら、布の染め直しを要求しよう。山辺の産んでくれた子なら、薄色も似合うだろうけど、似合ったことで、女の子と間違えられたらかわいそうだ。
「忍壁さまは、明日香と相談して、子に似合う簪を贈ってくださるそうです」
「あー」
上には上がいたか。仮に女の子が生まれたとして、その子が簪を挿すまでに育つのはいったい何年後の話なんだか。
「気が早すぎるよ。いくらなんでも」
「もっとも、忍壁さまはこの子への贈り物を相談することを口実にして、明日香に会うことを楽しみにしていらっしゃいましたけど」
なるほど。
生まれる姪に簪を贈ろうと思うんだけど、何が良いかな? よかったら一緒に選んでくれない? ついでに、きみにも素敵な簪を贈るよ。一緒に選んでくれたお礼。姪に贈るものより、ずっと素敵な簪を贈るよ。
忍壁の魂胆は、そんなことろだろう。生まれる子を色恋の種にされ、ちょっと複雑な気分になる。
「それだけ生まれてくるのを楽しみにしていただいてるのですわ。幸せな子です。この子は」
「そうだね」
みなに愛されて、幸せに暮らす。なんとなくだけど、川島が一番の子煩悩になってあやしてくれる気がする。川島が抱いた赤子が粗相し、汚れた襁褓に戸惑う姿と、それを見て、腹を抱えて笑う忍壁と、情けない夫に呆れる泊瀬部が想像できた。
「さあ、室に戻ろうか。いくら春とはいえ、まだ寒いよ。体を冷やしては、お腹の子が驚いてしまう」
山辺の体をいたわりながら温かい室へと向かう。
クェコッ、ケコッ……。
「あら、鴨」
室に続く回廊で、金色に波打つ池に浮かぶ二羽の鴨を見かける。
「あれは鴛鴦だね。ほら、雄の毛色が華やかだ」
以前にもこんなことを話したことがあったなと思い出す。
「鴛鴦はね、一度番った相手を変えず、最後まで想いあう鳥なんだよ」
「まあ、そうなんですの」
違う。
鴛鴦は番う鳥として名高いが、生涯を通して同じ伴侶を選び続けることはない。片方がいなくなれば、別の仲間と番うこともある。
「あんなに寄り添って。まるで僕たちみたいだね」
言って山辺の肩をグッと抱き寄せる。
この先、父と皇后との諍いで、自分はどうなってしまうのか。
自分だけじゃない。高市や草壁、川島、忍壁。そして山辺。大切な兄弟、友、妻。
誰もが無事でいられる未来はあるのか。あるとすれば、それはどんな方法で得られるのか。
ここで生きる、幸せになる道を探す。
そう八尋に告げたけれど、本当は怖い。怖くてたまらない。
あの時。
淡海大津宮から逃げた時に決まった未来。その先で得た幸せ。愛する人。生まれる子ども。あの時から続く苦しみの中であっても、この幸せを、ここにいられて良かったと思っている。この先の未来も、こうしてきみにそばにいてほしい。一番近くで、弱くて情けない僕を支え続けてほしい。
けれど。
時が来たら、その時は鴛鴦の番のように――。
「大津さま。わたくしはずっとお側におります。いつだってお支えいたしますわ」
見透かしたような山辺の言葉。
ああ、ダメだな。また一人で考え込む。悪いことばかり思ってしまう。こんなに寄り添ってくれているのに。その癖は、もうすぐ父親になるっていうのに、なかなか抜けそうにない。
「そうだね。そばにいてくれると助かるよ。なんたって僕は弱くて弱くてどうしようもない、泣き虫で臆病な男だからね」
バサバサっと翼をはためかせ、鴛鴦の夫婦が空に舞い上がる。翼から飛び散った水滴が残照に煌めく。
あの鳥たちは、明日、どこの空を飛んでいるのだろう。天蓋無窮の青い空の彼方だろうか。八尋が暮らす広い空の下だろうか。
その空に想いを馳せ、目を閉じる。
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