アムネジア戦線

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07.友軍との接触

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 腐葉土を踏む軍靴の音がその男の巨躯を再確認させる。
 巨木のような男だった。
 異常なほどに肩幅が広く頭より首の方が太い。
 身長は楽に6尺を超えているのではないか?
 都々木中尉とて平均よりはかなり背が高い。
 それでも、目線はかなり上だ。

「やっぱ本ちゃん正規将校じぇねぇよな」
「貴官は?」
「大山分遣隊、軍曹原田喜蔵」
「――都々木永司。中尉だ」

 原田軍曹は、ぎょろりと太い眉の下の大きな目玉で都々木中尉を見る。

「中尉様がこんなところで何してるんだ。たった一人で」

 下士官兵と将校の間には隔絶した差が存在する。
 そんな中尉に対しても、原田軍曹は伝法な調子で話しかける。
 特にならず者、無頼を気取っている風でもない。それがこの男の自然な話し方に見えた。

 都々木中尉は相手に気取られないように素早く周囲に視線を走らせる。
 銃を構えた歩哨がひとり、巨大な男―― 原田軍曹と合わせふたりだけだ。
 後は特に人気はない。少なくともここにはいない。
 都々木中尉はそう判断する。

(どうすべきか?)

 友軍との遭遇は本来歓迎すべきものだった。
 しかし、彼のおかれている立場を考えると微妙だ。
 都々木中尉は、この先のあらゆる可能性を網羅し考える。
 そう簡単に答えはでそうになかった。
 情報は欲しい。ゲリラ、アメリカ軍の跋扈する戦場で単独行動は危険すぎる。
 かといって、自分が「脱走兵」であるという通達が出ていた場合、友軍とて味方ではない。

 陽光に照らされヒスイのような光を見せる名も知れぬ巨大な植物。
 その葉がゆらゆらと湿った風の中で揺れていた。

(よく考えろ――)

 友軍がこのような獣道の途中で警戒線を引いているというのは、何とも不合理で彼らは存在が怪しいものに思えてきた。
 歩哨は都々木中尉に銃を向けている。
 彼の顔には卑屈で縋り付くような笑みが浮かんでいたのかもしれない。
 額から塩っぽい汗がヌルヌルと流れる。
 軍服の上から自然と左肩を触っていた。

(この肉の貌を見られるのも困る)

 肩に浮き上がった異様な肉の貌。これを見られ、説明を求められても、答えようが無い。
 都々木中尉自身も訳が分からないのだから。
 
 軍曹は巨大な捕食獣のような笑みを浮かべ都々木中尉に近づいてくる。
 ヒグマの笑みだ。

「中尉殿は何の任務でこんなところでウロウロしてるですかい?」

 言い方を変え同じ質問をしてきた。

「特務だ」

 都々木中尉の口からは思ってもみなかった言葉が出てきた。
 反射的に出た言葉だった。

 確かに特務を口にすればそれ以上何も会話する必要はない。
 都々木中尉は、きゅっと唇を固く結び真っ正面から軍曹を睨んだ。
 ここで位負けをしてしまうわけにはいかなかった。
 
 フィリピンで日本軍は負け戦を展開している。
 それも、相当に酷い状況だ。
 日本軍 はすでに組織としての体をなしていない可能性もあった。

(自分を脱走兵だとは思っていないのか……)

 探るような目つきで都々木中尉は原田軍曹を見やる。
 どうにも、その思惑が読みきれない。

 脱走兵である自分に対して手配が回っているという余裕はなさそうである。
 しかし百%安全であるとは言い切れない。
 彼らが自分を探しに来ている存在だとはとても思えない。
 だが、あまり深く関わりなく通過した方が無難か、と都々木中尉は考えた。

「特務ねぇ」

 原田軍曹は都々木中尉の視線をそよ風ほどにも感じず薄ら笑いを浮かべていた。

「軍曹、糧秣を持ってるかもしれません」

 痩せた保証が切羽詰まった様子で言った。

「持ってるのかい」
「持ってはいるが分ける余裕はない」
「ふーん。そうかい」

 軍曹の視線に獰猛な光が混ざってくる。
 都々木中尉の言葉を信じている様子は全くなかった。
 軍曹は「そうかそうか、分かってるよ」という感じで頷くと熊の歩みで 近づいてくる。

「人には記憶違いってものがあるよな。どうなんだい中尉殿。もしかしたら余分な糧秣があるんじゃないかい」

 日本陸軍は国民皆兵ということからも、日本社会の有様を反映している組織だ。
 いわゆる土着的な色合いが強い。その点でイギリスを手本とし機械を操り戦う海軍とは組織文化が異なる。
 より「日本的」なのは陸軍だ。

 日本という国家はまだ近代化の途上にある。
 ヨーロパ諸国のように貴族が軍務につくことが高い評価を受けると言う社会でもない。
 大日本帝国陸軍とはその意味で、他の列強陸軍と比べ特異な組織文化を持っていた。

 当然近代軍として階級による命令は絶対である。
 しかし、その一方で親分子分の関係の繋がりが兵下士官の間では厳然と存在していた。
 そしてその力関係は軍という組織が人工的に作った序列よりも混乱した戦場の中では優先され表に浮かび上がってくるものだった。

 つまり中尉という階級だけで無条件に相手を従わせるということは不可能だった。
 それは大陸での戦闘を経験している都々木中尉も肌で理解していた。

「交換ならいいだろう」と、都々木中尉は言った。

「ほう」

「少しだけなら白米がある」

「銀シャリだと!!」

 軍曹の目の色が変わった。
 歩哨の兵がごくりと唾を飲み込む。

「分かった交換しよう。来てくれ中尉」

 原田軍曹はそう言って 巨体で草をかき分け奥に進んでいった。
 ここは彼に従うしかなかった。
 また、都々木中尉は、思う。
 ここまでくれば、自分の知らない情報を得ておくべきであろうと――
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