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08.取引
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都々木中尉は、軍曹の後を歩く。草を踏みつけ、棘のある竹のような植物を避けながら。
木々と深い緑の草を掻き分け、唐突に視界が開く。
原住民の集落だったのだろうか。
今は打ち捨てられているのか人の気配がない。少なくとも、戸数に見合った人はいないだろうことは外から見て分かる。
竹を編み込んだ粗雑な壁、茶色く変色したニッパ椰子の葉が敷き詰められた屋根。
いわゆるニッパハウスと呼ばれる小屋だ。
それが数戸ある。
「こんなところに?」
「ああ、俺たちの分隊が駐留している」
分隊ということは、10数人の兵がいるのだろうか。
都々木中尉は考える。
自分が軍命令に反し戦場を離脱したことは事実だ。
しかし、混乱したこの戦場では自分のことなどに構っていられないのだろうか。
また、末端の舞台まで脱走兵の存在を通達し捕らえる余裕などないのかもしれない。
それほどまでに、徹底的な負け戦か……
少なくとも軍曹には脱走兵である都々木中尉を捕らえようという気配は微塵もなかった。
小屋の脇では体中に包帯を巻いた兵がボコボコに変形した鍋で何かを煮つめていた。
不思議に煙が出ない。一体何を燃やしてるのかと見ていると軍曹がポツリと「ここらで採れる長芋だよ」と言った。
煮ているのは、そこらで自生している長芋のような物だった。
煮込んでいる兵の足元にも何本か転がっていた。甘藷に似た感じの物だった。
「煙が出ないんだな」
「椰子の油だよ。そいつを燃料にすると煙が出ないんでね」と軍曹は言った。
都々木中尉は兵の智恵に少し感心するが、そのようなことをしなければいけない状況は、完全に負け戦だと言う思いを強くする。
「ちょっとでも煙を出せば、仕事熱心なアメちゃんの飛行機が飛んでくるからな」
と、軍曹はぼやくように言った。
(しかし、これを食うのか?)
確かに見た目は甘藷に似ていることは似ている。
だが、その鍋から立ち上がる臭いは完全に別物だった。
食欲をそそるどころか異臭とも言っていいような臭いが立ち上がっている。
が、これを食べるのだろう。
それだけ糧秣が逼迫しているのだ。
その光景はここへの兵站線が完全に寸断されていることを如実に語っていた。
「ここだ。入ってくれ」
都々木中尉は軍曹に促されてニッパハウスの中に入る。
中は狭い。トラックの荷台ほどの広さだろか。
屋根も低い。
光もあまり差し込まず、外よりかなり暗かった。目が慣れるまで時間がかかりそうな感じだ。
熱気はさほどでもなかったが、凄まじい異臭がした。
アンモニアと硫黄を鍋で煮込んだような肥溜め以下の臭いが鼻腔に侵入してくる。
肺腑まで腐りそうな臭いだった。
「軍曹殿、お戻りに」
「おう、具合はどうだい」
「相変わらずで」
三八式歩兵銃を抱え込み、座している男が答えた。
薄明かりの中でも土気色の皮膚の様子が分かった。
痩せた体に、眼だけが妙に白く浮き上がっている。
軍曹はその男の脇に置いてあった麻袋を取った。
奥には、身を横たえた兵が数人いた。
ハエがたかっているが、それを追う力もないようだった。
妙に肌が黒ずんでいた。
「寝ている」と言うよりは、「置いている」と言ってしまった方が、現状に近い言葉だろう。
生きてはいるだろうが、その状態をいつまで維持できるのか分からない。
靖国行きの片道切符を握っているのだろう。
「どれくらいあるんだい?」
軍曹は重そうな体を沈ませ座に着いた。
地面に藁のような枯れた葉がしいてあるだけの床だ。
原住民の住居だったとしても、あまりに粗雑な気がした。
かといって、日本軍が間に合わせで作ったにしては、使い込まれた印象がある。
都々木中尉はその違和感について考えていた。
「なあ、どうなんだい」
沈黙する都々木中尉に軍曹が再び問いかける。
「5合ほどだ」
バカ正直に言う気はない。
靴下に入れた米は背嚢の中に分けていれてある。
「それっぽいちかい」
「嫌ならいい。俺は出て行く」
「待ってくれよ」
軍曹は立ち上がろうとした都々木中尉を止める。
「中尉殿だって、その糧秣で十分なわけじゃないだろ?」
「さあね。十分かどうかはこの先、どこかで分かるだろう」
「3日もたねぇよ」
「どうかな」
「もたねぇさ」
探るような目つきで軍曹は都々木中尉を見つめる。
階級上位者を前にしても、全く物怖じすることがなかった。
「この分隊の長は」
「俺だよ」
軍曹の軍人とは思えない口ぶりは変わらない。
地方人としても、真っ当な部類に入らない人間の口ぶりだ。
決して杓子定規な軍内の常識を持ち出したいわけではないが、軍曹の話しぶりは都々木中尉の神経にザラツキを感じさせる。
「どんな特務か知らんがね――」
「……」
「ここから先はゲリラの勢力圏内だ。奴らアメちゃんの自動小銃まで持っているから、どっちがゲリラなのか分からんけどな」
言外にここから先に行くのは無理だと言っている様である。
しかし、その意図が分からない。
都々木中尉は思考をフル回転させる。生き残るためには何が最善手なのか――
彼はこの戦場について肌に焼きつくような記憶が無い。体験の欠落した記憶があるだけだ。
まるで本で読んだ知識を持っているに過ぎなかった。
(それも、どこまで信じるべきか)
都々木中尉は自然に左肩に触れる。肉の隆起が指先に感じられた。
布の下には「貌」が存在している。
「分かった。少しだけでいいなら交換しよう」
不意にその言葉は口を突いて出た。
(え?)
まるで、意識の外から何者か勝手に己が口を使って話ているかのような言葉だった。
木々と深い緑の草を掻き分け、唐突に視界が開く。
原住民の集落だったのだろうか。
今は打ち捨てられているのか人の気配がない。少なくとも、戸数に見合った人はいないだろうことは外から見て分かる。
竹を編み込んだ粗雑な壁、茶色く変色したニッパ椰子の葉が敷き詰められた屋根。
いわゆるニッパハウスと呼ばれる小屋だ。
それが数戸ある。
「こんなところに?」
「ああ、俺たちの分隊が駐留している」
分隊ということは、10数人の兵がいるのだろうか。
都々木中尉は考える。
自分が軍命令に反し戦場を離脱したことは事実だ。
しかし、混乱したこの戦場では自分のことなどに構っていられないのだろうか。
また、末端の舞台まで脱走兵の存在を通達し捕らえる余裕などないのかもしれない。
それほどまでに、徹底的な負け戦か……
少なくとも軍曹には脱走兵である都々木中尉を捕らえようという気配は微塵もなかった。
小屋の脇では体中に包帯を巻いた兵がボコボコに変形した鍋で何かを煮つめていた。
不思議に煙が出ない。一体何を燃やしてるのかと見ていると軍曹がポツリと「ここらで採れる長芋だよ」と言った。
煮ているのは、そこらで自生している長芋のような物だった。
煮込んでいる兵の足元にも何本か転がっていた。甘藷に似た感じの物だった。
「煙が出ないんだな」
「椰子の油だよ。そいつを燃料にすると煙が出ないんでね」と軍曹は言った。
都々木中尉は兵の智恵に少し感心するが、そのようなことをしなければいけない状況は、完全に負け戦だと言う思いを強くする。
「ちょっとでも煙を出せば、仕事熱心なアメちゃんの飛行機が飛んでくるからな」
と、軍曹はぼやくように言った。
(しかし、これを食うのか?)
確かに見た目は甘藷に似ていることは似ている。
だが、その鍋から立ち上がる臭いは完全に別物だった。
食欲をそそるどころか異臭とも言っていいような臭いが立ち上がっている。
が、これを食べるのだろう。
それだけ糧秣が逼迫しているのだ。
その光景はここへの兵站線が完全に寸断されていることを如実に語っていた。
「ここだ。入ってくれ」
都々木中尉は軍曹に促されてニッパハウスの中に入る。
中は狭い。トラックの荷台ほどの広さだろか。
屋根も低い。
光もあまり差し込まず、外よりかなり暗かった。目が慣れるまで時間がかかりそうな感じだ。
熱気はさほどでもなかったが、凄まじい異臭がした。
アンモニアと硫黄を鍋で煮込んだような肥溜め以下の臭いが鼻腔に侵入してくる。
肺腑まで腐りそうな臭いだった。
「軍曹殿、お戻りに」
「おう、具合はどうだい」
「相変わらずで」
三八式歩兵銃を抱え込み、座している男が答えた。
薄明かりの中でも土気色の皮膚の様子が分かった。
痩せた体に、眼だけが妙に白く浮き上がっている。
軍曹はその男の脇に置いてあった麻袋を取った。
奥には、身を横たえた兵が数人いた。
ハエがたかっているが、それを追う力もないようだった。
妙に肌が黒ずんでいた。
「寝ている」と言うよりは、「置いている」と言ってしまった方が、現状に近い言葉だろう。
生きてはいるだろうが、その状態をいつまで維持できるのか分からない。
靖国行きの片道切符を握っているのだろう。
「どれくらいあるんだい?」
軍曹は重そうな体を沈ませ座に着いた。
地面に藁のような枯れた葉がしいてあるだけの床だ。
原住民の住居だったとしても、あまりに粗雑な気がした。
かといって、日本軍が間に合わせで作ったにしては、使い込まれた印象がある。
都々木中尉はその違和感について考えていた。
「なあ、どうなんだい」
沈黙する都々木中尉に軍曹が再び問いかける。
「5合ほどだ」
バカ正直に言う気はない。
靴下に入れた米は背嚢の中に分けていれてある。
「それっぽいちかい」
「嫌ならいい。俺は出て行く」
「待ってくれよ」
軍曹は立ち上がろうとした都々木中尉を止める。
「中尉殿だって、その糧秣で十分なわけじゃないだろ?」
「さあね。十分かどうかはこの先、どこかで分かるだろう」
「3日もたねぇよ」
「どうかな」
「もたねぇさ」
探るような目つきで軍曹は都々木中尉を見つめる。
階級上位者を前にしても、全く物怖じすることがなかった。
「この分隊の長は」
「俺だよ」
軍曹の軍人とは思えない口ぶりは変わらない。
地方人としても、真っ当な部類に入らない人間の口ぶりだ。
決して杓子定規な軍内の常識を持ち出したいわけではないが、軍曹の話しぶりは都々木中尉の神経にザラツキを感じさせる。
「どんな特務か知らんがね――」
「……」
「ここから先はゲリラの勢力圏内だ。奴らアメちゃんの自動小銃まで持っているから、どっちがゲリラなのか分からんけどな」
言外にここから先に行くのは無理だと言っている様である。
しかし、その意図が分からない。
都々木中尉は思考をフル回転させる。生き残るためには何が最善手なのか――
彼はこの戦場について肌に焼きつくような記憶が無い。体験の欠落した記憶があるだけだ。
まるで本で読んだ知識を持っているに過ぎなかった。
(それも、どこまで信じるべきか)
都々木中尉は自然に左肩に触れる。肉の隆起が指先に感じられた。
布の下には「貌」が存在している。
「分かった。少しだけでいいなら交換しよう」
不意にその言葉は口を突いて出た。
(え?)
まるで、意識の外から何者か勝手に己が口を使って話ているかのような言葉だった。
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